Don't Let Me Down

日々の雑感、引用。
言葉とイメージと音から喚起されるもの。

バベルの図書館

2012-05-20 14:33:06 | 日記

★ その種の冒険のために、わたしも生涯を浪費してしまった。宇宙のある本棚に全体的な本が存在するという話は、わたしには嘘だと思えないのだ。わたしは未知の神々に向かって、すでに一人の人間に――仮にただ一人であり、何千年の昔のことであってもよい!――それを調べさせ、それを読ませてくださっていることを祈りたい。名誉と知識と幸福がわたしのものでないのなら、そんなものは他人にくれてやろう。わたしの場所は地獄であってもよいから、天国を存在せしめよ。わたしは凌辱され滅ぼされようとかまわない。しかし一瞬によって、ある存在によって、「あなたの」広大な図書館の存在は正当化されなければならないのだ。

★ おそらく、老齢と不安で判断が狂っているかもしれないが、しかしわたしは、人類――唯一無二の人類――は絶滅寸前の状態にあり、図書館――明るい、孤独な、無限の、まったく不動の、貴重な本にあふれた、無用の、不壊の、そして秘密の図書館――だけが永久に残るのだと思う。

<ボルヘス“バベルの図書館”―『伝奇集』(岩波文庫1993)>




★ 見えるものであり、動かされるものである私の身体は、物のひとつに数え入れられ、ひとつの物である。私の身体は世界の織り目のなかに取り込まれており、その凝集力は物のそれなのだ。しかし、私の身体は自分で見たり動いたりもするのだから、自分のまわりに物を集めるのだが、それらの物はいわば身体そのものの付属品か延長であって、その肉のうちに象嵌され、言葉のまったき意味での身体の一部をなしている。したがって、世界は、ほかならぬ身体という生地で仕立てられていることになるのだ。

★ 物のただなかにおいてであるからこそ、或る<見えるもの>が<見ること>をはじめ、自分にとって<見えるもの>となる、しかもあらゆる物を見るその視覚によって<見られうるもの>となるのであり、また物のただなかにおいてであるからこそ、<感じるもの>と<感じられるもの>との――ちょうど結晶とそのなかにひそんでいる母液の関係にも似た――不可分な関係が生き続けるわけなのだ。

<メルロ=ポンティ“眼と精神”―『メルロ=ポンティ・コレクション4 間接言語と沈黙の声』(みすず書房2002)>








野生の生活

2012-05-17 15:50:55 | 日記

★ やだやだ、どうかこの想像がまちがっていますように。それでは人生があまりにも空疎すぎる。なぜかあまりにも愚劣すぎると感じられる。そんなもののために、わたしたち夫婦は苦労してきたのかと、つい自問自答せずにはいられない。そんなもののために、三人の娘を育て、結婚させ、中年期にはつきものの夫の浮気をのりきり、遮二無二働いて、そしてときには(そう、それを直視しよう)、ほしいものを強引につかみとりもしてきたのだろうか。もしそうだとしたら、もしもその暗く奥深い森から出てきたところが、この・・・・・・この殺風景な駐車場だとしたら・・・・・・そもそもひとはなんのために努力などするのだろうか。

★ そしてある日、ひとはなにげなく肩ごしにふりかえるという誤りを犯す。そして気づくのだ――娘たちがいつのまにかおとなになってしまっていることに。これまでなんとか結婚生活を維持しようと苦闘してきたその相手が、脚を――なまっちろい脚を――だらしなくひろげ、うつろに日ざしを見つめてすわっていて、しかも、ああ、なんということか、外出用のスーツならどれを着ても五十四歳に見えるだろうその男が、キッチンテーブルにそうしてすわっているところは、七十歳にも見えるというその事実に。いや、もっと悪い――七十五歳にさえ。

<スティーヴン・キング“ハーヴィーの夢”―『夕暮れをすぎて』(文春文庫2009)>




★ くろぐろとした西洋スギの枝のあいだに浮かんでいる月をながめながら、ロビンソンは思いにふけった。
これで、耕作地も、飼育場も、建物も、ロビンソンが島で作りあげたすべての作品も、ほら穴のなかにためこんだあらゆるたくわえも、なにもかも、フライデーのあやまちのために失われてしまったのだ。

★ けれども、ロビンソンはフライデーをうらんでいなかった。じつのところ、ロビンソンはもうずっと前から、このこせこせしてめんどうな島の機構に、すっかりいや気がさしていたのだが、そうかといって、それをぶちこわす勇気もなかったのだった。

★ ところが今は、ふたりとも自由だった。いったいこれからどうなるのだろう、とロビンソンは好奇心にかられながら考えた。すると、これからはフライデーが先に立ってロビンソンを指導していくにちがいない、とさとった。

<ミシェル・トゥルニエ『フライデーあるいは野生の生活』(河出書房新社1996)>







闇の味

2012-05-13 13:05:37 | 日記

★ 熱帯夜にうな重を食っていたら、いきなり鈍い衝撃音がして、店内が停電になった。窓越しに街路の光が屈折して入ってくるので、文目(あやめ)もわかぬというほどではなかったけれど、不意の暗がりに、人も物もどろりと輪郭を溶かしてしまった。割りばしが宙に浮く。ややあって、躰から汗が吹きでてくる。湿りを帯びた闇に、蒲焼のにおいがさっきより一段と濃く漂う。

★ 停電の前には気にもとめなかった、斜め向かいの女性客のうなじが、いつの間にか透けるほど白くなって、ぼーっと妖しく闇に泳いでいる。それを眼の端で気にしながら、私は引きつづきうなぎを食べたのだが、なんだかさっきと味がちがう。うな重の味に、なにか胡乱な(うろんな)味が新たに加わって、口のなかで重層している。
それは、たぶん、闇の味であろう。闇を吸い、闇にまぶされたうなぎの味だ。

★ では、戦後の爆発的な光の量のなかで、私たちはなにを見てきたのか。いや、設問するならこうであるべきだろう。私たちは、いったい、なにを見てこなかったのか。夜という夜が光にさらされ、24時間、“昼化”されて、人はなにを失ったか。私たちの網膜が感じた鮮やかな光の数々は、真にうつせみの世の実相であったのか。

★ 画素や走査線が増え、解像度が高くなったというテレビ映像が、その分だけ、内容が薄っぺらになり、想像力を喚起しなくなったのはなぜなのか。あれほど映像鮮明にして、ばかげたテレビ番組を流すことのできる人間精神はどのように形成されてきたのか。光によっていま、さらしつくされているもの、それはかくも大量の光をこしらえた者たち自身の、手の施しようもなくなった暗愚そのものではないか。

★ などと、くさぐさ考えていたら、突然に店の明かりがついて、風景もまた復旧した。斜め向かいの女性客のうなじは、黄色みを増し、光にかえってくすんでしまった。そして私のうなぎはといえば、ああ、暗がりであんなにてらてら黒光りしていたのが、すっかり色を沈め、光沢を消しているではないか。「松」でなはく「竹」であることをわざわざ証明するかのように。

<辺見庸『独航記』(角川文庫2004)>








幸福感1968

2012-05-09 17:03:31 | 日記

★ わたしが最初に政治集会に参加したのは、1968年4月26日のことである。先に述べた倫理社会の教師に引率されて、十人ほどの同級生たちと代々木公園に日本共産党系の集会に出かけたのである。

★ だが、集会は期待していたほど面白くなかった。会場内を埋め尽くした参加者のところどころにプラカードや赤旗が立ち、遠くの方で誰かが演説している。誰もが命じられたようにそれに拍手をしたり、しなかったりするわけだが、いったい学校で月曜日ごとに行われている昼礼とどこが違うのかというのが、わたしが感じた素朴な疑問だった。

★ 1968年の4月には、すでに全世界で多くのことが起こっていた。1月にはハノイへの北爆が再開され、アメリカは国家予算の四割を軍事費に用いて、ヴェトナム戦争を続けていた。パレスチナではイスラエルの侵略に対して、若きアラファトが抵抗運動を組織しようとしていた。パリ大学のナンテール校では反ドゴールを叫ぶ学生たちが校舎を占拠し、アメリカではキング師の暗殺を契機に全国的な黒人暴動が展開されていた。日本もまた例外ではなく、1月には東大医学部が無期限ストに突入し、佐世保ではエンタープライズの寄港反対の、王子では野戦病院設置阻止のためにデモと集会が相次ぎ、学生に多くの逮捕者を出していた。べ平連は月に一度のデモを行っていたが、それがやがて毎週土曜日ごとへと、頻度を増していった。あらゆる事態が蟻地獄の円錐状の斜面を滑り落ちるようにして、次々とエスカレートしてゆき、留まるところを知らないように思われた。

★ わたしは数学と水泳に夢中なエリート校の高校生であり、凡庸にして幸福な中産階級の子弟にすぎなかった。そしてみずからの凡庸さに苛立ちを感じこそすれ、そこから脱出するだけの力も勇気ももちあわせていなかった。

★ 上田正行というその教師は当時まだ教育大学文学部の大学院生で、二葉亭四迷について長大な論文を執筆中であると、最初の授業のさいに自己紹介した。それから、教壇に立つのはこれが最初であるとも。彼は指定された現代国語の教科書を手にとり、目次を一瞥すると、いかにも馬鹿にしたように、「こんなつまらないものはやめて、来週からはぼくが教材を準備しましょう」といって、そのまま出て行ってしまった。

★ 次の授業のとき上田さんは、おそらく週末を潰して準備したのだろう、藁半紙にガリ刷りしたプリントを山ほど抱えてきて全員に配り、一番前の生徒にむかってそれを朗読してみるように命じた。「言葉なんかおぼえるんじゃなかった」。指名された生徒はわけもわからず朗読した。
「どうだい。すばらしいだろう」と、上田さんはいった。「これは田村隆一の『帰途』という詩だ。意味がわかるかい?」
「少しもわかりません」と、生徒が答えた。「言葉がなかったら、人間でなくてサルになってしまいます」と彼が付け加えると、教室の全員が笑った。

★ 調子の狂った上田さんは、その後ろの生徒に次の詩を読むようにいった。「おれは大地の商人になろう」と、彼は怒鳴るように大きな声で谷川雁の「商人」を読み終えた。そしてその後で、聞かれもしないのに「さっぱりわかりません」と答えて、教師を悲しませた。三番目の生徒が読まされたのは、岩田宏の「感情的な唄」という作品だった。学生、糊、ポリエチレン、酒、バックル、為替といったぐあいに、自分の嫌いなものを列挙していき、次にバス停留所、古本屋、猿、豚、指と、逆に好きなものを列挙していくだけの、きわめて簡単な構造をもった詩だった。これにはようやく生徒も「面白い」と積極的な反応を見せた。上田さんはいかにもホッとしたような表情になった。

★ 1960年代後半にレコードはけっして安い買物ではなかった。裏表で2曲聴けるドーナツ盤が330円か370円、4曲聴けるコンパクト盤が500円、LPともなれば1500から1800円、とくにCBS・ソニーは2000円を超えるものもあった。ハードカヴァーの新刊書が500円くらいだったのだから、この値段はけっして普通の高校生に自由になる金額ではなかった。せいぜい1か月に1枚か2枚のLPが買えればいいほうで、残りは友だちどうしの貸借りが中心となり、それを自宅のテープレコーダーに録音して、繰り返し聴くという形を取らざるをえなかった。

★ ではその年のクラスで、いったいどれ位の生徒がビートルズに関心をもっていたかといえば、おそらく42名のうち4、5名にすぎなかったのではないかと思う。ビートルズ世代とひと口に語られるが、たとえ彼らが来日して2年経ったときでも、わたしの教室ではジョンやポールといった名前は、ごく少数のレコードを貸しあう仲間どうしのなかで囁かれる、親密にして秘密の符丁のようなものだった。とはいえ1968年とは、音楽を通してわたしがこうした知的啓示を受けることになった最初の年として、ある幸福感のもとに記憶される年だった。

<四方田犬彦『ハイスクール1968』(新潮文庫2008)>






“別のもの”があることを示す

2012-05-07 14:27:44 | 日記

★ 何かはある。しかしそれは漠然としたものであり、時には矛盾するようにも思われる。なぜなのか、それをうまく言葉にできない。すでにある、与えられた(言語化された)論法、この社会にあるとされる論理では説明することができないことがわかる。むしろ、観念や実践の堆積があって、それを見えにくくしているのだと思う。

★ ただ、その論理を辿っていくと、それらがどのような道を通っているのか、同時にどこを通っていないのかが見える。疑問を疑問としない主張、常套的になされる批判、批判を中途半端に終わらせる批判を、少し丁寧に辿っていく。その中で、そこに言説として現れない何が前提されているのかを浮かび上がらせる。そのような作業の中から、別のものがあることを示す。新しい何かを「発明」しようというのではない。行おうとするのは、既に、確かにあるもの、しかし十分な言葉を与えられていないもの、それを覆う観念や実践の堆積があって言うことをやっかいにしているものを顕わにすることだ。

★ そしてそれは、種々の「理論」――それらはひどくあっさりと私達の様々な現実を切り詰めてしまう――で主張されることほど過度に単純ではないが、それなりに筋は通っており――感覚に論理を対置するというのはまったく間違っていると思う、感覚は十分に論理的である――、そしてその中核にあるものは、多分そんなに複雑なものではない――私達はあまり複雑なことを考えられない。

★ 「別のもの」と今述べたものについては、特に誰かのアイデアをもとにするのではない。手作業によって考察の多くの部分は進められた。書かれることは特に何かの「思想」に依拠していない。ひとまず必要がなかったからだ。(略)そういう作業はきっと必要なのだろうし、それを行うことによってきっと私も得るものがあるのだろうとは思うが、相手から何かを受け取るためにも、まずは私が考えられることを詰めておこうと思った。

<立岩真也『私的所有論』“序” (勁草書房1997)>








“サヨク”と“ウヨク”

2012-05-06 14:52:49 | 日記

東浩紀とか茂木健一郎の世界には、“サヨクとかウヨク”と呼ばれるひとしかいないらしい。


☆ 茂木健一郎の今日のツィート

茂木健一郎 ‏ @kenichiromogi
たわ(9)今朝retweetした英国Guardian紙の記事は、「日本が復活し、中国は停滞するだろう」と予測していた。プリンシプルに従って考えれば、そうなるのではないか。日本には、明治から民主主義が存在した。体制間競争はまだ終わっていないが、必ず最後に自由は勝つと私は予測する。

茂木健一郎 ‏ @kenichiromogi
以上のような現実認識なので、原子力が、電力会社や「原子力村」の利権の道具になっているという見方に、私は与しません。資源のない日本がこれだけの文明を築いている、その持続可能性は、残念ながら原子力を選択肢に入れなければ担保できないというのが、私の判断です。

茂木健一郎 ‏ @kenichiromogi
仕事に戻る前にひとこと。核廃棄物の処理の問題は、原発を考える上でもっとも重要な論点であることはもちろんです。この点を含め、理性的な反原発論の方々のご意見は、大いに歓迎いたします。私は自分の見解を最初から決めているわけでなかく、理性とエビデンスに基づいて判断したいと思っています。
<追記>




☆ 東浩紀の朝日新聞談話(下記ブログ参照)

いま人気を集めている強いリーダーは基本的に右翼です。左翼は批判しますが,強いリーダーが出てこないことこそが左翼の問題です。日本人がいま理念やビジョンを必要としているのは自明です。左翼はそれらをもっていたのに,いつのまにか単なる『突っこみ役』になってしまっている。それじゃあ負けますよ。保守的なナショナリストたちの理念そのものは理解できないところも多いですが,理念を出している。これが大事です。だから僕も,憲法改正試案というかたちで新しい国家像を提示するのです

(以上引用)




茂木健一郎と東浩紀が橋下徹支持であることは偶然ではない(ツイートによると宮台真司も橋下支持である)


茂木健一郎は、“サヨク”という用語を使用していない。

東浩紀は上記引用のように、“左翼”と言っている。
宮台真司がサヨク嫌いなことは、みなさんの方がよくご存知だろう。


なにが(だれが)左翼で誰が(何が)右翼なのか?

右翼とは、ナショナリスト、新自由主義者であるらしい。

ならば左翼とは、なにか(だれか)?

東浩紀にとっては、柄谷行人が左翼なのか(笑)

左翼=共産主義者=マルクス主義者=収容所列島国家(崩壊)=中国共産党なんですか?


左翼と右翼は、思想的史的概念であると同時に、歴史的事実でもある。

しかし、“左翼と右翼”という概念で、現実を区分するのは、狭い。

息苦しいのである。

まさに東浩紀のような“ポストモダンな”論客は、そのような“狭さ”こそ、バカにすべきだ。

たとえば、ミシェル・フーコーやジル・ドゥルーズにおける“マルクス主義”である。

フーコーがマルクス主義を嫌っていたことは、明瞭である。

明瞭でないのは、そのフーコーの“思想と行動”における、マルクス主義との“関係”である。

つまりその“葛藤”である。


マルクス主義やフロイト主義を、たんなるイデオロギーとしてあつかうことはできない。

それは現実の運動であった(ある)

“運動である”とは、その思想によって生き死にしたひとがいた、という“現実”なのだ。


たしかに思想は、洋服のように“着替える”こともできる。

“狂信”し、夢から覚めるように、その思想から、脱却することもある。

もちろん、なんのイデオロギーにも感染せず、“一般意志”として生きる事もあるかもしれない。


しかし、世界は広い(深い、“スパーフラット”ではない)



《自由》というなら、自由を定義せよ。

《ナショナリズム》というのなら、民族や国家を定義せよ。

《理性とエビデンス》というのなら、理性を定義せよ。

《理念やビジョン》は他人(ひと)から与えられるものではない。


わたしが生きている限り、結論はなくとも、考えつづけるという行為はある。







<追記>

* こういう意見もある

世に倦む日日 ‏ @yoniumuhibi
原子力村からカネをもらって広告塔をやっていた茂木健一郎が、必死に脱原発批判を繰り返している。それを(自らの代弁者の如く)江川紹子がRTしている。脱原発派は感情的だとか、他者への理解がないとか。何を言ってやがる。福島の人々への想像力が最も欠けているのが原発推進派だろうが

世に倦む日日 ‏ @yoniumuhibi
原子力村の広告塔を務め、4億円の脱税をやっていたhttp://p.tl/FCin http://p.tl/hLXK 茂木健一郎が、「御用学者」とか「原発推進派」のレッテル貼りは不当だと喚いている。この男の常識のなさに呆れる。カネをもらっていながらそれはないだろう

世に倦む日日 ‏ @yoniumuhibi
茂木健一郎、「原子力が、電力会社や『原子力村』の利権の道具になっているという見方に、私は与しません」なんて言っている。盗人猛々しい。自分が原子力村からカネをもらって広告塔をしていたくせに。この男、利権という言葉の意味、わかっているのか。自分の脳を誰かに科学してもらった方がいい
(引用)



*茂木健一郎 2012/05/07

茂木健一郎 ‏ @kenichiromogi
これは一般論だけど、自分の正義を信じて疑わない人ほど、おそろしいものはないね。かつての左翼もそうだったんだろう。養老孟司さんが、学生運動のときに、戦前の日本が戻ってきた、と思ったというのがよくわかる。何度でも戻ってくるんだろうね。

茂木健一郎 ‏ @kenichiromogi
ところで、私自身の「原発」についての見解は、昨日ツイートしたことで尽きているので、今後、状況が変わらない限り、新たにツイートすることはありません。念のためお断りしておきます。ですので、私への@メンション攻撃は、ムダに終わる可能性が高いです。一応、すべて拝読しますが。

茂木健一郎 ‏ @kenichiromogi
今朝ツイートしたように、原発そのものついての私の見解は当分ツイートしませんが、他人に失礼なことを言ってくるやつらには、ときどき容赦なくかましてやるから、そのつもりで。
(引用)



茂木健一郎の上のツイートの養老孟司の《学生運動のときに、戦前の日本が戻ってきた、と思った》という認識にぼくはまったく賛同できない。

養老孟司が言っている“学生運動”の時期にぼくは、大学にいて“学生運動家”を支持していなかった。

けれども、それは《戦前の日本が戻ってきた》ということではなかったことは、ここに証言したい。




たしかに、ひとは、感情的に語るべきではないだろう。

自分と異なる意見・立場のひとと“対話”すべきだろう。

だが、こうもデタラメを言うひとがいて、そのデタラメが養老孟司→茂木健一郎のように受け継がれていき、それが“歴史”となっていくのを見ると呆然とする、慄然とする。

しかもサヨクもウヨクもリベラルも、現在主流である人々は、ぼくから見れば、すべてこの自分が生きている時代についての、贋の認識者・贋の証言者に見える。

彼らが、“まちがう”のはよい、だれだってまちがう。

許せないのは、確信を持って、あえて贋の証言をする者たちである。






“吉本新喜劇” なう

2012-05-06 09:30:54 | 日記

先日のぼくのブログ、“ロックンロールNOW!―D”へのfunaboristaからのコメントをいただいた。

そのコメントとぼくの返信を貼り付ける。

ぼくが《東浩紀には、その兆候が見える》と書いたのは、ぼくが現在、東浩紀発言を彼のツイートと最近のテレビ(“ニュースの深層”)でしか、読み得ないからであった。

このfunaboristaからの朝日新聞上での発言の“引用”により、もちろん、それは“兆候”ではなかった;


(来信)

兆候(以上かも) (funaborista)
2012-05-06 08:21:33

>東浩紀には、その兆候が見える

↓これですね。

>たとえば現在のOSで自衛隊を動かそうとすると,あいだに別のシステムを入れる必要があり,動作がすごく重くなっています。だったら自衛隊がもう少しサクサク動く,国がうまく回るOSに入れ替えたほうがいいんじゃないか。

>幻想かもしれないが,幻想なしに人は生きていけないから,試案では日本という国を尊重しろと書き,天皇は元首として位置づけました。

>いま人気を集めている強いリーダーは基本的に右翼です。左翼は批判しますが,強いリーダーが出てこないことこそが左翼の問題です。日本人がいま理念やビジョンを必要としているのは自明です。左翼はそれらをもっていたのに,いつのまにか単なる『突っこみ役』になってしまっている。それじゃあ負けますよ。保守的なナショナリストたちの理念そのものは理解できないところも多いですが,理念を出している。これが大事です。だから僕も,憲法改正試案というかたちで新しい国家像を提示するのです

>(憲法改正を主張する政治家は高揚感を漂わせていますが,東さんはどうでしたか・・・という質問を受けて)
テンションはあがりますよ。憲法かえるのはやっぱり気持がいいものですね。それは間違いない。新しい国のかたちをここに定義するんだみたいな,このワクワク感。

(「護憲・改憲から離れて議論〈いま,ここにある憲法〉」(朝日新聞2012/5/1朝刊)から)

茂木健一郎に言わせりゃ、↑も“ロックンロール“なのかもしれませんが、こりゃどう頑張ってみても“吉本新喜劇”。
「体を張ってる」ってのだけが唯一の共通点ってことで。




(返信)

funaborista さま

ありがとう。

こういうのが”有効な”コメントです。

ぼくは朝日新聞を購読していないので、東浩紀が朝日に書いた文章を引用できなかった。

そして東の憲法改正案を読むためには、東の雑誌を買うほかないが、買う気がない。

ぼくは”憲法改正案”を言うこと自体には反対ではない。

問題はその内容です。

ただ現在の”ゲンロン”が、憲法に収斂する、という立場でもない。

むしろ”問題”は、”ブンガク”です。

それは、ベタに言う、なら、ぼくのような団塊と現在主流化しつつある”世代”とのディスコミュニケーションです。

もっと一般化すれば、若者と老人のコミュニュケーションの”不可能性”です。

あなたがまだ”若者”であるかどうかは、わからないが、ぼくよりは若い(笑)

すなわち、ぼくではなく、東と同世代もしくは、東より若い世代から、東を”批判”する人々があらわれることを期待します。

宮台真司も批判されるべき。

ぼく自身は、近日、2008年に出た、”ユリイカ”の中上健次特集号での、中上に対する東発言を読み、いま考えているところです。

これをブログに書く”べき”なんだが、このところ書くことへのテンションが落ちています。






<追記>

2008年に出た、”ユリイカ”の中上健次特集号での中上に対する東発言から一ヶ所引用する;

★ さっき述べたように中上健次だってある意味自然主義そのものなのです。ここで「自然主義」という言葉で名指されているのは、文体の問題ではなく、ごく単純に文学がどこに外部を求めるか、なにを材料として想像力をくみ上げているのかという問題です。その点で、中上が自分の文学の外部として自然や現実を選んでいたことは疑いない。それは、文学の外部にマンガやアニメの記憶があるライトノベルとはまったく異なるわけです。
(引用)



上記のような“認識”が東浩紀の核心であり、もしここで東が述べていることが、間違っているなら、東というゲンロン人の“売り”は崩壊する。

さらに、(これがもっと重要だが)、東のような“思想”により、なにか“新しい”立場とか“世代”が形成されているという立場も崩壊する。

たしかに、新しく自分を売り出す“世代”は、自分の“差異性”を強調する。

しかしそんなことは、餓鬼の遊びでしかない。

文学の外部に自然や現実がない、ことなどあり得ない。

まさに、“それを選ばない”ことが問題である。

すなわち、東が擁護する“ライトノベル”は、自然や現実を“選ばず”、マンガやアニメの記憶を“選んでいる”のだ。

この二者の立場を、肯定したり否定したりする論議に、意味があるとは思えない。

なぜなら、どんな世代であっても、直面しているのは、自然と現実だからだ。

すなわち、マンガやアニメも、自然と現実から現われる。

だから、“選ぶこと”を間違えてはいけない。





沈黙

2012-05-04 17:32:52 | 日記

★ 言葉は、閉ざされたものだ。それは種族や民族の共有財産である。話すということは、無償の行為でもないし、無意識にはなされ得ない行為である。話すということは人間の特性であり、人間が自分の存在を確認することだ。生活を確認するための主要な行為、つまり、誕生、交合、分娩、死などと同じように、言語は呪術である。ということは、人間と宇宙を結びつける契約だということだ。

★ 反対に、沈黙はすべてを可能にする。沈黙は呪術的なものではない。それは動物的であり、植物的であり、元素的なものだ。それは大地に根ざしている。沈黙は、脅迫を消し、呪いを解く。それは、他者、よそ者、人間でないものの攻撃に対する大切な防御なのだ。

★ 泥水が流れている河。その河のほとりの濃密な、測り知れない沈黙。インディオの居住地から数メートルの所に近づいても、あなたにはまだなにも見えないし、なにも聞こえない。しかし彼らのほうではあなたを見、あなたの音を聞いているのだ。

★ インディオは、沈黙の世界の内側で人生を過ごす。樹木、植物、動物、河、空、昆虫。なにものも語らぬ。ところどころに喧騒の小島がある。祭り、わずかな言葉、歌、太鼓と笛の音。しかし人生の大部分を、インディオは押し黙って、音のない所で過ごす。

<J.M.G.ル・クレジオ『悪魔祓い』(岩波文庫2010)>








きょうのおいしいツイート

2012-05-04 13:51:26 | 日記

☆ 下手な写真は、被写体への接近が足りない」(ロバート・キャパ)“If your pictures aren’t good enough, you aren’t close enough.


☆ 生きてるために働いてるのに働くことで死ぬのはおかしい


☆ 日本で自分の考えを表明しようとするのは、「気ままな酒屋の店主」か「変わった主婦」か「いい年をした学生」か「年金生活者」といった「競争社会から外れた人たち」だと英誌記者は言っている。「日本には公民教育はないに等しい」とも。


☆ 二度失敗し、三度失敗し、
それでもまだ挑戦を続けるのなら、
彼はその分野に関して才能があると言える


☆ 「葬式は、死んだ人のためではなく残された者を励ますためにある。
 葬式の時読んでるお経でも、供養のためのことなんて
 一言も言ってない。生きるための秘訣とか理想みたいなことを
 延々と言ってるだけだ」


☆ 「世界中の2割の人はあなたがどんな行動をとってもあなたの事を嫌いになる。6割の人は行動によって好き嫌いが分かれる。でも残りの2割の人はあなたがどんなヘマをしてもあなたの事を好いてくれる。世界はそういう比率でできてるらしい。」その事を母に聞いて私は結構心が楽になった。


☆ 【AKB48】え!ホント?テレビで「AKB」と言うとお金がもらえる!? ベテランタレントがラジオ番組内で暴露


☆ 育ちの良い人を「気取ってる」とか「見下してる」とか感じる人は総じて育ちが悪いよ


☆ 「私、天然なのかなー」とマジで言った女の子に対して「たぶんそれ、もの知らないだけだと思うよ」って言った子の表情は、俺一生忘れられない。


☆ 童貞だって言うと「そういうことに興味ないの?」とか言ってくる人はなんなんだろうな、彼は栄養失調に苦しむ暗黒大陸の子供に「食欲ないの?」とか聞くつもりなんだろうか?


☆ 普通の会話50%×普通のルックス50%×普通の身長50%×普通の清潔感50%×普通のファッションセンス50%×普通の学歴50%×普通の年収50%=0.8%


☆ 人生で、あらかじめ準備しておけることなど、実はあまりない。大人の仕事は常にやっつけ仕事、恋はいつでも初舞台だ。


☆ 自分が嫌われているように思っている人は、実際は嫌われていないことのほうが多い。
そもそも、自分が思うほどあんたのことなど誰も気にとめていない。


☆ 人は自分が「うすうす考えていたこと」を、だれかが言ってくれると、「この人は物のわかった人だ」と思うのだった。人が賛成するのは、いつも「自分の意見」だ。


☆ 「いいね!」ボタンを押してくれた人は意外に人生で助けてくれません。


☆ 地震と放射能とミサイルを気にしながら過ごす日常ってスゲェな。


☆ デジタルデータは劣化しないが、情報をデジタルにした時点で既に大幅に劣化している。


☆ 都会の奴って田舎は自分たちを楽しませてくれる遊園地で、住人はそのスタッフくらいにしか思ってなさそう


☆ 「みろよあの女,服の下は裸だぜ」。これは、なかなかすごい言葉ですね。事実を述べただけなのに、狂気が伝わってくる。


☆ 教育というものは、男にとってオッパイ以外のことを考える修業である。気を散らすために大して役にも立たないことを覚えさせられるのである。それさえ授業を始める前に説明してもらえれば“何のために?”とか、若い頃、悩まずに済んだはずだ。
 それにしても“オッパイ”はいい。歳を取れば取るほど思うのは、どんどん教育から解放され本能に戻るからだ。


☆ 一緒にすごした時間の長さや物理的距離の近さ、そういうものがすべて意味を持たなくなる瞬間がある。


☆ 頑張れば何でもできると思うのは幻想だと僕は思う。
成功した人にインタビューするからそうなるのであって、
失敗者には誰もインタビューしてないじゃないですか。


☆ W杯見てたら、おばあちゃんが「何でこの人達は手を使わないの?」って聞いてきたから「オランダってのは格上で、お前ら日本なんて手を使わなくても勝てるってなめられてるの。そしたらこっちも使うわけには行かないじゃん」って説明したら「いつの時代も男は馬鹿ね。」っていう重みある言葉を頂いた


☆ 「なぜ、そんなことをしたのか?」
  と問い詰めるのではなく、
  「本当は、どうしたかったの?」
と訊くのだ。


☆ 楽しいことにどんどんとびついていこう
それ以外の悲しいことや辛いことは勝手に向こうからやってくるんだから


☆ > 関村直人(東大)「炉心溶融(メルトダウン)はありえない」
> 大橋弘忠(東大)「プルトニウムは飲んでも安心。どうして信じない!?」「素人は引っこんでろ」
> 諸葛宗男(東大)「安心安全心配なし」
> 中川恵一(東大)「プルトニウムは重いので飛ばない」
> 有冨正憲(東工大)「1号機の煙は爆破弁の成功です」
> 松本義久(東工大)「遺伝子の神様があなた達の精子を守ってくれてます」
> 澤田哲生(東工大)「放射能が漏れることはない 事態は悪化しない 汚染水は漏れない」


☆ ちょっとツイッターは俺にむいてないですね。ノーギャラでやるような事じゃない。辞めます。


☆ 社会に上手にとけ込んで、うまく友達とやっていながら、自分が何者かすらわかっていない人もたくさんいます。


☆ 聖徳太子のいう「和を以て貴しと為す」は「事理を明らかにすれば、争い事は収まる」という意味である。しかし殆どの日本人は意味を吐き違い「事理を明らかにしようとする人を“理屈やで協調性がなく、和を乱す協調性のない人”と逆の解釈をしている。


☆ かつて、気象庁職員による野球大会が
雨で中止になったことがあったそうだ。


☆ 類は友を呼ぶってのが正しいなら友達いない人は相当なオリジナリティを持ってることになるな


(以上ぜんぶ引用)







けっきょく、どうしたいの?

2012-05-04 08:27:01 | 日記

低気圧のせいか、このところ気分がアップしません。

なんども書き、このブログでも引用したりしてるが、ぼくは時事的な“情報と意見”を、このパソコン上で見ています(“テレビ”ニュースや解説番組もたまに見るが)

現在、いちばん大きな流れとしては、既存(大)メディア対ネットメディアということが言われているが、ぼくにとっては、どっちも同じです(パソコン画面上にある)

テレビについても、結局、ネットメディアのヒーロー“津田大介”もNHK“テレビ”に出るし、“一般意志・東浩紀”もレギュラー番組を持つわけだ。

ぼくは、それが論理的に(倫理的に!)“悪い”とも言えないが、結局同じなんです。
つまり“有名人”は、大メディアでもツイッターでも活躍なさるわけです。

こういう“社会システム”は、ぜんぜん、変わりようがありません。

むしろ“ソーシャルメディア”は、有名人がさらに有名になるための宣伝メディアということです。

“無名”のぼくが上記のように書くと、“ルサンチマン”と思われるでしょうが、たしかに無名人は永遠にルサンチマンを抱くように“なっている”わけ。


ちょっと話題を変える。

たとえば、ぼくにとっては、“国家”とか“憲法”というのは(というのも)“必要悪”なんです。
なければいいのに、ないとやってけないらしいから、しかたがないなあー、と。

ぼくの理想は、“仕切り”とか“掟、ルール”とかがなくても、ぼくとぼく以外の人間が、なんとなくそれほど喧嘩せず(互いを損なわず)やっていける“社会”ならいいなー、と。

だから、国家については、立岩真也の《分配する最小国家》を支持します。

憲法についても、守るとか改正するとかに熱心な人に違和感を感じます。
ある意味で、“偉いなー”と思う。

でも紙に書いた“法”がいくら立派でも、それが実現-運用されなければ、しょうもない。

たしかにものごとは循環するから、紙に書いたものが良くなければ、“現実”も良くならないということもあるんでしょう。

でも、紙に書いたことが素晴らしくとも、現実は良くならないこともあります。

“各論”ではけっこういいことを言っていても、“総論”でくるっているひともいます。


たしかに現在、“いろんな意見”を読むことができます。

それは“ただひとつの意見しか読めない”よりは、いいことなんです。

しかし毎日、“いろんな意見”を読み続けていると、気分が高揚してくるより、単に疲れてしまうのは、ぼくがもう若くないからなんでしょう(残念)


そしてどうしても思ってしまう。

いったい君らは、けっきょく、どうしたいの?

その質問をぼくにされても、わかりませんが!(笑)

ただぼく自身も(この歳になっても)明瞭でないのだが、ぼくにとって重要なのは(まあこの人生で)、どうも世間で論じられていることとは別のことだ、という感じはいつもつきまとっています。






ロックンロール

2012-05-02 15:42:45 | 日記

下記ブログをまたしても“書いてしまった”が、ぼくにとって<原発問題>それ自体は、思想の問題ではない。

その<問題>なら、“使用済み核燃料の処理”の不可能性によって、すでに明らかであり、なんら議論の余地などない。

ただし、全原発を即時ストップしたところで、膨大な使用済み核燃料の処理問題は残り続けるのであり、そのことは、“現実的問題(困難)”である。


現代世界での、思想的問題が、“何であり、いくつあるのか”は、ぼくにも把握できない。

しかし、そのひとつが、立岩真也が提起している問題群にあることは、明瞭であると思われる。

ぼくの読書範囲では、現在の日本で、あきらかに重要な問題を提起しているのは、立岩ひとりではないか、という気がしてきた。
その問題について、立岩真也が、正しい解答を提出しているかどうかではない。
まさにそれを、“読んで”いるのだ。

引用する、この部分の章のタイトルは、<嫉妬という非難の暗さ>である;


★ 分配の要求は「嫉妬」「ルサンチマン」に発している、発しているものでしかない、だから好ましくないという論がある。私にはこれもよくわからない。羨ましいと思ったりすることはありそうだが、それ自体は悪いことではないだろうし、非難する側がそれから離れたところにいるのだろうか、そのように非難する人はではどんな立場でものを言っているかと思う。だが「要するに羨ましいのだ」という揶揄は執拗に浴びせかけられる。そして「そんなことってやっぱりあるんじゃないの」という実感派からのさめた声がある。それにどう応えるか。また例えば「能力主義」とは単に財の分配だけのことではなく、人の価値に関わることでもある。だから考えておいてよい。

<立岩真也『自由の平等 簡単で別の姿の世界』(岩波書店2004)>






ロックンロールNOW!-D

2012-05-02 14:32:12 | 日記

瀬戸内寂聴89歳
茂木健一郎49歳


いったいどっちが、ロックンロールであろうか?

ぼくは瀬戸内寂聴さんのファンではないが、瀬戸内さんはぼくの母の東京女子大での同級生であり、昔から“晴美さん”の名を聞いて育った。
テレビなどで瀬戸内寂聴さんを見かけるたびに、“生きていたら母も”と思う。




☆ 茂木健一郎 ‏ @kenichiromogi
最後に一つ。それぞれが、得られるデータや技術的見通し、地政学的な視点を考慮して判断すべきだけど、今の日本では、脱原発、反原発と言っている方が空気に迎合してラクだよね。メガスターの大平や池田信夫さんのように、原発推進と言っているやつの方がよほどロックンロールだ。

☆茂木健一郎 ‏ @kenichiromogi
ロックンロールのツイートについても、さまざまな意見をいただきましたけれども、ある意見を表明することが心理的に難しい状況で、あえてその意見を言う人こそが精神的に「ロック」だという認識については、まったく訂正する必要を認めません。

(数日前のツイート:先日のぼくのブログ“ロックンロールNOW!”参照)<追記>





<瀬戸内寂聴さんハンスト参加 怒りあらわ「何を考えているのか」>スポニチ2012年5月2日 12:13

 作家の瀬戸内寂聴さん(89)が2日朝、関西電力大飯原発3、4号機(福井県おおい町)の再稼働に抗議して東京・霞が関の経済産業省前で行われているハンガーストライキに加わった。

 瀬戸内さんは作家の沢地久枝さん(81)やルポライターの鎌田慧さん(73)らとともに、日没までハンストに参加。再稼働反対と印刷された鉢巻きを法衣につけて「90年生きてきて今ほど悪い日本はありません。このままの日本を若者に渡せない」と語り、再稼働に向けた政府の動きについては「何を考えているのか。不思議なことをすると思った」と怒りをあらわにした

 瀬戸内さんは東京電力福島第1原発で事故が発生して以降、講演や著作などで脱原発を訴え続けている。

 ハンガーストライキは市民らが4月17日に開始。北海道電力泊原発3号機(泊村)が定期検査に入り、国内の全原発が停止する5日まで続ける。

(引用)







<追記>

“いわずもがな”のことだが、しつこく言うことが必要なときには、言う;

現在においても、(たぶん近未来においても)、《脱原発、反原発を言う》ことが、《心理的に難しい状況》であることになんら変わりはない。

ゆえに、《あえて、脱原発、反原発を言う》ことが、ロックである。

茂木健一郎は、たんに状況認識をまちがっているのではない。

このようなレトリックを、”あえて”用いるのは、人間として、そうとう悪質である。


このようにして、原発再稼動どころか、原発推進への道が、ふたたび開かれる。

現在“脱原発を言う”ものたちをも、注視せよ。

かれらが、いつ、ぐずぐずと寝返るのかを(東浩紀には、その兆候が見える)







子どもが子どもだったころ

2012-05-02 10:22:42 | 日記

☆ 茂木健一郎ツイート;

 茂木健一郎 ‏ @kenichiromogi
けな(9)権威の暴落、つまらなさは、もう尋常ではなくなっていて、裸の王様が裸だとみんな気づいてしまっている時代。本気で本質を考え、適用限界を自ら設定せず、野生の猛獣のように自由に考え、疾走する。そんな本物の知性こそが賞賛される国に日本はなるのだと私は案外真剣に考えています
(今日のツイート)


茂木健一郎 ‏ @kenichiromogi
最後に一つ。それぞれが、得られるデータや技術的見通し、地政学的な視点を考慮して判断すべきだけど、今の日本では、脱原発、反原発と言っている方が空気に迎合してラクだよね。メガスターの大平や池田信夫さんのように、原発推進と言っているやつの方がよほどロックンロールだ。
(数日前のツイート:先日のぼくのブログ“ロックンロールNOW!”参照)




☆ 子どもの質問;

甥が幼稚園の先生にした質問。「全く道具がなかったときに、最初の道具はどうやって作られたの?」5歳としては洗練された質問だと思った。6歳になったときの質問「悪いやつが自分をいいやつだと思っていたら?それにいいやつだと思っているやつが本当は悪いやつだったら?」




☆ 教訓

茂木健一郎氏も勧めているように、なるべく《子どものように考える》ようにしたいものだ。

もちろん、茂木健一郎は、“もはや子どもではない”。





☆ GWの読書

この連休には、茂木健一郎ではなく、立岩真也を読む。

立岩が”子どものために”書いた『人間の条件 そんなものない』から。

おしゃべりは、うんざりだ。