Don't Let Me Down

日々の雑感、引用。
言葉とイメージと音から喚起されるもの。

タイフーン

2010-10-30 12:59:39 | 日記


タイフーンの吹いている朝
近所の店へ行つて
あの黄色い外国製の鉛筆を買った
扇のように軽い鉛筆だ
あのやわらかい木

けずつた木屑を燃やすと
バラモンのにおいがする
門をとじて思うのだ
明朝はもう秋だ

― 西脇順三郎“秋Ⅱ”



もうながい間、鉛筆を削ったことがない。
鉛筆で字や絵を書いたこともない。

ぼくの字は、このクソ“キーボード”でたたき出される。


“外国製の黄色い鉛筆”なのである。
それは、軽く、けずった木屑は“バラモンのにおい”がする。

《バラモンのにおい》とは、いかなる匂いか?(笑)

《門をとじて思う》なら、このひとには、閉じる門があったわけである。
ぼくは、マンションのオートロックを解除する。

しかし、<秋>はやってきた、らしい。

たぶん、冬もくるし、季節は、また、めぐる。

しかし<時間>が、どうして客観的に“アル”と言えるだろうか?

日が昇り、日が沈む。
しかし、“日=太陽”は、不動である。

そういうことになっている(これまた、“客観的”である、神のように;笑)

しかし、あなたの“時間”と、ぼくの“時間”は、平等かつ普遍的には、流れていない。






<そくざに、追記>

引用するため現代詩文庫『西脇順三郎詩集』を本箱から取り出したら、『オーデン詩集』が落っこちた。

その表紙にこうある;

《詩人の夢は、自分の詩が
どこかの谷間で作られたチーズのように
土地特有のもので、しかもほかの土地で
賞味されること。》


《どこかの谷間で作られたチーズのように》というのは、比喩である。

しかし、ぼくん家(ち)は、ときどきピザの出前を取るのだが、その<チーズ>はさっぱり、“その土地の臭い”がしない。

ほんとのチーズ(すごくいろんな種類があるらしい)は、すごく臭う。
かなりワイセツな臭いもするではないか。

強烈なチーズは、“日本人には”なかなか賞味しがたい(のではないか?)

もちろんぼくも“そう”だが、もっとチーズらしいチーズのピザが食べたい。





世界そのものの経験

2010-10-30 12:15:20 | 日記


★ 世界はたんに、いわば知的な意味によって充たされているのではない。世界とその内部の対象は、そのつど情動的な意味、行動を喚びおこす意義とともに与えられている。対象のその相貌、表情こそが、意味の母胎であり、世界の風景が一変することの条件なのである。

★ 世界の風景は、ときに劇的に変容する。個々の印象が積みかさなり、ばらばらな感覚が連合されて、変化するのではない。静的な風景が反転して、隠されたその裏側が露呈するわけではない。散文としての世界が書き換えられるのではない。世界はそれ自体、あらかじめ動的で、詩的な構造をともなっている。(略)世界の光景は、はじめから、「陽気な」あるいは「もの悲しい」、「快活な」もしくは「陰鬱な」、あるいはまた「優雅な」、ときに「粗野な」相貌をもっているからである。それは比喩にすぎないというのなら、世界はいつでも比喩的なかたちで与えられているといってもよい。比喩としての世界のポエジーが、世界を語ることばがときに詩となることの条件となっている。

★ たとえば青空の晴朗さは、感情の状態である以前に、すでに秋空の性質である。それはまず、「外的」で、空間的なひろがりをともなった経験にほかならない。(略)およそ外的とされる経験に固有で、内的なそれには帰属しないような性質は、なにひとつとしてありえない。断崖ばかりではなく、人柄もまた峻厳でありえ、岩石だけでなく、意志もまた強固でありうる。山稜だけがなだらかに優美であるばかりでなく、メロディーもひとの立ち居ふるまいも優雅でありうる。そうしたいっさいが比喩であるというのなら、世界と世界をめぐる経験、世界を語ることばが、そもそも根本的に隠喩的なしかたでなりたっている。世界の風景は、たんに対象的な意味をもつばかりでなく、つねに情動的な意義をはらんでいる。世界はいつでも、たんなる外的な世界、物的な世界以上のものとして与えられている。世界は、そのつど詩的な比喩としてもあらわれているのである。詩は、世界そのものの経験のかたちに根ざしているといってもよい。

★ 世界がつねに表情をもち、相貌をともなう動的なかたちで与えられているのは、他方で、世界がそのつど身体に対して開かれているからである。身体にとって世界が開かれていることに注目することで、世界がただの散文的な経験に対して与えられているばかりでなく、同時に詩的な経験の次元をふくんでいることがあきらかになるはずである。

★ そうであるにしても、どうして身体なのだろうか。どのような身体の次元がとらえかえされなければならないのか。現象への還帰とひとつのことであるような、身体への回帰とは、どのようなことがらなのか。なお考えておく必要がある。

★ 問題はとりあえず二重である。まず回帰されるべき身体とはどのようなものであるのかが、論点となる。第2に、身体へと還帰することであらためて見さだめられるべき、感覚や知覚の次元が存在するはずである。知覚を問うことは身体を問題とすることであり、あらためて身体を問いかえすことが知覚を問いなおすことであるかぎり、両者は、おなじひとつの問題の両面であるということもできる。

<熊野純彦『メルロ=ポンティ 哲学者は詩人でありうるか?』(NHK出版2005)>





“ノルウェイの森”はどこ?

2010-10-30 08:50:16 | 日記


恒例の“内田樹ブログ”に対する感想である(笑)

すなわち内田教授は、“ノルウェイの森”という映画をご覧になった感想を、<映画「ノルウェイの森」を見ました>というブログに書いている。

ぼくはこの映画を見ていないし、見たいとも思わない、が、原作は読んでいる。

まず内田氏は、原作のある映画(映画化)について、《「忠実度においてすぐれた点」と「裏切り度においてすぐれた点」の両方についてレポートしたいと思います。》とおっしゃる。
しかも、《僕はあらゆる映画評において「できるだけいいところを探してほめる」ことを心がけている》ともおっしゃっている。


ぼくには、《あらゆる映画評において「できるだけいいところを探してほめる」ことを心がけている》などという態度が、どうして良いことなのかぜんぜん、わからない。

映画は、自分の子供ではないのである。


でも、まあこの映画の内田氏の《「忠実度においてすぐれた点」と「裏切り度においてすぐれた点」の両方についてレポート》を読んでみた。


たとえば、こういうことが書いてある;

☆ もう少し続けますね。「忠実度においてすぐれている点」は1968年の早稲田大学のキャンパスの再現。
このヘルメットかぶった学生たちのシュプレヒコールとヘルメットの色分けはまことに現実に忠実でした(社青同がたくさんいて、MLが一人だけしかいないとか、ね。中核と革マルの白メットが出てこないのは「時代考証」した方の個人的な趣味でしょうけど)。
あと、もうひとつだけ。
ワタナベくんが直子と一緒に暮らそうと思って借りたのは原作では国分寺の縁側のある日当たりのよい一軒家でした。そこでワタナベくんは、ぼおっとネコと遊んでいるんです。映画ではなんだか日当たりの悪い、潤いのないアパートで、これは「癒しのための場所」じゃないでしょう・・・と僕は思いました。(引用)


内田氏はここで、《1968年の早稲田大学キャンパスの再現》と書いているが、内田氏は早稲田大学学生ではなかったはずだ(もっと頭が良くダサイ国立大学出身である;笑)

1968年に早稲田大学キャンパスにいたのは、なにを隠そう(笑)、ぼくの方である。
内田氏はヘルメットをかぶって、早稲田大学キャンパスを“訪問”していたのだろうか!(爆)

次に《国分寺の縁側のある日当たりのよい一軒家》であるが、ぼくは現在国分寺から3駅の所に住んでおり、昨日も用事があって、国分寺労政会館に寄って帰った。

早稲田とか、国分寺とかは、ぼくの生きていた、生きている<場所>である、神戸で“関西弁”に囲まれている教授が、何を言うのか(笑)

もちろんこの“原作”を書いた、村上春樹は、ぼくの出身学部の後輩である。

“だから”ぼくは嫌なのである。

ぼくは早稲田も、国分寺も、春樹の小説に描かれたいろんな<場所>が、現在、嫌である。

もちろん<場所>というのは、ただ物理的に存在しているのではない。
なによりも、<そこ>には、“そこにいたひと”の記憶もしくは記憶喪失がともなっているから。


村上春樹『ノルウェイの森』を読んだ当時、ぼくは春樹に“好意的”だった。
にもかかわらず、この『ノルウェイの森』は嫌いだった。

この長編の元である短編『蛍』を、この長編はだいなしにした。

“そうしたら”、大ベストセラーである。
ここにも、趣味の悪い人がいかに多いかが、証明されている(笑)

だいいち、現在、ぼくは『ノルウェイの森』を、ほとんど覚えていない。
“緑”というキャラが嫌いだったこと以外は(笑)


さて、この内田教授ブログの“きわめつけ”は、最後の部分である;

☆ でも、最後にジョン・レノンのあのしゃがれた声で『Norwegian wood』が流れると、そういう細かな瑕疵は全部どうでもよくなっちゃいました。そうだよな、『ノルウェイの森』って、「そういう時代」の空気をくっきり切り取った物語だったんだから、そのときの音が聴こえて、そのときの空気の波動がふっと伝われば、それでOKなんだよね。
あと最後の最後に一つだけ。
ワタナベくんと緑ちゃんは新宿のDUGで会うんですけど、僕も実は1968年から70年ごろによくDUGでジャズを聴いて、お酒を飲んでいました。とてもシックでトンガッた店だったので、あの店をセットで再現して欲しかったですね。僕らが予備校生や大学生だった頃、女の子を連れてお酒を飲むというと、とりあえずDUGだったんです。村上春樹さんがやっていたジャズバー「ピーターキャット」の原型もたぶんDUGだったんじゃないかな。(引用)


神戸の内田教授はご存じないかもしれないが、DUGはいまでも新宿にあり、ぼくは先週も行って“クラマトジュース”(トマトジュースだよ)を飲んだ(笑)

現在DUGはぜんぜん“シックでトンガッた店”ではありません、叔父さん叔母さんや、イケてない“若者”がちらほらいるだけよ(爆)

1968年なら、DUGより消えてなくなったDIGがなつかしい。
あの2階の狭い店。
(しかしぼくはDUGで山下洋輔を聴いたのではないか)


ジョン・レノン。

ぼくのこのブログは、ジョンに“ちなんで”います。

だから、

《でも、最後にジョン・レノンのあのしゃがれた声で『Norwegian wood』が流れると、そういう細かな瑕疵は全部どうでもよくなっちゃいました》

などという感想は、許しがたい。

ジョン・レノンの声は、《あのしゃがれた声》などと形容して済ませられる<声>であろうか。

たぶん内田樹には、ジョンの声が、聴こえたためしは、ない。


《そうだよな、『ノルウェイの森』って、「そういう時代」の空気をくっきり切り取った物語だったんだから、そのときの音が聴こえて、そのときの空気の波動がふっと伝われば、それでOKなんだよね。》

などと回顧する、<ボケ老人>の感性と思想は、ぼくには何のかかわりもない。

こういう“文章”が、ぼくの“時代と場所とひと”を、マンガにしていく。

ただの、べったりとした回顧に。

切実なものは、ない。



『ノルウェイの森』は、いらない。

ジョンの声、だけで、よい。





昨日のぼくのブログに対するコメントへの応答

2010-10-29 09:27:55 | 日記


昨日このブログに書いた“いじめるひとと、いじめられるひと”について、ふたつのコメントをいただいた。

ぼくはこのブログを書いたとき、自殺した上村明子さんの母親が“フィリッピン出身”であることを知らなかった。

いただいた二つのコメントは、いずれもこのことを指摘するものだった。

しかし昨夜見たコメントは、桐生市の“第26回新里まつり図案ポスター審査結果”をリンクして(この名簿の佳作に上村明子の名がある)、上位入選者を名指しで非難するものだったので、削除した。

今日になって、各紙はいっせいに社説やコラムで、この“事件”をとりあげ、たしかに上村明子さんの母が、“南国出身”(天声人語)であることを報道している。

ぼくの昨日のブログの趣旨は、“付和雷同”と“孤独”であった。

ぼくは、漠然とした認識で、このブログを書いたのだ。

死んだ少女の母が、“南国出身”であることは、ぼくの認識を変更するか?

ある意味では、イエスであり、ある意味ではノーだ。

ぼくは昨日のブログを書いたとき(この“話題”を取り上げたとき)、“無意識に”予感していた。

ぼくが昨日、次に書いたブログが、<外国とはどこか?>であったのは、たんなる偶然であろうか。

これから仕事に行くので、展開できない。

考えることは、ある。





<参考>

また父親は、母親がフィリピン出身者であることもいじめの一因だと思うと語っている。母親が授業参観すると、悪口を言われ、以後いじめられるようになったという。
(毎日新聞社説10/29)


▼最期に巻いたマフラーは、南国出身のお母さんに贈るはずだった。その人が発見者となる。ここ数日の寒波にはどのみち間に合わなくても、小さな胸を吹き抜けた木枯らしへの策はなかったか。すべての教師は彼女に代わり、いじめ追放の手引書を編み上げてほしい。(天声人語)


 「やっぱり『友達』っていいな!」。今月23日、群馬県桐生市の自宅で自殺した小学6年の上村明子さん(12)が直前まで描いていた漫画の題名だ。遺品から見つかったノートのなかで、転校してきたばかりの小学5年の主人公、「関口桜」があいさつすると、クラスメートはみんな笑顔で見守っている。
 ▼しかし父親によれば、現実の学校生活は似ても似つかぬ過酷なものだった。転入してから1年後の5年生の時、フィリピン出身の母親の悪口を言われるなど、いじめが始まった。6年生のクラスでは、給食を独りぼっちで食べていたという。
 ▼米国の小学校に通う女の子、ワンダが描いた100枚のドレスの絵にも、願いが込められている。貧しいポーランド移民の彼女はある日、ドレスを何枚持っているのか聞かれて、「100枚」と答える。それ以来、毎日からかわれた。
 ▼ワンダがいなくなってから、実は、ドレスを着たクラスメートを描いていたとわかる。エレナー・エスティス作の『百まいのドレス』(岩波書店)を昭和29年に翻訳した石井桃子は、50年後に改訳している。
 ▼友達を求めていたワンダの気持ちを、どれほど踏みにじってきたのか、クラスメートも担任教諭もまったく気づいていない、あるいはそのふりをしている。いじめの本質が、昔から変わっていないことがわかる。明子さんの通っていた学校も、「いじめの認識はない」と両親の訴えを否定した。
▼ ただワンダは、転校で救われた。石井はあとがきで、ワンダが絵の才能に目覚め、「生きる芽を見いだしたのでは」と想像する。パティシエになるのが将来の夢だった明子さんは、漫画の続きを描く機会さえなかったというのに。
(産経抄)





鏡;自画像

2010-10-28 17:44:42 | 日記


★ こうした「見る」ことと「見られる」ことの表裏性を見事に表現しているのが、まさしく画家たちの描く「自画像」というものであるだろう。

★ 自画像とは、描いている者がそのまま描かれる者になり、見るものが見られるものになるという不思議な転換装置である。この転換が当の描く者にどのような変化をもたらし、それが再び、描かれたものをどう変えていくのか。画家はこの循環にこそ幻惑されるのだとメルロ=ポンティは考えた。キャンヴァスに向かって絵筆を走らせる画家は、軽やかな自由の主体である。だが、そこに描き出される自分自身は、例えば、年老いて生気を失った、みすぼらしい肉塊に過ぎない。主体は突如として客体に転じ、精神は物質に変わる。内部から感じられていた自己は、外部から見られた自己となり、親密な私は疎外された私へと転落する。この外部から見られた自己は、また、他人から見られた私でもあるだろう。

★ とはいえ、私から見られた私と、他人から見られた私とは、同じなのか違うのか。あるいは、疎外された私と他人とはどこが異なっているのだろうか。いや、それよりもまず、他人から見られた私などというものが、一体どのようにして私には分かるのか。他人が見ることと私が見ることの等価性は、どこで保証されているのか。そもそも他人は、私がこの目に映るがままに描こうとしている諸物体と、はたしてどこが違っているのだろうか・・・と、最初の転換を描こうとするだけでも、彼の思いは千々に乱れゆく。

★ この種の迷宮は、ミシェル・フーコーの指摘を待つまでもなく、あのベラスケスの大作『ラス・メニーナス』の内に集大成されている。ベラスケスはまず、絵の中央にマルガリータ王女を配す。(略)さらに彼女を、侍女や道化が取り囲む。だが、その傍らに、彼はふと、絵筆を走らせる自分自身の姿を描き込んでもいるのである。製作中の画布は背面しか見えていない。描かれたベラスケスはそこに何を描こうとしているのか。奇妙なことに画家の目は、こちらを見ている。え、では、彼は、今この絵を鑑賞している私を書こうとでもいうのだろうか。まさか、そんなことがあろうはずはない。だとすれば、この画布に描かれた画家は、今私のいる場所で描いていた自分自身を、描く画家として、描き返そうとしているのだろうか。おもしろい着想ではある。が、しかし、正統な絵解きからすれば、彼が凝視めているのは、スペイン国王フェリペ4世と王妃のマリーナ。それが証拠に、この二人の肖像は、画面中央の鏡の中に映し出されているのである。

★ 見るものと見られるものとの相互転換、見えるものと見えないものの相互転換、私と他者との相互転換、そして転換そのものを可能にする相互の表裏性、これら全ては自画像のヴァリアントであるとともに、畢竟、『ラス・メニーナス』の中心に鎮座する鏡の作用に象徴されるものとなるだろう。そう、反射=反転=反省(レフレクシオン)の不思議、実はそれこそが、この絵画の主題となっていたのである。

★ 鏡は、かつて「幼児の対人関係」においては、幼児が癒合的社会性を乗り越え、自己の視像に「同一視」を行いながら、「自我」から「超自我」へと移行する契機として捉えられていた。それが、ここ『眼と精神』では、さらに「見る自己」と「見られる自己」との表裏性、一般的な主客の表裏性、自他の表裏性を象徴するものとなっている。

★ 結局、「幼児の対人関係」と『眼と精神』とは、「発達心理学」と「絵画論」という対象も観点も論述の位相もまるで異なるものを扱っているように見えながら、その実、思いがけずも近くにあって、やがて二つながらに『見えるものと見えないもの』における新たな存在論の展開契機となっていくのである。

<加賀野井秀一『メルロ=ポンティ 触発する思想』>




写真

2010-10-28 15:52:15 | 日記



《芸術家こそ真実を告げているのであって、嘘をついているのは写真の方なのです。というのは、現実においては時間が止まることはないからです。》


― ロダンの言葉(メルロ=ポンティ“眼と精神”から引用)






“外国”とはどこか?

2010-10-28 11:50:00 | 日記


“プロ”として、文章を書くことを長いキャリアとしてきた人々がいる。
“そうでないひと”も手軽に文章を“発表”できるようになった。

それは、一般に、“良いこと”なのである。

そういう“素人”のなかにも、かれらの生涯でいろいろ“熟考”してきた人たちもいるだろうし、ただただ他人の意見(大多数の意見!)を自分の思いつきであるかのように、書いてしまうひともいるだろう。
ただただ、刹那の感情を“つぶやく”人々もいるだろう。

多くの“プロ”の言説は惰性化して、何を書けば売れる(うける)かがわかってしまった言説となるだろう。

たとえば“旅の印象”を語る。

“旅のプロ”がいて、世界中を駆け巡り、“手馴れた紹介や印象”を語る。
“現地の味覚”を大仰に語る。

一方にぼくのように、生涯に数回、短期間ある“外国の都市”に滞在しただけのひとの“印象”がある。

それは、ぼくにとっては、貴重な体験であっても、その印象にどんな“普遍性”があるかは、ほとんど成り立たない。

“旅のプロ”は、旅行ライターだけではない。
自分の“職業”にからみ、世界中の都市を駆け巡るひとも多い。
そういう人々にとっては、その“場所”も自分の職場の延長にすぎない。

そういう人々は、“感動”している暇はない。

生涯に(たまたま)数都市を歩いただけのぼくにとって、その<体験>は感動的だっただろうか?

リスボン、マドリッド、グラナダ、バルセロナ、ダブリン、ミラノ、ストレイザ、ベルガモ、グラスゴー、エディンバラ。

このリストは、貧しい。

旅の思い出は、空である、木々である、道である。
そして、ひと。

けっして、ぼくはかれらと係わったわけではない。


先日、仕事場の歌舞伎町で、“外国人観光客”を見た。

その人ごみのなかで(もちろんその“日本人”のなかで)ぼくは、故郷のひとに巡り合ったように、なんとなく安心したのだ。

“外国”とはどこか?
“外人”とはだれか?

しかしもちろん<かれら>の中で暮らしたら、そこが<外国>となるだろう。





いじめるひとと、いじめられるひと

2010-10-28 11:11:21 | 日記


今日の読売編集手帳;

芥川龍之介の歌がある。〈幾山河さすらふよりもかなしきは都大路をひとり行くこと〉。にぎやかで華やいだ空間に身を置くとき、大のおとなでも孤独は骨身に染みとおる◆食器の触れ合う音と、笑い声と、おしゃべりと、好きな子同士が机を寄せ合って食べる給食の時間は毎日、ピクニックのような楽しい音に満ちていただろう。ひとりぼっちのその子には拷問の時間だったかも知れない◆自殺した群馬県桐生市の小学6年、上村明子さん(12)の父親によれば、以前にも同級生から「近寄るな」「汚い」などと言われたことがあり、両親が学校側に10回以上も、いじめについて相談していた◆事件後の保護者会でいじめの有無を問われた校長は「プライバシーの問題」だとして答えなかったという。「保身の問題」と聞こえる。死んだあとまで、明子さんを泣かすのはやめよう◆遺品を整理していた家族は、明子さんがノート3ページに描いた漫画を見つけた。「関口桜」という名の女の子が新しい学校に転入してきた設定である。表題は〈やっぱり『友達』っていいな!〉。架空の少女に見果てぬ夢を託したのだろう。(引用)



ぼくもこのニュースを見て、気にかかった。
“いじめ”は、ぜんぜんめずらしくない、もういじめは日常化したので、ニュースにはならないのかと、思っていた。

上記引用のような“言説”を読むだけで、いろんなことが言えるだろう。

まず“仲間はずれ(にされる)”ことと、“孤独”はちがう。
もし孤独であるなら、《都大路をひとり行く》ときも、自分の部屋にひとりいるときも孤独である。

友達といっしょに給食を食べているときも、孤独である。

しかし上記引用についてぼくが言いたいことは、次のことである。

この読売編集手帳を書いているひとは、いじめる側にいるひとなのか、いじめられる側にいるひとなのか?

いっぱんにひとは、いじめる側にいることも、いじめられる側にいることもあるのである。

そのどちらの側にいるかを、選択でき、“意図的”であることもあるだろうが、ただ付和雷同していることの方が多いのではないか。

すなわち<多数>に付和雷同していれば、仲間はずれにならない(笑)
どうも“これ”が、日本社会の基本構造のような気がする。

たぶんこれがダメなのである。

《やっぱり『友達』っていいな!》という漫画を描いて、自殺した少女には、胸が痛む。
たしかに、そういう素朴な感情は、ぼくにもある。

しかし、この少女には、生きてほしかった。

《大のおとなでも孤独は骨身に染みとおる》

しかし誰が、<孤独>を知っているのか?

この<社会>で、友達を得ることが、どんなにむずかしいことなのかを知って、なお、生きてほしかった。





眼と精神

2010-10-28 01:08:40 | 日記


★ ・・・・・・悟性は、ラミエル(注)みたいに言うであろう。なんだ、たったこれっぽちのことなのか、理性の究極とは、われわれの足もとで大地がこのように滑り落ちることを確かめ、持続的な昏迷の状態を大袈裟にも疑問などと名づけ、どうどう巡りを探求と呼び、けっして完全に<ある>わけではないものを存在と名づけることにすぎないのか、と。

★ しかし、この失望は、ほかならぬ<おのれの空しさ>の埋め合わせとなるような充実要求の<誤れる想像>が、裏切られたというにすぎない。それはおのれがいっさいでないことを口惜しがっているのであり、それほど根拠があるとも思えない悔恨なのである。

★ けだし、われわれが絵画においてもまた他の場面でも、文明の段階を決定したり進歩を論じたりできないのは、何らかの運命がわれわれを後に引き留めているからではなく、むしろ、或る意味では絵画の最初のものが未来の果てまで歩みつくしてしまったからなのである。

★ たとえいかなる絵画も<絵画そのもの>を完成せず、いかなる作品も絶対的な意味で仕上げられるということはないとしても、それぞれの創作は他のあらゆる作品を変え、変質させ、明らかにし、深め、確かなものにし、高め、創り直し、前もって創り出すことになるのである。

★ たとえ創作が所有にはならないとしても、それは単にあらゆる事物と同様、それらが過ぎ去ってしまうからというだけではなく、これらの創作がそのほとんど全生涯をおのれの前方に有しているからでもあるのだ。(1960年7-8月 ル・トロネにて)


* 注(木田元による訳注)“ラミエル”:スタンダールの絶筆となった未完の小説『ラミエル』の女主人公。(略)16歳のとき、彼女は激しい好奇心から、森のなかで村の青年に身体を与えるが、男が去った後、「血を拭き」ながら、「なあんだ、たったこれっぽちのことなのか」と呟くのである。

<メルロ=ポンティ“眼と精神”(みすず書房メルロ=ポンティ・コレクション4:2002)>



* “眼と精神”は、メルロ=ポンティ生前に公刊された最後の論文。
最初「アール・ド・フランス」誌第1号(1961)に掲載、没後、サルトルらが主宰する「現代(レ・タン・モデルヌ)」誌の“メルロ=ポンティ追悼号”に転載された。





迷宮~アリアドネの糸

2010-10-27 17:56:42 | 日記


★ 7月28日 月曜
§ すでに薔薇色になった陽光がぼくの部屋を染め、ぼくの机を照らしている。まるであの夕方そっくりだ、はじめてぼくが、前日アン・ベイリーの店で買い求め、まだ包装したままの500枚の紙をまえにすわり、まるで封印のようにはりつけられた帯封を破ったあの夕方、ぼくはそれら白紙の第一ページを手に取り、しまの透かし模様を透かしてながめてから、机の上の陽の当たる所に平らに置くと、その白いページはぼくの目のなかで燃えはじめたのだった。

§ 夕日の光があの真っ白な第1ページをぼくの目のなかで燃え上がらせていたとき、インクがたっぷりはいっているかどうか確かめるため、万年筆の小レヴァーを動かすと、紙の左上の隅に大きなインクの滴を落としてしまった。そうして、ページが赤々と燃え上がるなかを、ぼくは右上の隅に「1」と番号を書き、そのさきに繰りひろげられる文章の混乱から守るために、その数字に囲みをつけた。

§ いまぼくの目の前に5月1日木曜日の日付のはいった第1ページがある、そのページはすべて三ヵ月まえ、終わりゆく一日の光のなかで書いたもので、その日以後ぼくの眼前でゆっくりと積み上げられていった紙片の堆積、――いままたすこし経てば、ぼくが言葉をつらねているこのページが積み重ねられて、その堆積は高さを増すだろう――その堆積のいちばん下に置かれてあったのだ。ぼくは冒頭に記した文を読む、「明かりの数がふえた」。あのとき目を閉じると、目のなかで暗い赤色の背景に上に緑の炎となって刻み込まれて文字の一つ一つが燃え始めたのだった、そして瞼を開いたぼくが見いだしたのは、ページの上に残ったその文の燃えがら、いまぼくが見いだしているのと同じ燃えがらなのだった。

§ 多くの文章が一本の綱となってこの堆積のなかにとぐろを巻き、5月1日のあの瞬間へとぼくをまっすぐに結びつけている、5月1日のあの瞬間、ぼくはこの綱を綯い(ない)はじめたのだ、この文章の綱はアリアドネの糸にあたる、なぜならぼくはいま迷宮のなかにいるのだから、迷宮のなかで道を見いだすためにぼくは書いているのだから。(・・・)ブレストンというこの迷宮は、ぼくが歩きまわるにつれてぼくの日々の数が増し迷宮自体も大きくなるものである以上、ぼくが探検するにつれて迷宮自体がかたちを変えてゆくものである以上、あのクレタ島の宮殿とはくらべものにならぬほどひとを迷わせる。


★ 7月30日 水曜
§ いったいなんの役に立とう、ことを明らかに見きわめる目的で、結局ただぼくをさらに道に迷わせるだけだったこの膨大な、ばかげた努力をいまさらつづけてみたところで、なんの役に立とう。このむなしい、危険な、発掘と標識立ての仕事を続けてみたところで、ぷっつりと切れた糸を結び合わせようと試みたところで、なんの役に立とう。12月末を思い出し、あの孤独と霧の短い日々のなか、あのいつ終わるともしれぬ夜々のなかにもぐり込んでみたところで、何の役に立とう。ローズと連れだって歩いたあの夜を想ってぼくの火傷をかきたててみたところで、なんの役に立とう。・・・・・・


★ 8月4日 月曜
§ ぼくはまたはじめる。習慣をとりもどす。脱出口はこれしかない。

§ ふたたびぼくはブレストンでひとりきりだ、ぼくの種族についてもぼくの国語についてもひとりきりだ。


<ビュトール『時間割』(河出文庫2006)>






メディアの病は深い

2010-10-26 21:23:54 | 日記


内田樹教授が<メディアの病>というブログを書いている、最後の部分を引用しよう;

《高等教育の不調の原因が専一的に大学側にあること、これは動かしがたい事実である。
けれども、「就活の開始時期が早過ぎる」というのは、企業人が大学人に向かって他責的な口ぶりで言える台詞ではない。
おそらく、つねに他責的な口調でシステムの非をならしているうちに、「自分自身が有責者として加担している問題」が存在する可能性を失念してしまったのであろう。
メディアの病は深い。》(引用)


すなわち内田教授は、“大学人”としての立場から、メディアを批判している。

内田氏が言っていることをわかりやすく言い換えるなら、

“メディア”は、他人ばかり批判しているうちに、自分自身に対する批判を忘れ果てたということになる。

すなわち、自分が批判している他人が、自分と同じ人であった、ということである。

たしかにこういうことは、よくあることなので、“お互い”、気をつけよう!

いうまでもないが、内田氏が批判しているメディアに癒着・加担している“大学人”というのも、いやになるほどいらっしゃるわけである。

内田樹教授自身は、ドーなんであろうか?(疑問文;笑)





“言葉が軽い”のはだれか?

2010-10-26 07:39:24 | 日記


読売新聞が鳩山前首相の“言葉が軽い”と皮肉を言っている。

こういうことを、“言うまでもない”と言う。

言葉が軽いのは、誰か?

読売新聞である。

ことばが、実用品でしかないひと、ことばがアクセサリーでしかないひとにとって、言葉は、軽いのである。

この今日の読売編集手帳において、”読むべき“なのは、最初にあるジョン・ル・カレの<言葉>のみである。

鳩山前首相と読売新聞の、どっちがくだらないかを論じても、言葉は死んでゆくばかりである。

ぼくはジョン・ル・カレというイギリス人の言葉は、聞くべきだと思っている。



☆ 今日読売編集手帳引用(全文)

登場人物が言う。〈わたしは、敵はこわくない。いちばんこわいのは味方だ〉。ジョン・ル・カレのスパイ小説『スマイリーと仲間たち』(早川書房)の一節にある◆組織がこうむる失点は敵のシュートによってではなく、味方のオウンゴールによる場合が少なくない。古今東西、あらゆる組織に通用する至言だろう。余計な推測ながら、菅政権の面々はいま、渋い顔で同じ言葉を内心つぶやいているかも知れない◆鳩山由紀夫前首相が首相を辞任する際に語った「次の衆院選には出馬しない」との発言を翻し、議員をつづける方向という◆野党時代の「秘書が犯した罪は政治家が罰を受けるべきだ」。首相として普天間問題で米大統領に語った「トラスト・ミー」(私を信じて)。持病のごとき言葉の軽さには慣れたつもりでも、民主党とは言葉をかくもぞんざいに扱う政党なのか――と、世間はほとほとあきれよう。首相以下、閣僚の国会答弁を誰も真剣には聞いてくれまい。“怖い味方”がいたものである◆オウンゴールで敵(野党)に塩を送るつもりならば、その人の「友愛」精神なるものは筋金入りだろう。





<参考:ジョン・ル・カレ“スマイリー3部作”>

* ティンカー、テイラー、ソルジャー、スパイ
* スクールボーイ閣下
* スマイリーと仲間たち
(いずれもハヤカワ文庫NV)

“スマイリー・シリーズ”によって学べるのは、“敵と味方の区別”だけではない。

官僚について、権力構造について、権力闘争について、暴力について、かけひきについて、自分の手を汚さないものについて、抜け目なく生き抜くものと、そうでないものについて。

それだけではない、孤独について、夫婦について、“友愛”について。





においのしない花

2010-10-26 00:53:58 | 日記



花の写真。

自分で撮った花。

どいで?いつ?

自分でも気にとめなかった花、真夜中、写真で、またその花を見る。

どうってことない、花。

だれが撮っても同じ、花。

だから、結局、と言うべきだろうか?

いや。

唯一の花。






中上建次

2010-10-26 00:20:37 | 日記


★ 明け方になって急に家の裏口から夏芙蓉の甘いにおいが入り込んで来たので息苦しく、まるで花のにおいに息をとめられるように思ってオリュウノオバは眼をさまし、仏壇の横にしつらえた台に乗せた夫の礼如さんの額に入った写真が微かに白く闇の中に浮きあがっているのをみて、尊い仏様のような人だった礼如さんと夫婦だった事が有り得ない幻だったような気がした。体をよこたえたままその礼如さんの写真を見て手を組んでオリュウノオバは「おおきに、有難うございます」と声にならない声でつぶやき、あらためて家に入ってくる夏芙蓉のにおいをかぎ、自分にも夏芙蓉のような白粉のにおいを立てていた若い時分があったのだと思って一人微笑んだ。

★ 明けてくるとまるで瑠璃を張るような声で裏の雑木の茂みで鳥が鳴く。それが誰から耳にしたのか忘れたが昔から路地の山に夏時に咲く夏芙蓉の花の蜜を吸いに来る金色の体の小さな鳥の声だと教えられ、オリュウノオバは年を取ってなお路地の山の脇に住みつづけられる自分が誰よりも幸せ者だと思うのだった。夏芙蓉は暮れ時に花を開きはじめて日が昇る頃一夜だけの命を終えてしぼむので金色の小鳥が蜜を吸いに来た鳴き声を耳にするたびに、幻のようにかき消えた夜をおしむのか、明るい日の昼を喜ぶのか問うてもみたい気がした。

★ オリュウノオバの耳にその金色の小鳥の鳴き声は、半蔵が飼っていた天鼓という名の鶯の鳴き声のようにも響くのだった。半蔵が大事に育てていた天鼓を、年の寄りすぎで体のどこが悪いと言うのではないのに寝たきりになってしまったオリュウノオバに聴かせてやるというように、毎年の夏時に裏の山の茂みに放って声を聞かせてくれる。

<中上建次“半蔵の鳥”-『千年の愉楽』(小学館文庫・中上建次選集6:1999)>




★ 「有難うござりましたあ、有難く存じましたあ」女は言い続けた。彼の首筋に唇を這わせた。わきの下に顔をつけた。彼の汗の臭い、わきがの臭いをかいでいた。体が火照っているのがわかった。彼は自分のわきの下に唇をつけ、鼻をつけているのがいったいだれなのかわからないまま、独身時代や結婚したての頃、女と寝ようとする時、自分のわきの下の汗腺から分泌されるそのにおいが女に不快感を与えるのを恐れ、何度も何度も丁寧に石鹸をつけて洗ったことを思い出し、そこを今日、きれいに洗っただろうか、とぼんやり思い、羞ずかしくなった。そして、自分の中から一頭の獣のにおいのする雄があらわれてくるのを感じた。

<中上建次“欣求”-『化粧』(講談社学芸文庫1993)>