昨日までの眩暈のするような陽射しが、今日は雨に変わったが、蒸し暑い。
この蒸し暑い日に、死刑制度について“考える”のは、もっと暑苦しい。
けれども、これは今日の“タイムリーな”話題である、ツイッターなどもこの話題で姦しいようだ。
ぼくもかつてのブログで死刑制度について書いたことがある。
そのころぼくは死刑制度に“反対”の立場であった。
現在、ぼくは“分からない”という“立場”に変更した。
ぼくがここで言いたいのは、ある事態にたいして、賛成か反対かを“決める”こと自体である。
ある日、あなたに“世論調査”の電話がかかり、“あなたは死刑制度に賛成ですか、反対ですか?”と聞かれた時、あなたには、それに即答する義務はない。
“私はそれについて考えているが、まだ結論は出ていない”という“回答”もあり得るのだ。
しかしこの場合は、ほんとうに“考えている”必要があるのである(笑)
今日ここで考えるために、今日の読売新聞から二つの文章を引用して、若干“考えて”みたい;
☆ 例文1:読売新聞社説から
内閣府が今年2月に公表した世論調査では、死刑容認派が過去最高の85・6%を占めた。被害者や遺族の感情に配慮する意見や、凶悪犯罪の抑止力になることを期待する意見が多かった。
世界的には欧州を中心に、死刑を廃止か停止している国の方が維持している国よりも多い。だが日本では、国民の大多数が死刑を容認している現実を踏まえ、その声を尊重する必要があろう。
法相は自ら希望して、拘置所で2人の刑の執行に立ち会った。記者会見では「見届ける責任があると思った」と述べた。法務行政の最高責任者が執行に立ち会うのは、初めてのことだという。
法相はまた、死刑制度のあり方について、省内で本格的な議論を始める方針を明らかにした。
昨年から裁判員裁判が始まっており、いずれ裁判員が裁判で死刑の選択を迫られる日も来る。
国民が責任の一端を担う以上、死刑制度の議論を深めること自体には意味があろう。だが、最初から廃止や停止の結論ありきでは、国民の理解は得られまい。
死刑に関する情報の公開も欠かせない。法相が東京拘置所の刑場を報道陣に公開する方針を示したことは前進と言える。
これまで法務省は、死刑について徹底した「秘密主義」を貫いてきた。執行した死刑囚の氏名まで公表するようになったのは2007年以降である。
刑場の構造、執行の方法、死刑囚の生活――。そういった情報が提供されることが、国民一人ひとりが死刑制度を考えるきっかけになるだろう。
(2010年7月29日01時08分 読売新聞)
★ 問題点
① 世論調査で、死刑制度賛成が85・6%を占めたという数字は信頼できるか?
② また、その数字が“正しいとしても”、《日本では、国民の大多数が死刑を容認している現実を踏まえ、その声を尊重する必要》というのは、どういう意味か?
国民の大多数が“まちがったこと”を信じていることも多い。
③ その“国民の大多数が”、死刑制度に賛成している根拠は、
A:被害者や遺族の感情に配慮する
B:凶悪犯罪の抑止力になる
である。
ぼくはBについては、まったくそんな効果はない、と思う(犯人自身にも、犯罪予備軍にも)
問題はAである。
《被害者や遺族の感情に配慮する》というのは、ずいぶんもって回った欺瞞的表現である。
要するに被害者の関係者は、加害者に報復したい、ということである。
あまり“上品”ではないが、ぼくはこの感情は支持する。
だから、ぼくは迷っている。
しかし、ぼくが愛する者を殺した犯人に“復讐”するのに、“国家の手”を借りてしまっては、結局気は晴れない、であろう。
④ この社説で、まったく変なのは(論理矛盾!)以下の部分である;
《国民が責任の一端を担う以上、死刑制度の議論を深めること自体には意味があろう。だが、最初から廃止や停止の結論ありきでは、国民の理解は得られまい。》
みなさん!この文章のどこが間違っているかを指摘してください。
つまり、ここで読売は、《最初から廃止や停止の結論ありき》を批判している。
しかし、読売新聞は<最初から廃止や停止の立場を否定>しているのである。
読売新聞は、<最初から死刑制度を存続せよ>という立場なのである。
こういう“自己矛盾”言説を掲げる新聞の社説を読んでいても、どうしようもないなー、と今日も思う。
もっと面白いのは“こっち”である;
☆例文2:読売編集手帳から
サンテグジュペリの『星の王子さま』で、狐が王子さまに言う。〈肝心なことは目では見えないんだよ〉◆誰かが誰かを殺す。神様が一部始終をビデオに収めていたならば、正視に耐えない凄惨な映像だろう。そういうビデオは、この世に存在しない。目に見えなくても、心には刻んでおきたい「肝心なこと」である◆宇都宮市の宝石店放火殺人事件などで死刑が確定した2人の死刑囚にきのう、東京拘置所で刑が執行された。千葉景子法相は足を運び、立ち会ったという。拘置所で「見た場面」には、思うところ、感じるところがいろいろあっただろう◆自分の命令によって消える命の最後を見届けた行為には敬意を表しつつ、思う。死刑制度の是非を議論する場合には「見た場面」だけでなく、「見ぬ場面」にも思いを致してほしい、と。6人の人間が縛られ、衣服にガソリンをまかれ、焼死する場面は、目で見ることができない◆死刑執行の報に「ああ、あの事件…」と思い出した。〈思ひ出すとは忘るるか 思ひ出さずや忘れねば〉(閑吟集)。遺族は事件を思い出しはしなかったろう。片時も忘れぬゆえに。(2010年7月29日01時13分 読売新聞)
★ 問題点
はてさて読売新聞は“サンテグジュペリ”(アントワーヌ・ド・サン=テグジュペリのこと)まで持ち出してなにが言いたいのだろう?
①“目で見えるもの”と“目で見えぬもの”
これは、“哲学的”テーマである(爆)
メルロ=ポンティには『見えるものと見えざるもの』という本があるので参考にしよう!
この場合、“見えるもの”は殺人現場の凄惨な光景と、死刑執行の(ぼくは見たことがないので想像だが)管理された死である。
たしかに、ぼくも大部分の人々も、この“二つの光景”を実際に目にしたことはない(この編集手帳の書き手は、目にしたのか?)
しかし、“ぼくら”は、TVドラマや映画や小説で、“殺人現場の凄惨な光景”を嫌になるほど目にしている。
これより、数少ないが、“死刑執行”の場面もこれまで、何度も“映像”として再現-表現されている。
しかしたしかに、これらは“つくりもの”であって、“リアル”ではない。
② ゆえに、“目に見えないもの”を<想像>することが、必要である。
③ 《遺族は事件を思い出しはしなかったろう。片時も忘れぬゆえに》
たしかにそうであろう。
しかし、自分の子供や親や家族や近親者を殺すものもいる。
一方に“凶悪犯がいて”、一方に“善良な市民”がいるわけではない。
そういう“単純化”は決して許されない。
また、“思い出せないほど、忘れらないこと”というは、このような“刑事事件”のみではないのである。
“国家の犯罪”というようなものもあるようである。
まさに、ある<事件>が、忘れようもなく自分の記憶であることが、この現実の認識であると“同時に”、<歴史認識(事件の思想の)>である。
読売新聞さん、ものごとの“短絡化・単純化”は、いけません。
そういう“わかりやすい言葉”が、<大衆>を“動員”するとしても。
<追記>
最近のぼくのブログは、“引用”もふくめて長いのである(笑)
これはよくない傾向である。
しかし、自分が批判する“言説”を引用しなくては、フェアじゃない。
あるいは、自分が“支持する”言説を、ただ引用し、その根拠を示さないのも、不親切である(ぼくにもそういうブログもある)
上記ブログでぼくが“言いたいこと”を要約すると、以下のことである。
たとえば“死刑制度”という問題は、他から切り離されて“単独で”あるわけではない。
だから、“死刑制度”という問題“だけ”について、賛成か反対かをいくら“論じても”無駄である。
世界は丸いから、すべては繋がっている(関係している)と思う。
これがぼくの“立場”である。
逆に死刑制度論議“から”、世界(との関係)に向かっていくひとがいるのなら、それはそれで良いことである。
ただ死刑制度に限らず、現在の“すべての個々の問題”の論議が、“そのように行われていない”と感じる。
そういう“現在の論議”を、“ただのおしゃべり”と呼ぶ。
まさにメディアと大学先生とタレントが率先して“おしゃべりにはげみ”カネを稼ぐ。
一見明瞭な論理展開や、すんばらしい“結論”がなくてもよいのである。
歴史上のどんな“偉大な宗教家-哲学者-思想家”だって、完璧な解答を人類に与えたためしなどないのである。
だからあなたにも、まだ考える(感じる)ことは、ある。