★ 私たちが再発見するものは、なぜ直接的なものと呼ばれるのか。直接的なものとは何か。もし、科学が事物についての実在的認識、実在についての認識であるとしたら、科学が失うもの、あるいは単に失う危険のあるものは、正確には事物ではない。哲学からの浸透を受けない限り、科学が失う危険があるものは、事物そのものと言うよりは、事物の差異である。この差異は事物を存在させ、事物をあれではなくこれに、他の何でもなくこれにさせる。
★ ベルクソン的な問いは、なぜ無ではなく何かが在るのか、ではない。なぜ、他のあの事物ではなくこれなのか、である。
<ドゥルーズ;“ベルクソン、1859-1941”-『無人島1953-1968』(河出書房新社2003)>
★ ルソーはこう言いたいのである。自然状態にあると仮定された人間は邪悪ではありえない。なぜなら人間の邪悪さと邪悪な行為を可能にする客観的条件は、自然それ自体の中には存在しないからである。自然状態は、人間がもろもろの物と関係する状態であって、他の人間たちと関係する状態ではない(つかの間の関係を除いてのことであるが)。自然状態とは、単に独立の状態ではなく、孤立の状態でもある。
★ 要するに暴力あるいは抑圧は最初の事実を形成するものではなく、ある文明の状態、社会的状況、経済的限定を前提とするのである。ロビンソンがフライデイを服従させるのは、自然的な傾向によるのではなく、また腕力によるのでさえもない。わずかな資本と生産手段によって、かれは水源を保ち、フライデイを社会的な任務にしたがわせる。船が座礁してもロビンソンは、社会的任務の観念を失いはしなかったのである。
<ドゥルーズ;“カフカ、セリーヌ、ポンジュの先駆者、ジャン=ジャック・ルソー”-『無人島1953-1968』(河出書房新社2003)>
★ スピノザによれば、悪がなにものでもないのは、ただ<善>のみが存在し、それがすべての存在を支えているからでない。善もまた悪と同様なにものでもなく、<存在>そのものが善悪を超えているからである。
★ したがって生態の倫理における試練は、延期された審判とはまったく反対に、道徳秩序を回復するのではなしに、各個の本質やその状態個々のもつ内在的な秩序を、即座にいま確認してゆくのである。総合して賞罰の裁きをくだすのではなしに、この倫理的試練は、どこまでも実地に私たち自身の化学的組成を分析するにとどまるのである。
<ドゥルーズ;“悪についての手紙”-『スピノザ 実践の哲学』(平凡社ライブラリー2002)>