Don't Let Me Down

日々の雑感、引用。
言葉とイメージと音から喚起されるもの。

幸運

2013-02-15 13:28:15 | 日記

★ 老いの衰えは波のようにひたひたと打ち寄せ、子供が作ったまま立ち去った砂の城を、じきに流し去ろうとしている。

★ あのころ食べたものを覚えている。遊びも覚えている。学校の更衣室で郵便局ごっこをしたとき、キスをした女の子たちのことも覚えている。仲のよかった悪がきどもの顔も、初めて飲んだ酒も、初めて試した煙草も(ディッキー・ハマーの豚小屋の裏でだった、わたしは吐いた)覚えている。

★ それでも黒いスーツの男の記憶はどんな思い出より鮮明で、独特の、虹色に輝く不気味な光を放っている。あの男は現実だった。悪魔だった。そしてあの日、わたしはとてつもない不運に見舞われた。あるいは、とてつもない幸運に恵まれたか。最近ではますます強く感じるようになった。あのとき悪魔の手から逃れられたのは、運がよかったからだと――単に運がよかったからにすぎないと。わたしが生まれてこのかたひたすら崇め、賛美歌を捧げてきた神が、御手を差し伸べたからではない。

★ こうして老人ホームの自分の部屋で、崩れかけた砂の城のごとき肉体を横たえ、わたしは自分に言い聞かせる。悪魔を恐れることはないと。わたしは善良で穏やかな人生を送ってきた、だから悪魔を恐れる必要はないのだと。

★ しかし暗闇のなかでは、その考えは不安を和らげる力も、心を慰める力も持たない。暗闇のなかでは、九歳のわたしは悪魔を恐れなくてはならなくなるようなことは何一つしなかったのに、それでも悪魔はわたしのもとを訪れたとささやく声がする。そして暗闇の奥から、同じ声がもっとひそやかに、人間のものとは思われないほどひそやかに、こうささやくのが聞こえてくることがある。“でっかい魚だ!”その声は、強欲さを隠しきれない口調でそうささやく。そしてその強欲さの前には、道理が律する世界の真実はすべて崩れ去る。“でえええっかい魚だ!”

★ 遠い昔、悪魔は一度わたしの前に現われた。いま、彼はふたたび姿を現そうとしているのだとしたら?わたしは老いた。走って逃げることはもうできない。手洗いに行くのにも歩行器が要る。そして、たとえつかのまでも悪魔の気をそらしてくれる、見事なカワマスが手もとにあるわけでもない。わたしは老い、わたしの魚籠(びく)は空っぽだ。いまここで、悪魔がふたたびわたしの前に現われたら?
そして、あいつはいまでも腹を空かせているとしたら?


(スティーヴン・キング“黒いスーツの男”―『第四解剖室』(新潮文庫2004)>







中上健次集

2013-02-14 18:51:53 | 日記


インスクリプトから新しい中上健次選集が刊行されはじめた。
全巻構成以下の通り;

一 岬、十九歳の地図他
二 蛇淫、化粧、熊野集
三 鳳仙花、水の女
四 紀州──木の国根の国物語他
五 枯木灘、覇王の七日
六 地の果て至上の時
七 千年の愉楽、奇蹟(第一回配本 2012.12月28日)
八 紀伊物語、火まつり
九 重力の都、宇津保物語他(第二回配本 2013.2月末日)
十 熱風、野生の火炎樹

2012年12月末第一回配本
2013年2月末第二回配本
2015年4月最終回配本予定











マムの声

2013-02-10 16:24:51 | 日記


★ それからまた、あのマムの声がある。今マムについてわかるのは、覚えているのは、あの声だけだ。あの声を曇らせないように、黄ばんだ写真のすべてを、肖像画や手紙やマムが読んでいた本を、捨ててしまった。好きなのにもう顔さえ思い出せない人たちの声を聞くようにして、いつもあの声を聞いていたい。マムの声、そのなかにすべてがこもっているあの優しい声、あの手の温もり、髪の匂い、ワンピース、日の光、ベランダに駆けてきたロールとぼくの動悸の静まらないうちに勉強が始まったあの午後の終わりのひととき。

★ けれども、この教育がじつのところどのようなものであったか、今語ることはできない。父とマムとロールとぼくの四人は、当時、東はトロワ・マメル山の凸凹の激しい頂を、北は広大なプランテーションを、南はノワール川流域の未開墾地を、そして西は海を境とするあのブーカンの谷あいで、われわれだけの世界に閉じこもって暮らしていた。夕方、ムクドリが庭の大木で鳴くとき、詩を朗読したりお祈りを唱えたりしているマムの優しく若々しい声が聞こえていた。何を言っていたのだろう。もう思い出せない。鳥のさえずりや海風のざわめきと同じく、マムの言葉の意味も消えてしまった。今も残っているのはただ、木々の葉むらを照らす日の光やベランダの陰や夕べの香りといったものに結びついた、あの優しい、ほとんど聞き取れないほどかすかな声の調べだけだ。

★ ぼくはまた、マムの道徳の授業が好きだ。それは日曜日の朝早く、ミサでお祈りを上げる前に行われることが多い。それが好きなのは、マムがそのつど新しい話をしてくれるからだ。それはぼくたちの知っている場所で起こる話である。そのあとでマムは、ぼくたち、ロールとぼくに質問する。質問はむずかしくない。ただ、マムはぼくたちを見ながら問いかける。それでぼくは、マムの視線の優しい青が自分の一番深いところに入ってくるのを感じるのだ。

★ 「ある修道院でのこと、そこには12人が住んでいたのだけれど、ちょうどマムがあなたたちの年ごろにそうだったように、12人の孤児の女の子たちだったの。夜の食事の最中のことでした。テーブルの上にどんな料理が載っていたかわかる?大きなお皿に鰯が載っていたの。その子たちは鰯が大好きでした。少女たちは貧しくて、鰯というのは大変なごちそうだったのよ。そしてお皿には孤児の数とちょうど同じ数の鰯がありました。いいえ、そうじゃなくて一匹余計にありました。皆が食べてしまうと、シスターがお皿のまん中に残っていた最後の鰯を指さして、『誰が召し上がる?』と聞いたの。あなたたちだったら食べたいかしら。でもだれも手を挙げないの。どの女の子も答えないの。『それじゃこうしましょう』とシスターは楽しそうに言いました。ろうそくを消しましょう。暗くなったら、鰯を食べたい人は恥ずかしがったりしないで食べられるでしょう。シスターはろうそくを消しました。何が起こったでしょう?どの子も鰯を取ろうと手を伸ばしたので、べつの子の手とぶつかったの。大きなお皿のなかには12の手が置かれていたの!」

<ル・クレジオ『黄金探索者』(河出世界文学全集Ⅱ-09 2009)







夢を走る

2013-02-07 11:52:33 | 日記


★ 何という貧しさ。僕の心が本来貧しかったから、夢の世界もこんなにみじめなのだ、とは思いたくない。僕がみようと思ってみた夢ではないのだ。気がついたらここにいた。そしていまやここにしか僕の世界はない。

★ 薄れてゆく幻に縋りつくように、僕の仲間たちとともに《世界の輪》を回していたときの現実の自分を思い描こうとする。だが日々に貧しくなる僕の念力が描き出すのは、籠のなかでせっせと汚れたブリキの輪を回すちっぽけな齧歯類の姿だ。

★ 失敬だと怒りたければ怒ってくれ。笑いたければ思いきり笑ってくれ。何しろいま僕の四本の肢が踏み続けているのは、きらめく《大いなる光の輪》ではなく、赤茶けて乾ききった固い地面でしかないのだから。地面は無数のひび割れと凸凹だらけで、至るところで尖った灰色の岩と気味悪い植物の茂みが僕らの行手を遮り、ギラギラと容赦ない光線が溢れるだけの空で、雲が無意味に膨れたり縮んだりしている。

★ 疲れきった群の誰もがつねに不機嫌で、話をするどころか声をかけ合うこともない。一度たまたま隣を走るメスの一匹に「ねえ、きみも夢をみているのかい」と話しかけたら、一言も答えないであわてて僕から離れて行ってしまった。きっと頭がおかしいと思ったんだろうよ。

★ いまでは、まるで生れ落ちた瞬間から、こうして走り続けてきたような気さえする。誰かに導かれているのでも、何ものかに追い立てられているのでもなく、ひたすら群は走ってきた。いま走っている。これからもただ走るだろう。

<日野啓三“夢を走る”―『夢を走る』(中公文庫1987)>







つかの間の

2013-02-01 18:19:38 | 日記

★ 大きな帆船の美しさは唯一無二である。というのも帆船は、その輪郭を数世紀のあいだ変えなかっただけでなく、最も不変なる風景のなかに、その姿を現すものであるから。すなわち、海原で、水平線をバックに浮き立って。(海洋画)

★ 瓦礫を天に向かって聳え立たせている廃墟は、よく晴れた日には、普段の倍も美しく見えることがある。それは、まなざしが窓やアーチの先頭部のところで、流れゆく雲に出会うときだ。破壊は、それが大空に繰り広げられる無常なる劇を通じて、この瓦礫の永遠性を強める。(ハイデルベルク城)

★ アルカイック期の彫像は、自分たちの肉体の意識を微笑みに包んで、見る者に差し出す。ちょうど子供が、摘んだばかりの花を、束ねずばらばらのまま、私たちに向かって差しあげるように。それに対し後代の芸術は、もっと厳格そうに口をへの字に曲げている。手の切れるような草で、長持ちする花束を編む大人さながらに。(ナポリ、国立博物館)

★ 入口にアンドレーア・ピサーノの<希望>。彼女は座ったまま、頼りなげに両腕を、どうしても届かないひとつの果実のほうに伸ばしている。けれども翼をもっている。これほどの真実はない。(フィレンツェ、洗礼堂)

★ 夢のなかで私は、ある建物から歩み出て、夜空を眼にした。強烈な光輝がそこから発していた。というのも、満天の星だったのだが、いくつかの星を結びつけるときに私たちの頭のなかにあるイメージが、目に見えるものとなって現われていたからである。一匹の獅子、ひとりの乙女、ひとつの天秤、そのほか多くのものが、密集した星の塊となって、地上をじっと見下ろしていた。月は見えなかった。(天)

<ヴァルター・ベンヤミン『一方通行路』(ちくま学芸文庫ベンヤミン・コレクション3:1997)>



★ 過去の真のイメージはさっと掠め過ぎてゆく。過去は、それが認識可能となる刹那に一瞬ひらめきもう二度と立ち現われはしない、そうしたイメージとしてしか確保することができない。「真理はわれわれから逃げ去りはしない」――ゴットフリート・ケラーに由来するこの言葉は、歴史主義の歴史像において、まさに歴史的唯物論に打ち破られる箇所を正確に表示している。というのも、一度逃したらもう二度と取り戻すことのできない過去のイメージとは、自分こそそれを捉えるべき者であることを認識しなかったあらゆる現在とともに、そのつど消え去ろうとしているイメージなのだ。

<ヴァルター・ベンヤミン“歴史の概念について”(ちくま学芸文庫ベンヤミン・コレクション1:1995)>