Don't Let Me Down

日々の雑感、引用。
言葉とイメージと音から喚起されるもの。

ベイシックな認識

2010-07-19 13:38:40 | 日記

ぼくはマルクスをきちんと読んだことがないので、いまその言葉を正確に引用できないが、
マルクスはどこかで、“われわれの五感は人類史の労作である”と言っている。

マルクスの文章は(翻訳でしか読めないが)、かなりわかりづらい。
けっして、名文ではありえない(むしろ悪文であろう)
すくなくともぼくにはそうである。
しかし最近ちょっと読んでいて(長谷川宏新訳の『経済学・哲学草稿』;光文社古典新訳文庫2010)、このひとの文体は“弁証法的”なんだろうなあと思った。

悪文にもかかわらず、マルクスという人は、すぐれた“キャッチフレーズ”を発するひとであったと思う。

《世界のプロレタリアートよ、団結せよ》
《哲学者はこれまで世界を解釈してきただけだ、必要なのは、世界を変革することだ》
《人間の本質とは、個人の内面にある抽象物ではない、それは社会関係のアンサンブルである》

などなど、上記の引用は“うろ覚え”であって、原文(翻訳)に直接当っていない。
しかし、このような“フレーズ”として、ぼくの頭に残ったのである。

もういちど最初の引用にもどる;《われわれの五感は人類史の労作である》

この言葉のポイントは、<五感>と<労作>である。

すなわち、たとえば、あなたは、<感性>と<知性>をどう区別するか?

あるいは、<理性>、<感覚>、<知覚>、<感情>、<合理性>、<論理性>、<実証性>、<倫理性>、<情感>、<情念>を。

厳密にいえば、上記の<概念>を並べることに、混乱があるかもしれない(つまりぼくはわざと並べた)

しかし“厳密であること”は必要であるが、ぼくたちは、“それほど厳密でないこと”を記憶することが多い(のではないか?)

すなわち(この場合)、<五感>という言葉でマルクスが“意味したこと”は、了解できる。

それが、“人類史の労作である”ということは、ただちに了解できることではない。
だからこそ、<この言葉>が、きょうのぼくに、思い出された。

だからといって、ぼくが“マルクス主義者”になるわけではない(笑)

ぼくとしては、<思想史>(<哲学史>でも<文学史>でもなく!)を勉強したい。<注>
<文学史>が無意味とは思わないが、<文学>は、一冊の作品(本)であり、ひとりの作家である。


たとえば、そんなに新しくない本(笑);ウォーラースティン+グルベンキアン委員会による『社会科学をひらく』(藤原書店1996)>をぼくは昨日から読みはじめた。

この本は、まず<社会科学>という“学”の分類の歴史を述べるものである。

なぜ“それ”は、<歴史学>、<経済学>、<社会学>、<政治学>、<人類学>として“成立した”か?
<地理学>、<心理学>、<法律学>は、<社会科学>のなぜ“周辺”なのか。

さらに<社会科学>と<科学(自然科学)>のちがいは何か?
さらに<人文学(人文科学)>とのちがいは何か?

しかしこれらの(大学というシステムでの)<学>の分類は、“正当”であろうか?

この本のタイトル『社会学をひらく』の“ひらく”とは、原著(英語!)では、“open”である。

“オープン”という英語は、小学生でも知っている。

すなわち、“閉じられたもの”があるとき、“オープンしなければナランもの”は、たくさんある。







<注>

ぼくに<思想史>の魅力を告げたのは、スチュアート・ヒューズの現代思想史3部作とヒューズの“弟子”のマーティン・ジェイの“エッセイ”『暴力の屈折』であった。

また、まだ読み切れてない本=ミシェル・フーコー『言葉と物』(のような本)も思想史である。

前にこのブログでヒューズ3部作について書いた時、コメントで“かび臭い本”との非難があった。
しかし、このコメントを書いた人は(どこのどなたか存じませんが)、“この本”を手に取ったことさえないと、思えた。

もし<この本>が“かび臭い”なら、かび臭くない本とは何か、ぜひ指摘してほしい。

まさか“2010年に書かれた本”(2010年に発せられた言葉)でなければ、すべてかび臭いのであろうか!
あるいは、思想史が<あらゆる過去>を“あつかう”なら、それが“かび臭い”のは当然である。

あるいは、“若者の親たち”、よくわからんが、“60歳をすぎたニンゲン”は、みな“かび臭い”のであろうか(笑)

そういう“自然過程”は、自分が60歳を超えてから<批判>してほしい。

“目先しか見えない(見ない)もの”を、<無知=無恥>というのだ。

しかしぼくはヒューズ3部作や『暴力の屈折』、『言葉と物』が“完璧な本”であると言っているのではない。

また、“若者”にもおろかな人とおろかでないひとがおり、“老人”にもおろかな人とおろかでないひとがいる。
同時におろかでないひとも、ときどき、おろかになる(笑)


★ スチュアート・ヒューズ『意識と社会』(みすず書房1970、原著1958)
★ スチュアート・ヒューズ『ふさがれた道』(みすず書房1970、原著1968)
★ スチュアート・ヒューズ『大変貌』(みすず書房1978、原著1975)
★ マーティン・ジェイ『暴力の屈折』(岩波書店2004、原著2003)
★ ミシェル・フーコー『言葉と物 人文科学の考古学』(新潮社1974、原著1966)


もう1冊、むかしむかしにぼくに衝撃を与えた本(”人間の科学ゼロ年”);

★エドガール・モラン『失われた範列』(法政大学出版局・叢書ウニベルシタス1975、原著1973)



また現在日本の著作のうち、

★柄谷行人:『トランスクリティーク』や『世界史の構造』
★ 大澤真幸:『ナショナリズムの由来』、『<自由>の条件』
を、<思想史>として読むことは、もちろん可能だ。


内田隆三『国土論』は、”20世紀日本思想史”である。
この本により、ぼくは日本”戦後”思想史の新しい可能性を見た。






フリーズした世界

2010-07-19 11:37:37 | 日記


たとえば天木直人の最新ブログは、<小沢一郎よ、いまこそ立ち上がれ!>である。
内田樹ブログは、<フリーズする政治>である。
天声人語は、“海の日”の思い出が“死の海”にならないように、という。
読売編集手帳は、“国民負担”の勧めである。
あるツイッターには、《ノーラン監督は今回も期待を裏切らなかった》とある。
あるブログは、記事を更新せず、ブログタイトルを、<ホテル・ノンセックス>から<カフカ的夕暮れ>に変えている。
もうひとり、過去にぼくにかかわりがあったブログは、動物園の虎の写真に<非暴力>のタイトルをつけ、シモーヌ・ヴェーユを引用している。


もちろんぼくは上記を、“たまたま”見たのである。
いずれにも感銘を受けなかった、退屈である。

“たまたま”見たものが、退屈であるからとて、“この日本が退屈”だとか、“この世界が退屈”であるわけではない。

しかし、ぼくが“世界のすべて”を見れるわけではないのだから、いつも世界には“もっと面白いことがあるはずだ”ということも、ぼく自身には意味がない。

なぜなら、ぼくは、<ぼく>を通してしか、<世界>を感受しない(感受できない)

だから、<世界>は、ほっておけば、“フリーズ”するのだ。

フリーズしているのは、<政治>だけではない。<注>

たとえば、<フリーズした政治>を語る内田樹というひと、および、“内田樹的なもの”こそが、フリーズしているのだ。

すなわち、“売れている(人気ある)言説”がフリーズしているのだ。
たぶん村上春樹『1Q84』は、まだベストセラーを続けている。

そして“ひとりごと”が、フリーズしている。


ひしひしとこのぼくを取り巻く、“フリーズさせるもの”に、どのように<抵抗>すればよいのか。

ぼくは<現在の言説>から離脱し、<Base>の構築をめざす。




<注>

現在の”政局”(政治ではない)に対して、”フリーズしている”などという形容は不適切である。

ただどの”政党”の”政治家”も、仕事をしていない、と言えばいいだけだ。










★ 言語もまた、一個の神秘、一個の秘密である。ロドリゲス島の<英国人湾>に閉じこもって過ごしたあのように長い歳月を、祖父はただ地面に穴を掘り、自分を峡谷に導いてくれる印しを探すことだけに費やすわけではない。彼はまた一個の言語を、彼の語、彼の文法規則、彼のアルファベット、彼の記号体系でもって、本物の言語を発明する。それは話すためというよりはむしろ夢みるための言語、彼がそこで生きる決意をした不思議な世界に語りかけるための言語である。
― J・M・G・ル・クレジオ 『ロドリゲス島への旅』




モノクローム

2010-07-19 00:27:08 | 日記






★ 夜のことは覚えている。
空から光が一面の透明な滝となって、沈黙と不動の竜巻となって落ちてきた。空気は青く、手につかめた。青。空は光の輝きのあの持続的な脈動だった。夜はすべてを、見はるかすかぎり河の両岸の野原のすべてを照らしていた。毎晩毎晩が独自で、それぞれがみずからの持続の時と名づけうるものであった。夜の音は野犬の音だった。野犬は神秘に向かって吠えていた。村から村へとたがいに吠え交わし、ついには夜の空間と時間を完全に喰らいつくすのだった。
― マルグリット・デュラス 『愛人』