Don't Let Me Down

日々の雑感、引用。
言葉とイメージと音から喚起されるもの。

フーコーの闘争

2013-11-30 02:07:03 | 日記

★ フーコーに<統治>の問題設定があることは、1977-78年度のコレージュ・ド・フランス講義『安全・領土・人口』と、翌78-79年度講義『生政治の誕生』の刊行によって、広く知られるようになった。

★ <統治>とは、自己が自己と他者にはたらきかけ、自己と他者を導く営みのことだった。以後フーコーは、1984年6月にAIDS関連症候群で死去するまで、この統治なる概念を軸に研究を進めつつ、過去の作業を捉え返す。1979-80年度講義『生者の統治』の冒頭では、<権力-知>から<真理による統治>への移行が宣言されており、終章で触れるように、<パレーシア>をめぐる80年代の議論では、勇気を持って真理を追究することが、自己と他者の統治と関わるとされる。後期フーコーを全体として貫くテーマは<統治>ではないのか。これが本書の作業仮説である。

★ 生政治論は福祉国家と新自由主義への批判的な視点を導入する。たしかに、その図式は強力だ。だがフーコーの統治論の目的は、現代社会の仕組みをつまびらかにすることだけではない。いまここでの己の行動=振る舞いの仕方、統治のあり方を、この現実から出発して、どのように変えることができるのか?フーコーの問いはこの周りを回っている。逆に言えば、生政治論を現代社会論として受け止めるだけでは、現在の社会体制をどのような立場から批判するにせよ、そこから出てくる答えは「よりよい」あるいは「よりましな」統治術を提案する以上のものにならず、しかも「言わずもがな」のレベルにとどまるのではないか。

★ さらに言えば、そうしたテクノクラート的、改良主義的な見方こそが「罠」ではなかったか。フーコーが監獄情報グループの活動を行っていた際に述べたように「改革は官僚の仕事」なのであり、知識人にそんなことをいまさら言われなくとも「人々はよくわかっている」のだ。

★ ハート=ネグリは『コモンウェルス』(2009)で、上述したエヴァルドやエスポジットが、生政治を管理統制という観点からのみ捉えていると批判し、他方で、抵抗実践を極限的で希少なものとして提示する、アガンベン的な立場を退ける。加えて、個人に何らかの本質を指定する立場もとらない。そして<権力>の対にあるのは<抵抗>ではなく<主体のオルタナティブな生成>であり、それは「権力に抵抗するだけでなく、権力からの自律を探究する」ことだと論じる。本書が明らかにする統治の枠組みは、権力と抵抗という、二元論的な構図から距離を置く点で、ネグリの主張と部分的に重なる。だが抵抗という言葉からも離れて、統治という一元的な観点から、後期フーコーの問題設定を明らかにする点では異なる。

★ 後期フーコー思想における統治論の展開により、抵抗と権力は統治概念のもとで一元的に把握される。このとき、権力と主体の二概念を基礎づけるのが、「自己と他者の統治」を担う<統治する主体>だ。この主体は、自己の導きと他者の導きが交差する、権力関係の戦略的場に身を置く。そして、自らを導き、他者を導き、他者から導かれる存在として、己を主体化する。構造主義登場後のフランス思想には「構造か主体か」という係争点がある。統治論は、この議論に「構造も主体も」の立場から切り込むものでもある。

★ 闘争とは己の想像力を豊かにし、新しいものを作り出す。このとき自己は、己と他者と新たな関係を結び、自己に別の導きを与える。統治論を紡ぎ出した「フーコーの闘争」とは、闘争における想像力、創造性、永続性、偏在性への信のことであり、われわれに、その「闘争」の主体になるよう誘う。

<箱田徹『フーコーの闘争 <統治する主体>の誕生』序章(慶應義塾大学出版会2013)>




ぼくたちは同じ時代を生きた、生きる

2013-11-28 15:03:21 | 日記

本を読む、とはどういうことか。
ぼくは日々少ないけれど本を読み、ときどきこのブログに引用している(引用が“本”でないこともあるけれど)
その行為は、“情報”や“知識”や“生き方の参考”を得るためではない。
いや、そういうこともあるだろうが、それが核心ではない。
あるひとが“生きた”こと、“生きている”ことを知りたい。

この場合の“あるひと”の選択こそ、ぼくがずっと考えて(迷って)きたことだった。
つまりこれまでにも選択はあったが、それを誤ったと思ったこともあった。
ぼくの年齢では、もはや迷っていることはできない。

“あるひと”が、もう死んでいる場合と、現在生きつづけている場合もちがう。
もう死んでいるひとから、思い切って(笑)、ベンヤミン、フーコー、宮沢賢治、中上健次を選ぼう。
生きている人でも、その人の“過去の仕事”と“現在進行中の仕事”というものがあり、この選択は、なおさらむずかしい。

“現在進行中の仕事”と書いたが、それは、“本”にまとめられたものだけを意味しない。
ぼくは、近年、雑誌をまったく買わないが、雑誌などに掲載されて(連載されて)いる仕事がある。
さらに、まさに、この“ネット上の”発言がある。
たとえば、現在、ぼくがいちばん楽しみにしている“日々の発言”は、辺見庸ブログの“私事片々”である。
まさに、“日々”、彼がなにを感じ、なにを考えるかを、知る。

けれども、ぼくと辺見庸は、“同じ人”ではない(あたりまえだ!)
つまり、かれの言う(書く)ことに、すべて“共感”するのではない。
むしろ、“なにがちがうのか”を読む。

そういう“意味”で、ぼくが今後、なるべく集中的に読みたい(読み返したい)人々は以下の通りである(カッコ内は生年)、ほかの人を読まないということではない;

* 見田宗介=真木悠介(1937~)
* 柄谷行人(1941~)
* 辺見庸(1944~)
* 宇野邦一(1948~)
* 大澤真幸(1958~)
* 立岩真也(1960~)



<引用>

★ たかだかムスカリの開花なりにおいなりフリルなり、まったく取るに足りないことどもが、このところとてつもなく大事なことに思えるのはなぜだろう。あえかな花にもにおいにも、宇宙と私を辛うじて繋ぐ、目には見えない事理が隠れているように考えてしまう。とりわけて、球根である。犬かなにかのふぐりみたいにぶっきらぼうなそれらが、内部の謎めいた闇のなかで、やがて精緻な形や、瞑想的色あいや、したたかなにおいとなって世に打ってでるものの生成に日々おさおさ怠りなかったなんて、思えば大変なことである。

★ 日常に、いや歴史にも、あくびのでるほど退屈な「常態」などない。近年つくづくそう思う。別して問題のない常態としてかたづけられる、一見、なにげない日常が、そのじつ表皮の奥底に孕んでいるもの、刻々生成しているものの、いかに多いことか、ときに慄然としてしまう。もしも醒めた目で仔細に見るならば、花の球根の表面的変化以上に、じつのところ危機の気配や予兆は地表のそちらこちらにあるものなのに、人間集団の心理とは不思議なものだ。それとして認めようとはしない。看過してしまう。というより、大勢としてなぜか見逃してしまいたがるものだ。
<辺見庸“不安の球根とマスメディアに関する断想”―1998『不安の世紀から』文庫版のための書き下ろし>

★ ともあれ、かねて予感していたものがついにやってきた。それは言いかえれば、狂気がどんなものでありえたかがわからなくなる日であり、それがまさに現在である。ことここにいたって抵抗などという、そらぞらしいもの言いをする気はない。わたしは狂者の錯乱した暗視界の奥から、いかにも正気をよそおう明視界の今風ファシストどもを、殺意をもってひとりじっと視かえすであろう。晴れやかな明視界にたいする、これがわたしの暴力である。
<辺見庸『国家、人間あるいは狂気についてのノート』(毎日新聞社2013)>

★ きょうお集まりのたくさんのみなさん、「ひとり」でいましょう。みんなといても「ひとり」を意識しましょう。「ひとり」でやれることをやる。じっとイヤな奴を睨む。おかしな指示には従わない。結局それしかないのです。われわれはひとりひとり例外になる。孤立する。例外でありつづけ、悩み、敗北を覚悟して戦いつづけること。これが、じつは深い自由だと私は思わざるをえません。ウマオイを見せることです。死刑囚にでも、子供たちにでも、見せる。その心根、勇気、心の自由を私たちは確保すべきです。いま、語ることは語ることの無意味と戦うことです。怒りは怒りの空虚に耐えることです。お遊戯の指で、ほんものの時はかぞえられません。地上のその明るさで、地中の闇をはかることはできない、といいます。死刑制度と死刑囚についてもっともっと思いをめぐらしましょう。手紙を黒く塗りつぶした「真犯人」について、最後に告げなければなりません。「真犯人」は、それを許してきた、われわれなのです。死刑を存続させている究極の「真犯人」は、権力であるとともに、それを許しているわれわれなのです。
<辺見庸講演「死刑と新しいファシズム 戦後最大の危機に抗して」(2013年8月31日)の最後の部分―Blog「みずき」より転載させていただきました)


*この辺見庸講演の記録(全文)をBlog「みずき」で読むことができる。


 


すぐ目の前にある恥辱

2013-11-28 01:45:08 | 日記

★ 人間であるがゆえの恥辱を、まったくとるにたりない状況で、強く実感させられることもあります。あまりにも凡俗な考え方に接したり、テレビのバラエティー番組を見たり、あるいは大臣の演説や、「楽天家」のおしゃべりを聞いたりするとき、私たちのすぐ目の前に恥辱があるのです。これは人間を哲学にかりたてる動機のうちでいちばん強いもののひとつだし、またそれがあるからこそ、哲学は必然的に政治哲学になろうというものです。

<ジル・ドゥルーズ『記号と事件』(河出文庫2007);原著-1990>





“日本文学”と“日本国”のはじまり

2013-11-27 12:59:48 | 日記

まず“日本国”というのは、神代の昔(いつ?)から存在したのではないのである。
ゆえに、それ(日本国)にも、“はじまり”があることになる。

そして、“日本文学”に“はじまり”があることに疑問をいだくひとは、日本国にはじまりがあることに疑問を抱く人よりも少ないだろう。

以上の文章は、わかりにくい、だろうか?(笑)
けれども、以上のこと(“日本文学”と“日本国”のはじまり)に、すこしでも興味をもつひとは、加藤周一『日本文学史序説』の“はじめ”の部分を熟読する必要がある;

★ 文献よりさかのぼれるかぎりでの日本文学の歴史は、7・8世紀にはじまる。

★ 統一国家の成立は、首都の建設と、国史の編纂を意味していた。

★ 7世紀に飛鳥地方に住んでいた王権は、8世紀のはじめには、長安に倣って平城京をつくった。全国で唯一の都会で、大きさは長安のおよそ四分の一、人口は20万に達したことがあるという。(……)平城(奈良)は、商業の発達の結果市場として成立した都会ではなく、律令制権力の城下町であった。

★ その同じ権力が、遷都(710)の後10年間に、『古事記』(712)、『日本書紀』(720)を完成したのである。『古事記』は、日本語文脈を混えた変体の漢文により、『書紀』は、中国の史書・文集に倣った漢文で書かれ、いずれも皇室の祖先を神格化した部分と、歴代の天皇の系統と治世の内容を叙述した部分から成り、編年体の体裁を整えている。その成立の事情はあきらかでない。編纂の準備は、7世紀の後半にはじまっていたらしい。またその原資料――いわゆる『帝紀』と『旧辞』は、今日失われて存しないが、前者は皇室の系譜を、後者は宮廷でのさまざまな語り伝えを記録して、6世紀には成立していたらしいといわれる。

★ 津田左右吉の研究以来、あきらかなことは、律令制権力が自己の正統性を証明するために、『記』、『紀』の神代の部分と、そこから切れめなく続いたとされる人代の初期の話を、意図的に構成したということである。構成の素材には宮廷・民間の口諳の伝説があったにちがいない。しかしそれをまとめた、――またまとめる過程で修飾した『記』、『紀』の話の全体は、王権の正統性をあきらかにするというはっきりした立場から秩序づけられたのである。

★ 7・8世紀の支配層が、世襲の王権の正統性を、歴史的に説明する必要を感じたのは、6世紀以来の朝鮮の王国の交渉、7・8世紀の中国との朝貢関係において、外交上そうすることが有利だったからであろう。東アジアの先進国の習慣が、後進の倭国にも及んだのであり、石母田正は、その点について、もっと具体的な事情を述べている。石母田は『書紀』、『隋書』、『宋史』などに散見する記述から、唐の皇帝が日本の使節を引見して行う公式の質問には、「日本国之地理及国初之神名」に係るものが含まれていたと考え、遣隋使についても、同様のことを想像し、そういう事情が「記紀の神代史が作成されてくるひとつの契機」になったろう、と結論している。

★ 中国との朝貢関係を前提としてみると、『記』、『紀』の少なくとも神代の部分は、日本側の意志を越えて、対外的に書かれざるをえなかったという技術的な理由さえあるかもしれない。『古事記』完成の後10年を出でず、なぜ『書紀』が編纂されたのか。『古事記』は、成立の事情・資料・文章などの点で、おそらく対外的な目的には充分に適せず、公式の国史として、漢文で書きなおすことが重要だと考えられたのであろう。

《加藤周一『日本文学史序説』(ちくま学芸文庫1999);原著-筑摩書房1975、1980>


* 上記引用文は、『日本文学史序説』のほんの最初の部分からの引用である。すなわち、“日本文学史”も“日本国の歴史”も、まだまだ“つづき”があるのである!





強行採決

2013-11-26 15:38:49 | 日記

◆ 津田大介 @tsuda
特定秘密保護法案、自公が審議を打ち切り、賛成多数で強行採決。

◆ 津田大介 @tsuda
公明党、まったくストッパーとかになってねえじゃないか。

◆ 津田大介 @tsuda
このままどこまで日本は行ってしまうのかね……。

◆ 蓮池透@1955Toru
どうして、NHKは国会中継を途中でやめるの?強行採決は、中継せず。
Retweeted by 國分功一郎 retweeted at 11:28:02

◆ アサザ基金 飯島博@asazaiijima
NHKの国会中継終了直後に採決。予定通りということか。民放もニュース速報無し。国民を秘密で管理する。もう始まっている感じだ。 Retweeted by 國分功一郎

◆ 國分功一郎@lethal_notion
特定機密保護法、NHKの国会中継が終わった直後に委員会で採決したらしい。自分たちの後ろめたさ、そんなに直接表現して恥ずかしくないのか。
posted at 11:36:11

◆ 國分功一郎@lethal_notion
この後、政治家や芸能人等のスキャンダルを流し、世の中の目をそちらに向けさせる手段を利用することが予想される。考えられるのは猪瀬の辞任で、猪瀬のスキャンダルが(当然もっと前に分かっていたはずなのに)この時期に手をつけられたことに注意せねばならない。
posted at 11:39:00

◆ 國分功一郎@lethal_notion
報道の方々には、瑣末なスキャンダル報道に堕せず、いま政府がやろうとしていることの中心をきちんと報道していただきたい。
posted at 11:40:01

◆ IWJウェブ速報@IWJ_sokuhou
【速報】衆議院国家特別委員会は特定秘密保護法案を強行採決。与党側の質疑打ち切り動議後、自民・公明・みんなの賛成で可決した。日本維新の会は退席した。同法案は今日の本会議で可決される見通し。@iwakamiyasumi
Retweeted by 國分功一郎 retweeted at 11:40:14

◆ 國分功一郎@lethal_notion
《与党側は、この日の特別委の審議が全国にテレビ中継されていることを考慮。「首相がいる場で採決を強行する姿を国民に見せてはまずい」(自民党関係者)》。
こんなことまでキチンと考えてるんだから、他の手段ももちろん打ってるだろう。
http://mainichi.jp/select/news/2031126k0000e010146000c.html…
posted at 12:11:28

◆ 國分功一郎@lethal_notion
「集団的自衛権」などという口実で自衛隊が米世界戦略のためにいいように利用されて誰かが死ぬまで、もうこの流れは変わらないのだろうか。その時に死ぬのは、違憲だ何だとずっと文句を言われながらも災害があれば頑張ってくれた自衛官の人達じゃないか。
posted at 12:17:30

◆ 國分功一郎@lethal_notion
イラク戦以降、アメリカ国民は戦争嫌いになってる。それがシリア危機で証明された。次に軍事作戦を行いたい時、アメリカが自衛隊を利用しようと考えるのは理の当然。機密保護法はその布石。自衛官の友達とか、結構みんないると思う。彼らがアメリカに利用されるなんてくやしくないのか。
posted at 12:23:37





“年々歳々花相似たり 歳々年々人同じからず”

2013-11-26 01:14:36 | 日記

★ 《この世の生の時間は一瞬に過ぎないということ、死の状態は、それがいかなる性質のものであるにせよ、永遠であるということ、これは疑う余地がない……。》(パスカル『パンセ』)

★ 《人類は消滅するであろうなどとわれわれが断言するのを、何ものといえども許しません。人おのおのは死にますが、人類は死ぬべきものでないことをわれわれは知っています。》(ボーヴォワール)

★ 近代人は死の問題を、意識の底に封印している。
  それはみずからの死の問題と人類の死の問題とが、近代的自我にとっては解析不可能な問題であると同時に、それゆえにこの問題にかかわっていては、市民生活を生きてゆくことはできないからだ。われわれの生の時間は限りがあること。人類の全歴史もまた、限りがあること。そのあとにつづく死の時間は無限であること。そのかなたには、たぶん、なにもないこと。

★ パスカルが神の存在を、確率論的に1/2であるとしながら、なおかつ神の存在に賭けることができたのは、彼の有名な計算のまえに、前論理的な直感において、あらかじめ神を信じていたからだとわたしは思う。そして多くの成熟した近代社会の自我は、このようにパスカルの賭けを賭けることができない。それはかれらの前論理的な直感がもはや、パスカルのそれとおなじものではないからだ。

★ そこには絶望しかないようにみえるけれども、われわれにはあとひとつだけ、なすべきことが残されている。それはわれわれが、なぜそのように問題をたてるのかということを、それじたいとして知の対象とすることである。ひとつの論理のたてられ方を、そのものとしてみずからの知による探究の主題として眼前におくことである。

★ <ニヒリズムの元凶>としての時間が、否定しがたい「客観性」として存立してくるのはなぜか。すべての未来に死があるという事実が、なぜ現在の生をむなしいものとするのか。時間関心がこのように抽象的に無限化されてゆくのはなぜか。生活の「意味」がいつでも時間のかなたへと送りこまれてゆくのはなぜか。ひとびとの生が、その生きられる時空のうちに完結して充足しうる構造を喪うのはなぜか。要するにこの<虚無>の存立の機制自体を、知の照明の対象として主題化し追求すること。われわれの「明晰」の罠を、「非明晰」へとのがれるのではなく、「明晰」をそのものとして対象化する<明晰>のほうへ、のりこえること。

★ 生きられるひとつの虚無を、知によってのりこえることはできない。けれども知は、この虚無を支えている生のかたちがどのようなものであるかを明晰に対自化することによって、生による自己解放の道を照らしだすことまではできる。そこで知は生のなかでの、みずからの果すべき役割を果しおえて、もっと広い世界のなかへとわたしたちを解き放つのだ。

<真木悠介『時間の比較社会学』(岩波現代文庫2003);原著-岩波書店1981>





ゆるみきった風土にあがった狼煙(のろし)

2013-11-24 13:44:23 | 日記

★ ヘブライの政治的な力は、ソロモン王の死後おとろえ、王国はふたつに割れた。すなわちサマリアに首都をおく北方のイスラエルと、イェルサレムを首都とする南の小さなユダ王国である。やがて(……)紀元前722にイスラエルがアッシリア人に征服されたとき、その指導的な家族は追放され、またユダ王国も、紀元前587年、バビロニアの征服者ネブカドネザルの手で、同じ目にあわされた。

★ イスラエルからの追放者たちは、その独自性を失い、中東の人口一般の中に消えてしまった。したがって北の王国では、素朴な農民の世界でだけヤハウェの宗教が生きのびた。この信者たちは、のちにサマリア人と呼ばれた。

★ ユダからの追放者のたどった運命はまったくちがっていた。イェルサレム攻略のすこし前に、ヤハウェ崇拝を浄化しようとして、ひじょうな努力が払われていた。この改革の途中で、聖典が、ほとんど今日知られているかたちでの旧約聖書の諸編にまとめられた。そこで、ユダの国の指導者家族がヤハウェの神殿を遠くはなれてバビロンに追放の身となったとき、彼らは少なくとも聖典を持っていたから、それを読んで学ぶことができた。そこで、信者たちが毎週集まって教師の聖典説明を聞くことが、神殿における儀式の代わりを果たし、この時代以後もうユダヤ教と呼んで差支えない宗教の、中心的な礼拝行為となったのである。

★ このようにして、宗教が一地域のものでなくなった。ユダヤ人たちは、外見上はまわりの民族とほとんど同じようにふるまい、さまざまな言語を話し、衣装や行為の点でも一律でなかったが、それでいてヤハウェには忠実でありつづけた。要するに、宗教が、人間文化の他の側面から切りはなされたのである。イェルサレムの神殿での豪華な礼拝に執着したり、信者に対して同一地区に住んでほぼ統一的な習慣に従うよう強制するのではなく、ユダヤ人の信仰は、少数の信者が集まって聖書を研究し思索する場所でなら、どこでも栄えることができるようになったのである。

★ 追放生活はまた、ユダヤの宗教の情緒的な色調に、重大な変化を加えた。未来において悪が正される、という予見を強調することは、常に預言につきものの一大特徴だった。しかし、バビロン追放を経験したおかげで、未来はさらに重要な意味を持つにいたった。ユダヤ人はこう自問せざるを得なかった。なぜ神は悪がはびこるのをお許しになるのか。なぜ神は忠実なしもべをかくも苛酷に罰せられるのか。

★ この問いかけから、ふたつの理論が生まれてきた。エズラやネヘミアのように、現在の苦難は明らかに人間の過去のいたらなさを神が怒り給うているのだから、聖書に明示された神の意志にさらに忠実に従うようつとめねばならぬ、と強調する者たちがいた。

★ それに対し他の者たち、特に偉大な詩人イザヤは、次のような思想を展開した。神は民衆の忍耐力と強さを試そうとして、試練を与えておられるのだ。その結果、それに堪えた者たちが、世界が終末にのぞみあらゆる不正が一掃される偉大な「最後の審判の日」に報いられることを意図されているのだ、と。

★ 聖典の文章には、さまざまな点で矛盾しあうところが多いように思われたし、聖典の教えに尽くされていない人間個人の問題はたくさんあったから、ラビたちは、聖典の法を日常生活に適用する際に、ひじょうな工夫をこらした。そうしているうちに、彼らは、およそ人間が発し得るほとんどすべての疑問に答え、日常生活に意義と価値を与える行為の掟を、徐々につくり上げることができた。

★ 古代中東の大都会の人々は、祖先の信仰の根を失い、都会生活にとってふさわしい新しい道徳の掟も真の信念もつかめないままに生きているというのが大勢だった。したがって、そのようなゆるみ切った文化風土にあって、ヘブライ的な信仰と道徳律は、のろしにも似ていた。だから他の信仰が壊滅していた大都会ではユダヤ教が栄え、時代のあらゆる苦難と不安のさなかにあって、信者たちの心を強く把えつつあった。

<マクニール『世界史』(中公文庫2008);原著第4版1999>





断片を読む;ひとつの賭け

2013-11-21 15:39:19 | 日記

★ 日本では、教育体系が忙しいというせいもありましょうか、あるいはまた、流行が読書の世界にまで入り込んでいるということがあるかもしれませんけれども、筋書や要約に追われて、一句を自分で発見するという肝心の訓練が、――これは社会科学の本だけでない、本一般についてもいえることですが――、なおざりにされているかと思います。

★ 社会科学の本でも、一般の本でも、まず断片を自分の眼で読み取ることが必要です。最初に断片、それからだんだんにその本の全体を深く理解し、再解釈してゆくにも、ある断片がものをいって、それをテコにして再解釈が可能になる。

★ ところが、断片を自分の眼で読むことは一つの賭けです。その賭けを、もともと日本の社会がしにくくしていて、教育がそれをいっそう助長する。自分の眼で本を読まないように本を読む訓練をする。そういうことが否定できないと思うのです。社会科学を離れて一般の本がそう。定まった結論なり「感想」に向かって本を読む。そういう方法、モード、習慣が、社会科学の本にまで持ち込まれて、ここでいっそう、というのは、この領域では芸術作品の場合と違って、眼が直接にものをいうことは少なくなりますから、そこでいよいよ自分の眼のほうを疑っちゃうということになって、断片を読むということができない。どうしても断片をはっきりと読むことを、最初の出発点にしなきゃならないかと思います。

★ もちろん断片だけじゃあ困るんで、体系を知る。体系的に読むということも必要です。そうしなきゃ社会科学にはならないわけですが、しかし体系的に考えることは、自分のなかでの体系感覚の育成というものと結び付けながらやらなければならない。その体系感覚が育ってゆくためにも、まず断片をこの眼でとらえることが必要だと、私は、思うのであります。

<内田義彦『社会認識の歩み』(岩波新書1971)>





なんのための“野党”!

2013-11-21 12:52:42 | 日記

<秘密保護法案で合意も、日本維新 党内集約進める>(TBS News i 11月21日11:13)

機密情報を漏らした公務員らの罰則を強化する特定秘密保護法案をめぐって、自民・公明の与党と日本維新の会は20日夜、新たな修正案で合意しました。維新の会では合意に対する不満もくすぶっていて、党内での意見集約を進めています。

 与党は、みんなの党、維新の会と4党で合意できたことから、秘密保護法案について今の国会で成立させる見通しがついたと受け止めています。

 特定秘密保護法案をめぐって、自民・公明両党と日本維新の会は、秘密の指定を行える省庁を限定できるようにする、秘密指定の期間は原則60年とするものの防衛に関する情報など7項目は例外として延長できるなどの修正で合意しました。与党側は26日の火曜日に衆議院を通過させることを目指しています。

Q.維新の幹部はこれまで、自分たちの案を丸のみしなければ賛成できないとまで言っていたわけですけれども、どうも中身を見ると、与党に大幅に妥協した印象が強いですね。急速な動きの中で、野党も成立ありきの中で動いていったとしか見えないのですけれども、維新としては与党についていくしかないと、そういうことなんでしょうか?

 維新の会では21日午前、幹部が集まり与党と合意した内容を報告し協議しました。

 「野党ですから、少しでも変えさせるというのが野党の使命だと思います。非常に不本意であったとしてもね。国会議員団がもう決めたのですから今さら言ってもしかたない」(日本維新の会 橋下徹 共同代表)

 「我々の主張の中で改善できたものは改善できたと思うので、これを受けて一応こういう案だ、ということでもう一回党内手続きに入る」(日本維新の会 国会議員団 松野頼久 幹事長)

 与党との合意が妥協を重ねたものではないかという見方に松野氏はこう反論しましたが、協議の中では「検討するとされている第三者機関は本当にできるのか」などの疑問も出たということです。また、党内の若手からは「賛成できない」と採決での反対をほのめかす声も出ています。

 維新の会は22日、党の部会を開いて方針を決める予定で、党全体としては与党と合意した修正案を了承するしかないという方向です




声明

2013-11-21 12:32:27 | 日記

秘密保護法案に関する各種声明 (共同通信)

危機感あらわ「廃案に」 知る権利、大きく侵害  田原、鳥越氏ら8人
 特定秘密保護法案に反対する田原総一朗さんや鳥越俊太郎さんらジャーナリスト8人が11日、東京都内で記者会見し「国民の知る権利や報道・取材の自由が大きく侵害される」と訴え、危機感をあらわにした。秘密の指定や運用が第三者にチェックされず、検証もできないといった法案の問題点を次々に指摘。鳥越さんは「廃案にすべきだ」と語気を強めた。(2013年11月11日)

「創作活動を制限」と反対 秘密保護法案に脚本家連盟
 日本脚本家連盟(中島丈博理事長)は11日、特定秘密保護法案について「自由な創作活動が著しく制限されることになる」として、反対する声明を出した。自民党など各政党に同日、送付した。(2013年11月11日)

秘密保護法、撤回求める 外国特派員協会が声明
 海外メディアの特派員らでつくる「日本外国特派員協会」は11日、特定秘密保護法案は「報道の自由および民主主義の根本を脅かす悪法」だとして、撤回か大幅な修正を求める声明を公表した。(2013年11月11日)

ペンクラブ「強く抗議」 秘密保護法案
 日本ペンクラブ(浅田次郎(会長)は25日、特定秘密保護法案について「深い憤りを込めて抗議する」との声明を発表した。(2013年10月25日)

▼「知る権利」に影響懸念 雑誌協会が反対声明 
 日本雑誌協会と日本書籍出版協会は25日、特定秘密保護法案について「国民の『知る権利』とそれを支える『取材・報道の自由』に対して重大な影響が懸念される」として、強く反対する声明を連名で出した。(2013年10月25日)

秘密保護法「深刻な懸念」 アムネスティが声明 
 人権団体「アムネスティ・インターナショナル日本」は23日、政府が今国会での成立を目指す特定秘密保護法案について「表現の自由や知る権利を著しく制限しかねない。深刻な懸念を表明する」との声明を発表した。(2013年10月23日)

「修正しても本質同じ」 秘密法、反対の声次々
 国会で審議中の特定秘密保護法案に反対する女性約70人が19日、東京・有楽町の街頭で「修正協議をしているが、法案の本質を変えるものではない。密室で協議するのではなく、きっぱり廃案を」と訴えた。雑誌編集者やフリージャーナリストら出版関係者も同日、都内で記者会見し「出版・表現の自由を根底から危うくする」と法案に反対する声明を公表した。(2013年11月19日)

「憲法踏みにじる」と反対 法学者ら270人が声明
 政府が今国会に提出した特定秘密保護法案に反対する法学者ら10人が28日、東京の衆院議員会館で記者会見し「法案は基本的人権の保障、国民主権、平和主義という憲法の基本原理をことごとく踏みにじり、傷つける危険性の高い提案」などとする声明を出した。憲法・メディア法と刑事法の研究者が、それぞれ声明を作成。全国の大学教授や弁護士ら計270人以上が賛同した。(2013年10月28日)

秘密保護法「撤回すべき」 新聞労連が緊急声明
 新聞社や通信社の労組が加盟する新聞労連(日比野敏陽(ひびの・としあき)委員長)は3日、政府が示した特定秘密保護法案の原案について「情報統制を基本的人権の上位に置く法律は違憲であり、国会への提出方針を撤回すべきだ」とする緊急声明を公表した。(2013年10月3日)

「知る権利制約」 秘密保護法案でJCJ
 日本ジャーナリスト会議(JCJ)は12日、機密を漏らした公務員らへの罰則強化を盛り込んだ「特定秘密保護法案」の概要について「報道関係の取材が処罰対象にされかねず、国民の知る権利が制約されることになる」と国会提出に反対する声明を発表した。(2013年9月12日)

釧路の弁護士ら反対声明
 北海道釧路市の弁護士や医師らでつくる「釧路九条の会」が20日、釧路市で記者会見し「特定秘密保護法案に断固反対する」との声明を発表した。最近の安倍政権の動きを「戦争する国づくり」と批判した。(2013年11月20日)

「権力集中を意図」と批判 秘密保護法案に国際ペン
 世界102カ国の作家やジャーナリストでつくる団体「国際ペン」は20日、特定秘密保護法案について「政治家と官僚が、ただ市民の情報と言論の自由を弱体化させ、自らに権力を集中させようとしている」と批判する声明を発表した。(2013年11月20日)

横浜事件遺族が反対声明 特定秘密保護法案
 戦時下最大の言論弾圧事件として知られる「横浜事件」で逮捕された被害者の遺族や支援者でつくる団体が20日までに、政府が今国会会期内での成立を目指す特定秘密保護法案について「本質は治安維持法の再来。断じて許すことはできない」と反対する声明を発表した。(2013年11月20日)





“ジョバンニはどこでも降りない”

2013-11-20 16:29:39 | 日記

★ どんなナショナリズムも、愛をエゴイズムに転回する装置である。
家族という共同体の愛/エゴイズムは、あらゆるナショナリズムの原素態である。

★ 賢治の時代の日本社会で、たとえば直接に類的なものに、あるいは直接に超類的な存在の方向に生きようとする人間は、家族の中で「自分勝手」「エゴイスト」とみなされていた。人間の歴史の中のどの社会でも、共同体をこえるものの方向に生きようとする人間は、共同体から、(つまり家族や、職場や、国家や、党派や宗派から)「自分勝手」「エゴイスト」とみなされることになる。共同体のエゴイズムが、共同体を超えようとするものをエゴイズムと名づけるのである。

★ 家族という共同体のナショナリズムから、コスモポリタン(宇宙市民)として亡命しぬくということに、賢治の禁欲の思想としての眼目はあった。

★ 性は、<自我>を裂開する力だけれども、また限定する力でもある。
賢治が<禁欲>という戦略をとおして斥けたのは、性の回路の張りわたす、共同体の「愛」という名の排他の力だ。

★ 死はわたしたちを、「宗教」と名のつくものであってもなくても、その死の時に信じていたもののところで永劫に立ち停まらせる。プリオシン海岸を発掘する背の高い学者は、生きている者の世界の「科学」のパラダイムやエピステーメーがどう変わろうと、彼の信ずる科学の証明を永劫に発掘しつづける。鳥捕りの人の、主義といわず思想といわずただ行われる生活の信仰もそうだ。

★ それでもジョバンニはどこでも降りない。銀河鉄道のそれぞれの乗客たちが、それぞれの「ほんとうの天上」の存在するところで降りてしまうのに、いちばんおしまいまで旅をつづけるジョバンニは、地上におりてくる

★ ひとつの宗教を信じることは、いつか旅のどかに、自分を迎え入れてくれる降車駅をあらかじめ予約しておくことだ。ジョバンニの切符には行く先がない。ただ「どこまでも行ける切符」だ

★ 賢治が「性」の仕掛けるものをつきぬけてゆこうとしたことと少し似たような仕方で、ジョバンニは「宗教」の仕掛けるものを走りぬけてゆく。

<真木悠介『自我の起源 愛とエゴイズムの動物社会学』“補論2”(岩波現代文庫2008)>





政治はウザい

2013-11-20 15:35:20 | 日記

<社会全体が「政治に無関心な若者」を育ててきた> (幻冬舎plus 特集 生き方3.0 國分功一郎×麻木久仁子スペシャル対談)

國分 「政治がウザい」と思われているという点で言うと、僕たちの運動も、イメージづくりはよかったのかもしれないけど、なぜもうちょっと運動が広がらなかったのかなとは思うんです。意外にも学生の参加が少なかった。小平には大学がたくさんあるのに。 

麻木 そうかもねえ。うちの大学生の娘もすごく冷めてるもの。 

國分 でしょう?政治運動を見る学生の目って、街で見慣れない人と居合わせた子どもが、親から「シーッ!目を合わせちゃいけません!」って言われるときの目なんですよ。政治というと、無条件に新興宗教みたいなものだと思ってる。僕も大学で教えている身として、ちょっとショックでした。ただ最近は関心を持ってくれる学生が増えました。むしろ投票後に学生の関心が高まった。

麻木 いまごろショックを受けるなんて、大学の先生としては呑気過ぎない?(笑)

國分 すみません(笑)

麻木 今の学生さんが政治に関心を持たないのは、やっぱり、かつての学生運動の反動が大きいのかな。私よりちょっと上の世代の人たちが盛んに学生運動をして挫折した後、社会全体で政治的なものを忌避する空気をつくってきた。 
もちろん、当時の一部の過激な人たちの活動は明らかに大衆の心からかけ離れていて、あれが政治ですって言われたら、「政治には関わりたくない」「関わらないほうがいい」と思うのはわかる。でも世の中っていうのはゼロか百かじゃないわけで、「あれは失敗だったから、すべての政治的な活動に若者を近づけるな」っていうのは、間違ってたんだよね。 
みんな「なぜ政治に関心を持たないんだ」って若い人たちを非難するけど、学生たちに政治とか大学の自治っていうものを考えさせないようにし、関心を持ったら損するような世の中にしたのは大人だからね。社会全体が、日本人を長い時間かけて骨抜きに……って、私、なんか過激なこと言ってる(笑)。

國分 でも、本当に大学生なんかは「時間をかけて骨抜き」にされた感じですよ。いまは各地の大学で、学外活動というか、講義を受ける以外の活動がどんどん制限されてきている。部室をキャンパスから排除するとか、学生会館を夜十時で閉めちゃうとか。

麻木 そうそう、うちの娘は先生の後輩で早稲田なんだけど、部室が集まっている学生会館は十時に消灯。

國分 看板やチラシなんかも、ものすごく厳しいみたいですよ。いま早稲田へ行くと、大隈銅像の周りに何もないんです。昔は大隈さんの姿も見えないほど、立て看でいっぱいだったのに。

麻木 そう、それに入学式ではサークルの勧誘禁止で、チラシをまいちゃいけないの。勧誘してもいい日は別に決まってるんだって。たしかにキャンパスは”キレイ“でした。

國分 そういうことをしておいて、学生に「最近の若者は元気がない」と言ってもね。

麻木 大学だけじゃなくて、統治する側というのは、人々を飼い慣らそうとするものでしょう。それはもういつの時代も、どこの国でも同じ。 
しかも日本では、飼い慣らそうとしていること自体を、若者に気づかせないようにしてきた。だからいきなり若者に「目覚めよ」と言ったって、それは無理。この現状から、みんなが立ち上がる、本当の意味での政治の季節が来るのは、かなり難しいと思います。 
3・11以降、参加人数の多いデモや集会があったりして、新しい市民運動の時代が来たって言う人がいるでしょ。私は正直言って、ほんとかなって思ってる。政治的な発言をするということは、さっきも言ったみたいに、党派性を帯びることとイコールなのに、それをないことにして、「党派性のない、全く安全なデモですよ」って言われてもね。政治に関わるリスクをないことにしている運動は、「政治」なんだろうか。

麻木 私がこの本を読んでいいなと思ったのは、「ネット時代の陰」的なものを感じなかったこと。もちろん運動の告知とかにはネットをフルに利用してたわけだけど、根本では、地域のコミュニティの人たちと直接会って話してる感じがとても伝わってきた。

國分 それはすごく嬉しいです。いろいろな人と実際に言葉を交わした経験は本当に貴重で、たとえば僕は運動の目的として、道路建設で失われる雑木林のことばっかり言ってたんです。でもあるとき、自分の家を守るために運動している方の言葉を聞いて、ハッと気づいた。「あ、俺、この人のことを考えてなかった」って。それはツイッターで意見をもらうのとは、やっぱり違うんですよね。そうやって、実際に面と向かって話をした方々の一言一言が心の中に重く堆積していったことは、外に向けて語るための言葉を紡いでいくにあたって大きな支えになりました。

(以上引用;ダイジェスト)

*”この本”=國分功一郎『来るべき民主主義』(幻冬舎新書2013)





今日のニュース;亀田、サッカー、秘密保護法、ディストピア

2013-11-20 09:56:52 | 日記

★ けふエベレストに2度のぼった。山頂にシダレヤナギとヤマモミジの小枝が3本落ちていた。特定秘密保護法案をめぐり、自民、公明が日本維新の会と「修正協議」をした。いかなる「修正」がほどこされようとも、わたくしは特定秘密保護法案をみとめない。これをとおす国会の「議会制民主主義」とマスメディアの存在価値を、根本から、はげしく疑う。わたくしは特定秘密保護法案を絶対に受けいれない。問え。10年後、いや5年後の未来図、活画図を、いまたれが描きえているのか?議会とメディアと民衆は、ひたすらディストピアにむかって集団行進をしている。(辺見庸ブログ“私事片々” 2013/11/19





生没年:19世紀末~20世紀

2013-11-19 13:26:52 | 日記

*宮沢賢治 1896-1933
*ベンヤミン 1892-1940


*ニーチェ 1844-1900
*フロイト 1856-1939
*フッサール 1859-1938
*ウェーバー 1864-1920
*ウィトゲンシュタイン 1889-1951
*ハイデガー 1889-1976
*プルースト 1871-1922
*ジョイス 1882-1941
*カフカ 1883-1924
*フォークナー 1897-1962
*ヘミングウェイ 1899-1961
*ナボコフ 1899-1977
*ボルヘス 1899-1986
*夏目漱石 1867-1916
*柳田國男 1875-1962
*石川啄木 1886-1912
*萩原朔太郎 1886-1942
*谷崎潤一郎 1886-1965
*芥川龍之介 1892-1927





茂木健一郎の神

2013-11-19 11:36:13 | 日記

◆ 茂木健一郎ツィート;

ぽす(4)ビートルズのナンバーは、もう神の領域で、たった30年前、40年前の楽曲なのに、バッハやモーツアルトと同様、古典の領域に達しているように思う。かつて、武道館でのコンサートが「けしからん」とスキャンダルになったとは、信じられない。神は、雷鳴とともに降臨する。
(引用)


ぼくはビートルズのファンである。

今回のポール来日のニュースを知っても、聴きに行こう(見に行こう?)とは思わなかった(おカネもないし)
ビートルズ初来日のときも入場券が手に入らず、公演のあとで、大学の級友から“券があったのに”と言われて愕然としたものだった。

ぼくにとってのビートルズは、“過去”だろうか。
ぼくにとっての“ポール”は、ジョンやジョージがいてこそ輝いていたのだろうか。
そういうことでもない。

年に数回、ビートルズをCDで聴くことはある。
あるいは、意図せず(喫茶店などで)ビートルズの曲に襲われることもある。

ジョンは神ではなかった、人間だった。

“世界は丸いから泣ける”
その世界に、瞬時生きた人間だった 《一瞬の稲妻がぼくには長い》

音楽は永遠かも知れない。
そして音楽と生きるのは、今だ。