Don't Let Me Down

日々の雑感、引用。
言葉とイメージと音から喚起されるもの。

ひとり考えるための椅子

2010-08-31 14:49:51 | 日記


下記ブログの最後に大江健三郎「火をめぐらす鳥」から引用した詩人伊東静雄をぼくは読んだことがなかった。

短編「火をめぐらす鳥」が、ぼくにとっては、また大江健三郎を読もうと、思うきっかけになった(そのわりには、その後あまり読んでないのだが)

これも前に買って、少し読んでいた菅野昭正『詩学創造』(平凡社ライブラリー2001)の一章が“帰れない帰郷者―伊東静雄”であることを思い出し読んでみた(短い)

その最後に伊東静雄が昭和21年に書いた詩があった(この年1946年にぼくは生まれた)
伊東静雄は1953年に死去している。

この詩は《一日の勤めがえりの若い女に託して》書かれた、とある。

タイトルは“都会の慰め”である。

いったい1946年の“都会”とはどのような光景であったか?(ぼくも知らない;笑)
いったいその都会での“勤めがえりの若い女”は、どのような容貌・服装であったか?

1946年ではないが、それからちょっと経って、ぼくの母は“勤めがえりの若い女”であった。

この詩を引用しよう;

そこに帰つてゆく前にゆつくり考へてみねばならぬ事が
あるやうな気がする
それが何なのか自分にもわからぬが
どこかに坐つてよく考へねばならぬ気がする
大都会でひとは何処でしづかに坐つたらいゝのか
ひとり考えるための椅子はどこにあるのか
― 伊東静雄“都会の慰め”


さて、この詩が書かれて65年近くが経過したのだが、ぼくは上記の“感慨”を共有する。

上記の詩が、“リアリズム”でないことは承知だが、ぼくにとって“大都会でひとり静かに坐って考えるための椅子”というのは、<喫茶店>の椅子である。

“スタバ”ではないのである。
“居酒屋”でも“こじゃれたバー”でも、もちろん、“ネットカフェ”でも、“漫画喫茶”でも、“ラヴホテル”でもない。

まさに“大都会”から、喫茶店が続々消えていく(ぼくは昨年から今年、行きつけの場所を次々に失った)

もちろんぼくには、自分の家に(いま坐っている)<椅子>がある。

しかし、
《そこに帰つてゆく前にゆつくり考へてみねばならぬ事が
あるやうな気がする》― “とき”がある、“こと”がある(ような気がする)


《どこかに坐つてよく考へねばならぬ気がする
大都会でひとは何処でしづかに坐つたらいゝのか
ひとり考えるための椅子はどこにあるのか》


しかし、ぼくがそのような場所の<椅子>を探すのは、かならずしも“ひとり考える”ためでは、ない。

“ひとり考える”他者(他人)を、見たいからである。






2010年8月

2010-08-31 10:11:23 | 日記


8月が終わる、この8月が終わる。

天声人語は月末の“今月の言葉”;

〈八月五日(日)晴れ〉。少女の日記は〈明日からは、家屋疎開の整理だ。一生懸命がんばろうと思う〉と結ばれている。13歳。原爆で亡くなる前日だった。平和と安穏を求める8月の言葉から▼広島の平和記念式に米国大使が初参列した。東京都に住む被爆者、野村秀治さん(78)は「行動」に期待する。「見たいのは、『核のある世界』の幕を開けた米国が核廃絶の先頭に立って行動する姿です。その時、私は初めてあの国を許せる」▼長崎の式では、地元高校の山下花奈さん(17)が司会を務めた。曽祖母(93)に惨状を聞いて育った被爆4世。「私は、被爆者の声を聞ける最後の世代かもしれない。原爆の恐ろしさを5世、6世にも伝えていきたい」▼イラク戦争で殺された市民を数え続けるNGOの設立者、ハミット・ダーダガンさん(49)。「理不尽に殺された人たちをカウントするのは、その死を記憶にとどめ、弔うことでもある」。テロを含め10万人、なお増加中▼その戦争に反対する国連演説で注目されたドミニク・ドビルパン元仏外相(56)は「米国人が大好きだから、直言する義務があると感じた」と振り返る。「私の声ではあったが、同時に、世界中で戦争反対のデモを繰り広げた人々の声だと意識していた」▼「ここにいれば生活の心配はないが、暮らしを向上させたい。子どもにも夢と目標を持たせたい。生き直すため、日本へ行く」。ミャンマーで迫害を受け、タイの難民キャンプで暮らす少数民族の男性(24)だ。まず5家族が、戦争を65年していない国に渡る。(引用)



すなわち“8月”には、<戦争と平和>に関する言葉が発せられた。

すなわち、広島・長崎、イラク戦争、“65年間戦争をしていない国”である。

これらの<言葉>が固有名をもった言葉であるならば、そのひとつひとつは貴重である。
けれども、それらの“独自の言葉”を天声人語としてまとめてみせるとき、それらはすべて虚偽となる。

上記の文章では、最後の段落である。

なぜマスメディアは、このような気休めの結論を述べ続けるのか。
最後の段落で“65年間戦争をしていない国”に安堵を感じる人にとっては(そういうひとがいるならば)、<戦争と平和>も盆踊りや花火大会のような季節の行事・風物にすぎない。

上記天声人語を読んだだけで、明瞭なのは“米国”という戦争国家の現存である。

また、その米国と戦争し負けた国の<戦後>から<現在>につらなる奇妙にねじくれきった関係と時間である。

《「米国人が大好きだから、直言する義務があると感じた」》のであろうか?

つまり<戦争と平和>は、《米国人が大好きだから》とかいう次元にあるわけでは、ない。

《「理不尽に殺された人たちをカウントするのは、その死を記憶にとどめ、弔うことでもある」》

しかし“数”としてカウントされるほかない死者、そのカウントからも漏れてしまう発見されない死者をだれが弔うのか。

<体験>した人々、<生き残った>人々が死んでいくとき、<記憶>はどのように引き継がれるのか。


記憶すべきものは、“あの戦争体験”や“ヒロシマナガサキ”や“イラク”だけではない。

<戦争>だけではない。

もしこの65年が、日本にとって<平和>であるなら、その平和のなかで無残に死んでいった死者たちを、どうカウントするのか?

あるいはまた、“ぼくたち”には、“死者を弔う”余裕があるのだろうか。

ときには、<弔い>は、<忘却>の儀式である。

記憶せよ、記憶し続けよ。

しかしそもそも認識しなかったことを記憶することは、不可能である。

ぼくはいま<認識>という言葉を使った、しかしそもそも<認識する>とはいかなる行為か?
<体験する>、<経験する>とはいかなる作業か?

わたしが毎日ボーっと生きてきた、生きていることが、ただちに、<体験>であることも<経験>であることでも、ない、ことは、ぼくにも64年生きて、わかった(笑)

“私は必死で生きてきた”と思うことも同じである(もちろんぼくも、“時には”そう言いたい)

具体的には、この“戦後65年”、あまりにも多くの<人の名>が忘れ去られつつある。<注>

メディアに露出する<人の名>が、きわめて恣意的に限定されている。

この戦後を担った、多くの“人々”の存在が、マジックのように消されつつある。

現在巷で発せられる<人の名>は、ようするにテレビに出ているひとだけである。

だから<日本>はこんなにも貧困で、うすぺっらな社会となった。

<若者>どもは、単に無知である。

<老人>は、パソコンが苦手で、発言しない。

ゆえに、無知には限りがない、のである。


大学先生方に望む。

あなたたちの総力を結集して<日本戦後思想史>を書いてほしい。

それがあなたたちの職業的義務である。

もちろんそのためには、あなたがた自身が無知(無恥)であってはならない。






<注>

ここでぼくは少しも難解なことを言おうとしていない。

たとえば、“大岡昇平”、“日野啓三”、“大江健三郎”、“中上健次”、“丸山健二”という名をまったく知らないひとには、“大岡昇平、日野啓三、大江健三郎、中上健次、丸山健二”は、単に存在していないのである。

“渡辺淳一”や“村上春樹”や“阿部和重”や“金原ひとみ”は、存在しても(笑)

上記の<名>は、任意である(笑)

しかし上記の名が、<小説家>であることは、意図的である。
<日本戦後思想史>の“主力”が、小説家や文芸評論家であるとぼくは考える。

もちろん、たんに<名>だけ知っていればよいわけではない。
“小説家”なら、そのひとの小説を読まずばなるまい。

しかし<名>さえ知らないなら、そのひとは、日本史にも世界史にも、“存在していない”。

<忘却>というよりも、まったくの<無>(虚無、からっぽ、emptiness)である。






<追記>

たとえば<戦争>について考えるとき、<戦争と日本人>について考えるとき、大岡昇平の存在は、唯一ではないが、絶対に逸することのできない存在である。

それは大岡が『俘虜記』、『野火』、『レイテ戦記』などの“戦争体験-戦争記録もの”を書いた“から”ではない。

彼の戦争を直接主題としない“表現を含む”すべての実存を、読む。



<追記2>

“ぼくが本当に若かった頃”、<希望>だったのは、何人かの時空を超えた“外国の人の名”であると同時に、<大江健三郎>と<吉本隆明>という名だったのだ。

しかしぼくは彼らを“信じた”のではなかった。







(私の魂)といふことは言へない
その証拠を私は君に語らう

しかも(私の魂)は記憶する
そして私さへ信じない一篇の詩が
私の唇にのぼつて来る
私はそれを君の老年のために
書きとめた

― 大江健三郎“火をめぐらす鳥”(『僕が本当に若かった頃』所収)に引用された伊東靜雄の詩の一節




新聞がいっせいに太鼓を叩く

2010-08-30 22:27:56 | 日記


★ こうして「この全国民の応援」を軍部が受けるようになるまで、くり返しますが、新聞の果たした役割はあまりにも大きかった。世論操縦に積極的な軍部以上に、朝日、毎日の大新聞を先頭に、マスコミは競って世論の先取りに狂奔し、かつ熱心きわまりなかったんです。そして満州国独立案、関東軍の猛進軍、国連の抗議などと新生面が開かれるたびに、新聞は軍部の動きを全面的にバックアップしていき、民衆はそれに煽られてまたたく間に好戦的になっていく。それは雑誌「改造」で評論家の阿部慎吾が説くように、「各紙とも軍部側の純然たる宣伝機関と化したといっても大過なかろう」という情況であったんです。マスコミと一体化した国民的熱狂というものがどんなにか恐ろしいものであることか、ということなんです。

★ そして昭和7年3月には満州国が建設され、9月8日に本庄軍司令官以下、三宅参謀長、板垣高級参謀、石原作戦参謀らが東京に帰ってくると、万歳万歳の出迎えを受け、宮中から差し回しの馬車に乗り、天皇陛下にこれまでの戦況報告をします。黙って聞いていた天皇は尋ねます。「聞いたところによれば、一部の者の謀略との噂もあるが、そのような事実はあるのか」。これに対して本庄は「あとでそのようなことを私も聞きましたが、関東軍は断じて謀略などやっておりません」とぬけぬけと答えました。天皇は「そうか、それならよかった」と言ったようです。

★ すでに申しましたように、この人たちは本来、大元帥命令なくして戦争をはじめた重罪人で、陸軍刑法に従えば死刑のはずなんです。それどころか本庄軍司令官は侍従武官長として天皇の側近となり、男爵となる。石原莞爾は連隊長としていったん外に出ますが、間もなく参謀本部作戦部長となり、論功行賞でむしろ出世の道を歩みました。字義通り、「勝てば官軍」というわけです。

★ 昭和がダメになったのは、この瞬間だというのが、私の思いであります。

<半藤一利『昭和史 1926-1945』(平凡社2004)>





水の夢

2010-08-30 20:24:57 | 日記


この夏はどこへも行かない(行けない)

外出すると街路は燃えている。

夜もじっとりとまといつく。

首から上、が、いつも茹ったようである(赤むくれの奇怪な頭部にふたつの溶け出しそうなうるんだ穴)

ややオーバーに言うとここ1ヶ月、自分が夢遊病のように生存している気がする。

たしかに机の前では、<本>という紙をひろげて、水を夢見ることはできる。

海、川、湖、雨に濡れた舗道、雨上がりの水溜り。

胎児は水のなかに浮かんでいる、人間のからだはほとんど水である、人類文明は大河の流域で生まれた。

水、水、水、水、水、水が・・・・・・

水気の多い果実、水気のおおい肉体(笑)

水。

青、緑。

透明な、ゆらめく光、輝き、プリズム、洪水、決壊する堤防、決壊するダム。

ぼくのこころの水位も上がる、あるいは、乾燥しひび割れた割れ目に残留する、水。

water in my hand





人間の不遜(ふそん)さ;Here comes the flood

2010-08-30 14:08:12 | 日記

★ また最近のユーフラテス流域の発掘調査によって、大洪水の跡が発掘されており、このノアの洪水の物語の核は、チグリス、ユーフラテス川の氾濫の記憶に基づいた、必ずしも架空のものではないとも考えられる。またバベルの塔は当時のバビロンの神殿の巨大な塔を指しているかもしれない。しかしこのような史的考証は、たとえそれらのことが確認されたとしても、それは聖書の核心に触れたことにはならない。それよりも、イスラエルの民はメソポタミヤやエジプトの文明の中に、人間の不遜さを嗅ぎとったのであろう。その人間の不遜さや奢り(おごり)への警告が、バベルの塔やノアの洪水の物語の背後にある。そして人間の不遜さは現代文明の問題でもある。

★ アブラハム、イサク、ヤコブの族長物語は神話ではなく伝説である。イスラエルの民は遊牧民であった。そしてそのことが彼等のメソポタミヤやエジプト文明に対する批判の遠因である。チグリス、ユーフラテス、またナイルというような大河流域に栄えた古代文明は、肥沃な大地の上に営まれる農耕文化であった。カルチャーの語源は「耕す」である。その場合、宗教は当然土地に結びつき、その神は豊饒と生産の神になる。そして人間は自然を通して神と結びつく。このような文化を劣った文化であるとするいわれはないが、それが古代社会でのように、土地と支配者と奴隷的農民という制度で維持されるようになると、いろいろな形で人間の堕落をもたらす。支配階級の人間の不遜さということもその一つである。

★ それに対して遊牧民は土地に結びつかない。草を求めて荒地を移動する。宗教も、土地に結びついて聖所に安置される神ではなく、部族の歴史を通して人間に結びつくようになる。その神も、豊饒と生産の神というよりも倫理的な性格の神になる。何故なら、荒地と太陽というきびしい自然の中では、人間は自分の態度をはっきりさせなければ生きていけないからである。自然との協調よりも、きびしい環境の中での決断が要求されるようになるのである。

<小田垣雅也『キリスト教の歴史』(講談社学術文庫1995)>






★ だが、あらゆる部族の名前がある。砂一色の砂漠を歩き、そこに光と信仰と色を見た信心深い遊牧民がいる。拾われた石や金属や骨片が拾い主に愛され、祈りの中で永遠となるように、女はいまこの国の大いなる栄光に溶け込み、その一部となる。私たちは、恋人と部族の豊かさを内に含んで死ぬ。味わいを口に残して死ぬ。あの人の肉体は、私が飛び込んで泳いだ知恵の流れる川。この人の人格は、私がよじ登った木。あの恐怖は、私が隠れ潜んだ洞窟。私たちはそれを内にともなって死ぬ。私が死ぬときも、この体にすべての痕跡があってほしい。それは自然が描く地図。そういう地図作りがある、と私は信じる。中に自分のラベルを貼り込んだ地図など、金持ちが自分の名前を刻み込んだビルと変わらない。私たちは共有の歴史であり、共有の本だ。どの個人にも所有されない。好みや経験は、一夫一婦にしばられない。人工の地図のない世界を、私は歩きたかった。

<M.オンダーチェ“泳ぐ人の洞窟”―『イギリス人の患者』>





哲学は実用品じゃない

2010-08-30 09:46:17 | 日記


今日の読売編集手帳を読んでください;

哲学の庶民への普及を理想に掲げた哲学者の井上円了が、東京・中野に道場を開設したのは今から約100年前のことだ。現在は哲学堂公園として整備され、地域の憩いの場となっている◆カントや孔子らの業績を伝える四聖堂や散策路が当時の面影を伝えている。古今東西の哲学を体感できる“テーマパーク”のような施設だったのだろう。だが、円了の理想とは裏腹に、哲学は実用性に乏しい学問と受け止められてきた◆その誤解が、今ようやく解かれつつあるのかもしれない。米ハーバード大学で人気の哲学講義を持つマイケル・サンデル教授の「これからの『正義』の話をしよう」の邦訳本がベストセラーとなっている。先日、東大・安田講堂で行われた教授の特別授業も、約1000人の聴講者で満席となった◆オバマ大統領は広島、長崎の原爆投下に責任があるのか。所得格差の拡大をどう考えるか――。教授はカントやベンサム、アリストテレスらに依りながら問題を整理して論じていった◆古典哲学が現代の複雑な問題に論理的な回答を用意している。哲学とは何かについて改めて考えさせられる。(引用)


ポイントは、

① だが、円了の理想とは裏腹に、哲学は実用性に乏しい学問と受け止められてきた。
② その誤解が、今ようやく解かれつつあるのかもしれない。
③ オバマ大統領は広島、長崎の原爆投下に責任があるのか。所得格差の拡大をどう考えるか――。教授はカントやベンサム、アリストテレスらに依りながら問題を整理して論じていった◆古典哲学が現代の複雑な問題に論理的な回答を用意している。
④ 哲学とは何かについて改めて考えさせられる。


要するに<哲学>には、実用性があるか、そうでないのかがテーマである。

読売新聞は《米ハーバード大学で人気の哲学講義を持つマイケル・サンデル教授》の本が日本でベストセラーになり、《安田講堂で行われた教授の特別授業も、約1000人の聴講者で満席となった》ということだけを根拠に、《古典哲学が現代の複雑な問題に論理的な回答を用意している》と結論づけている。

ぼくはマイケル・サンデル教授というひとをまったく知らないが(笑)上記のような結論付けが<哲学的でない>ということを感じるほどには、<哲学>にこだわっている。

どうして<哲学>は、《オバマ大統領は広島、長崎の原爆投下に責任があるのか。所得格差の拡大をどう考えるか――》などという“問題”に解答を与えなければならないのか?

<哲学>とは、その程度の<問題>を“整理し、回答するため”に存在してきたのだろうか?

まさに、《哲学とは何かについて改めて考えさせられる》。

しかしこの場合、《改めて》という言葉は、これまでに“哲学とは何か”について考えたことがあるとか、“哲学とは何か”について(ずっと;笑)考えてきたことを意味する。

上記の読売編集手帳の“文章”には、そういうことが微塵も感じられない。

すなわち、<哲学>というのは、<文章>のことである。

<古典哲学>を整理・応用すれば、“現在の問題”が解決できるという“哲学の実用性”こそ、<哲学>に対する完全な無理解である。

<哲学>は、《論理的な回答》ではない。<注>

まったく何もわかってないひとに、文章を書いてほしくない。

それとも、“わかっちゃいるけどやめられない”のであろうか。

馬鹿!






<注>

たとえばカントにとっては、<哲学>は、理性-批判である。

理性自体への批判である。





2010-08-29 12:18:24 | 日記


★ 母は芸妓である自分が、押しかけるように、大岡の家へ来てしまったことについて、父はともかく、父の兄弟たち対して負い目に感じていた。(略)ただ父と共に、貧乏に耐えることで、母はその志を通した。すると持参金も縁故もなく、地主である大岡の家から見れば、元「醜業婦」(これが田舎の地主の言葉である)という負い目を持つだけの嫁になってしまったのである。

★ 自分の生んだ子の盗癖の発見は、母にとっては天地がひっくり返るような打撃であったに違いない。

★ 父の帰りのおそい日で、母は十畳の居間の火鉢の前で、編物をしていた。私は母の前に正座し、
「お母さん」と呼んだ。
「はい、なんですか」
とすぐ返事が返って来たが、母はそのまま編物を続けた。この時、母が顔をあげて、私の眼を見てくれたら、私は涙と共に告白していたろう。しかし母は下を向いたまま、編物の手を休めなかった。それは「お前がなにをいいたいのかわかっていますよ」といっているように見えた。「いわなくてもいいのですよ」と。

★ 明くる日、顔を合わせても、母はなにもいわなかった。「昨夜はどうしたのですか。お母さんになにかいうことがあったんじゃないの」とは訊かなかったので、私は母はすべてを知っていた、と感情的に判断しているわけである。そして死ぬまで私はこのことについて、母と話をする機会はなかった。

<大岡昇平『少年―ある自伝の試み―』(講談社文芸文庫1991)>



★ しかし彼が谷の向こうの兵士に答え、私がその薔薇色の頬を見た時、私の心で動いたものがあった。

★ それはまず彼の顔の持つ一種の美に対する感嘆であった。それは白い皮膚と鮮やかな赤の対照、その他我々の人種にはない要素から成立つ、平凡ではあるが否定することの出来ない美の一つの型であって、真珠湾以来私の殆ど見る機会のなかったものであるだけ、その突然の出現には一種の新鮮さがあった。そしてそれは彼が私の正面に進むことを止めた弛緩の瞬間私の心に入り、その敵前にある兵士の衝動を中断したようである。

★ 私は改めて彼の著しい若さに驚いた。彼の若さは最初私が彼を見た時既に認めていたが、今さらに数歩近づいて、その前進する兵士の姿勢を棄て、顔を上げて鉄兜に蔽われたその全貌を現した時、新しく私を打ったのである。彼は私が思ったよりさらに若く、多分まだ二十歳に達していないと思われた。

★ 彼の発した言葉を私は逸したが、その声はその顔にふさわしいテノールであり、言い終わって語尾を呑み込むように子供っぽく口角を動かした。そして頭を下げて谷の向こうの僚友の前方を斜めにうかがうように見た。(この時彼がうかがわねばならなかったのは、明らかに彼自身の前方であった)

★ 人類愛から発して射たないと決意したことを私は信じない。しかし私がこの若い兵士を見て、私の個人的理由によって彼を愛したために、射ちたくないと感じたことはこれを信じる。

<大岡昇平“捉まるまで”―『俘虜記』(新潮文庫1967)>



* この『俘虜記』最初の短編“捉まるまで”の最初に歎異抄からの引用がある;

  《わがこころのよくてころさぬにはあらず》





ぼくはただの個人である

2010-08-29 09:28:14 | 日記


昨日のブログに書いた;

《わたしが“この世間の愚劣な喧騒”に嫌気さし、<文学空間>に遊離しようとすること自体が、<政治-社会参加(アンガージュマン!)>であるからである》

この場合の“この世間の愚劣な喧騒”というのは、“小沢一郎問題”だけではない。

たとえば以下のような<問題>である;

例文1;
◆千葉法相の意向で、初めて東京拘置所の刑場が報道陣に公開された。自分が裁判員に選ばれて死刑判決に関与する立場になったらと、思いを巡らした人も多かったことだろう◆密室の情報公開が進むことに異論はない。他方、国民の8割超が死刑を容認する現実があり、犯人に極刑を望む被害者遺族の慟哭が続く限り、廃止論に火はつくまいと思う(今日読売編集手帳)


例文2;
▼ おとといの朝刊に「紙があって、よかった。」という広告が載っていた。日本新聞協会に加盟する全103紙が、紙の価値を再発見してもらおうと一斉掲載した。その軽さ薄さと裏腹に、紙にはどんな重い内容も盛ることができる。新聞に限らない。文芸も絵画も、楽譜も手紙も、人間の想像力や、伝えたい思いを紙は受け止めてきた▼広告の背景には電子時代への危機感がある。新しい端末が相次いで登場し、今後は電子の猛攻に紙がたじろぐせめぎ合いとなろう。わがことながら、紙媒体の先行きは安楽とはいえない(略)▼「紙のいのち」に恥じぬコラムをと念じつつ、日々至らざるの思いは残る。新聞紙に薄っぺらを嘆かれぬよう、残暑の夏に鉢巻きを締め直す。(今日天声人語)



例文1は“死刑制度”について、例文2は電子メディアによって“紙のいのち”が危機に瀕していることについて、述べられているらしい。

死刑制度については、ぼくはわりと最近のブログで述べた、繰り返さないが、この読売のレベルでは、死刑制度についてなにも言ったことにならない。
ゆえにこれらの“活字の羅列”は、無意味な喧騒(騒音)である。


例文2の紙と電子メディアの対比というのも、まったく無意味である。
要するに、ぼくはル・クレジオ『物質的恍惚』を紙で読もうが、アイパッドで読もうが、読めればいいのである。
すなわち何に書いてあるかではなくて、“何が書いてあるか”が問題である。
ぼくはアイパッドを持っていないし(欲しい!)、いまアイパッドで『物質的恍惚』は単に“読めない”のであるが、もしアイパッドで『物質的恍惚』が“読めるなら”、それはそれで気持ちが良いと思う。

もちろん“私は紙が好きだ”とか、“私は紙に印刷された活字が好きだ”とか、“私は紙をたばねた本という物体が好きだ”というひとは、ぼくと同じく趣味が良いひとだと思う。
しかし、現在のように紙としても役に立たない“新聞紙”など無くなっても、ちっとも困らないのである。
まさに新聞紙は、<薄っぺら>である。


たしかに今ぼくはパソコン画面に電子文字を入力しているのだが、こういう作業があまり好きでないことも、事実である。
だいいち最近ますます、眼に悪い。

昨日は2冊の“紙の本”を読んでいた。
ビュトール『心変わり』と大岡昇平『少年』である。

この二冊の本(文庫)を開いて、そこに印刷された<文字>をパッとみると、『少年』の方が漢字が多くて読みにくいのである(笑)
どうもぼくが“翻訳書”が好きなのは、たんにこういう事実による。

しかし当然、“読みやすいか読みにくいか”は、その文章の<価値>とは関係ない。

まさに、見かけの『心変わり』の読みやすさと、見かけの『少年』の読みにくさ自体が、ある種の<文学>の本質を提示している。

文学の問題とは、こういう問題であって、それは、“紙か電子か”などという瑣末な問題では“ない”のである。


さて現在のぼくにとっての“真の問題”とは、<いかに老化し、いかに死ぬか>ということに集中する。

つまり<どの本>を読むことも、その問題に関連する。
もちろん今、『物質的恍惚』を読むことも、『心変わり』を読むことも、『少年』を読むことも、その問題に関連している。

大岡昇平氏が、自伝『少年』を書き始めたのは、ほぼ現在のぼくと同じ年齢であった。

すなわち大岡昇平氏が64歳だった1973年に『少年―ある自伝の試み』は「季刊文芸展望」に連載開始された(単行本刊行1975年)

ぼくはこの『少年』をはじめて読む。
そして昔読んで感銘を受けた『成城だより』を読み返す。
この『成城だより』は、大岡氏が71歳からの日常(生活)を記録した<日記>である。

すなわち、いかにして、ひとりの老人は死を迎える日まで生きたか。


ぼくが読みたいのは、そういう事実であって、“世間の無駄ばなし”では(もはや)ないのである。


大岡昇平の“小説”を読み返し、書きたいこともたくさんある。
『俘虜記』、『野火』は傑作である(戦後日本文学はここからはじまった)
『レイテ戦記』まだ上巻56ページで止まっている(笑)― 必ず読む。






無名であることの発見

2010-08-28 08:49:08 | 日記


薄くてありふれた<本>がおそるべき本であることもある。

いま書店の棚を見れば、“新書”はたくさんある。
ぼくが若かった頃は、岩波新書、中公新書、講談社現代新書であったのが、現在では、ほとんどの大手出版社が“新書”を出している。

ぼくの本棚や部屋にも新書はたくさんある。
しかし読み終わった新書は少ない。

新書は、あまりよく知らない領域への手軽な入門書、概説書であろうか。
しかし時に、同じ新書でありながら、くっきりとした“個性”をそなえている本がある。

たとえば高橋睦郎『読みなおし日本文学史』を加藤周一『日本文学史序説』に“匹敵する本”と言ったら、加藤ファンは怒るだろうか。

加藤周一の本は、上下2冊本であり、そこに述べられた“本(日本文学の情報)”はたくさんある。
そこに記入された<本>の数だけでも加藤氏の“教養”のすごさを知るには充分である。
もちろん、そこには、情報の“量”だけがあるのではなかった。
その情報の量を“文学史”として記述する加藤周一の視点があった。

それにたいして、わずか220ページで語られる高橋睦郎の“文学史”は、情報的に劣っているのだろうか。
それは、たしかに詩人の“直感”である。

しかしこの直感が、日本文学史という膨大な情報を射抜くこともあるように思える。

すでに高橋氏の直感は、この新書の“はじめに=<無名であることの発見>”に端的に表明されている、引用する;

★ わが国の文学史は、歌、連歌、俳諧を中心に、歌の運命の歴史、さらにはっきりいえば歌の漂泊の歴史、さすらいの歴史と捉えることができる。もちろん、歌に従って歌びとも漂泊した。その漂泊は歌を表に立てての読人しらずとしての、無名者としての漂泊だった。

★ 歌の漂泊はどこから始まったか。大陸から先進文化の詩が入ってきた時からだ、と私は考えている。新来の詩は‘からうた’と意識され、それまでただ‘うた’と呼ばれていた歌は‘やまとうた’となった。かつて神の歌のいた位置に人間の詩が坐り、神の歌はかつての位置を追われてさすらわなければならなかった。歌はさすらいながら多くの作品となって残った。

<高橋睦郎『読みなおし日本文学史』(岩波新書1998)>



ぼくが今こういうことを書いているのは、“小沢一郎がどうしたこうした”というこの“世相”と関係がある。

また“個人的に”、近日『物質的恍惚』を中心にル・クレジオを読んでいることにも、関係がある。

すなわち、“文学”や“文学史”が(そう呼ばれるものが)、“政治”や“社会”や“世間”に関係がないことなど、まったくない。

わたしが“この世間の愚劣な喧騒”に嫌気さし、<文学空間>に遊離しようとすること自体が、<政治-社会参加(アンガージュマン!)>であるからである。

たとえば、上記引用で<神>と呼ばれている“もの”と、キリスト教の<神>はまったく異質である。

しかし、それは<国粋主義>を意味しない。







It is the evening of the day
I sit and watch the children play
Smiling faces I can see
But not for me
I sit and watch
As tears go by

My riches cant buy everything
I want to hear the children sing
All I hear is the sound

Of rain falling on the ground
I sit and watch
As tears go by

It is the evening of the day
I sit and watch the children play
Doing things I used to do
They think are new
I sit and watch
As tears go by

<M.Jagger&K.Richards“As tears go by”>




ストレンジャー

2010-08-27 00:43:01 | 日記


もし人間が不死であったなら、“生きている”ということも、ない。

もし人間が病気を知らなかったら、生きているという実感もない。

だから、生のなかに死がふくまれている、ということも、死のなかに生がふくまれていることも、同時に成り立つ。

もちろん人間は、生物の、生命の連鎖という環境の一環である。
同時に、非生命という環境の一環でもある。

ヒトや動物が汗をかくように、植物や鉱物やガラスも汗をかいている。

冷たい氷水のグラスが汗をかいている。

しかし、人間やヒトといった抽象物があるわけではない。
あるのは、“私”とか“あなた”といった個物である。

これは(この個物は)、全環境(全物質)に裂開した傷口である。

そのような“モノ”として、私を想像してみる。

私が、生きている時、その傷口は膿んでいる、あるいは血を流している。

私が死ぬ時、傷口は閉じて、新しい皮膚となる。

ストレンジャー。

ストレンジャーとして、<この世界>を訪問したと、想像してみる。

最初、この環境=世界に出会ったとき、それは新鮮であった。

赤ん坊の“ように”、幼児のように新鮮だった。

長く滞在して、すべては惰性となった。

私は、驚かないし、感動しない、顔が硬直するのだ、“身体”が、“皮膚”が。
私は自分を、重い袋のように感じる(いったいなにがつまっているのか;笑)

あるいは、ナンセンスに驚き(笑い)、無-意味に感動している。

まじめなものなんか、どこにもない。

ゆえに、過度にまじめに語る、語らねばならぬように語る。
正論を言ってしまうのだ。

規範となった言葉、ヒトを説得する技術で語る。

ちょっと変わったことを“言う”ひとは、ムズカシイと言われる。

彼らには、言うべき言葉のリストが、この貧困なリストが、あらかじめ、決まっている。

ストレンジャー、月に吠える。

ストレンジャー、デクノボーのように歯軋りし、生きる。

死は美しいか?死は無意味か?無意味な死と有意味な死は、どう区別されるか?

自殺はただしいか?自殺は愚行か?自殺は自己決定か?あるいは自殺など一度も考えたことがないぼくにはなにか欠陥があるのだろうか?

ストレンジャー、変身。

しかし決して、ある朝起きてみても、カブトムシに変わっているわけではない。

ゴキブリを殺すとき、断末魔のゴキブリに、しばしの同情をおぼえるのはル・クレジオ的であろうか?それとも仏教的であろうか?

しかし“原罪”のブンカは、今日でも強力である。

すなわち、罪がなければ、罰はない、救いはない。

ストレンジャー、

今も、今日も、あさっても。

ときには、この世界を、初めて訪問したひとのように、この世界を見たいものだ。

はじめてあなたの涙と、笑顔を見たときのように、はじめてあなたの痛苦を感受できたときのように。








★ ぼくの死はぼくを裸にしてしまい、ぼくはぼろ切れ一つさえも身にまとっていることはできまい。ぼくがやって来たように手ぶらで、ぼくは帰ってゆくのだ、手ぶらで。

<ル・クレジオ ”沈黙”―『物質的恍惚』>





傷口

2010-08-26 19:21:01 | 日記



★ 一人の個人であること、この個人を作り、そして作られるにまかせること。それこそたぶん、他者たちへ向かう真の道である。この道が行きつくことはけっしてない。それはただ単に、無知と疑いのうちに行われる並行した歩みであって、その唯一無二の手助けとして、あの精確がもたらす証明不能な友愛がある。各人は各人の人生を持っており、そしてそれを一つの事業(わざ)として運んでゆくべきである。

★ 有用性、目的性、人間外の展望などの数々は騙し絵にすぎない。人間は人間であること以外の運命を持たない――彼の運命は“私的”なものなのだ。

★ 彼が怯懦のせいで、あるいは見かけ上の寛度のせいで、一つの苦しみまたは歓喜を、それが自分以外の人類にとって無益であるとの口実のもとに断念するたびごとに、彼は、彼を人間にすることによって他の人間たちに近づけることができるであろうものを断念しているのだ。無償性を、彼がそれを絶望と呼んでいるがゆえに断念するたびごとに、自分の純粋な自由をこそ彼は断念しているのだ。そして彼が苦しみと呼んでいるものは、彼にはそのことがほんとうにはわからないまま、すでに歓喜であったのだ。なぜなら明晰さというむき出しの世界、精神がそこで行動している世界においては、苦しみは歓喜の中に、そして歓喜は苦しみの中に住んでいて、その合一を解くことはとてもできないからだ。

★ 個別的なものを通して、彼はたぶん普遍的なものに触れることになろう。しかも、実際に、この世界の、その形の、この時の顕現においてそれに触れることになろう。



★ ぼくが死んでしまうとき、ぼくの知り合いだったあれら物体はぼくを憎むのをやめるだろう。ぼくの生命の火がぼくのうちで消えてしまうとき、ぼくに与えられていたあの統一をぼくがついに四散させてしまうとき、渦動の中心はぼくとはべつのものとなり、世界はみずからの存在に還るだろう。諾(ウイ)と否(ノン)の対立、騒擾、迅速な運動、抑圧などの数々はもはや通用をやめるだろう。眼差しの凍えかつ燃える流れが止まるとき、肯定すると同時に否定していたあの隠された声が語るのをやめるとき、この忌まわしく苦痛に充ちた喧騒のすべてが黙してしまうとき、世界はただ単にこの傷口を閉じて、そのやわらかで静かな、新しい皮膚をひろげるだろう。

★ 濃密な黒い幕がいっぺんに落ちかかり、しかもぼくはそれに気づきもしないだろう。ぼくは征服するために作られたのではない。自分にとってきつすぎる流れを受けて火を発するほそい糸にすぎず、この糸はさまざまの物の稜角を照らしだそうとして燃え上がるのだ。

★ もうすでに死んでいる、そう、死んでいるのだ、ぼくが生きてあるためにした一つ一つの動作のたびごとに何百万べんも。

<ル・クレジオ『物質的恍惚』>






顔;グレン・グールドの手袋

2010-08-26 09:16:27 | 日記




秘密の中の秘密
硫黄の臭いのするサラバンドのステップを描いてゆく簡単で不可解な象(かたち)を知るために、

原初のゲームが
身を起こし、骰子(さい)を投げるのを見るために

ぼくの眼で
眼というものが見る権利のないものを観察するために
そしてぼくの皮膚の上に
ぼくの皮膚がけっして体験する権利のないものを感ずるために

<ル・クレジオ『物質的恍惚』>