Don't Let Me Down

日々の雑感、引用。
言葉とイメージと音から喚起されるもの。

通りすがり;一方通行路

2012-03-31 21:18:18 | 日記


★ 門があって、そこから一本の長い道が始まる。下ってゆくと、ある女性の家に至るのだが、私はその人を毎晩訪ねていったのだ。彼女が引越してしまったあと、門のアーチ形の入り口は、聴覚を失った耳介(じかい)のように、私のまえに開いていた。


★ 街道を歩いてゆくか、飛行機でそのうえを飛ぶかによって、街道の発揮する力は異なる。同様に、テクストを読むか、それを書き写すかによって、テクストの発揮する力は異なる。空を飛ぶ者に見えるのは、道が風景のなかを進んでゆくさまだけであり、彼の目には、道はまわりの地勢と同じ法則に従って繰り広げられてゆく。道を歩いてゆく者だけが、道の支配力を知る。


★ 恋する男は、恋人の<欠点>だけに、女の気まぐれや弱点だけに愛着を持つのではない。顔の皺やしみ、着古された服や傾いだ歩き方が、あらゆる美よりもはるかに持続的に、そして仮借なく、男をとらえて離さないのだ。それはつとに知られている。そして、理由は何か。感覚というものは頭のなかに巣くうのではなく、私たちは窓や雲や木を、脳のなかにではなく、むしろ私たちがそれを見る場所に感じる、という説があるが、この説が正しいとすれば、私たちは恋人を眺めているときも、自分の外にいることになる。だがこの場所で、苦しいほど緊張し、すっかり心を奪われるのだ。幻惑された感覚は、女の輝きのなかを、鳥の群れのごとく飛び回る。そして鳥たちが、木の葉の茂った隠れ処に保護を求めるように、もろもろの感覚は、恋人の肉体の、陰をなす皺や、優美さに欠けるしぐさや、目立たない欠点のなかに逃げ込み、そこで安全を得て、隠れ処に身を屈める。そして、まさにこの場所、すなわち欠点のあるところ、非難に値するところに、ある女を崇拝する男の、矢のようにすばやい恋情が巣くうのである。このことは、通りすがりの人間には決して察知できない。

<ヴァルター・ベンヤミン“一方通行路”-『ベンヤミン・コレクション3 記憶への旅』>






AKB48の国歌

2012-03-31 11:44:04 | 日記


ぼくはネットでニュースを見ている。
見出しを見て、知りたいニュースはクリックして中身を読むわけだが、“見出し”を見てもなんのことかわからないニュースが多くなってきた。

たとえば、“AKB48”というのが、ぼくには認知できない。
それから“プロ野球”というのも、もう何十年もぼくの世界には存在していない。
(“高校野球”とか“世界フィギュア”とかは、いちども存在したことがない;笑)
だから巨人-ヤクルト開幕戦で、AKB48が“国歌”を歌っても(歌ったら)、ぼくには、その“国歌”が存在しない。

ぼくは、“旧式”な人間なので(ただし、“旧式”とは“保守的”を意味しない)、やはりそういう自分とか、“そういうひとが増えている(ようにぼくからは見える)世の中”について、不安を感じる。

そしたら、茂木健一郎の今日の連続ツイートが、それに“関与する”話題を取り上げていた(AKB48の話ではないが)

ここで茂木健一郎が言っていることも、半分くらいは同感であるが、半分くらいは同感できない(ネットの位置づけとか)

引用しておく;

☆ もみ(1)あれは昨年の暮れの頃だったか、新聞を読んでいたら、「今年いちばん売れた」としてある本が紹介されていたのだけれども、タイトルも著者名も初見だった。へえ〜と思ったが、未だにどんな本なのか知らない。どうやらミステリーかサスペンスらしいんだけれども。
kenichiromogi 2012/03/31 08:36:51

☆ もみ(2)それで、昨日、ある大手出版社の編集者と打ち合わせしていて、「最近どうですか」と聞いたら、「いいんですよ!」と答えが返ってきた。それで、なんとかという本のタイトルを言って、「売れてます。ドラマにもなりましたから」と言うけれども、そのドラマの題名が初耳である。kenichiromogi 2012/03/31 08:37:53

☆ もみ(3)私が怪訝な顔をしていると、編集者が、ちょっと不満そうに、「今クールで一番視聴率が高かったんですよ」と言ったが、知らないものは知らない。それで、話題は次に行ってしまったが、街を歩いているときに思いだして、ああ、世の中はもうそうなってしまっているんだなと思った。kenichiromogi 2012/03/31 08:39:04

☆ もみ(4)かつては誰もが知っているヒット曲とか、ベストセラーがあったとはよく言われる話である。ところが、100万部とか売れても、もはやある「セグメント」の中のことでしかない。そのセグメントを外れると、誰も知らない。変化をもたらしたのは、インターネットと、グローバル化だろう。kenichiromogi 2012/03/31 08:40:33

☆ もみ(5)ネットの発達によって、自分の志向に合った情報源に手軽に接することができるようになった。その結果、それぞれの小宇宙が発達した。逆に言えば、かつて「マスメディア」が時代の流行を作っていたときは、いかに「全体主義的」だったかということがわかる。
kenichiromogi 2012/03/31 08:41:36

☆ もみ(6)もともと、人間というものはそれぞれ見ている世界が異なる。同じ家族でも、食卓に座る場所によって光景は異なる。マスメディアの寡占がそもそも異常なことだったのであって、人類の文化史から見れば、ごく一時期の、特殊な状況だったということなのだろう。
kenichiromogi 2012/03/31 08:49:27

☆ もみ(7)100万部売れる「ミステリー」や、「今クールで一番視聴率の高いドラマ」だって、それに興味がない人はつきあう必要がない時代になった。逆に、インターネットは世界中の情報をもたらすから、日本のドラマよりもアメリカのドラマやイギリスのコメディに詳しい人が出て来る。kenichiromogi 2012/03/31 08:42:34

☆ もみ(8)もともと、私の周囲ではトレンディ・ドラマに出ている俳優よりも、チューリングやゲーデルの方がよほどメジャーである。以前はそれでもマスメディアに付き合っていたが、困ったことにネットのお蔭で、自分の好きなチューリングやゲーデルの情報をいくらでも深掘りできるようになった。kenichiromogi 2012/03/31 08:43:44

☆ もみ(9)アニメを深掘りする人も、趣味の植物を深掘りする人もいる。そして、その向こうに広がる小宇宙では、同好の士がおいでおいでをしている。比べるとマスメディアの最大公約数は薄味だ。結果として、メジャーだろうがそんなもの知らない、そんな時代になったのはおそらく歓迎すべきなのだろう。
kenichiromogi 2012/03/31 08:45:25

☆ 以上、連続ツイート第550回、「もはやメジャーなんかない、みんなオタクでいいんだよ」でした。一つ付け加えれば、100万部のベストセラーでも、視聴率一位のドラマでも、その愛好自体がもはやオタクだということです。
kenichiromogi 2012/03/31 08:46:47

(以上引用)


上記引用で、ぼくが共感するのは;

《もともと、人間というものはそれぞれ見ている世界が異なる。同じ家族でも、食卓に座る場所によって光景は異なる。マスメディアの寡占がそもそも異常なことだったのであって、》

という部分。


ただし、《もはやメジャーなんかない、みんなオタクでいいんだよ》というのが、この連続ツイートの結論なら、ぼくはそうあっさり言うことはできない、と思った。

たしかに《マスメディアによる寡占が全体主義的である》というのは、ぼくもそう思う。

けれども、ただちに《みんなオタクでいいんだよ》とは、思えないのだ。

やはり、ぼくは、“普遍性”をはげしく希求している。

ぼくが間違っているかどうか、考える必要がある。






*画像はアサヒコム提供(笑)






考えなくとも生きていける

2012-03-28 11:14:57 | 日記


ネットで立教大学総長の大学院学位授与式での発言を読むことができた。

ぼくは立教大学になんの係わりもないが、共感するので引用する;


<卒業生の皆さんへ(2011年度大学院学位授与式)> 2012年3月24日 立教大学総長 吉岡 知哉

立教大学はこの春、375名に修士号、16名に博士号、55名に法務博士号を授与いたします。
学位を取得された皆さん、おめでとうございます。心よりお祝い申し上げます。

昨年3月11日に発生した東日本大震災から、1年と2週間が経とうとしています。東日本大震災は、巨大地震と津波、それに続く原発事故によって、人類がこれまで経験したことのない複合的な災害になってしまいました。
地震と津波による広範囲の災害によって、行方不明者も含め2万人近くの人々が犠牲になりました。さらに、福島第一原子力発電所の爆発事故によって、生きていくための基本的な要素が汚染されました。津波によって破壊された地域の人々だけでなく、高濃度の放射能によって汚染された地区の住民もまた、あたかもディアスポラ(離散して他所に住むこと)のように、住み慣れた土地を追われることになったのです。また、拡散した放射性物質のために、復興自体が阻害されていることもご存知の通りです。
大震災によって、多くの人々が、生活の基盤を崩され、日常そのものを喪失しました。現在でも避難を強いられている人々が30万人以上いると言われます。

東日本大震災が崩したのは、日常世界の物質的基盤だけではありません。深刻なのは、水や食料から社会制度まで、日常世界を構成しているさまざまな要素に対する「信用」が失われてしまったことです。

今回の事故では、原子力発電所の安全性の神話が崩れただけでなく、原子力工学や放射線医学など、現代科学の最先端領域の「専門家」たちの事故後の発言が事態の混乱を深めるばかりであったのは、記憶に新しいところです。また、私たちは、既存の政治機構が機能不全を起こし、政治家の言動やマスメディアの報道が、事態をますます悪化させているのを目の当たりにしています

高度な研究を行っている専門家や、著名な大学の出身者である政治家への不信が広がる中で、大学という研究・教育機関への信頼が失墜していったのは不思議ではありません。いま私たちは、大学の存在根拠自体が問われていることに自覚的であらねばならないのです。

では、大学の存在根拠とはなにか。
一言で言えばそれは、「考えること」ではないかと思います。
大学とは考えるところである。もう少し丁寧に言うと、人間社会が大学の存在を認めてきたのは、大学が物事を徹底的に考えるところであるからだと思うのです。だからこそ、大学での学びについて、単なる知識の獲得ではなく、考え方、思考法を身につけることが大切だ、と言われ続けてきたのでしょう。

現実の社会は、歴史や伝統、あるいはそのときどきの必要や利益によって組み立てられています。日常を生きていく時に、日常世界の諸要素や社会の構造について、各自が深く考えることはありません。考えなくても十分生きていくことができるからです。あるいは、日常性というものをその根拠にまで立ち戻って考えてしまうと、日常が日常ではなくなってしまうからだ、と言ったほうがよいかもしれません

しかし、マックス・ウェーバーが指摘したように、社会的な諸制度は次第に硬直化し自己目的化していきます。人間社会が健全に機能し存続するためには、既存の価値や疑われることのない諸前提を根本から考え直し、社会を再度価値づけし直す機会を持つ必要があります。

大学は、そのために人間社会が自らの中に埋め込んだ、自らとは異質な制度だと言うことができるのではないでしょうか。大学はあらゆる前提を疑い、知力の及ぶ限り考える、ということにおいて、人間社会からその存在を認知されてきたのです。

既存の価値や思考方法自体を疑い、それを変え、時には壊していくことが「考える」ということであるならば、考えるためには既存の価値や思考方法に拘束されていてはならない。つまり、大学が自由であり得たのは、「考える」という営みのためには自由がなければならないことをだれもが認めていたからに他ならない。大学の自由とは「考える自由」のことなのです。

言葉を換えると、大学は社会から「考える」という人間の営みを「信託」されているということになると思います。

ところが、東日本大震災とその後の原発事故は、大学がそのような「考える」という本来の役割を果たしていないし、これまでも果たしてこなかったことを白日のもとに明らかにしてしまった。少なくとも多くの人々の目にそのように見えたのに違いありません。大学への信頼が崩れたのはそのためではないでしょうか。

しかしさらに考えてみると、大学への不信はもっと以前から存在していたのではないかと思われます。ある時期から、もはや大学には「考える」という役割が期待されなくなったのではないか。

社会が大学に求めるものが、「考える」ことよりもすぐに役立つスキルや技術に特化してきたことはそれを示しているのではないでしょうか。大学について語る場合の語彙も、「人材」、「質保証」、「PDCAサイクル」など、もっぱら社会工学的な概念に変わってきています。

近年、大学の危機が論じられることが多くなりましたが、その際問題になるのは、「グローバル化」と「ユニバーサル化」です。しかし、人間社会が大学に、考える場所であることを期待しなくなっているのであれば、そのことのほうがずっと深刻な危機ではないでしょうか。

また、このような変化の背景に、そもそも「考える」ことの社会的意味を否定するような気分が醸成されてはいないか、という点にも注意しなければなりません。反知性主義が力を得るための条件は東日本大震災以後いっそう強まってきていると思われるからです

立教大学は創設以来リベラルアーツを重視してきました。リベラルアーツはここで述べてきた意味での「考える」技法を習得するための訓練体系です。
そのような伝統をもつ立教大学の大学院で学んだ皆さんは、「徹底的に考える」経験を積み重ねた結果、本日の学位授与式に臨んでいるのです。

さて、これまで述べてきたことからもお分かりのように、「考える」という営みは既存の社会が認める価値の前提や枠組み自体を疑うという点において、本質的に反時代的・反社会的な行為です。

皆さんの中には、これから社会に出ていく人も、大学院生として後期課程に進む人も、また、大学や研究所で研究者としての歩みを続ける人もおられることでしょう。社会人として働きながら本学に通い、これから次のステージを目指している人もたくさんいるに違いありません。

皆さんがどのような途に進まれるにしても、ひとつ確実なことがあります。
それは皆さんが、「徹底的に考える」という営為において、自分が社会的な「異物」であることを選び取った存在だということです。


どうか、「徹底的に考える」という営みをこれからも続けてください。そして、同時代との齟齬を大切にしてください。

おめでとうございます。

(以上引用)






<感想>

この発言は、“震災・原発事故”以後で、ぼくが読み得たいちばん明晰な発言だと感じられた。

“明晰”であるとは、この発言の普遍性のレベルにかかわる。

“普遍性”とは、この発言が“大学生”とか、“若者”にのみ発せられていない、という意味である。

こういう発言に対しては、あらゆる年代、あらゆる“社会的な位置”に生きているすべての人々が(ぼく自身を含め)襟を正すべきである。

それは、“知性”の普遍性にかかわる。

いったい何を“知性”と呼ぶかは、明瞭であろうか?

この“知性”への疑いこそ、ぼくらが生きることを駆動する力なのだ。







このニッポンの空気、を読む

2012-03-27 09:35:52 | 日記


昨夜、“大澤真幸”というひとが発言するのをテレビではじめてみた。

ぼく自身は大澤真幸の本をけっこう読んできたが、彼を“見る”のは初めてだったのだ。
(ところで、大澤真幸のようなひとは今、どのように読まれているのだろうか、彼の新書や文庫の売り上げは?購読年代層は?)

思ったより、感じがよかった!(笑)

少なくとも、高橋源一郎、宮台真司、東浩紀よりは、感じが良い(爆)
(あくまで、テレビ写りの感想である)<追記>

あまり“色気”はないが、“論理”はわかるのではないだろうか。
ただ意外に、“気配り的”なので、主張が強烈に(明瞭に)聞こえないことがある。

この番組での話題のひとつは、“決断できない(決断しない)”日本人ということであった。

当面、“すべき”決断は、原発の即時停止である(すなわち現在原発は(ほぼ)全停止しているのだから、再稼動拒否である)

その原発停止を、“なんとなく、なしくずしに”するのではなく、“決断”するのである。

なぜ日本人は“決断”できないのか、については、大澤は2点あげたと思う。
① キリスト教という伝統がない
② 戦後、決断は、アメリカ(USA)にお願いしてきた

この論点についても、いままでも語られてきたし、現在も色々いいたい人がいるだろう。

ぼくも、この①②について、あまり突っ込んでではなく、“なんとなく”考えることはある。
が、ここに書くほど詰められていないので、書かない(笑)

まあ、“みなさんも”考えてください。





<追記>

内田樹を忘れていた!







<号外:今日の原発ニュース:汚染水海へ流出 東電の管理体制問われる (ANN NEWS)>

福島第一原発で、タンクの配管から汚染水が漏れて約80リットルが海に流出しました。東京電力の管理態勢が問われそうです。

 26日朝、汚染水タンクの配管のつなぎ目から水が漏れているのを作業員が見つけました。東京電力によりますと、汚染水120トンが漏れ出し、このうち80リットルが真下の排水溝を通じて海に流出しました。放水口付近の海水からは、放射性ストロンチウムなどベータ線を出す放射性物質が1立方センチあたり0.25ベクレル検出されました。福島第一原発で汚染水が海に流出するのは、去年12月に続いて2度目です。事態を重くみた原子力安全・保安院は、東京電力に原因究明と再発防止を指示しました。







もっと翻訳を

2012-03-26 11:11:05 | 日記


茂木健一郎というひとのツイートをずっと読んでいる。

このひとに対する不満は、けっきょく、彼は(たぶん)お金持ちなので、その主張がおっとりしすぎていることと、かれは理科系なので(笑)、かれの文科系趣味については(ぼくには)疑問が生じることがある(彼の“脳科学者”としての思想自体の判定は、ぼくにはできない)

けれども今読んだ、“翻訳のすすめ”には賛成である。
このこと(翻訳の現在における重要性)について指摘しているひとが少ないので、このツイートに全面的に賛成ではないが、引用する;


☆ もほ(1)このところ、Kindle for iPad で英語の本を濫読している。完全に火がついたようで、もうどうにも止まらない。読んでいるジャンルは、科学や技術、文明にかかわるものがどうしても多いが、そんな中で、すっかり考え込んでしまったことがあった。
kenichiromogi 2012/03/26 06:47:00

☆ もほ(2)繰り返し書いているように、日本のオペレーティング・システムは完全に賞味期限が切れている。大学入試も、新卒一括採用も、記者クラブも。一方で、アメリカを中心とする英語の本を読んでいると、インターネットに象徴される新しい文明の「波」が、いかに世界をつくりかえているかがわかる。
kenichiromogi 2012/03/26 06:47:16

☆ もほ(3)ネットを中心とする情報革命は、本当に興奮すべきもので、その中で新しい産業も生まれ、人々のライフスタイルも変わってきている。ところが、日本は佇んで、微熱的な受益者に留まっている。これはどうしてだろうとしみじみ考えているうちに、これまで考えなかった点に思い至った。
kenichiromogi 2012/03/26 06:34:37

☆ もほ(4)世界で最も興味深い動きと、自国の状態がずれているという認識は、明治時代にもあったはずだ。漱石の小説を読むと、当時のヨーロッパに対する「あこがれ」のようなものが伝わってくる。そして、繰り返し書いているように、大学は外国の文化を翻訳して輸入する文明の配電盤だった。
kenichiromogi 2012/03/26 06:35:44

☆ もほ(5)英語で直接やりとりする「直接性」の時代だとは言え、誰もが最初から高度な英語の運用力をもつわけではない。また、母語である日本語の文化は大切に育てていかなくてはならない。特に、英語を学習する前の子どもたちにとっては、日本語で流通している情報が重要だ。
kenichiromogi 2012/03/26 06:37:10

☆ もほ(6)そのように考えると、今の日本の問題の一つは、「翻訳」の情熱を失ってしまっている点にあるとも考えられる。かつて、明治の人たちがヨーロッパの文明にあこがれ、「和製漢語」の創造性を持って熱心に輸入した、そんな気持ちを、そもそも日本人が失っているように思われる。
kenichiromogi 2012/03/26 06:38:49

☆ もほ(7)国全体として、異質の文化に対する好奇心を失っているのだろう。国のあり方や文化は時代によって変わる。伝統を重視することは大切だが、昨今のいわゆる「若者の保守化」は、外の世界に目を閉ざし、居心地のよい現状にとどまろうとする怠惰だと見ることができないわけでもない。
kenichiromogi 2012/03/26 06:40:28

☆ もほ(8)英語でパス回しをし、ピッチの上を必死になって走るといった生き方が大切な一方で、日本語の世界の中に時代の最先端、今で言えばインターネット文明のうねりを移入し、文化の質を高め、日本の「時価総額」を増大させることが必要。しかし、最近では「伝統芸」の翻訳に力がないようだ。
kenichiromogi 2012/03/26 06:43:10

☆ もほ(9)今の日本に是非とも必要なのは、明治に学問のあり方や文明開化の機微を説いた福澤諭吉のような人物だろう。インターネットの偶有性の文明のうねりから、日本はすっかり取り残されている。ネットと連動して、社会が変わっていかなくてはならない。日本語を2.0にするくらいの勢いが必要だ。
kenichiromogi 2012/03/26 06:44:37

(以上引用)







“一体何があなたに書くことを始めさせたのか?”

2012-03-25 14:33:33 | 日記


★ これより20年前に行われた別のインタヴューの中でも、この重大な出来事について、ジュネは基本的に同じような説明をしている。すなわち、「それでは、一体何があなたに書くことを始めさせたのですか?」というインタヴュアーの問いに対してジュネは次のように答えているのだ。

★ 「分からない。なぜ私がものを書き始めたのかは、分からないのだ。書くことの力を最初にはっきりと自覚したのは、当時アメリカにいたドイツ人の友人に葉書を送った時のことだ。[・・・・・・]カードの書き込みが出来る方の面は、白くしわが寄って波を打ったようになっていて、その表面が私に、もちろん刑務所にはなかった雪を連想させ、クリスマスのことを考えさせたのだ。ありきたりの感想の代わりに、私はその紙の質について書いた。これが、ものを書くきっかけだ。動機ではないかも知れないが、私にとってはこれが初めて味わう自由だった。」

★ ジュネの文体の際立った特徴の一つは、その予測不可能性にある。[・・・・・・]彼は、存在するとは知覚することだという発見をしたのである。ジュネの存在論においては、服や身振りや言葉は、それを着たり言ったりする人間よりも遥かに大きな威力を持っていて、リアリティを決定づけている。

<エドマンド・ホワイト『ジュネ伝』(河出書房新社2003)>







意味不明

2012-03-25 12:45:11 | 日記


“YAHOO! ニュース JAPAN”で昨日報じられた以下のニュースについて、読者から《意味不明》というコメントが付き、このコメントに対して“私もそう思う”=12,689、“私はそう思わない”=189であった(昨夜時点);

<首相「TPPはビートルズ」=参加の意義、独自解釈で説明>時事通信 3月24日(土)18時4分配信

 「環太平洋連携協定(TPP)はビートルズだ」。野田佳彦首相は24日の都内での講演で、TPP交渉参加を検討している日本の立場を、英人気ロックバンドのメンバーに例えて説明、政府の方針に理解を求めた。
 首相は「日本はポール・マッカートニーだ。ポールのいないビートルズはあり得ない」と強調。その上で「米国はジョン・レノンだ。この2人がきちっとハーモニーしなければいけない」と述べ、日本の交渉参加への決意を重ねて示した。
(引用) 


つまり、多くの人々が、野田佳彦首相の発言を、《意味不明》と判断した。


すなわち、現在日本国の首相は、意味不明なことを言うひとなのである。

昨日見た“パックインジャーナル”(テレビだよ)の出演者によると、現在、《どうして日本は、こんな国になっちゃったんだろう》という嘆きが、‘巷(ちまた)’に満ち満ちているという。


どうして日本は、こんな国になっちゃったんだろう?


もちろん意味不明なことを言う人が“首相”だからである。

しかし“問題”は、意味不明なことを言う人が、首相のみでないことである。
ハシモトとか、オザワとかいう人たちも、なにか“意味不明でないこと”を言っているのであろうか?


“天声人語”は、“意味不明でないこと”を言っているであろうか。
今日の天声人語;

昔話になるが、自民党内の権力闘争が政治を活気づけた時代がある。語り草は40年前の総裁選、佐藤栄作政権の後継を巡る田中角栄と福田赳夫の角福戦争だろう。制したのは54歳の田中だった▼勝者がテレビに映るたび、娘に「お父さんが出てるわよ」と知らせる女性がいた。金庫番の田中秘書、佐藤昭子さんだ。呼ばれたのは、田中との間に生まれた中学生である▼その佐藤あつ子さん(54)が、講談社から『昭(あき) 田中角栄と生きた女』を出した。「決断と実行」の政治家と、資金を任された「越山会の女王」。新潟から出て、固い信頼で結ばれた男女の絶頂と転落を、子どもの目で描いた▼私たちが知る、汗だくで演説する角さんではない。愛する人の家に通い、娘を抱きしめる男がそこにいる。その人生のせわしさを思う。官僚や秘書団を操り、無数の陳情と就職をさばき、政争を生き抜き、私生活にも時間を割く。異常なほどの「処理能力」である▼だが、大車輪のしわ寄せは公私に及んだ。金権批判、ロッキード事件、脳梗塞(こうそく)。多感な年頃に自分の境遇を知った著者も、やがて薬と酒と自傷に走る。「大好きなオヤジの娘であることが、法を侵さずに生きる最後の砦(とりで)でした」▼蔵相時代、親子3人が家ですき焼きを食べる描写がある。せっかちな田中は大量の砂糖としょうゆを鉄鍋に投入し、娘をげんなりさせた。著者に同情しつつ、何とも言えぬ懐かしさが込み上げる。決断も実行もしない「薄味」の政治に飽きたせいだろう。
(引用)


どうやら“田中角栄(角さん!)”という昔の政治家のことが語られている。

この天声人語の書き手は、田中角栄に対して《何とも言えぬ懐かしさが込み上げる》ということである。

たぶんこの書き手は、ぼくより若い。
すなわち、“田中角栄の思い出”なら、このぼくにも(時代的には)“ある”はずである。
しかも田中角栄の“地盤”である土地で、ぼくは生まれた。

けれども、ぼくには、《何とも言えぬ懐かしさが込み上げる》などということは、まったくない。
たしかにぼくも、「薄味」より、けっこう“濃い味”が好きではあるが(もちろん食べ物の話である)

なぜこうも、“ちがった感覚”のひとが、とくに大新聞社には、いらっしゃるのだろうか!

だいいち、いまどき、なぜ、《『昭(あき) 田中角栄と生きた女』》などという本を読む気になるのかが、ぼくにはわからない。

もっとほかに読む本はないのだろうか???(笑)

田中角栄だろうが野田佳彦だろうが、どうでもいいではないか。

なぜ意味不明なことを言うどうでもいい人々にばかり関心をもつのか。

それが“戦後史(激動の昭和史!)=ニッポンの歴史”だとでも、思っているのか。

そんなところに<歴史>なんかないことに、どうして気づかないのか。

2011年3月10日以後、問われているのは、意味不明でない言説の歴史、ではないのだろうか。


もちろん、その歴史に直面し、おびただしい意味不明の言葉のなかから、意味ある言葉を発掘することのみが、ぼくたちの未来への使命である(そういうものがあるならば)





資本主義宗教

2012-03-24 23:36:50 | 日記


毎日jpでジョルジョ・アガンベンのインタビューを見ることができた、先日亡くなったテオ・アンゲロプロス監督の発言も、引用します;

<壊れゆく「資本主義宗教」--イタリアの哲学者、ジョルジョ・アガンベンさん(69)>

--東日本大震災後、日本だけでなくイタリアでも、経済成長にこだわらない暮らしを求める声が高まってきました。ギリシャの映画監督、故テオ・アンゲロプロス氏は昨年夏、「人々は(未来への)扉が開くのを待っている。イタリアなど地中海圏が扉を開く最初の地になる」と変動を予言しました。社会の価値観は変わりますか。

◆ アンゲロプロスの言葉を読み、経済という独裁者が社会生活の細部にまで入り込んでいるという指摘に感銘を受けた。世界の内面を考える上で役に立つ処方箋だ。それを理解するには、資本主義に支配されている現実をよく知る必要がある。
 資本主義は経済思想というよりも、一つの宗教だ。しかも、ただの宗教ではなく、より強く、冷たく、非合理で、息の詰まる宗教だ。資本主義を生んだキリスト教のような救済、しょく罪、破門もない。私たちはよく言っても「在家」という立場でこの宗教にとらわれている。
 要は、経済成長か、それによって失われる可能性のある人間性か、どちらを選ぶかだ。資本主義が見ているのは世界の変容ではなく破壊だ。というのも、資本主義は「無限の成長」という考えで指揮を執るが、これは合理的に見てあり得ないし、愚かなことだからだ。


--ギリシャやイタリアなど南欧の債務危機が資本主義を変える原因になりますか。

◆ 一連の危機はいずれ、今の資本主義世界における普通の状態にすぎなかったと思い出されるだろう。今回の危機は(ギリシャ政府による)「クレジット」(信託)の操作から始まった。それまで、クレジットは元値の10倍、15倍もの値で売られていた。銀行はクレジット、つまり人間の信用、信仰を操り、ゲームを楽しんだ。宗教=資本主義=銀行=クレジット=信仰--というたとえは現実なのだ。銀行が世界を支配し、人々にクレジットを持たせ、それで払わせようとする。
 そして、格付け会社は国のクレジットまで作った。国家には本来、主権があるはずなのに、「財政」という言葉で第三者がそれを一方的に評価する。これもまた、資本主義の非合理を示す一つの特徴と言える。
 ちょっと下品な言い方をすれば「人間性のアメリカ化」が生まれつつあるように思う。アメリカは歴史が浅く、過去と対峙(たいじ)しない国だ。そして、資本主義という宗教の力がとても強い。問題は、過去を顧みない人間のあり方、つまり「アメリカ化」に意義があるのか、それこそが来るべき未来なのか、それとも別の道があるのかということだ。なぜなら、(未来への)扉を開くには、別の道がなくてはならないからだ。
 人間と過去との関係で、ひとつ逸話を話させてもらうと、私は日本の版画が大好きで、(葛飾)北斎の作品を一つ持っている。若く賢い日本の友人にこれを見せたことがある。だが、彼は版画に書かれた字を読めなかった。ラテン語や古代ギリシャ語を読める彼が古い漢字を読めない。これは、私には、過去との関係が危機にある一つの表れだと思えた。


--歴史を重んじる欧州人も過去を失いつつあるように思えます。危機などの非常事態が日常になってしまうのは、過去を見ていないからと言えますか。

◆ その通りだ。それを示すいい例が、大学の危機と、社会の「博物館化」だ。いま、過去がある所は博物館だけになってしまった。過去は忘れられ、単に展覧されるだけになった。過去を生きたまま伝える場であるはずの大学は危機にある。哲学や心理学など人間を学ぶ学科がイタリアで廃止されつつあり、これは欧州全体の問題と言える。


--フクシマをどう見ましたか。グローバル化の下、ある土地の災害が世界に大きな影響を与えます。あなたの何かを変えましたか。

◆ かなり大きな衝撃だった。ひどく心を乱した。日本についての私のイメージも変わった。ヒロシマ、ナガサキを経験した後で、日本が50基以上もの原子炉を設置していたとは思いもよらなかった。日本は寓意(ぐうい)的な事例だと思う。なぜ、ヒロシマの悲劇を生きてきた国が50基もの原子炉を建設できたのか? 私にとっては今も謎のままだ。おそらく、日本は過去を乗り越えたかったのだろう。
 そして、(明るみに出たのは)資本主義を率いてきた人々の思慮のなさだ。それが、国を破壊するということでさえ、日常のことのように思う感覚をもたらしたのだろう。


--「原子力の平和利用」という言葉で自分たちを欺いてきたとも言えます。

◆ そうだ。だが、過ちだったのだ。そこにも、まさに資本主義宗教の非合理性が見える。国土がさほど大きくない国に50基もの原子炉を築いてきたという行為は、国を壊す危険を冒しているのだから。



☆ 映画監督、アンゲロプロス(1935~2012年)の言葉
 未来が見えない今は最悪の時代だ。人々に方向を示す政治が世界のどこにもない。政治家も学者も大衆も待合室にこり固まり、扉が開くのを待っている。西欧社会は真の繁栄を手にしたと長く信じてきたが、それは違うと突如、気づいた。いずれ扉は開くだろうが、その前に私たちが、そして世界が変わらねばならない。
 地中海諸国が扉を押し開く最初の地になるだろう。問題は金融が政治にも倫理にも美学にも、全てに影響を与えていることだ。これを取り除かなくてはならない。扉を開こう。それが唯一の解決策だ。今の世代で始め、次の世代へと引き継ぐのだ。金融が全てではなく、人間同士の関係の方がより大きな問題だと私たちは想像できるだろうか。

(以上引用)






地の果て

2012-03-24 12:27:19 | 日記


★ 朝の光が濃い影をつくっていた。影の先がいましがた降り立ったばかりの駅を囲う鉄柵にかかっていた。体と共に影が微かに動くのを見て、胸をつかれたように顔を上げた。鉄柵の脇に緑の葉を繁らせ白いつぼみをつけた木があった。その木は、夏の初めから盛りにかけて白い花を咲かせあたり一帯を甘い香りに染める夏ふようだった。満で二十九歳になった六尺はゆうに越すこの男は、あわてて眼をそらした。観光バスや定期バスが列を連ねている広場を秋幸は渡り始めた。

★ 半分を温泉土産の売り場にし、残りを食堂にした店の中で、女が土産物にたまった埃をはたいていた。広場を歩き渡ってくる秋幸から視線をはずす。秋幸はそこで腹ごしらえをしようと歩いた。洗ってこざっぱりとした夏のシャツとズボンに遠めには流れ出た血の跡がくっきりと形を取って浮き上るのか、それとも秋幸の顔に何かが書いてでもあるというのか、女はかかわりたくないというようにかがんではたきをかけはじめた。


★ その六さんに会う為には男がジープを停めた道から歩いて小さな雑木林を一つ越えなければならなかった。秋幸はそのうち礼はすると男に言って別れ、酒を二升しっかり口をひもで結わえて運び易くして持ち、肴にするものを袋に入れて、山に微かについた道をたどって上にのぼりはじめた。雑木の青々とした葉が道の方々をさえぎっていた。両手が物を持ってふさがれていたので体を盾にして前に進んだが、枝は何度も秋幸の胸や腰にまといつき戯れるように当たった。山の頂に来てそこに物を置き、雑木の茂みが切れたところから周囲で動くものがないかと見わたした。急斜面の山のどこにも動くものはなく、ただ風が、空にかかっている日の方から、幾つも重なりあった杉の山を越えてまだ植林していない雑木山の方へ吹くたびに、茂みが動き、音が立つ。

★ 声を出してみようとは思わなかった。秋幸は山の中で一人仕事をする男を自分の眼で見つけ出したかった。

★ 尾根づたいに歩き、日が向こうの大きな杉山の陰にかくれ、さらに歩くと日が現われて急に広々とした雑木の斜面が見える。雑木の斜面の一角に虫が喰ったような形に木が伐り倒されているところがあり、そこの緑の木が揺れていた。木は倒れさらにその脇の木が揺れる。秋幸はその虫喰いの方向へ斜面を降りはじめた。


★ 男は秋幸が想像していたよりはるかに背丈が低く、華奢な子供のような体つきだった。男の作業の邪魔にならないように雑木を切り払ってひとまとめにした脇の石に秋幸は腰を下ろした。秋幸がそこにいる事を拒むでもなし歓迎するわけでもない男の仕事ぶりを見ながら、この男の元に居られるだけ居させてもらおうと決めた。

★ 大阪まで面会に来た肉親の者やその使いの者から、秋幸は三年間のうちに、秋幸の生まれた土地の近辺が大きく変わってしまっている事を耳にしていた。新地で「モン」という店を出していたモンは用意周到に地図と写真まで用意して、原子力発電所がその土地を間にはさんだ50キロ以内の地点に三ヶ所つくられる事が決定したし、それに紀伊半島を一周する高速道路の建設がはじまり、その土地の近辺は地理が一変したと説明した。路地も新地も消えた。

<中上健次:『地の果て 至上の時』(小学館文庫2000)>






モンドおよびその他の物語

2012-03-24 11:20:37 | 日記


★ モンドは急いでいなかった。彼の方でも、壁から壁へとジグザグに歩きながら進んだ。立ち止まって溝をのぞきこんだり、木の葉を引きちぎったりした。胡椒の葉をとり、指で揉みつぶし、鼻と眼を刺すその匂いをかいだ。すいかずらの花をつみ取っては、萼の付け根で玉になっている甘い小さな滴を吸った。あるいは唇に草の葉を押しあてて鳴らした。

★ モンドは丘を通って、ここを一人ぼっちで歩くのが好きだった。のぼるにつれて、陽の光は、まるで木の葉や古い壁石から出てきたように、だんだん黄色くやわらかくなってきた。日中、光は大地にしみこんでおり、それが今出てきてその熱気を振りまき、その雲を膨らませているのだった。

★ 丘の上には誰もいなかった。きっと午後も終わりのせいで、それにこの区域はいささか見捨てられているからでもあった。別荘はみな木立のなかに埋もれ、寂しいというのではなく、錆びた鉄柵やペンキが剥げてうまく閉まらない鎧戸のある姿は、まるでまどろんでいるようだった。

★ モンドは木立のなかを飛ぶ鳥たちの音や、吹く風に軽く軋む木枝の音に聞き入った。とりわけよく聞こえるのは、バッタの音で、絶えず移動してモンドと一緒に進む感じのする甲高い笛のような音だった。時おりそれは少し遠ざかり、それからまた戻ってくるとあんまり近く聞こえたのでモンドは振り向いて虫の姿を見ようとした。しかしその音はふたたび遠ざかり、彼の前とか、それとも上、壁の天辺のあたりでまた聞こえだすのだった。モンドの方でも、草の葉を鳴らして呼んでみた。しかしバッタは姿を見せなかった。隠れている方がいいらしかった。

★ 丘の頂のあたりに、暑さのために雲が出ていた。雲は静かに北の方へと流れており、それが太陽のそばを通るとき、モンドは顔にその影を感じた。ものの色は変化し、動いてやまず、黄ばんだ光が灯ったり、消えたりした。

★ モンドはずっと前から、その丘の頂まで行ってみたいと思っていた。彼はよく海辺の隠れ家から、その丘を眺めたものだった。丘の木々や、別荘の正面に輝き、後光のように空に放射しているその美しい光を。丘にのぼりたいと思ったのはそのせいだった。つまり、階段の道は空と光の方へ連れていってくれるように見えたからだ。それは本当に美しい丘、海のすぐ上にあって、雲にも届きそうな丘で、モンドは朝、まだ丘が灰色で遠くにあるときも、夕方、そして夜、丘が電灯の光をいっぱいに煌かせているときでさえも、長いあいだそれを眺めたものだった。今、その丘をよじのぼるのが彼には嬉しかった。

<ル・クレジオ“モンド”― 『海を見たことがなかった少年』(集英社文庫1995)>






1984年;最後のフーコー

2012-03-20 11:36:37 | 日記


* 『ミシェル・フーコー思考集成Ⅰ』(筑摩書房1998)の最初にある「年譜」の最後の年1984年を引用(一部省略、なおこの年譜はちくま学芸文庫『フーコー・ガイドブック』にも収録されている);


★1月 抗生物質治療で活力を回復する。フーコーは、モーリス・パンゲに――「僕はエイズに罹ったと思ったのだが、懸命の治療で立ち直った」と書簡で書く。

★2月 再び消耗していたが、パレージアについて、コレージュ・ド・フランスでの講義を再開。3月末まで、『性の歴史』第2巻のゲラを校正。

★ 3月 (略)タルニエ病院でフーコーは定期的に診断をうける。医師たちは、彼の唯一の問いは――「あとどれだけ時間が残されているか?」だったと感じた。彼の方から病状の診断を求めもせず受けることもなかった。1978年、フィリップ・アリエスの死に関して、フーコーは、「患者がかれ自身の死との密かな関係の主人であり続けるために受け入れる、知と沈黙との戯れ」について語っていた。

★ 10日 『性の歴史』のゲラを校正するかたわら、クロード・モーリヤックとともに、援助を求めにやってきた、警察により住居から追い出されたマリ人およびセネガル人の労働者代表に会う。彼らのために何通もの手紙を書く。

★ 4月 カフカの日記を読み直し、『肉の告白』の草稿執筆を開始。パレージアについての最後の講義のさい、フーコーは自分の分析に施されるべき変更があると述べるが、ジャック・ラグランジュは、「もう遅すぎる」と呟くのを耳にする。

★ 6日、自宅で、詩人ブライオン・ジェイシンを伴って訪れたウイリアム・バロウズを迎えてパーティー。これが最後のパーティーとなる。

★ 5月 『性の歴史』第2巻および第3巻の刊行の機会に、「マガジン・リテレール」誌はフーコー特集号を刊行。フーコーは、「知識人の沈黙」について発言。

★ 14日、『快楽の活用』刊行。「ラ・ルヴェ・ド・ラ・メタフィジック・エ・ド・モラル」誌のジョルジュ・カンギレム特集号に論文を送る。オリジナルのテクストを約束していたが、1978年に『正常性と病態性』の英語版のために書いたテクストを修正することしかできなかった――「このテクストにこれ以上手を入れられません。文体上の不手際があれば、遠慮なく修正して下さい」(出版社への手紙)

★ 29日、自宅で、ジル・ドゥルーズに近い若い哲学者アンドレ・スカラのインタビューに応じる。フーコーは、非常に消耗、自分にとってハイデガーの読解がもつ重要性を初めて語る。このインタビューに自ら手を入れることができず、ダニエル・ドフェールに最終的な体裁を整えることを任す。

★ 6月3日、フーコーは発作を起こし、弟のドゥニの手配で自宅近くサン・ミシェル病院に入院。9日、サルペトリエールの、シャルコーが仕事をした旧い建物を見おろす神経科に移される。

★ 10日、集中治療室に入る。

★ 20日、小康を保つ間に、刷り上った『性の歴史』第3巻『自己への配慮』を受け取る。

★ 25日、13時15分、ミシェル・フーコー死去。

★ 29日、サルペトリエールでの短い別れの儀式のあと、遺体はヴァンドゥーヴル・デュ・ポワトゥーに運ばれ、近親者と村人の見守るなか埋葬される。
根強い伝説とは反対に、また死因を公表しないというフランスの医学的慣行にも反して、遺族の要請で、臨床的にエイズを記述するコミュニケがカステーニュ教授とソーロン博士により発表された――「ミシェル・フーコー氏は、1984年6月9日、悪性の敗血症を引き起こす神経学的兆候に関する必要な追加検査のために入院した。検査は、脳の化膿巣の存在を突き止めた。[・・・・・・]病状の急激な悪化が有効な治療のあらゆる希望を奪い、6月25日13時15分死に至った。」

★ ミシェル・フーコーは、1982年9月、ポーランドに出発する前に、「事故の場合に」開封すべき遺書を書き残していた。その遺書の三箇所の指示のうち二つには、「不具よりは死を」、そして、「死後出版は認めず」と記されている。

<『ミシェル・フーコー思考集成Ⅰ』(筑摩書房1998)>






なんかへんだよ

2012-03-19 16:58:26 | 日記

このごろぼくがますますひねくれてきたせいか、“素直そうな文章”ほど、素直に読めない。

というか、そのへんの小学生が“素直に”書いた文章なら、こっちも素直に読むこともできようが、“高橋源一郎”のようなひとが素直な文章を書くのなら、それがパフォーマンスでないはずはない。

もちろん、世の中すべてがもはや“パフォーマンス”であるという考え方もあり、“それ”が上手いか下手かを競うのが、現在の“論壇状況”(そんなものがあるとして)とか日本の文学~思想業界なのかもしれない。


ああ、なんの話をしてるか、“読者”にはわからないだろうから二つのツイートを引用;

☆ 高橋源一郎 ‏ @takagengen   3月17日
吉本隆明さんを追悼する「文章」を一つだけ書くことにしました。ぼくよりずっと、それに適している人がいるのだけれど、と思いながら書きました。月曜の朝日新聞の朝刊に載ります。

☆ hazuma
なるほど。読まねば。。RT @a_i_jp: 吉本隆明の追悼文ですね RT @hazuma: なんの話だろう。気になる。RT @brikix: 「『この人がほんものでないなら、この世界にほんものなんか一つもない』とぼくは思った」(19日 朝日新聞 高橋源一郎)
posted at 12:24:08
(以上引用)


ぼくは朝日新聞を購読していないので、この高橋源一郎の吉本隆明追悼文を読んでいません。

けれどもそこに、《『この人がほんものでないなら、この世界にほんものなんか一つもない』とぼくは思った》と書かれていることを上記で知った。


それで思った。

吉本隆明というひとは、“戦後最大のキャッチフレーズ”作成者ではないか、故に、彼の“弟子”は、糸井重里にしてもこの高橋源一郎にしても、キャッチフレーズが上手なのだ!(笑)

吉本キャッチフレーズでぼくの頭にこびりついているのは、

《自立》
《情況》
《関係の絶対性》
《自己表出》
《対幻想と共同幻想》
《大衆の原像》
などなど


たしかに“現代思想”というのは、日本にかぎらずキャッチフレーズを競っているようなところがあった(《脱構築》とか!)

それは、この社会が“CM化”したことの現れである。
なんかつまんない分析だが、これはかなりの<真実>を突いていると自己満足する。

しかし、ぼくはこういうのに飽きたなぁー;

《『この人がほんものでないなら、この世界にほんものなんか一つもない』とぼくは思った》

ぼくも結構コマーシャルソングが好きでしたが、最近は素朴でも実質的な言葉にあこがれます。


ところで、ぼくの風邪はなかなかなおりません。






<追記>

今日(3/20)になって、高橋源一郎が朝日新聞に書いた“吉本隆明追悼文”をネット上で読むことができた。

それを読んでも、読まずに書いた上記のブログを変更する余地はまったくない。
というか、いやになるほど、ぼくの予想通りの文章であったのだ(文章を読む喜びとは、“驚き”にあるのではないのか)

この高橋の文章は、愚劣である。

ここでも高橋源一郎は、《思想の後ろ姿》という“無-意味”(意味が無いことよ)なキャッチフレーズを発するのみである。
(高倉健の映画の見すぎであろうか)

第一、本人が《おそらく、それは「初恋」に似た感情だったからかもしれない。ぼくが、この稿に適さぬ理由は、そこにもある》と自分のこの追悼文を書くことの不適任を認めているではないか。

《この稿に適さぬ理由は、そこにもある》と言いながら、“それを書いてしまう”というのが、文学的レトリックであると思うほど、高橋源一郎は文学音痴なのである(笑)

いや、“ブンガク”なんか、どーでもいい。
言葉を、まちがって使用する人が、文章を書くことでカネを取る、ということは、どう考えても正しいことではない。

高橋が、“吉本隆明”というひとの<存在>を認識したのは、以下の理由によるという;

《ある時、本に掲載された一枚の 写真を見た。吉本さんが眼帯をした幼女を抱いて、無骨な手つきで絵本を読んであげている写真だった》(引用)

しかし、この世に、自分の子供に《無骨な手つきで絵本を読んであげている》父親というものは、そんなに希少な存在なのだろうか!

あるいは、“吉本隆明ほどの思想家が自分の子供に絵本を読んであげている”写真に感動したなら、それは権威主義の裏返しではないか。

<自分の子供に絵本を読んであげている>父親なら、《大衆の原像》ではなくて、“ただのピープル”のなかに昔からいくらでもいたではないか。
(ぼくの“母親”も読んでくれた)

高橋源一郎のような全共闘崩れには、そんなことも、ワカンナイ。


ぼくがここで言ったことを“証明”するため、高橋の駄文を(引用したくないが)、全文掲載しておく;


<思想の後ろ姿  高橋源一郎>

いま吉本さんについて書くことは、ぼくにはひどく難しい。この国には、「わたしの吉本さん」を持っている人がたくさんいて、この稿を書く、ほんとうの適任者は、その中に いるはずだからだ。吉本さんは長い間にわたって、ほんとうに多くの人たちに、大きな影響を与えてきた。

けれども、その影響の度合いは、どこでどんな風に出会ったかで、違うのかもしれない。半世紀以上も前、詩人としての吉本さんに出会った人は、当時、時代のもっとも先端的な表現であった現代詩の中に、ひとり、ひどく孤独な顔つきをした詩を見つけ驚いただろう。

そして、この人の詩は、孤独な自分に向かって真っ直ぐ語りかけてくるように感じただろう。六十年代は、政治の時代でもあった。その頃、吉本さんの政治思想に出会った人は、社会や革命を論じる思想家たちたくさんいるけれど、彼の思想のことばは、他の人たちと同じような単語を使っているのに、もっと個人的な響きを持っていて、直接、自分のこころの奥底に突き刺さるような思いがして、驚いただろう。あるいは、その頃、現実にさまざまな運動に入りこんでいた若者たちは、思想家や知識人などいっさい信用できないと思っていたのに、この「思想家」だけは、いつの間にか、自分の横にいて、黙って体を動かす人であると気づき、また驚いただろう。それから後も、吉本さんは、さまざまな分野で思索と発言を続けた。そこで出会った人たちは、その分野の他の誰とも違う、彼だけのやり方に驚いただろう。吉本さんは、思想の「後ろ姿」を見せることのできる人だった。

どんな思想も、どんな行動も、ふつうは、その「正面」しか見ることができない。それを見ながら、ぼくたちは、ふと、「立派そうなことをいっているが、実際はどんな人間なんだろう」とか「ほんとうは、ぼくたちのことなんか歯牙にもかけてないんじゃないか」 と疑う。

けれども、吉本さんは、「正面」だけではなく、その思想の「後ろ姿」も見せる ことができた。彼の思想やことばや行動が、彼の、どんな暮らし、どんな生き方、どんな 性格、どんな個人的な来歴や規律からやって来るのか、想像できるような気がした。

どんな思想家も、結局は、ぼくたちの背後からけしかけるだけなのに、吉本さんだけは、ぼく たちの前で、ぼくたちに背中を見せ、ぼくたちの楯になろうとしているかのようだった。ここからは、個人的な、「ぼくの吉本さん」について書きたい。

ぼくもまた、半世紀前に、吉本さんの詩にぶつかった少年のひとりだった。それから、 吉本さんの政治思想や批評に驚いた若者のひとりだった。ある時、本に掲載された一枚の 写真を見た。吉本さんが眼帯をした幼女を抱いて、無骨な手つきで絵本を読んであげている写真だった。

その瞬間、ずっと読んできた吉本さんのことばのすべてが繋がり、腑に落ちた気がした 。「この人がほんものでないなら、この世界にほんものなんか一つもない」とぼくは思った。その時の気持ちは、いまも鮮明だ。

大学を離れ、世間との関係をたって十年後、ぼくは小説を書き始めた。吉本さんをたったひとりの想像上の読者として。その作品で、ぼくは幸運にもデビューし、また思いがけなく、その吉本さんに批評として取り上げられることで、ぼくは、この世界で認知されることになった。

ぼくは、生前の吉本さんに何度かお会いしたが、このことだけは結局、言いそびれてしまった。おそらく、それは「初恋」に似た感情だったからかもしれない。ぼくが、この稿に適さぬ理由は、そこにもある。

吉本さんの、生涯のメッセージは「きみならひとりでもやれる」であり、「おれが前にいる」だったと思う。吉本さんが亡くなり、ぼくたちは、ほんとうにひとりになったのだ 。

以上です。ご冥福をお祈りします。

(以上引用)




上記の文章を読んだ人が、ぼくが高橋源一郎に個人的な怨念があると思うことを、おそれる。

ぼくは高橋源一郎と個人的な係わりはありません。

ぼくが言いたいのは、あくまで、現在における言葉のインチキな使用が目に余るということです。

もちろん、高橋源一郎の“競馬ボケ”や“離婚ボケ”のような、週刊誌ネタ的な貶しも可能だ。
しかしぼくに重要なのは、そういうことではない。

彼のような売文家の、手馴れた惰性だけの言葉が、率直さを装って発せられる、そのテクニックのいやらしさに、耐えがたいものを感じる。


また、”吉本隆明世代でないひとびと”に、高橋源一郎のようではない吉本世代がいることを伝えたい。





2012-03-18 01:40:09 | 日記


★ 稔った稲畑の方から風が吹く度に稲の穂の波音が響き、最初、老婆らはその音が、昔、路地の裏山の切れたあたりから広がった田の風景を想い出させると言っていたが、光が色づきはじめ、どうした加減で、まだ四時を廻ったばかりなのに夜のような風景にみえる時、気味が悪いと言い出した。

★ 稲の茂った田の向こうに伊勢の山があり、その山の方からやってくる風の音を、老婆らは何度も何度も耳にしてはじめて、路地の裏山の切れたあたりにあった田が路地の誰のものでもなく、路地の者らをそこに閉じ込めた町の者らの所有で、稲藁を2、3本抜く事はおろか、近道に田の畦を通る事すら禁じられたところだったと思い出したのか、心の底に澱んでいた不安につき動かされるように、冷凍トレーラーもワゴン車もそこに停めて大丈夫か、自分らも空き地にたむろしていて追い出される事ないのか、と言い出した。その言い方もツヨシや田中さんに訊くのでなく、互いに心の中にわき上がった気持を述べあうという様子だった。老婆らには冷凍トレーラーに乗り込む前から、一切が不法で、大丈夫だと安心していられる事などない旅だ、と言い渡していた。

★ 田中さんが手に入れてきたスポーツ新聞の広告欄を丁寧に調べ、伊勢のピンクキャバレーやサロンをさがし、ツヨシが運転台からボストンバッグを取り出し、着替えを出している脇で、老婆らは、まるでわいて出る風そのものに震えて音をたてるというように、「かまんのかいネー」「われら、こんなところにおりくさって、出ていけーと頭の髪(たぶさ)つかんで放られたんや」と何時の事を言っているのか聞く方が混乱する口調で言う。

<中上健次『日輪の翼』(小学館文庫1999)>







たたかう“知識人”;現在についての問い

2012-03-17 14:43:43 | 日記


いきなり引用をはじめてもいいのだが、現在のぼくの状況から説明したい。

いやそんなに大袈裟なことじゃない。
ぼくは現在、風邪である、昨日医者へ行き風邪薬を飲んで、寝ている。
ここ数日、寝たり起きたりであり、起きれば、パソコンを開き、吉本隆明死去のニュースやそれに関する有名人の“感想”を読む羽目になる。

その間、出たばかりの大澤真幸『夢よりも深い覚醒へ』と柄谷行人『政治と思想1960-2011』を読み終わった。

さらに昨日も書いたように『フーコー・コレクション4』を読了、現在『フーコー・コレクション5』を読みつつある。

ぼくが“震災原発以後”の状況について書かれた本を読むのは、辺見庸につづき、この大澤と柄谷の本のみであった。

“震災原発以後の状況”について書かれたおびただしい本のなかには、きっと“良い本”があるのだろう。
しかしぼくが、辺見庸、大澤真幸、柄谷行人を読んだのは、それらの人々への“こだわり”があったからである。

あっさり言って、この3冊の本では、ぼくは辺見庸には共感したが、大澤、柄谷には失望した(ああもう一冊、東浩紀の『一般意志2.0』も“震災原発以後”本といえなくはなく、この本への評価も減退している)

そしてこの間、なによりも共感できたのは、フーコーの発言であった。

その“サンプル”を引用したいが、現在、ぼくの“本質直感”能力は減退しており、適切な箇所を“選べる”かに、自信はないのだ。

けれども、どうしても“いま”やらなければならない、このブログの読者のためにではなく、自分自身のために。

以下に引用するのは『フーコー・コレクション5』の3番目にあるフーコーへのB.H.レヴィのインタビューでのフーコーの発言である(“性の王権に抗して”)。

いくつかのフーコーの発言をピップアップ引用するわけだが、順番どおりではなく、まず最後の部分を引用し、その後に、最初から順番に(ぼくにとって重要と思われた部分を)引用したい;


(最後の部分)

★ 私が切望するのは自明性や普遍性を破壊する者としての知識人です。現在の惰性と桎梏のなかで、その弱点、開示、骨組みを標定しそれらを示してみせる知識人。絶えず自らの位置を移動し、現在にあまりにも注意を払っているために明日自分が正確にどこにいて何を考えるかということを知ることのないような知識人。自分を通過点として、革命が果たして労力に値するものかどうかと問う知識人。そうした問い(どのような革命、どのような労力という問い)に答えるためには自らの生を危険に晒すことも辞さないような知識人。このような知識人を、私は切望しています。

★ 「あなたはマルクス主義者ですか」、「もし権力を手に入れたらあなたは何をしますか」、「あなたは何を支持し、どこに帰属しているのですか」、といったような、分類と方針についての問いは、私が示したような問いに比べれば、全く副次的な問いにすぎません。私が示した問いこそが、今日的な問いなのです。




(最初からランダムに)

★ それから、ご存知のとおり、私は、禁止と抑圧的権力について語る憂鬱な歴史家とみなされています。私は、狂気とその監禁、異常とその排除、犯罪とその拘禁というような二項対立によって歴史を語るものであるとされています。しかし、私の問題は常に、そうしたものとは別の項、すなわち真理という項に関するものでした。狂気に対して行使される権力は、精神医学にかかわる真の言説をどのようにして生み出したのか。性現象に関しても同じことです。つまり性に対して行使される権力が関与するものとしての知への意志をとらえ直すこと。私が研究しようとしているのは、禁止事項についての歴史社会学ではなく、真理の生産についての政治史なのです。

★ すでに何年も前に、歴史家の人々は、戦いや王や制度についてばかりでなく、経済についてもその歴史を書くことができるということを発見して得意になっていました。そんな彼らも、感覚や行動や身体についてもその歴史を研究することができるということを彼らのうち最も抜け目ない者たちが示してみせたときは、あっけにとられたものです。西欧の歴史が、真理が生産されその効果を記入するやり方と切り離し得ないものであるということ、このことについても、彼らはそのうち理解することでしょう。
★ 我々は、その大部分が「真理に依拠して」機能するような、そうした社会に生きています。つまり、真理という機能を持ち、そのようなものとみなされることによって特殊な権力を保持することになる、そうした言説を、われわれの社会は生産し流通させている、ということです。真なる言説(それ自体絶えず変化するものとしての真なる言説)の確立という問題は、西欧の根本的な問題のうちの一つを構成しています。「真理」の歴史、真なるものとして受け入れられた言説に固有の権力についての歴史こそ、まさしく研究すべきものなのです。
★ 性現象をしかじかの様式にもとづいて生み出すことで性の貧困という効果を引き起こすポジティブなメカニズムとは、いったいどのようなものなのでしょうか。
いずれにしても、私は、我々の社会において性について語ることを促し、扇動し、強制するような、そうしたメカニズムのすべてについて研究しようと考えています。

★ 後続の巻において、女性や子供や倒錯者についての具体的な研究に取りかかる際に、私は、性の貧困の諸形態と諸条件について分析を試みるつもりでいます。しかし、さしあたって重要なのは、方法を決定することです。果たして性の貧困とは、根本的な禁止事項によって、あるいは「働け、そしてセックスはするな」という経済的状況にかかわる禁制によって、ネガティヴなやり方で説明すべきものなのだろうか。むしろそれは、はるかに複雑でよりポジティヴな手続きの結果なのではあるまいか。問題は、こうした問いに答えることなのです。


★ まさしく、その子供たちに何が起こっているかを見ていただきたい。子供たちの生活は性的なものである、ということが言われます。哺乳瓶の時期から思春期に至るまで、ただ性だけが問題なのだ。読み方を覚えようとする欲望や、漫画への嗜好にしても、その背景には、やはり常に性現象があるのだと。いったい、このようなタイプの言説は、本当に解放へと導くものなのでしょうか。むしろそれは、子供たちを一種の性の孤島に閉じこめるものではないのでしょうか。そして、子供たちにとっては結局、そんなことはどうでもかまわないのだとしたらどうでしょう。性についての法や原則や常識に隷属しないということにこそ、大人でないことの自由があるのだとすれば。もし、事物や人々、身体に対して、多形的な関係がありうるとすれば、まさしくそれこそが、子供というものではないでしょうか。大人たちは、安心のために、この多形性を倒錯と呼び、それを自らの性の退屈な単彩画にしてしまうのです。


★ 子供向けの寓話と同じくらい素朴な語り方をするなら、哲学の問いは長いあいだ、次のようなものであったと言えます。すなわち、「すべてが滅びるこの世界において、移りゆくことのないものとは何であろうか。この移りゆくことのないものに対して、死すべき我々とは、いったい何であろうか。」これに対し、19世紀以来、哲学は、次第に次のような問いに接近しているように思われます。「現在何が起こっているのか。そして、おそらく現在起こっている事柄以外の何物でもなく、それ以上の何物でもない、そうしたものとしての我々は、いったい何であろうか。」哲学の問い、それは、我々自身がそれであるところのこの現在についての問いであり、したがって、今日において哲学の全体は、政治にかかわり、歴史にかかわります。哲学とは、歴史に内在する政治学であり、政治に不可欠な歴史学なのです。

<ミシェル・フーコー『フーコー・コレクション5 性・真理』(ちくま学芸文庫2006)>