Don't Let Me Down

日々の雑感、引用。
言葉とイメージと音から喚起されるもの。

タルコフスキーの思い出

2010-07-16 01:36:03 | 日記


馬場朝子編による『タルコフスキー 若き日、亡命、そして死』(青土社1997)を入手した。

この本は1996年5月にNHK教育テレビ「未来潮流」で放映された「タルコフスキー その初まりへの旅」にともなうものだが、ぼくはこの番組を見損なっている(つまりそういう番組がつくられたことを知らなかった)

最初にタルコフスキーの妹のマレーナさんの証言がある(タルコフスキーは1931年モスクワ郊外の小さな町ユリエベッソで生まれた);

★ そして忘れられないのは、河の光と香り。河を流れる木材の湿った香り、空を飛ぶカモメの鳴き声は格別なものでした。

★ そして待ちわびた春に続く短い夏の夕立と雷。家の前の大きな木の枝が強風でゆれて、その葉の動きがまるで人間が手で顔をおおうように見えたものです。映画「惑星ソラリス」で、クリスが宇宙へ出かける前の父と子の会話シーンでバックに雷が響きます。兄にとっては雷は我々が住む大地のシンボルだったのです。それはここで兄が発見したものでした。

★ 兄にとって子供時代は最も大切なものでした。兄の映画のすべてに子供が登場します。「子供」というテーマが好きで、子供時代がその人の性格を決定すると言っていました。子供の目というのは、すべてを観察し、記憶に打ち込んでしまうものです。そして普通の人はそれを記憶の底に沈め忘れていきますが、兄はそれを自分の作品に再生させていったのです。

★ 兄にとって「家」というテーマも大切なものでした。いつも借り住まいだったことが「家」への思いを強くしていました。そして家の中の小さな道具、アルコールランプや、水差しなど、そんな小さなものが兄の映画の大切な要素なのです。兄は、生活の中の「普通のもの」を映画の「シンボル」にしてしまいます。






*画像はタルコフスキー「鏡」





“権力に対して真実を語る”

2010-07-16 00:16:32 | 日記


★ 私見によれば、知識人の思考習慣のなかでももっとも非難すべきは、見ざる聞かざる的な態度に逃げこむことである。たしかに、いかに風あたりが強くても、断固として筋をとおす立場というものは、それが正しいとわかっていても、なかなか真似のできないことであり、逃げたい気持はわかる。

★ あなたは、あまり政治的に思われたくないかもしれない。論争好きに思われたらこまるかもしれない。欲しいのは、上司あるいは権威的人物からのお墨つきである。そのためにもあなたは、バランスのとれた考え方の持ち主で、冷静で客観的、なおかつ穏健であるという評判を維持していたいかもしれない。あなたが望むのは、意見を打診されたり諮問されたりする立場となり、理事会や高名な委員会の一員となること、そして、責任ある主流の内部にとどまりつづけることである。そうすれば、いつの日か、名誉職にありつけ、大きな賞をもらい、さらには大使の職まで手に入れることができるかもしれない。

★ 知識人にとって、このような思考習慣はきわめつけの堕落である。情熱的な知識人の生活が変質をこうむり、骨抜きにされ、最後には抹殺されてしまうときがあるとすれば、それは、こうした思考習慣が内面化されたときである。

★ 個人的なことをいうと、現代世界の諸問題のなかでもっともやっかいな問題のひとつであるパレスチナ問題において、わたしはこうした思考習慣にはいやというほどお目にかかっている。というのも、現代史における最大の不正のひとつについて語ることに対する恐怖が蔓延しているため、本来なら真実を知り、また真実に奉仕する立場にある多くの人びとが発言を自己規制したり、みてみぬふりや、沈黙にはしるからである。パレスチナ人の権利や民族自決権をはっきりと支援すると、さまざまないやがらせや中傷を覚悟せねばならないのだが、それでもこの真実は、語るにあたいする真実である。なぜなら、怖れを克服し共感を失わぬ知識人たちによって、この真実が代弁=表象(レプリゼント)されているからだ。

<エドワード・W・サイード『知識人とは何か』(平凡社ライブラリー1998)>