Don't Let Me Down

日々の雑感、引用。
言葉とイメージと音から喚起されるもの。

死の自己決定

2012-07-29 10:16:31 | 日記

☆ 立岩真也 ‏@ShinyaTateiwa
「死の自己決定について」について300字で論ぜよということでしたのでhttp://www.arsvi.com/ts/20120038.htm  より詳しくは『良い死』http://www.arsvi.com/ts/2008b1.htm 。『唯の生』http://www.arsvi.com/ts/2009b1.htm とともに売れてほしいです。在庫あり。




<死の自己決定について> 立岩 真也 2012/07/27発送 『中外日報』(中外日報社)

  自己決定についてという御依頼なので、幾つか指摘させていただく。第一点。死に関わる自己決定が認められるか。自殺幇助は法的に禁じられているし、法律云々を別として、自殺を止めに入ることは許容される、むしろなされるべきことだと一般にされる。死の自己決定権の正当性は自明ではない。次にこの自己決定権を認めたとしても問題は残る。第二点、主に家族の身体的的・経済的負担のために死を選ばざるをえなかった人たちが多く、いくらでも、いる。生きられる条件をきちんと用意してから選択を論ずるべきだという主張はまったくもっともだと思う。加えて第三点、事前の決定はどこまで有効か。変更可能だとされても、言葉を失えば言えない。健康な状態の時の決定は必然的に想像による。それは病者・障害者への偏見に基づいていると言えないか。

(引用)









宇野 亜喜良-C

2012-07-28 23:30:42 | 日記



★ 彼が掘り続けた鑿の音とそのこもった反響が、意識のはるかな奥で聞こえる。壁に小窓を彫り抜く最後のひと打ちで、ここに射しこんだ最初の光が見える。あるいはそのひと打ちは夜のことであって、ぽっかりと穿たれた穴から星々の幾つかが見えたのかもしれない。ここに射しこんだ最初の光が昼の日ざしであろうと、深夜の星の瞬きであろうと、彼がその瞬間、床に跪いて石の粉だらけの頭を垂れ、肉刺(まめ)がつぶれた血だらけの両手を組んで、天に祈ったことを、私は自然に想像できた。

<日野啓三『遥かなるものの呼ぶ声』(中公文庫2001)>







小さな死

2012-07-28 17:28:48 | 日記

暑い。

昨年も暑かったはずである、いったい“1年前”ぼくはどのようにして生きていたのだろうか?

なにも思い出せないのだ。

それでハタと思い当たった。
“この(自分の)ブログを読めばいい”、すなわち2011年7月から8月のブログが読めるのである。

2011年7月のブログから読んでみた。
とても恐ろしかった(笑)
すなわち、ぼくは“今日と”同じことを思い、考え、引用している。
ひとつのブログに、“ぼくは64歳である”とあるが、現在、ぼくは65歳である、だけである。

茂木健一郎がウィトゲンシュタインについて書いたツイートを“批判した”ブログがある。
“その後”ぼくは、ウィトゲンシュタインに“ついて”いくつかの文章を読んだ。
そして、あのときよりウィトゲンシュタインについての認識をほんの少し深めた。
けれども、“この時”書いた批判を変更する必要をまったく感じない。
これに、“自信”を持つこともできるが、反対に、自分の“停滞”(マンネリ)を感じもする。



ここには、2011年8月31日のブログ<暴力の通過>を再録したい、伊藤俊治『20世紀写真史』からの引用である;

★ あらゆるメディアのなかで、特に写真は「私」と「死」という概念に最も緊密にむすびついている。

★ 例えば自分を撮られた写真を見る時、人は無意識に死の時間のなかに自らを封印している。また何げない写真を見る時でも、人は多くの場合、自分自身のなかへ降りてゆかざるをえない。

★ 自分を撮られた写真においては、私は他者として現出し、自己同一性がよじれ、分裂する。

★ そして我々は気づかないのだが、その瞬間、とても小さな死を経験する。

★ 写真を見ていると、時折り奇妙な感覚におそわれてしまう。
もしかしたら、私は生の場から死と化した場を見ているのではなく、死の場から生の場をのぞいているのではないだろうか。

★ 人間の眼は生き物であり、それは膨らんだり縮んだり、記憶したり思いだしたりする。

★ しかし、こうした生物体である眼は20世紀において根本的に解体していったといえるだろう。そして、その過程において写真の果たした役割は大きい。

★ 人間の眼がとぎれてゆく、その一瞬を、そのはざまを写真は写しとっている。そのぎりぎりのところにあるはかなさ、かけがえのなさが写真にはしみわたっている。

★ その点こそ写真が映画やテレビと異なる特質でもある。そして今やその写真独特のそうした意味が新しいメディアの波のなかで急速に消え失せようとしている。

★ 写真は「歴史」と同じように19世紀中葉に生みだされ、写真のなかへ入るということは20世紀へ入るということと同じ意味をもっていた。

★ そこにはかつてあった人間たちの痕跡だけがたたえられている。
かつてあった私の痕跡だけが反響している。
まるで何か途方もない大きな暴力が通過したあとのように。

<伊藤俊治『20世紀写真史』(ちくま学芸文庫1992)>








<蛇足>

上記ブログを書いたあとに、文中にある“茂木健一郎批判”のブログを、ここに再録したほうがよいと感じた。
2011年8月31日のブログ<あなたはいったい何に怒るのか?>である;


今朝、茂木健一郎の連続ツイートを読んで怒りを感じた。

ぼくが何に怒りを感じるか、などということは、ぼく以外のひとにはドーでもいいことである。

たぶん“多くの人”は、この茂木健一郎ツイートに怒りを感じない。

“柔軟で無邪気だけれど、脳科学者なんだから、最新の知識を持っている(んだろう)”と応援しているのだ(笑)

茂木健一郎は、“あらかじめそれを繰り込んで”、このツイート(というか彼のすべての文章)を書いているのだと思う。

そのこと自体も、攻められるべきことではないだろう。

しかし、人間は“いいかげん”なものだが、やっぱり真剣になったり、ゆずれない一線というものがある(のではないだろうか)

以下に引用する茂木ツイートが、仏教とヴィトゲンシュタインについて述べているからといって、ぼくは“仏教とヴィトゲンシュタインの関係”について、特に異論があるということではない。

だいいち、正直に言うが、ぼくは<仏教>についても<ヴィトゲンシュタイン>についても、ほとんど知らない。

ぼくは、そういう“専門的論議”をしたいのではない。

しかし、いいかげんな、生半可な、“常識”をかざして、いかにもそれが“真理”であるかのごとき発言を、“セミ取り坊や”のようなノリで、無邪気さをよそおって発言し続ける人に(だって茂木健一郎は“少年”ではないはずである)、直感的な怒りを感じる。


その茂木健一郎連続ツイートの核心部分は以下の通り;

* kenichiromogi 茂木健一郎
こひ(1)ある男が、いろいろ質問した。人間はどこから来たのか、死んだら魂はどうなるのか、天国や地獄はあるのか。世界はどうしてあるのか、それに対して、釈迦は、「私はそういう質問には答えない」と言った。いわゆる、「無記」の思想である。
1時間前

* kenichiromogi 茂木健一郎
こひ(2)釈迦は言った。目の前に毒矢に当たって苦しんでいる男がいたら、その苦しみを助けてあげるのが先決だろう。矢はどこから飛んできたのか、誰が放ったのか、毒は何なのかという問いは二の次であると。「無記」は実践倫理であると同時に、深い認知哲学を含んでいる。
1時間前

* kenichiromogi 茂木健一郎
こひ(6)ヴィトゲンシュタインの「言語論的展開」は、釈迦の「無記」によって先取りされている。「語り得ぬものについては、沈黙しなければならない」まさに語り得ないからこそ、生命にとっては大切なこととなる。論理哲学論考は、生命哲学の書でもある。
1時間前

* kenichiromogi 茂木健一郎
こひ(9)言葉にとらわれず、だからこそ飛翔すること。そこに私たちの生命の本来のふくよかさがある。特定の言葉にとらわれている人の精神は、すでに若々しさを失っている。硬直した認識は、「言葉」にすがろうとして、結局は「言葉」の海の中に自分を見失ってしまうのだ。
1時間前

(以上引用)




ヴィトゲンシュタインは、《言葉にとらわれず、だからこそ飛翔すること。そこに私たちの生命の本来のふくよかさがある》などということを、言っていないと思う。

自分に都合のよいように、“他者”を引用することは、人間としてかなり劣悪な態度だと思う。

ぼくの“感じ”では、ヴィトゲンシュタインは、《言葉にとらわれず、だからこそ飛翔すること。そこに私たちの生命の本来のふくよかさがある》などという<言葉>をこそ否定(拒否)したのだ。


“だから”生涯にわたって、“言葉について”(言葉をもちいて)考えたのだ。







最近引用したばかりだが、ヴィトゲンシュタインの言葉、ひとつ;

★ 人間が意志をはたらかすことができず、しかしこの世の中のあらゆる苦しみをこうむらなければならないと仮定したとき、彼を幸福にしうるものは何か。
この世の中の苦しみを避けることができないのだから、どうしてそもそも人間は幸福でありえようか。

ただ、認識の生を生きることによって。

<ルートウィヒ・ウィトゲンシュタイン:“草稿1914-1916”>





茂木健一郎氏も、むだなおしゃべりのヒマがあるなら、《認識の生》を深めていただきたい。

内田樹のような”おしゃべり”を見習わないで。








未知

2012-07-28 10:55:09 | 日記

★ 人間の意識というものの不思議さを、改めて思う。まず身体がある。その信じ難く複雑精妙な働きによって生命がある(それだけでほとんど奇跡的だ)。生命がより効率的に生きるために原初の意識が芽生え、その身体/意識体験が沈殿して無意識の暗泥層をつくり、それとの交互作用(フィードバック)によって、意識は内部感覚としても外部感覚としても拡大深化して、次々と新しい意識層が、脳の構造のように重層的に形成されてゆく。

★ みずからの身体、無意識と切れた意識は、どんなに新しそうでも軽薄で力弱い。身体ごと、無意識の奥からの情動に動かされながら、その暗い力をコントロールしながら、それまでの自分/意識を超え出るとき、全身全霊の、魂の快感、精神の高揚、《いま生きて在る》透き徹るような現実感があることを、私は幾度か体験してきた。

★ 内に深く熱く暗く古く、同時に外に広くクールに明るく新しくあろうとするその相反するベクトルを、同時に生み支えるものは何であろうか。しかもとても重要なこと――そのような力は内的にも外部的にも滑らかに発動して広がるとき、相殺し合うように弱まるということだ。つまり内面的にも社会的にも平穏無事なとき、生きる力、考える力、新たな未知を探究する力、想像し幻想する力も弱まるどころか、消失さえする。世界と自己のイメージが限りなく縮小して固くなる。だがそのようなとき、身体がこの世界は恐るべき未知なるものであることを、言葉なく知っている。縮小された自己イメージを内側から揺するのである。

★ 大地震ひとつ取ってみてもこの世界に平穏無事はない。多年共に暮らした生活パートナーの寝言でさえ、その奥にうごめく無意識の内容は既知ではない。当然なことなど、この世界にも自分自身の内心の動きにもひとつもない、という危機意識こそ、意識自体の力を支えるものだ。

★ 力を見ることはできない。力は働くものである。働きを体感することができるだけだ。

<日野啓三『書くことの秘儀』(集英社2003)>








能天気(脳天気)な人びと

2012-07-27 21:49:53 | 日記

★ 大震災と原発メルトダウンがあってはじめて”滅びの予感”らしき情感がちらほらあらわれたとはいうものの、大方はまだしごく能天気なものであり、なにが楽しいのか、3月11日の前と同じ踊りを踊り、同じ歌をうたいつづけている。

<辺見庸『死と滅亡のパンセ』(毎日新聞社2012)>




☆ のうてんき[能天気・能転気](電子辞書広辞苑);

(脳天気とも書く)軽薄で向こうみずなさま。なまいきなさま。
また物事を深く考えないさま。




☆ 能天気(脳天気)なひと(例―ぼくが思うに);

田原総一郎、内田樹、高橋源一郎、茂木健一郎、宮台真司、東浩紀・・・・・・(その他大勢)






☆ ある詩;

ヒデリノトキハナミダヲナガシ
サムサノナツハオロオロアルキ
ミンナニデクノボートヨバレ
ホメラレモセズ
クニモサレズ
サウイフモノニ
ワタシハナリタイ







★ 遠くで清水がしたたっている。










海(内側の海)

2012-07-25 15:42:01 | 日記

★ 故郷の瓦礫の原をさまよい歩きつつ思った。わたしは2011年3月11日を生き残った。そのうえで、厳然として疑いえない真理はある。呆れるほど単純な、だがしかし、絶対的に否定のしようがない結論。それは、わたし(たち)が、死ぬまではかならず生きてしまう、という決定的事実である。そうであるならば、「巨大な海綿のようなもの」などに、あたら残りの時間を支配されたくはない。死はどのみち遠からずやってくる。死は近い。明日かもしれない。だが、死ぬまでは生きる。おめおめと生きてしまう。もう衒う必要などなにもない。他と連むこともない。えらぶるな。卑下するな。静かにじぶんを語れ。「無常」を語るな。自他の海綿的あやかしと、あくまでも淡々と最期まで戦え。ああ、海があんなにも碧く凪いでいる。

<辺見庸『死と滅亡のパンセ』(毎日新聞社2012)>






<あやかし>というのは、よい日本語だと思ったので、ぼくが理解している“意味”でよいのか、電子辞書・広辞苑引きました;

① 海上にあらわれる妖怪。
② 転じて、怪しいもの。妖怪変化。
③ あほう。馬鹿者。
④ コバンザメの異称。
⑤ 能面の一。妖気を表した男面。








ゴミを捨てる人

2012-07-25 06:11:03 | 日記

★ 千代田区一番町という都心部の町のマンション二階に住んでいた頃のことだ。まわりは高層鉄筋のマンションとオフィスビル。岩山の谷底の感じなのである。深夜、裏階段からゴミを捨てに地面に降りると、周囲は白いタイル貼りの、赤茶色い煉瓦建ての、あるいは部厚いコンクリート肌の壁がそそり立っていて、その上方はるかな狭い夜空に、星が二つか三つだけ見えることがある。

★ そんな部屋の中で、私は『未来への遺産』といういかめしいタイトルの、カラー写真の図版が美しい大判の書物を、しばしば眺めていた。どうしてそんな書物がその昼も薄暗い部屋に現われたのか、いまはもう覚えていないけれど、そこに写し出された数々の古代遺跡の風景に、私は魅入られていた。とりわけ一木一草もない谷間に林立する尖塔状の奇岩と、その内部に洞窟を掘って閉じこもったふしぎな人々に。

★ トルコ中部アナトリア高原のカッパドキア地方。一世紀末から少しずつキリスト教の修道士や隠者たちがその奇岩の洞窟に住み始めた、と写真には説明がついていたが、いまは無人のまま岩に穿たれた洞窟の入口が髑髏の口のようだ。どんな人たちがこの奇怪な岩に棲みつき、不毛そのものの地を生きて死んだのだろう。何を考え、何を祈り、何を待ったのだろう。ヘレニズム世界の崩壊の地鳴りの中で。

★ 夜更けるにつれて、いっそう台風のうつろな目のように不気味に静まり返る東京中心部のコンクリートの谷底で、私は幾夜となく茫々と、濃い思いでそう考えた。そうして地上の距離と歴史の時間を越えて、自分でもよくわからない強く身近な思いを覚えながら、部厚い鉄筋コンクリートの冷えがしみこんでくる部屋の隅の仄暗がりに、頭巾のついた羊毛粗織りの灰色の長衣に身を包んだ男がひっそりと蹲っている気配を感じたのだった。

<日野啓三『遥かなるものの呼ぶ声』(中公文庫2001)>








途方に暮れる

2012-07-22 21:22:05 | 日記

★ 哲学者はいかなる思想的共同体の成員でもない。まさにそのことが彼を哲学者にするのである。

★ 哲学の問題は、「私は途方に暮れている」という形をとる。

★ およそものごとの、我々にとって最も重要な様相は、その単純さと平凡さによって隠されている(人はそれに気づかない――それがいつも眼前にあるから)。人間の探究の本来的な基盤は少しも人間を驚かすことがない。そのことに彼が驚いた場合を除いては。――すなわち、ひとたび目にすれば最も驚くべく、また強烈なものに我々は驚かないのである。

★ 哲学の病の主たる原因――偏食。人は自分の思考をたった一種類の実例で養っている。

<黒田 亘編『ウィトゲンシュタイン・セレクション』(平凡社ライブラリー2000)>









われわれの意識

2012-07-21 13:48:57 | 日記

★ 《日々の言語ゲームそれぞれの名状しがたい多様性は、われわれの言語の装いがあらゆるものを均一にしてしまうために、われわれの意識にはのぼってこない》―ウィトゲンシュタイン“哲学的考察”

(柄谷行人『探究Ⅰ』第4章より引用)









苦しみを託されたものとしての映画;ゴダール語録

2012-07-21 11:50:38 | 日記

Jean-Luc Godard ‏@godard_bot
映画史というのは、自らの歴史をもつことができる唯一の歴史だということです。なぜなら、映画史というのは自らの痕跡をもっている唯一の歴史だからです…人々がこしらえたさまざまの映像が残っているからです。―ゴダール

Jean-Luc Godard ‏@godard_bot
私はまだ一度も、ひとから《おまえの映画は左翼的だ》とか《右翼的だ》とか言われたことがありません。映画の連中が私に投げつけた唯一の非難は、《おまえがつくっているのは、それは映画じゃない》というものです。―ゴダール

Jean-Luc Godard ‏@godard_bot
よくおぼえていますが、私は『気狂いピエロ』を撮りはじめる一週間前は、完全なパニック状態におちいっていました。なにをすればいいのかわからなくなったのです。―ゴダール

Jean-Luc Godard ‏@godard_bot
ひとははじめのうちは、自分は自分を表現していると思い込み、その表現のなかに、自分のなかから生まれたものではない、ある大きな感化の運動が入りこんでいるということを理解しようとしません。―ゴダール

Jean-Luc Godard ‏@godard_bot
人々はより多くのことを知りたがっている。別のやり方でよりくわしく知りたがっている。でもそのためには、つくる映像をより少なくし、それらをよりよくつくるべきなんだ。―ゴダール

Jean-Luc Godard ‏@godard_bot
私がこれまでに何本かの映画をつくり、今もなお映画をつくろうと努めているのは、ただ単に、こわいからです。私は仕事を手に入れることに関しては、だれもあてにしていません。だから私には、明日になって仕事がなくなっていることがこわいのです。―ゴダール

Jean-Luc Godard ‏@godard_bot
真の妖怪的映画というのはむしろ、われわれに恐怖感を与えず、あとでわれわれを妖怪めいたものにする映画だと言えます。それに対し、われわれにいくらかの恐怖感を与えるそのほかの映画は、われわれをいくらか開放してくれるのです。―ゴダール

Jean-Luc Godard ‏@godard_bot
まただからこそ、私は自分に、「物語というのは、ひとが自分自身の外へぬけ出るのを助けるものなのだろうか、それとも、自分自身のなかにもどるのを助けるものなのだろうか?」という疑問をなげかけるわけです。―ゴダール

Jean-Luc Godard ‏@godard_bot
苦しみを託されたものとしての映画、―ぼくはこれはすぐれた観念だと思う。そして、自分に大げさに考えるべきじゃないと言い聞かせながら、この観念を自分に適用している。―ゴダール








“教養”とはなにか?

2012-07-20 07:53:57 | 日記

☆ 丸山健二 ‏@maruyamakenji
 真の教養とは、腹黒くて強欲な輩の口車にけっして乗らない術のことだ。それをしっかり身につけることこそが教養なのだ。それには自分自身の思考によって独自の答えを導き出す習慣が必要不可欠だ。権力や金力の側にすり寄って自立していない人々を誑かす学者のそれは教養とは対極に位置するものだ。
(引用)


ところで、ぼくは“誑かす”という語が読めなかった。

調べた。

たぶらかす”である。

この“たぶらかす”という言葉自体が、あまり使われていない。

あまりにも“たぶらかす”人が多いので、死語となったのであろうか?


美しく、正確な日本語を残す(使用する)べきである。