Don't Let Me Down

日々の雑感、引用。
言葉とイメージと音から喚起されるもの。

恋愛映画

2010-07-08 13:26:01 | 日記


不破利晴ブログ“クローンPart-2”により、押井守が本を出していることを知った。

考えてみれば当然のことなのに、ぼくは“押井守の本”をノーチェックであり見たこともなかった。
Amazonマーケットに『アニメはいかに夢を見るか “スカイ・クロラ”制作現場から』(岩波書店2008)を注文、昨日届いた(送料をいれて500円程度であった;笑)

まだパラパラ見ただけだが、押井守の発言はやはり面白かった。

ぼくは『スカイ・クロラ』を近年の映画(アニメにかぎらず“すべての”映画)のなかで、突出して愛したにもかかわらず、この映画が“恋愛映画”であることを監督(押井)がこれほど“自覚”(意図)していたことに思いおよばなかったのだ。

まさに、ぼくがこの映画を愛したのは、そこに“恋愛”が描かれていたからだということに、いまさら納得したのだった。

アニメに限らず、ほとんどの映画や小説には“恋愛”がからむ。
だからぼくらは、そのことに慣れてしまった。
つまり“そこで”恋愛が描かれることと、その映画(小説)が“恋愛映画”であることは決定的にちがう。

しかも『スカイ・クロラ』を一種の文明批判映画、反戦映画、好戦映画・・・として見ることも可能だし、何よりもその空中戦シーンのテクノロジーとして享受した人も多かったろう。

もちろん、そういうこともあるだろう、しかし、この映画は“恋愛映画”である(笑)


押井守発言を聞こう;

★ アニメーションというのは本当の恋愛を描いてこなかった。可愛い女の子とハンサムな男が出会って、色々とあったけれど一緒になりました、というのは恋愛ではありません。恋愛とは、出会って深みにはまった所から始まるのであって、どう恋愛の落としどころを表現するのかということですよね。恋愛映画は行く末を描かなければ、恋愛を描いたことになりません。

★ つまり、恋愛というのは反社会的な行為なんだと。それだけはきっちりと描きたいと思ったんです。だからこそ若い人は恋愛に憧れるわけですし、身を滅ぼすのかもしれないですね。

★ 今まで56年間生きてきて、今が一番色っぽくなっている気がするんです。不思議ですね。若い時は大飯食っていただけという気がします。ホルモンは溢れかえるほど溢れていたんですが、それは色気とは関係ない。
色気というものが、自分の中にあることにやっと気が付いた感じです。

★ 恋愛を如何に表現するかというのは今回の重要なテーマで、避けて通れませんでした。全部真正面からやるということで、自分にとって最大限可能な表現をやったつもりです。それがどう見えるかは結果として、これまでアニメーションでやられたことはないでしょうね。
(以上引用)


トリュフォー『隣の女』を“最高の恋愛映画”とする押井監督は、ここでは、謙虚に自分を“アニメ作家”に限定して語っている。<注>

しかし、最初に書いたように、ぼく自身はこの作品を、アニメにも映画にも限定していない。

つまり、この“恋愛”を現在において比較する対象は、村上春樹『1Q84』や東浩紀『クォンタム・ファミリーズ』のような小説でもよいのである。

ぼくの評価は、圧倒的に押井守の表出がすぐれているというものだ。
すなわち『1Q84』や『クォンタム・ファミリーズ』は『スカイ・クロラ』に比べると古色蒼然として、まったく<現在>に届いていない。
(この押井守に“比較されうる”試行を続けているひととぼくが認識するのは青山真治である。また“過去の”作品としての岩井俊二『リリイ・シュシュのすべて』、是枝裕和『DISTANCE』である)


『スカイ・クロラ』の最後に語られることばも、この本により正確に引用できる;

いつも通る道でも、
違うところを踏んで歩くことができる。
いつも通る道だからって、
景色は同じじゃない。
それだけではいけないのか。
それだけのことだから、
いけないのか・・・・・・





<注>

ぼくの映画体験では、トリュフォーを“最高の恋愛映画監督”とするのには異論がない。

しかしぼくにとっては、トリュフォーの最高の恋愛映画は『隣の女』ではない。

『ピアニストを撃て』+『柔かい肌』+『突然炎のごとく(ジュールとジム)』である。

つまり1本を選ぶことはできない。

しかし、押井守が言う、
《相手を殺さないと完結しないという、僕が考える恋愛はそういうものです》
というテーゼは不滅(不変-普遍)である。