Don't Let Me Down

日々の雑感、引用。
言葉とイメージと音から喚起されるもの。

友よ

2014-06-30 20:45:07 | 日記

辺見庸ブログ”私事片々" 2014/06/30

★ さて、クロノロジカルにいえば、明日、歴史が大きく変えられる。もともと「ない」はずのものが、今後「ある」ことにされてしまう。参戦権。そもそも現行憲法がみとめていない権限であり、そして歴代政権も「ない」としてきた参戦権を、一内閣がとつじょ「ある」と強弁して、みとめてしまうというのだから、ただごとではない。これは国家権力によるひとびとへのあからさまな暴力にひとしい。憲法は「宣戦布告」と「講和」の権限を規定していない。戦争に負け、戦争を反省し、ゆえに戦争を放棄したのだから、あたりまえである。だから、憲法第9条は2項において「戦力を保持しない」「交戦権を認めない」とはっきりさだめており、これまでの歴代政府解釈も、名うての右派政権でさえ、この2点を、たとえしぶしぶにせよ、みとめてきた、みとめざるをえなかったのだ。じっさいには着々と軍備を増強してはきていたのだが、憲法上にかすれた母斑のように消えのこる平和主義=不参戦主義は、おそらく荒んだこのクニにおける、たった、たったひとすじの理想のあかしではあった。いま、安倍内閣はこの最期の薄ら陽をも、集団的自衛権行使容認により消し去ろうとしている。わたしはそれを受容しない。交戦権が否定されているのに、参戦して他国の防衛をする、すなわち戦争をするというのは、子どもでもわかる大矛盾である。しかし、ことここにいたり、わたしは言葉のたよりなさと、この状況にたたずむことの羞恥と屈辱と、いうにいえない嫌悪とをかんじている。それは、全景がすでに言葉ごとこなごなに砕かれているというのに、かつ、あてはまる活きた言葉のかけらさえないというのに、まるで一幅のまとまった風景をかたるように、「いま」をかたらなければならないからである。いまは、ただここに在るだけで、じゅうぶんに悲惨である。内奥がズキズキと痛い。わたしとわたしらは、とても貶められている。なにかひどいものに晒されている。外部に融けることもできずに、ただ疲れたまま、むきだされている。こうした心象を、外部への「プロテスト」につなげていくのは、筋ちがいというものだろうか。わたしは数日よくよくかんがえてみた。ひとはひとをたえず殺しつづけてきた。それらの「ひと」は歴史一般の他者ではなく、わたしやあなたをふくむひとだ。わたしやあなたをふくむひとはいまも、ひとを殺しつづけている。沈黙により傍観により無視により習慣により冷淡により諦めにより空虚さにより怠惰により倦怠により、みずからを殺す衝迫をかんじつつ、ひとを殺しつづけている。それはむしろ常態化している。だが、だからといって、今後ともそうであってよいということにはならない。鬆(す)のように疎外されたこのような心象を、外部への「プロテスト」につなげていくのは、筋ちがいというものだろうか。数日かんがえた。わたしはおもう。筋ちがいではない。わたしは内面の鬆をさらけだして、それらとこのクニの参戦という事態をつなげて、安倍政権に永遠に敵対することとする。この病んだ政権が、ファシストの、右翼ポピュリストの、国家主義者の砦だからという図式的な理由からではない。それよりも、この政権の全域をつらぬく人間蔑視、弱者・貧者さげすみ、強者礼賛、あられもない戦争衝動、「知」の否定、財界すりより、ゼノフォビア、夜郎自大、組織的大衆(メディア)操作、天皇制利用……が堪えがたい段階にまできているから、安倍政権をうちたおすべきだとおもった。でなければ、わたしの内面にはさらに多くの鬆がたつからだ。この政権とその同伴者たちには、かつて精神科病院の入院患者らを「優生学的見地」から多数薬殺したナチス政権と似た、なにかとてもいやなにおいがする。安倍政権はそれじしんひとつの災厄である。本ブログの読者たち、友人たちに、わたしは「たたかい」をよびかけない。「連帯」もしない。連帯を呼びかけない。それぞれがそれぞれの<場>とそれぞれの局面で、それぞれの声を発すればいいのだ。もしくは、あくびして、まどろめばよい。もうなにも規範はない。あってもよかった平和的規範を安倍とその一味は毀した。主体はみずから解体された。許されるべきではない。友よ、痙攣のように抗うか、まどろむか、だ。エベレストにのぼった。






いまを凝視する

2014-06-19 00:53:01 | 日記

★ 辺見庸:私事片々 2014/06/17
甘く見てはならない。高をくくってはならない。相手を見くびってはならない。前例はもうなにもあてにならない。これは、この機に自衛隊を「日本国軍隊」として、どうしても直接に戦争参加させたがっている、戦後史上もっとも狂信的で愚昧な国家主義政権およびそのコバンザメのような群小ファシスト諸派と、9条を守り、国軍化と戦争参加をなんとしてもはばみたいひとびととの、とても深刻なたたかいである。それぞれの居場所で、各人が各人の言葉で、各人が各人のそぶりで、意思表示すること。「日常」をねつ造するメディアに流されないこと。ことは集団的自衛権行使の「範囲」の問題ではない。そもそも集団的自衛権じたいに同意しない、うべなうことができないのだ。9条に踏みとどまること。ひとり沈思すること。にらみ返すこと。敵と味方を見誤らないこと。いまを凝視すること。静かにきっぱりと、反対を告げること。「これ以上ないくらい無邪気な装いで、原ファシズムがよみがえる可能性」をいま眼前にしている。それはよみがえったのだ。虚しくても空疎でも徒労でも面倒でも、たたかいつづけること。怒りをずっともちつづけること。安倍政権はうち倒されるためにのみ存在している。エベレストにのぼった。


★ 辺見庸:私事片々 2014/06/19
おい、安倍晋三よ、以下を読め。衆院本会議での答弁。吉田茂首相「戦争放棄に関する本案の規定は、直接には自衛権を否定しておりませぬが、第9条第2項において、一切の軍備と国の交戦権を認めない結果、自衛権の発動としての戦争も、また交戦権も放棄したものであります。従来、近年の戦争は多く自衛権の名において戦われたのであります。満州事変が然り、太平洋戦争また然りであります」「戦争放棄に関する憲法の草案条項におきまして、(質問者は)国家正当防衛権による戦争は正当なりとせらるるようであるが、私はかくの如きことを認むることが有害であると思うのであります(拍手)。近年の戦争は多くは国家防衛権の名において行われたることは顕著なる事実であります。故に正当防衛権を認むることが戦争を誘発するゆえんであると思うのであります。(自衛のための軍隊などという)御意見の如きは有害無益の議論と私は考えます(拍手)」(昭和21年=1946年6月26日。下線は引用者)。安倍、高村、石破よ、よく読め。「正当防衛権を認むることが戦争を誘発するゆえん」。日本の戦後はこうしてはじまり、<新しい戦前>のいまがある。




人間を守る読書

2014-06-15 20:12:12 | 日記

俺はこのブログで本やネット記事などの引用を続けている。

けれども、今朝はワールドカップのイタリア対イングランド戦、日本対コートジボワール戦を見るため早く起きたりもするのである。
(それにしても日本人“集団”は、すぐ同質化できるので、それが長所となることもあるが、欠点が連鎖することもあるわけだ―サッカーの話である)

つまり人間は、いろいろなことをするし、ひとによって“趣味”はちがうのである。

俺には、本の一節から“名言”を取り出してくるような趣味はないが、ひところ、ベンヤミンの《希望なきひとびとのためにのみ、希望はぼくらにあたえられている》(野村修訳)にはまいった(今でも)

昨日、読んでいた本には、“名言”ではないが、“よいことば”があった。
すなわち、ぼくが読んだことがない藤田省三というひと(故人)が、40代なかばで勤め先の大学を辞めて《イロハのイから勉強し直そう》としたというのだ(松浦寿輝『クロニクル』による)

俺は現在70歳を数年で迎える老人であり大学に勤めたこともないが、この言葉=《イロハのイから勉強し直そう》に感動したのである。

“勉強する”ということにも、いろいろな方法があろうが、本を読むこともそのひとつである(本を読むこと以外が、勉強であってもかまわない)

問題は、A:何を読むか、B:どのように読むか、である。
このA、Bについて、模範的な解答はない。
俺も、ずっと考えて(迷って)きた。

数年前に読んだ四方田犬彦『人間を守る読書』の、《人間を守る読書》もよい言葉だ。
四方田犬彦によると、ジョージ・スタイナーの言葉だという(つまりスタイナーはオーストリア系ユダヤ人として、“人間対する暴力”を身近に感じた)

《野蛮な時代には読書が人間を守る側に立たなければいけない。野蛮で暴力的ではない側に人間を置くために必要なんだ》(スタイナー)

これを受けて四方田犬彦は、(人々が互いに不寛容になっている現在日本社会においてこそ書物を読まなければならない)《書物というのは他人が考えていることです》と述べる。

俺は現在テレビによくうつる人々(アベとかいうひとをはじめとする政治家とか、あらゆる才能ある人々=つまりタレント!)というのは、現在、お忙しくて本なぞ読んでおられないだけでなく、その過去においても、ろくな本を読んでこられなかったのではないか?と、おおいに疑う。





チューリッヒの図書館で

2014-06-09 18:54:52 | 日記

★ 1916年から、レーニン夫妻は、チューリッヒに移った。ここの図書館がとくにレーニンの気にいったからであった。
チューリッヒの生活も「どん底」というべきもので、狭くるしい袋小路の靴屋の一室に住んでいた。クルプスカヤの記すところによれば――
「おなじ部屋代で、ずっといい部屋を見つけることはできたのであるが、私たちは主人夫婦を尊重したのである。ここは労働者の家庭で、革命的な気分があり、帝国主義戦争を非難していた。この家はまさにインターナショナルであった。主人夫婦が二部屋に住まい、他の一つにはドイツ人の兵隊、パン屋の妻が子どもたちとともに住み、第二の部屋にはあるイタリア人、第三の部屋にはオーストリアの俳優たち、にんじん色の子猫、そうして第四の部屋がわれわれロシア人であった。ここにはショーヴィニズムのにおいはすこしもなかった。」

★ このような環境のなかで、1916年の秋から17年の初めにかけて、レーニンは理論的な仕事に没頭した。朝は9時までに図書館にいき、12時まですわりどうし、ちょうど12時10分に帰宅して、昼食後はまた図書館に出かけて6時まですわりとおした。家で勉強するのは不便であった。彼らの部屋は明るかったけれども、外庭に面してソーセージ工場が建っており、悪臭がひどくたちこめていたので、夜ふけになってからでないと窓をあけることができなかった。

★ まったく目立たない存在だった。この中立国スイスで、各国の外交官は一、二年前まで交際していた人々も、たがいに敵国人としてそ知らぬ顔をしてすれちがいながら、しかも当然、情報網は縦横に張りめぐらされていたのであるが、この貧相なウラディミール=イリッチ=ウリヤノフに注意を払うものはなかった。著名な社会主義政党の指導者たちについて侮蔑的に語り、その方法を正面から批判するこの狷介とも思われる人物が、無産者たちの小さなカフェーに招く会合には、せいぜい15人か20人の青年が集まる程度だった。

★ この年、彼はヴェルダン要塞の攻防戦を聞きながら、有名な『帝国主義論』を脱稿した。彼は戦争の進展につれて、反戦運動が強まり、革命の機運の進むことを疑わなかった。しかし、それがいつになるかは予知できなかった。1917年1月22日、チューリッヒの人民ホールで、1905年のロシアにおける「血の日曜日」の12周年を記念して一場の講演がおこなわれたが、47歳のこの亡命革命家は、きたるべき革命がプロレタリア革命、すなわち社会主義革命であることをくりかえし強調しつつも、講演を次のように結んだ――
「われわれ老人は、もしかすると、この革命の決定的戦闘まで生きのびられないかもしれません。」

<江口朴郎責任編集『第一次大戦後の世界』(中公文庫・世界の歴史14―1975)>




天使と前方が見えない世界

2014-06-01 12:52:44 | 日記

★ 先日、ヴィム・ヴェンダースの映画『ベルリン天使の詩』をみて、『内省と遡行』以来の自分の仕事のことをぼんやりと考えた。これは、天使が人間の女に恋して人間になるという話である。物語としては、古いパターンであるが、ただこの天使たちは、ベルリンという都市の人々を見守ってきて、しかもベルリンがナチズムとスターリニズムのもとで荒廃するにいたるまで、無力でしかなかった天使たちなのである。つまり、天使として描かれているけれども、彼らは、ある種の人間のことだといってよい。それは、実践家ではなく、認識者であり、しかも、どんな人間的実践にも物語にも幻滅したがゆえに二度とそれに加担することがなく、ただ実践がなにも生み出さないことを確認するためだけに生きているというようなタイプの認識者である。

★ 天使たちには、地上の人々がどこにいようが見えるし、彼らの内心の声がすべて聞こえる。しかし、天使たちは、何も「経験」しないし、「知覚」しない。彼らが把握するのは、いわば「形式」だけなのだ。彼らは、人間の歴史をずっと見てきているが、一度も生きたことがない。さらに、彼らにとって、歴史は、たんに形式の変容でしかなく、なにごともそこでは起こらない。つまり、歴史は存在しないのである。映画では、彼らの世界はモノクロームで描かれており、主人公の天使ダミエルが人間になったとたんにカラーに転じる。彼は、自分の流した血をみて、はじめて色彩を経験するのだ。むろん、色彩はひとつの例でしかない。それは、いわば「形式」の外部を経験するということである。

★ 天使ダミエルは、人間になろうとする。それは、天使たることの放棄であり、有限で一回的な世界に生きることである。人間になるとは、彼にとって、他者(女)を愛することである。そのとたんに、彼は前方が見えない世界のなかで生きはじめる。それは「暗闇のなかでの跳躍」である。天使たることとは、何たる隔たりであろう。にもかかわらず、天使たちは、人間になることを欲する。それは、「外部」を欲するということである。

★ 「形式的」であることは、べつに特権的な事柄ではない。それはハイテク時代において、われわれのほとんど日常的といってよいような生の条件である。われわれは、そこでありとあらゆるものを「知覚」したり「経験」した気になっているだけで、実は天使と同じくモノクロームの世界、すなわち自己同一性の世界に閉じこめられているのである。私たちは、ブラウン管を通して血まみれの死体を見慣れているが、実際に血の色を見たことがないのだ。

<柄谷行人『内省と遡行』(講談社学術文庫1988)―“学術文庫版へのあとがき”>