Don't Let Me Down

日々の雑感、引用。
言葉とイメージと音から喚起されるもの。

フーコー・インタビュー

2013-01-31 13:47:50 | 日記

フーコー、インタビューでの発言(1982年10月25日、アメリカで);

★ わたしは著作家、哲学者、名代の知識人ではありません。教師であります。ひどくわたしを困惑させる社会現象があるわけですが、それは1960年代以降、若干の教師が型どおりの公務を果す公人になっている点です。わたしは、予言者になって「どうか腰をおろしたまえ、わたしの発言の中身はきわめて重要なのだ」なんて言いたいとは思わない。わたしは、われわれの共通の仕事を論じるためにやってきたのです。

★ わたしが何であるかを正確に認識する必要があるとは思いません。人生や仕事での主要な関心は、当初のわれわれとは異なる人間になることです。ある本を書き始めたとき結論で何を言いたいかが分かっているとしたら、その本を書きたい勇気がわく、なんて考えられますか。ものを書くことや恋愛関係にあてはまる事柄は人生についてもあてはまる。ゲームは、最終的にどうなるか分からぬ限りやってみる価値があるのです。

★ かなり長いあいだずっと、人々はわたしに、将来何が起こるかを話してほしい、未来のための計画を教えてほしいと頼んできた。われわれがよく知っているように、そうした計画は、意図はきわめて善意にあふれていても、抑圧の道具・手段になっている。ルソーは自由の愛好者であるのに、フランス革命のなかでは、社会的抑圧の一つのモデルを作りあげるために使われた。マルクスはスターリン主義ならびにレーニン主義を知れば、恐れをなすかもしれない。わたしの役割は――そしてこれはひどく思いあがった言葉なのですが――、人々が彼らが自由であると感じているよりはるかに自由であるとか、人々は歴史のとある時期に築きあげられてきた若干の主題を真理として、明証として受けいれているとか、そして、このいわゆる明証なるものは批判と破壊の対象となりうるものであるとか、を人々に明らかにすることです。人々の精神のなかで何かを変えること――これが知識人の役割なのです。

★ わたしの目標の一つは、人々の景観の一部分となっている多くの物事――人々はそれらを普遍的なものだと考えているわけですが――が、実は、きわめて明確な歴史上の変化の所産であることを明らかにすることなのです。わたしのどの分析も、人間の生活 [存在] にかんする普遍的必然という観念に対立するものです。わたしの分析は制度が持っている恣意性を明らかにし、われわれが今なおいかなる自由の空間を享受することができるか、どのくらいの変化を今なお生みだすことができるか、を明らかにするのです。

★ わたしの著作は、それぞれわたしの自叙伝の一部です。

★ わたしのさまざまな本のなかでわたしは変化を分析しようと実際努力してきましたが、それは具体的な原因を見つけ出すためではなくて、相互に作用していたすべての諸要素を、そして人々の対処を明らかにするためでした。わたしは人々に自由があることを信じています。状況は同じであっても、それに対処する人々の仕方はまったく異なるのです。

★ ヒューマニズということでわたしの気がかりなのは、ヒューマニズムがわれわれの倫理の特定の形式を、どんな種類の自由にもあてはまる普遍的モデルとして提示するという点です。わたしの考えるところでは、ヒューマニズムのなかに、つまり左翼とか中道派とか右翼とか虹のような色合いの政治のあらゆる側でこれがヒューマニズムだと独断的に主張されている、そうした意味でのヒューマニズムのなかにわれわれが想像しうる以上に、われわれの未来には、より多くの秘密、より多くの自由の可能性、より多くの発明があるのです。

<ミシェル・フーコー『自己のテクノロジー』(岩波現代文庫2004)>






ランボー;アフリカから注文した本とカメラ

2013-01-30 10:45:17 | 日記

★ 農林木挽工場カタログ、大工技術のポケットブック、冶金学概論、都市・農業水理学の本、蒸気船長、造船、火薬と硝石、鉱物学、石工術、掘抜井戸、木挽工場建設の教え、繊維について、農林木挽工場カタログ、農業機械絵入りカタログ、車づくりの手引、完全錠前製造術、鉱山開発、ガラス工の手引、煉瓦製造法……「コーランの仏語訳で最良のもの」、商業・航海辞典、アムハラ語辞典。

★ かくも並んだ書物のリスト!この列挙から聞こえてくるのは、倦怠のうちに行為して、生活知などほとんど持たない者の悲しげな声だ。文学の匂いすらない乾いた声。学校では「超秀才」、詩人としては「天才」と言われた一人の男が、素朴にも通信教育を受けるがごとく学ぼうとする奇妙な姿がそこにある。

★ とある書店にランボーは、自信に満ちた調子でごく普通のことのように、「数学、光学、電気学、気象学、力学及び鉱物学関係の機械として、フランス(または外国)において製作されている最良のものの全貌を知りたく思います」と書き送る。そしてちょっとばかりユーモアまじりに(無意識にか?)「外科医の機械は扱いません」と書き足している。

★ おそらく当時、アデンとハラルの間でランボーのところほど、種々雑多な本が集まっていたところはなかっただろう。それらの本は、いつでもあまりに遅く到着し依頼主を失望させて、移動の途中火にくべられ海に捨てられ、忘れ去られて散っていった。印刷所も印刷技術もない国にはあまりに唐突な書物の数々。手引書やら概論やら、ランボーは、当時のアビシニア全土を見渡しても得られぬほどの書籍を、かき集めていた。そしてその本のページを、おそらくはただハラルの時折りの風だけが、操っていたことだろう。

★ 1881年リヨンに発注したカメラを、速やかに富を得る方法として、ランボーは首を長くして待ち、手紙でも事あるごとに言及していた。自分の映像を見てみたい気持ちもあったろうが、当のカメラはモーリス島を迂回して、かなり時がたってから、ランボーのもとに届いた。だがそれでも、十分に遅くはなかったのだ。なぜならランボーは、恐れていたとも言えるのだから、知ることを、自分を見ることを、――絶望することを。

★ こうしてある日ランボーは、「うす汚れた現像液のなかに」現われ出る自分の顔を、目にすることになる。「自分で撮った僕の写真を二枚同封します」。だが彼は、老け込み疲れ切ったその顔に、己を認めることができない。そこにあるのは、かつてヴェルレーヌとともにロンドンでファンタン・ラトゥール筆『テーブルの片隅にて』に見た、自分自身ではもはやない――ドリアン・グレイの肖像とは言わないまでも。

★ 「写真をお送りしたのは、単に僕の顔を思い出してもらうためです」。見つめてもらおうというのではありません、「ただ思い出してほしいのです」。

<アラン・ボレル『アビシニアのランボー』>






ランボーが見たもの

2013-01-25 17:27:08 | 日記

★ 大股で歩を進めるシャルル。膝までの雪がメレンゲ菓子のような乾いた音をたてる。カメラが足跡を追う。ランボー出奔という設定だ。かつてランボーが、友人ドラエーと、煙草を買いにアルデンヌからベルギーへ不法越境していたのは、このあたり。樅の林に太陽が沈んで、雪は紫の光沢を帯びはじめ……「夕闇が森に涎をたらすころ」……道の果てには税関吏が、凍った土に足踏みしながら、体を温めているのが見える。赤と白の遮断機は降りたまま。あたりは荒寥として、「進んでいけば、世の果てがあるばかり」。テレビ局の車は壕の中に停まっている。

★ 森の道。雪の夜に子供が一人、贈り物をくれた見知らぬ男のあとを追う、あのクリスマスの夜話のように、ランボーの越境の行程も、どこへも行き着くことはなく、野原のただなかで、足跡は突如途切れる。だが、歩行の足跡と、足跡の彼方の追いつきえない肉体との隔り、そこにこそ、われわれを魅了するものがある。痕跡が魅了する。痕跡は、到達しえない肉体をこそ物語っているのだ。

★ ロワシー空港のチャイムの音――クリスタルのようなその音がしだいにシタール様の響きとなり消え去ってゆき、そのあとに遠ざかりゆく飛行機の爆音が聞こえてくる。(…)「新しい情愛と響きとへの、出発だ」。まことランボーには、出発のうたがある。人の心を引き留めるすべての場所やすべての絆、すべての義務やすべての懸念から己を引き離さんとする、いかなる時でも鮮烈なあの力がある。私が彼から教わったあの自由、失業とインフレとか戦争とか、際限なく繰り返される人間どもの問題に対して、「見飽きた、(…)知り飽きた」と今日言ってのける自由が、ランボーにはある。出発だ!

★ エチオピアの最初の印象は、いまだに私のなかで、熱にけだるい目をした子供の姿と結びついている。
(…)
文学が突如、飽食した国々の贅沢と見えてしまう。「こんな毒物ばかり発明して、何が近代だ」!

★ 心揺さぶる戦慄だ。これから我々、長い移動撮影に入り、生のアフリカを発見しにゆく。

★ 女たちは、色とりどりの一枚布で体をまいて、くるぶしには足輪を鳴らし、頭にのせた窓の高さのバスケットに、パパイヤやらベニエ、ヒラ豆やらグァバの実を、ところ狭しと詰め込んで、歩きまわる。かと思うと、ひょうたんに埋め込んだ心棒を、マニオック樹のバチでたたいて、リズムをとりつつ通り過ぎる者もいる。遠方には、丈高い砂糖黍の畑の下で、体を揺する女たち。腰をくねらせ腕の下を掻きながら、噛みつぶした草の汁を歯のあいだから吐き出している。燃えるような腰の線。露に匂う双の胸の見事さ。エロチシズムよりも、むしろ無限の母性を思わせる。かつてフランス人派遣隊が、現存最古の人間の骨、五百万年前の女の骨を見つけたのは、エチオピアの大地溝帯でだった。その女はビートルズの「ルーシー・イン・ザ・スカイ・ウィズ・ダイアモンド」にちなんで、ルーシーと名付けられたのだった。完璧な空の青のただなか、太陽の光に照らしだされた、ルーシーの52本の骨。

★ 列車は時を遡り、夢の世界の冒険へと、希望へと、想像された苦悩へと、我々を直かに導いてゆく。私が見ているものはランボーが見たものなのである。と、サヴァンナが突如途切れて、今度は火山岩がどこまでも続く。列車ほどの大きさもない、とある村に停車する。打ちのめす暑さ。木々は焦げて黒く、葉はすべて赤茶けた紙のようだ。ランボーの言う「月面の荒涼とした世界もかくやと思わせる恐ろしい道」(多少誇張があるにしても)、遠くにその道を、ランボーがキャラバン(ガフラ)とともに通ってゆくのが目に浮かぶ。90年前の1886年10月、白麻の上着に炒り黍を少しばかり携えて、駱駝のゆったりした足どりにあわせて、その先頭を行くランボー。

★ だが出来ればその時、彼に伝えるべきだった、(…)このキャラバン行は、災い多かろうと。ただ彼は、耳を傾けはしなかったろうが。

<アラン・ボレル『アビシニアのランボー』(東京創元社1988)>







生きている中上健次

2013-01-05 17:40:29 | 日記

★ 四方田犬彦:「貴種と転生」
中上健次が近付いてくる。
やあ、元気かい、と彼はいう。
こんなところに住んでいるとは思わなかったね、とわたしが答える。
場所は新宿西口の中央公園の交番のそばで、二月の昼下がりの薄暗い空からは今にも粉雪が降りだしそうだ。
ここには熊野神社があるんだ、と中上がコートに手をつっこんだままいう。昔ここは十二社といって、悪場所だったんだ。熊野神社はそれとどうも関係があるらしい。


★ 中上健次『岬』後記 1975年12月
「黄金比の朝」は1年半前に書いた。
吹きこぼれるように、物を書きたい。いや、在りたい。ランボーの言う混乱の振幅を広げ、せめて私は、他者の中から、すっくと屹立する自分をさがす。だが死んだ者、生きている者に、声は、届くだろうか?読んで下さる方に、声は、届くだろうか?


★中上健次『岬』
この女は妹だ、確かにそうだと思った。女と彼の心臓が、どきどき鳴っているのがわかった。愛しい、愛しい、と言っていた。獣のように尻をふりたて、なおかつ愛しいと思う自分を、どうすればよいのか、自分のどきどき鳴る心臓を手にとりだして、女の心臓の中にのめり込ませたい。くっつけ、こすりあわせたいと思った。女は声をあげた。汗が吹き出ていた。おまえの兄だ、あの男、いまはじめて言うあの父親の、おれたちはまぎれもない子供だ。性器が心臓ならば一番よかった。いや、彼は、胸をかき裂き、五体をかけめぐるあの男の血を、眼を閉じ、身をゆすり声をあげる妹に、みせてやりたいと思った。今日から、おれの身体は獣のにおいがする。安雄のように、わきがのにおいがする。酔漢なのだろうか、誰かが遠くで、どなり叫んでいるのが彼にきこえた。苦しくてたまらないように、眼を閉じたまま、女は、声をあげた。女のまぶたに、涙のように、汗の玉がくっついていた。いま、あの男の血があふれる、と彼は思った。


★ 中上健次『枯木灘』
§ 空はまだ明けきってはいなかった。通りに面した倉庫の横に枝を大きく広げた丈高い夏ふようの木があった。花はまだ咲いていなかった。毎年夏近くに、その木には白い花が咲き、昼でも夜でもその周囲にくると白の色とにおいにひとを染めた。その木の横に止めたダンプカーに、秋幸は一人、倉庫の中から、人夫たちが来ても手をわずらわせることのないよう道具を積み込んだ。

§ 光が撥ねていた。日の光が現場の木の梢、土に当たっていた。何もかも輪郭がはっきりしていた。曖昧なものは一切なかった。いま、秋幸は空に高くのび梢を繁らせた一本の木だった。一本の草だった。いつも、日が当たり、土方装束を身にまとい、地下足袋に足をつっ込んで働く秋幸の見るもの、耳にするものが、秋幸を洗った。今日もそうだった。風が渓流の方向から吹いて来て、白い焼けた石の川原を伝い、現場に上がってきた。秋幸のまぶたにぶらさがっていた光の滴が落ちた。汗を被った秋幸の体に触れた。それまでつるはしをふるう腕の動きと共に呼吸し、足の動きと共に呼吸し、土と草のいきれに喘いでいた秋幸は、単に呼吸にすぎなかった。光をまく風はその呼吸さえ取り払う。風は秋幸を浄めた。風は歓喜だった。

§ 血が流れていた。だが、黒い水と血は、夜目には判別がつかなかった。秋幸の眼の前に、水かさが増した川の水に浮遊した花が見えた。
徹が秋幸の体を後から羽交じめにした。一瞬の事だった。「こいつが、こいつが」と秋幸は言い、立ちあがった。人が走り寄ってくるのがみえた。薄暗い川原だった。風は吹かなかった。秀雄は波打ち際に頭をむけ、顔を両手でおおって、体をびくびくとふるわせていた。
竹原の一族も、フサもその川原にいた。その男浜村龍造もいた。息が荒かった。秋幸の体が空になっていた。殺してやった、と秋幸は思った。
「わあ、大変や」と言う声がし、徹が秋幸の体を突き、「逃げやんか」とどなった。足がそぎ落ちている気がして動けなかった。「おまえの子供を、石で打ち倒した」薄闇の中で秋幸はそう言った。
秀雄の血かそれとも川の水なのか判別がつかないものが、石と石の隙間でひたひたと波打っていた。それは黒く、海まで続いていた。はるか海は有馬をも、この土地をも、枯木灘をもおおっていた。

§ 風が吹いた。山が一斉に鳴った。
川の向こうの山が暗かった。日はその山の向こう側を照らしているはずだった。日は海の側にあった。山を越えた向こう側に有馬があり、川を下りたところにその土地があった。蝉が鳴いていた。悲嘆の声だった。しばらくその声に耳を澄ました。自分の体が鳴っていた。人が見ると秋幸を木と見まがいかねなかった。蝉の声が自分の体の中で鳴り、秋幸は自分が木だと思った。木は日を受け、内実だけが露出する。梢の葉が揺れ、日にろうのように溶けた緑をばらまく。いきれが汗のにおいのようにある。

§ 浜村孫一終焉の地の石碑を建てたその男は、秋幸がさと子との秘密を言うと、「かまん、かまん」と言った。「アホができてもかまん」秀雄が秋幸に殺されたと知って、男はどう言うだろう。秋幸は男が怒り狂い、秋幸を産ませ、さと子を孕ませ、秀雄を産ませた自分の性器を断ち切る姿を想像した。有馬の地に建てた遠つ祖浜村孫一の石碑を打ち壊す。息が苦しかった。蝉が耳をつんざくように鳴った。梢の葉一枚一枚が白い葉裏を見せて震えた。
秋幸は大地にひれふし、許しを乞うてもよかった。
日の当たるところに出たかった。日を受け、日に染まり、秋幸は溶ける。樹木になり、石になり、空になる。秋幸は立ったまま草の葉のように震えた。


★ 中上健次『紀州 木の国・根の国物語』
§ 話を変えた。歌をうたってもらった。所謂(いわゆる)、串本節である。だが、ここでは古座節と言ったほうがよい。

わたしゃ若いときゃ つがまで通うた
つがのどめきで
夜があけた

ついてござれよ
この提灯に
決して苦労は
させはせぬ

“つがのどめき”とは、古座から新宮にもどった海岸にある。潮が満ちてくると、ドドドドッとどめく。どめくとはどよめく、鳴りひびくの意味である。歌は恋の歌であり、恋心がどめきに満ちる潮の音ほど鳴りひびく。歌の文句は、男が歌うより女が歌うほうがよい。(“古座”)

§ その子にハヤシたてられたその子の人なつっこさが私を慰める。車を朝熊の山上に走らせながら私は、一体、何の為に妻子をおいて旅をしているのだろうか、と思う。今、私に、生活はない。あるのは言葉だけだ。コトノハだけだ。言葉によって地霊と話し、言葉によって頬すりよせ地霊と交感し、私は傷ついた地霊を慰藉しようとも思う。私は今人麿でもありたいし、小説という本来生きている者と死んだ者の魂鎮め(たましずめ)の一様式を、現代作家として十全に体現する者であらんと思うが、この地では逆に、言葉を持つ事がおごりに映る。(“伊勢”)

§ 雨が激しくなる。潅木の緑が濡れている。私は雨と渓流の音をききながら、立ちつくし、また思いついて向こう側へ渡る方法をさがして歩きまわる。草は草である。そう思い、草の本質は、物ではなく、草という名づけられた言葉ではないか、と思う。言葉がここに在る。言葉が雨という言葉を受けて濡れ、私の眼に緑のエロスとしか言いようのない暗い輝きを分泌していると見える。言葉を統治するとは「天皇」という、神人の働きであるなら、草を草と名づけるまま呼び書き記すことは、「天皇」による統括(シンタクス)、統治の下にある事でもある。では「天皇」のシンタクスを離れて、草とは何なのだろう。(“伊勢”)

§ <吉野>に入ったのは夜だった。吉野の山は、闇の中に浮いてあった。吉野の宿をさがして、車を走らせる。道路わきの闇に、丈高い草が密生している。その丈高い草がセイタカアワダチソウなる、根に他の植物を枯らす毒を持つ草だと気づいたのは、吉野の町中をウロウロと車を走らせてしばらく過ってからだった。車のライトを向けると、黄色の、今を盛りとつけた花は、あわあわと影を作ってゆれる。私は車から降りる。その花粉アレルギーをひき起こすという花に鼻をつけ、においをかぎ、花を手でもみしだく。物語の土地<吉野>でその草の花を手にしている。(“吉野”)

§ 田辺から枯木灘まで来たのに、レストランはあいていず、仕方なしに国道をさらに走る。その江住で絶壁が海にせり出し海が光でふくれあがっている光景の道端にその草を見つけたのは衝撃だった。セイタカアワダチソウの一群が枯木灘のそこに黄色い花を日に照らして咲いていた。
枯木灘。
ボッと体に火がつく気がした。いや、私の体のどこかにもある母恋が、夜、妙に寒いと思っていた背中のあたりを熱くさせている。高血圧と心臓病で寝たり起きたりしている母でなく、小児ゼンソク気味の幼い私が、夜中、寒い蒲団のなかで眼をさますと、今外から帰ってきたばかりだという冷たい体の母がいる。さらにすりよると、母は化粧のにおいがした。母に体をすりよせて暖まってくると、私は息が出来なくなるほど、喉が苦しくなる。
枯木灘のセイタカアワダチソウは、その息苦しさを想い起こさせる。私は、この旅の出発点でもある新宮へ向かった。とりつくろうものが何もないゴロゴロ石の海を見ておこう。
セイタカアワダチソウの根が持つという毒に私がやられてしまった、と思った。(“吉野”)

§ その差別、被差別の回路を持って私は、紀伊半島を旅し、その始めに紀州とは鬼州であり、喜州でもあると言ったが、いまも私にはこの紀伊半島そのものが輝くほどに明るい闇に在るという認識がある。ここは闇の国家である。日本国の裏に、名づけられていない闇の国として紀伊半島がある。日本を統(すめら)ぐには空にある日ひとつあればよいが、この闇の国に統ぐ物は何もない。事物が氾濫する。人は事物と等価である。そして魂を持つ。何人もの人に会い、私は物である人間がなぜ魂を持ってしまうのか、そのことが不思議に思えたのだった。魂とは人のかかる病であるが、人は天地創造の昔からこの病にかかりつづけている。(“闇の国家”)


★中上健次『熊野集』
その被慈利(ひじり)にしてみれば熊野の山の中を茂みをかきわけ、日に当たって透き通り燃え上がる炎のように輝く葉を持った潅木の梢を払いながら先へ行くのはことさら大仰な事ではなかった。そうやってこれまでも先へ先へと歩いて来たのだった。山の上から弥陀(みだ)がのぞいていれば結局はむしった草の下の土の中の虫がうごめいているように同じところをぐるぐると八の字になったり六の字になったり廻っているだけの事かも知れぬが、それでもいっこうに構わない。歩く事が俺に似合っている。被慈利はそううそぶきながら、先へ先へ歩いてきたのだった。先へ先へと歩いていて峠を越えるとそこが思いがけず人里だった事もあったし、長く山中にいたから火の通ったものを食いたい、温もりのある女を抱きたいといつのまにか竹林をさがしている事もあった。竹林のあるところ、必ず人が住んでいる。いつごろからか、それが骨身に沁みて分かった。竹の葉を風が渡り鳴らす音は被慈利には自分の喉の音、毛穴という毛穴から立ち上がる命の音に聴こえた。(“不死”)


★四方田犬彦:「貴種と転生」
§ 語りえない
1992年、信濃町の病院を訪れたわたしにむかって、中上健次は秋幸のその後の物語を書く構想をはっきりと語り、台湾への取材旅行を計画しているという。わたしはもう彼にはいくばくもの時間が残されていないことを直感する。いったい彼が現在進行形のこと以外を語ったためしがあっただろうか。過去や、あるいは未来に言及したことがあっただろうか。秋幸はもう一度路地に帰ってくるのだ、と中上は宣言する。だがわたしは、この断言ゆえにそれがもはやありえないことを確信する。

§ 服喪2
ある作家の書き遺したものを読むことは、彼が眺めた風景を眺めたり、彼が聴いた音楽をもう一度聴いてみることと、どのように違う行為なのだろうか。ソウルの市場の喧騒。熊野の夜の闇。羽田飛行場。アルバート・アイラー。サムルノリ。死者について語ることが必要な時というものがある。だが、それはいつまでも続かない。あるとき、もはや死者に向き合ってではなく、死者の傍らに並びながら語ることが求められることになるのだ。

§ 声と文様
こうした文体の実験の背後に、声の人であった中上を想定することは可能であるし、また正当でもある。だが同時にその背後に、密林の蔦のように絡まりあうエクリチュールの文様を思い浮かべることは、さらに正当なことではないかとわたしは考えている。改行どころか、句点も読点もなく、構文の秩序も、動作の主体の論理的一致も置去りにしたまま、どこまでも終わることなく書き続けられる文。おそらくそれは通常の400字詰め原稿用紙からはけっして生れることのなかった、異常な文のあり方であろう。中上健次があるときみずから選択した集計用紙という、けっしてこれまで文学的実践には用いられることのなかった用紙が、それを可能にした。文学が文様でもあり同時に声でもあること。書くことが織りこむことであると同時に、織り解いてゆくことでもあること。中上健次は一見矛盾するかのように見えるこうした作業を、生涯にわたって実践し続けた。「何の変哲もない」集計用紙の束を通して世界の文様を精密に写しとったばかりではない。みずからが謎めいた、巨大な文様であることを、身をもって生きたのである。

§ 一番はじめの出来事
俺はどこにもいない。それが機嫌のいいときの口癖だった。そのあとにはかならず、路地はどこにでもある、という言葉が続いた。


★ 中上健次“残りの花”―『重力の都』
ことの他、暑い日が続き、縁台に咲いた草花のことごとく、萎れた。ひしゃくで水遣りしようとしても、日中は、どうせ湯になって根を痛めてしまうのが分かっているものだから、誰もがひかえた。それで、萎れたら萎れたなりに花には風情があると、うそぶいたり、なぐさめたりしたが、なんとか暑さから救う案はないかと本心は溜息ついている。
「もう、かまんのやけど。何年も使こうた鉢やし、なんべんもなんべんも種とったんやさか」
「あんたとこでもろた種やけど、わたしとこの、別の色、出た。ずうっとそれから変わっていきもせんと、同じ色出る」
 路地の老婆らは、日が落ちるのを待って、馬穴(バケツ)に水を汲み、ひしゃくで、まず日を受けて熱を孕んだ縁台を冷ますために水をかけ、次に鉢に水をかける。
 ぬるまった水のにおいに混じって、萎れた花弁の内側に溜まった死の匂いが溶け出して、あたりに漂い出しそうだった。
 カンカン照りにさらされる草木に心を痛め、強すぎる日射しを避けてやるどんな方法もみつけられないと、おろおろする老婆らの声を聴いていると、誰しも、不思議な気がする。
 若い者らは、草花を日射しから救けてやる気があるなら、窓の外に置いた縁台から、日陰の玄関のたたきにでも移してやればよい、いや、日をさえぎるヨシズを一枚、たてかけてやればよいと言ったが、花をつくる老婆の誰も、路地の道に面し通る人に賞でて(めでて)もらわねば、花などではない、と思うように、手を施そうとする気配もない。
「あかんわだ、ねえ。こんなに暑かったら」
「切り花にしたっても、日もちせんやろし」
 老婆らは日陰を選んで腰をおろし、話を交わすたびに、じりじりと白い日に焼かれて死んでゆく花を、見て楽しんでいるように互いにうなずきあう。


★ 中上健次が“熊野大学”プロジェクトの開校式に寄せた文章―高山文彦『エレクトラ 中上健次の生涯』より引用;
世界は危機に遭遇している。私たちの総てが破滅に向かっている。地球が壊滅しかかっている。この危機や破壊や壊滅の中に私たち、人間、共に生きてきた愛する動物、植物、この風、この空、土、水、光が永久に閉ざされ続けるのか。何かが大きく間違っていたのだ。近代と共に蔓延した科学盲信、貨幣盲信、いや近代そのものの盲信がこの大きな錯誤を導いたのだ。
私たちはここに霊地熊野から真の人間主義を提唱する。人間は裸で母の体内から生まれた。純正の空気と水と、母の乳で育てられた。今一度戻ろう、母の元へ。生まれたままの無垢な姿で。人間は自由であり、平等であり、愛の器である。霊地熊野は真の人間を生み、育て、慈しみを与えてくれる所である。熊野の光。熊野の水。熊野の風。岩に耳よせ声を聞こう。たぶの木のそよぎの語る往古の物語を聞こう。
そこに熊野大学が誕生する。


★ 中上健次が次女の菜穂に宛てた手紙―高山文彦『エレクトラ 中上健次の生涯』より引用;
お父さんの名前は、健次という。おじいちゃんか、おばあちゃんが、つけてくれた。第2次世界大戦、つまりアメリカやイギリスという民主主義の国相手に、日本が引き起こした無謀な戦争、その戦争の敗北の後に、お父さんは生まれた。
だからなのだろう。健次の健は健康という意味、次は2番目という意味。二番目の健康な息子である。健康に育ってほしい。そんな両親の意味がこもった名前だ。戦争に苦しみ、次々と無意味な死を迎えた人々を見たら、天に祈るような気持ちで子供を名づけるのは、よく分かる。
菜穂という名はお父さんが名づけた。温暖な日本は瑞穂(みずほ)の国と言われる。みずみずしく稲が実る国という意味。その稲の実る稲穂という意味。菜穂の菜とは野菜の菜。稲穂と野菜。私たちが日常に食するものだが、二つ並べると豊かなイメージが浮かび上がる。
が、この地上に、今、何万、何十万、何百万の人々が飢えているのを知っているだろうか。
お父さんは、お前の名前を菜穂と名づけるとき、この子と、この子の生きる世界に、稲穂と野菜があまねく行き渡りますように、天にいのって、名づけた。
お父さんの祈りは天に通じているだろうか?
菜穂は飢えてはいない。ではどうして、他から飢えた子供の泣き声が聞こえるのか。菜穂はその矛盾を考えてほしい。問題があるなら、それを解いてほしい。もし不正義があり、そのためだというのなら不正義と戦ってほしい。
しかし戦いは、暴力を振うことだろうか?違う。人間の存在の尊厳を示すことだ。そのためには、英知が要る。豊かな感受性が要る。菜穂が、この学校で学ぼうとしていたことは、不正義と戦う本当の武器、つまり人間の存在の尊厳を示す方法だったのだ。頑張れ。心から愛を込めて、声援を送る。