だいぶ前に読んだフーコーについての解説本で、“フーコーの悪夢”について読んだことを思い出した。
“うろおぼえ”なのだが、フーコーが本を読もうとすると、印刷された活字がバラバラになってくる、というような夢である。
実はぼくはもともと近眼で、近眼のひとなら皆知っているだろうが、近眼のひとが老眼になると、いろいろ視力が混乱するのである。
ぼくも二つの眼鏡を使い分けることによって対処してきたのだが、今年に入ってこのバランスもくずれた。
ちゃんと検眼し、眼鏡を(レンズを)変えなければならないのだろうが、そうしたところで、どれだけ改善するか心許ない。
おっくうだし、おカネもない(笑)
とくに、このパソコン画面の字を読むのがシンドイ。
なにより眼に悪いのは、このブログに“引用”するために打ち込むことである。
ぼくは引用については、一字一句、誤入力しないように、画面を見つめる(それでも誤入力はあるだろう)
ときどき、“なんでこんな労力(眼への負担)をかけて入力しているのか?”という疑問がわくのである。
だれも読んでいないかもしれないのに。
つまり“ぼくのブログ”にアクセスする人だって、ぱぱぱっと“見て”、よっぽど自分に関心がある“テーマ”でなければ、引用まで読まない。
ぼくだって、“ひとのブログ”を、最初から最後までキチンと読んでいるわけでもない。
しかも、当然、<引用>というのは、一冊の本の、ほんの一部なのだ。
本を書く人は、1冊の本の全体が読まれることを“期待”している。
つまり、その本が、“1冊の本”として意味があるなら(意味のある本なら)、それは、断片的<引用>を拒否している。
逆に、部分の引用とか、その本の“内容”を、箇条書きにして“しまえる”本は、有機的全体を構成していない。
さらに、“1冊の本”を書いた人が、“1冊だけ”書いたのでないなら、その人の“他の本”への参照も求められる。
たとえば、“サイード”について、自分がパレスチナ出身だから、“オリエンタリズム”に反対した人、と要約することは、たんなる“まちがい”である。
サイードは、あくまで“文学についての研究者”である。
たしかに“サイードの本”(翻訳された本)のリストのタイトルを見ると、サイードは“パレスチナ問題”ばかりを語っている人に、見える。
もちろんサイードは、“パレスチナ問題”について語った。
あるいはフーコーは、“人間の終焉”について語った。
ぼくが、昨日のブログで、<思想史>と言ったことについて、誤解をおそれる。
<思想史>とは、思考されたものの“つらなり”のレジュメではない。
“マクロに俯瞰する”ことでは、ない(そういう側面も、ある)
むしろそれは、たとえばあなたが、シモーヌ・ヴェーユのある本をたまたま読み、それに感銘を受けたなら、彼女が“思想史の文脈”のどこに位置するかを知ることだと思う。
たとえば、“そのひと”が、ヴェーユであることも、アレントであることも、フーコーであることも、サイードであることも“ある”。
ぼくはシモーヌ・ヴェーユを昔読みかけたことはあったが、読めなかった。
けれどもヴェーユを読む必要がないと思ったわけではない。
なんども言うようにぼくは、“すべて”を読めるわけではない(それは、“あなた”も同じだ)
けれども、ぼくはヴェーユの“肖像”を使った、“ゴダールの映画”は見たことがある。
そういう“切れ切れの”印象によって、おおげさに言えば、ぼくらは、世界を見ている。
世界は、そのようにして、ぼくらにやってくる。
すなわち、ぼくらは、“神の目のように”世界を包括的に“見れる”のでは、絶対にない。
昨日のブログでも書いた『社会科学をひらく』は、アカデミズム(大学)システムの“内部”での、<社会科学の再編>を提言するものであった。
そこで論じられている論点のひとつに、“特殊性と普遍性”の問題がある。
すなわち、なにが<普遍性>であるか自体が、<学の内部>でも確実ではない。
にもかかわらず、マスメディアの言説に“代表される”言説は、いつもいつも、まるで自分が<普遍的>であるかのように語っている。
結局、自分の<公共性>や<正義>を少しも疑わない。
<特殊性>としての個人の思考が、いかに<普遍性>と係わるのか、の、その<歴史>こそ<思想史>である。
<普遍性>の実現ではない。
もし、この<文脈>を見失うなら、ぼくらは、いつも焦点の合わないカメラのように、世界を見ている。
<蛇足;蛇の足>
ぼくはこのブログで“焦点の合わないカメラ”というのを比喩として使った。
そして“書いた後に”考えた。
最近のカメラは、“自動焦点(オート・フォーカス)”である!
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