集中力がない、仕事がない日は寝てばかりいる。
寝すぎで、それぞれの眠りは浅く、起きていても、頭が冴えることがない(笑)
たまに本を、ブログに引用しようと(笑)、数十ページ読むのだが、続かない。
たぶん、このプレッシャーはある。
ぼくはもともと“活字を読むのが大好き”人間ではない。
大学のころの女性の友人が、“そこにあったら、週刊誌でもなんでも読む、活字を読むことが好きだ“というようなことを言ったので、びっくりしたことがあった。
ぼくは、なるべくなら“よいものだけ”を、なるべく少量読みたいという、“効率性”への欲求がある。
要するに怠惰なのである。
ある本の最後につけられている、参照文献のリストに、ため息をついてしまう。
この本を書いた人は、こんなにも沢山の本を読んだのである。
いったい、雀の涙ほどの本しか読んでこなかったぼくに、何か言うことがあるのだろうか。
正直に言うが、最近、“立岩真也”というひとにショックを受けた。
このひとには、“かなわない”と思った。
もちろんぼくは、大江健三郎にも、柄谷行人にも、辺見庸にも“かなわない”。
そんなことは、とうにわかっていた。
なのに、“立岩真也にかなわない”という感じは、(ぼくにとって)もっと本質的なものである。
ぼくがこれまでこのブログで主張したことに従えば、ぼくはまさに、この立岩氏を“読み続けるべき”である。
ところが、ぼくはここ数日、立岩氏の本が読めなくなっただけではなく、本が読めなくなった。
本を読もうとすると、倦怠感におそわれるのだ。
机の前で、積んである本をながめて、ぼんやりしている。
“読むべき本”のリストはほぼ完璧にできているのに(できているから)読めない。
ああ~あ。
あ~あ~あ~。
もちろん、テレビで映画を見たり、センキョ番組を見たり、気分転換をはかっている。
今週から仕事にいく日もまた増える。
しかし、ぼくの“生涯の読書計画”は、どーなってしまうのであろうか(爆)
読む本のタイプを変えるべきであろうか。
高階秀爾氏の『近代絵画史』を読んでみる(笑);
★ 《ゲルニカ》はきわめて特殊な状況のもとで描かれた作品だと反論されるかもしれない。しかし、あらゆる芸術作品はすべて「特殊な状況のもとで」描かれたのである。その状況を明らかにしていくことこそが、歴史の役割というものであろう。そしてそれは、同時にまた、われわれが今どこに立っているかということも、教えてくれるだろう。歴史とは、いわば裏返しにされた自己確認の試みである。現代美術における「豊かな混沌」は、そのような歴史的展望の試みをとくに必要とするかのように思われるのである。
<高階秀爾『近代絵画史』序言(中公新書1975)
1975年に出たのだから、この本は“古い”。
“だから”ここに書かれていることは、“古臭く、あたりまえ”であろうか?
そうとも言える。
ここには“歴史の終焉”とか“大きな物語の消滅”とかの認識が“ない”のかもしれない。
まさに“ポスト・モダン”状況がもたらしたのは、歴史の消滅であった。
“大きな物語”としての歴史が消滅することは、“小さな物語”としての個人史や、個人の“いま”の感性が花咲く時であったのだろうか。
たしかに“そういうこと”もある。
ぼくは不破利晴君とのコメントで“私(わたくし)小説”の可能性を書いた。
しかし、この“私(わたくし)”に賭けることは、狂気すれすれの行為だとも思える。
一見“静謐な私小説”と読みうる平出隆『猫の客』には、狂気がギリギリに抑制されている。
これは大江健三郎『僕が本当に若かった頃』で別様の表出を行っている(読みかけだが)
古井由吉『野川』、青山真治『ホテル・クロニクルズ』には老年と“若い”<わたし>の、まったく異なった、けれども、この“現在”を共有する表出がある。
ぼくは(ぼくたちは)歴史を喪っている。
ならば“現在に生きる”のであろうか。
しかしこの現在は、どんどん希薄になっている。
まさに、ぼく自身、どんどん覚めていることが困難になってきているのを、感じる。
鈍い狂気がしのびよってくる。
《裏返しにされた自己確認の試み》
《現代美術における「豊かな混沌」》
たしかに、このような言葉を真摯に受けとめるべきではないだろうか。
まさにぼくたちに必用なのは、<豊かな混沌>ではないだろうか。