Don't Let Me Down

日々の雑感、引用。
言葉とイメージと音から喚起されるもの。

青空の破片

2010-09-27 22:17:26 | 日記


★ だから、乳幼児が、人間になった、と自覚するということは、事実としては彼が人間の中に入ったということを意味しているのではあるが、本質的には、人間の外側の位置を取ることができるようになったというのが、むしろ重要なのである。自分という人間や、そのほかの人間たちの外側から自分を見て、自分がどのように見えるかを試してみる。そして自分に向かって言語を用いて、自分を人間として認めることが、「言葉を話せるようになる」ことなのである。夢の「空」は、このような過程に必要とされる純粋な「外側」として、我々に与えられているのである。

★ 性という現象は、人間の場合は、身体的なもの以外の要素が複雑にからみあって成立する。性は、言語によって媒介されないと活動できない。恋愛の告白から、結婚の制度的な手続きにいたるまでみなそうである。したがって、空飛ぶ夢が性的な活動を表わしているということの意味は、実は、性的活動とは、新しい言語活動の中に入ることだという認識を、夢が示しているということなのである。シャガールの絵には、空をただよう新婚のカップルがしばしば描かれる。新しい言語活動を獲得した彼らの性は、そうした言語活動以前の仲間たち、すなわち牛や山羊を引き連れて、自由に舞っている。

★ さきに述べたように、「言葉を話すようになる」ということ、夢の言語でいえば、「空を飛ぶこと」は、自分の外に出ること、自分以外のものになり、自分を外から見る力を手に入れることである。それは生きている自分の外側に出ることなのだから、死者の世界を経由することなのである。もともと、言葉の世界というものは、死んだ人たちの亡骸(なきがら)を集めた平面のようなものである。
そういう死者の平面に立って、まだ生きている自分を認識する。そして、自分は人間だと知る。言葉を話すということは、そういうふうに自分をとらえることであって、コミュニケーションとして言語という媒体を使用するということは、もはや二次的なことになっているのではないかと思う。二次的、というのは重要でないという意味ではない。死者の平面から自分をとらえようとする人間固有の意志を言語が引き受けていて、そういう引き受けが基礎にないと、コミュニケーション自体もうまくゆかなくなるだろうという意味である。

<新宮一成『夢分析』(岩波新書2000)>




なおこの本の第1章“空飛ぶ夢”に寺山修司の短歌が引用されている。
ぼくは、むかし、寺山をかなり読んだつもりだが、この歌は記憶になかった;

★ 青空より破片集めてきしごとき愛語を言えりわれに抱かれて






雑感

2010-09-27 15:21:34 | 日記



§ 下記のようなブログを書いても(書いてしまっても)自分のなかに、モヤモヤが残る。<追記>

§ 結局、なにが問題なんだろう?

§ ようするに、自分が現在生きている状況の総体(全部)とは、何か?

§ そもそも、上記のような問いは、なぜあるのか。
 あるいは、そのような問いは、本当にぼくには切実なのか。

§ しかしそのような問いが、自分に“ある”と前提しよう。

§ その場合でも、<自分が生きている時代と社会を総体としてとらえる>には、どうすればよいのか?

§ ひとつには、時事的ニュース(問題)に反応する。

§ しかし、“尖閣諸島問題”と“親の虐待問題”に同時に反応し、それらを“総体として”捉える視点とは何か?

§ しかも問題は、それだけではない。

§ いっぱんに“文化”とよばれる領域があり、ぼくには、この領域の貧困化が問題である。

§ ある時代-社会を捉えるには、そこで起こっている事とそのことに対する言説の総体の検討が必要である。

§ “そこで起こっている事”まさに多様である。

§ だからある時代について、“シンボリック”に捉える言葉が発明される;
 全共闘世代、おたく(オタク)、エンコー、ポストモダン、POPカルチャー、ヴァーチャル、不可能性の時代、新自由主義、改革、テロ、金融工学、グローバリズム、などなど。

§ しかし2000年以後、“この時代と社会”を象徴する言葉(キャッチフレーズ)さえ希薄化している。
 たとえば現在、“先端的”であるらしい東浩起の“キャッチ”は、《動物化→ゲーム的リアリズム》であるらしかったが、それらはイケていない(しかし時代の進展は早く、すでにこのキャッチも変化したかもしれない)

§ すなわち現在ぼくらは、この時代と社会を象徴する言葉を持たない時代に突入したのであろうか(ゼロ年代!)

§ すなわち、“なんでもあり”であり、各自がそれぞれツイッターで勝手なことを“つぶやいて”いるのが、コミュニケーションであると。
しかし“これ”が問題なのは、その“つぶやいている各自”が、自分がつぶやいていることの自覚がなく、“それ”が他者との関係だと<勘違い>してしまうことにある。

§ ならば、いっそのこと、“普遍的な古典へ還る”べきか。
 ぼくは、最近、“歳もせい”もあって、たしかにそういう志向はある。

§ しかし、もし、<古典>が、<現在>とはまったく“カンケーない”が故に、快適なら、それは単なる逃避である。

§ たしかに“ひと”には、逃避する自由もある。

§ しかし、ひとには、逃避しない自由もある。

§ たとえば、普遍的・本質的・根源的な“概念=言葉”というものはある。
 たとえば、最近このブログに書いた<意識と社会>という言葉である。

§ しかし、“意識と社会”という言葉だけでは、何を言っているのか、わからない。
 そもそも<意識>とはなにか?<社会>とはなにか?そしてこれらの言葉が《と》によって連絡されるとき、そこに出現する<関係>とはなにか?

§ 現在、<意識>という言葉をみるだけで想起されるのは、<無意識>である。
 あるいは、<自意識>という流行らなくなった言葉もある。

§ たとえば、<おたく>(オタク、ヲタク)という“言葉”は、死語となったのではないか。
すなわち、“みんな‘おたく’になった”からである。

§ <おたく>的人間を、社会関係(人間関係)の問題として、セクシュアリテの問題として、自意識とナルシシズムの問題として、虚構と現実の問題として“分析-考察”する作業も結局、不発であった。
  そして、“みんな‘おたく’になった”。

§ むしろ現在露呈しているのは、<おたく的保守性(保身)>の支配である。

§ もちろん、“保守性”とか“伝統遵守”とか“懐古趣味”とかが、たんにネガティヴなものでないにしても。

§ 自分だけが例外なことなど、ひとつもない。

§ “ああもいえるし、こうもいえる”のである。
 “ああいえば、こういう”ひとも、たくさんいる。

§ 結局、自分の人生を総括したいのだろうか。
 知ること、感じること、生きることについて。
 死ぬための準備。
 しかし、死ぬときに、“しまった!”と思うことは、もうすでにわかっているのに(笑)





<追記>

”なにかを書くと(読むと)、モヤモヤが残る”からブログを書いてきた。

”モヤモヤが残らなくなったら”、書く必要はない。





<正義>について

2010-09-27 13:21:20 | 日記


今日の‘あらたにす-新聞案内人’は、元読売新聞芸能部長西島雄造の”世相・ニュースから正義と悪を考える“である。

この文章は、《『告白』(中島哲也監督)と『悪人』(李相日監督)という、辛口映画の予想を超えるヒットだ》から始まっている。

そして、
《それにしても、新聞が日々報じるニュースにひそむ≪悪》の雑多さ、軽さ。<「遅刻しそうなので」自転車盗 巡査長 容疑で書類送検へ>(9月2日)、<タクシー盗んで「営業」 元運転手、窃盗容疑「金に困って」>(9月4日)、<築地署員、同僚カード悪用容疑 出会い系に>(9月11日)、<70歳女コンビニ強盗容疑>(9月15日)…。適切な表現とは思わないが、どこかちまちました犯行と、善悪の判断力の乏しさに驚くばかりだ。》(引用)―なのである。

そして、
《読売が9月7日から『犯罪異変第2部』で、万引きの現状を連載した。》
《共通する背景はモラルの崩壊。万引きだけではない。ネット犯罪、幼児ポルノ、オレオレ詐欺、自転車泥棒。こうした法に触れるものに限らず、ごく日常の暮らしのなかでも、モラルは衰退している。例えば、電車内で「優先席ではお年寄りや体の不自由な人にお譲り下さい」「優先席付近では携帯電話の電源をお切りください」と、繰り返し放送しても、座りこんでものを食い、化粧し、携帯に没頭する。》(引用)―のである。

そして、
《マイケル・サンデル著『これからの「正義」の話をしよう』(早川書房)がベストセラーになっている。米ハーバード大学で人気の政治哲学の講義を受け持っているという著者は、来日して8月に東大で特別授業をしたり、新聞各紙のインタビューを受けたり大忙しだ。》(引用)

そして、
《実のところ、正義は心もとないものである。思想信条宗教でも変わるし、国家間の正義など、互恵平等な外交関係に裏打ちされない限り自由自在であることは、20世紀の歴史を見ても、21世紀になっても変わらない。外交は国家間で行われる高いレベルの知的格闘技である。戦争が終結しても、勝利国に正義の大本は握られている。昨今の尖閣諸島をめぐる動きにしても、人類共通の真理であるはずの正義にすら、明確な法則はなさそうだ。》(引用)

そして“結論”、
《巨悪も大いなる正義も、≪小さな悪》≪小さな正義》から始まる。(略)正義こそ旗印の特捜が犯した罪は、善とか悪とかいうよりも、人間の深奥にひそむ≪悪意》にほかならない。》(引用)


みなさん、上記の文章のダイジェストを読んで、<正義>についてなにか分かったかな?
分かったひとは、手を挙げよう!



じつはぼくも、昨日<正義>という言葉が現れる文章を引用したのであった;

★ われながら青いと思っても「正しさ」を気にすること。歯切れのよさそうな主張がまさに自らの「既得権益」の主張でしかなかったりします。だから国内の経済の問題と対外問題も別のことではありません。正義に繊細で不正に反省的でいられないほど私たちは余裕のない状態に置かれているでしょうか。そんな余裕はない、自分のことで精一杯だと思う心性が、かえって自分をつらくさせているのだと思います。(立岩真也発言引用)


ここで立岩氏は、<正しさ>という言葉をまず使い、次に、<正義>と言っている。

《「正しさ」を気にすること》

《正義に繊細で不正に反省的でいられないほど……》

と言っている。



たしかに《正義に繊細》であることも、《不正に反省的》であることも、むずかしい。

この“むずかしさ”には、大きく分けて、2種があると思う;

A:なにが<正義>であり、なにが<不正>であるかが、わからない。

B:上記が分かっているのに、自分が不正を排除し、正義に生きることが、できない。<注>


“現実の”ぼくらの<生>(生活)とは、上記A,Bの混合(混乱)状態としてある。

たしかにある種の “宗教”とか“哲学”とか“社会思想”は、これら“正義と不正”について原理的に考えようとしてきた。

しかし、現在に至るまで、不正を根底的に廃棄した、“正義の社会”は、どこにも実現していない。

まったく困ったものである(笑)

すなわち、ぼくたちには、まだ考えることがあるのである。

いままでにあるもので、いちばん<正義>であるものを、“選ぶ”のではなく、いままでにあるものを認識しつつ、BASEから考え行動することを志向する(思考する、試行する)べきことがあるのである。

それは“モラルの崩壊”を嘆くことでも、“正義に明確な法則はない”などという勝手な感想に詠嘆することでもない。


地獄に落ちることを恐怖するから“正義”に生きるのではない。
あるいは、“悪をなす人も救われる”から、悪をなしていいわけでもない。

善と悪が相対的(基準がない)から、何をなしてもいい、わけではない。

たしかに外的規範に自分をゆがめてまで合わせることはない、しかし、他者のただなかで、自分と対話する“拠点”を手放すべきではない(それがなければ構築するほかない)




<注>

”わかっちゃいるけど、やめられない”

のである。





物語

2010-09-26 20:09:01 | 日記


★ 子供に物語を話してやると、それ本当のお話?とその子はきくだろう。

★ 無論、スミスさんは緑色の操縦士を乗せた青色の円盤が近くをひゅっと飛んでゆくのを見たと、誰かが話せば、きみらだって、それ本当かい?ときくにちがいない。

★ しかし、詩や小説が本当のことであるかないかを問うてはならない。誤解してはいけない。なによりも文学の教授になりたいというような格別の場合を除けば、文学なんて現実的な価値はまるでないということを忘れないようにしよう。

★ エンマ・ボヴァリーという女は存在しなかった。『ボヴァリー夫人』という小説はこれから先も永遠に存在しつづけるだろう。小説のほうが女より長生きする。

★ この小説は姦通を主題とするもので、ナポレオン3世の上品ぶった俗物的な治世に衝撃を与えずにおかなかったような、事態や暗示を含んでいる。事実、この作品は猥褻のかどで裁判にかけられたのであった。まあ考えてもみたまえ、おかしいじゃないか。芸術家の仕事が猥褻だなんてことは。喜ばしいことに、フロベールは裁判に勝った。

<ウラジミール・ナボコフ『ヨーロッパ文学講義』(TBSブリタニカ1982)>




★ 朝のかすかな気配とともに、蝿がうごめき始めた。インマンの目と、首の大きな傷が蝿を引き寄せる。その羽音と皮膚にとまる足の感触は、やがて庭いっぱいの雄鶏より強力な目覚ましとなり、病室でインマンの一日がまた始まる。手で蝿を追い、ベッドの裾の向こうに開いている窓に目をやった。それは、上中下三段に作られた上げ下げ窓。普通なら、この窓から赤土の道と、そこに立つ樫の木と、低い煉瓦塀が見える。さらにその向こうには、一面に広がる野原と、西の地平までつづく平べったい松林が見える。平坦な土地ながら、病院はこの辺で唯一の高みに立ち、よく見晴らしがきく。だが、風景をながめるには、いまは時刻が早すぎる。いまはまだ、窓が灰色一色に塗られているのと変わらない。

★ この窓は、どうやら過去へしか連れていってくれない。だが、インマンにはそれでよかった。時代の鉄の顔を間近に見て、足のすくむ思いがした身には、それでいい。未来に連れていかれても、その目に見えるのは、大切に思うものすべてが追い立てられ、さっさと逃げ去ったあとの世界だろうから。

<チャールズ・フレイジャー『コールドマウンテン』(新潮文庫2004)>




★ 主人公が(注:ドストエフスキーの小説の主人公が)ドストエフスキーの関心を引くのは、一定の確固たる社会的タイプや個人的性格のしるしを持った、社会の一現象としてでもなければ、《彼は何者か?》という問いに全体として答えることのできるような、一義的で客観的な特徴から形成された、一定の人物像としてでもない。

★ 主人公がドストエフスキーの関心を引くのは、世界と自分自身に対する特別の視点としてであり、人間が自身と周囲の現実に対して持つ意味と価値の立場としてである。

★ ドストエフスキーにとって大切なのは、主人公が世界において何者であるかということではなく、何よりもまず、主人公にとって世界が何であるか、そして自分自身にとって彼が何者なのかということなのである。


★ 人間とはけっして自分自身と一致しない存在である。人間には《A=A》という同一律の公式を応用するわけにはゆかない。ドストエフスキーの芸術思想によれば、人格としての個人が本当に生きる場所は、あたかも人間が自分自身と一致しないこの一点なのである。つまり何の相談も受けず、《本人不在のまま》盗み見られ、決めつけられ、予言されてしまうような事物的存在の枠を、彼が抜け出そうとするその点なのである。人格の真の生を捉えようとするなら、ただそれに対して“対話的”に浸透するしか道はない。そのとき、真の生はこちらに応え、自らすすんで自由に自己を開いてみせるのである。

<ミハイル・バフチン『ドストエフスキーの詩学』(ちくま学芸文庫1995)>





<政治>は言葉ではないのか

2010-09-26 11:08:59 | 日記


今朝は下に立岩真也新著『人間の条件――そんなものない』の長い紹介(引用)を出した。

なによりもそこに引用されている立岩氏の“余談”を読んでほしい。

ただしこれは“余談”である。
だが、こういう“余談”によって、あるひとの“感じ方→考え方→文体”が<わかる>と思うのだ。


それで“その上に”あまり長いブログを出したくない。

けれども今日も“ニュース”はある。
“今日だれもが知っているニュース”があり、ツイッターやブログで“多数”がなんやかや言っていることが、“想定”される。

(昨日、仕事で赤羽へ行ったぼくは、行きの電車でも帰りの電車でも、“人身事故”のアナウンスを聞いた―しかしこれらの死は、“ニュース”ではない)

自分がブログやツイッターをやっているひとなら、たぶん“誰もが”体感しているだろうことは、“無音のノイズ”である(ときには有音になる)。

この<ノイズ>を、“やっぱ俺もこの世界に生きている”とプラスに考えるか、“ああウッセーなぁー”と感じるかも、時によってちがうのである。

それで、いま、ぼくが書きたいのは(あなたに発信したいのは)以下の言葉である。

<政治は言葉ではないのか>

この文章は、疑問文とも、“政治は言葉である”という言い切りを行わず“ニュアンス”を付加するよーにも読める。

そもそも<政治>というような言葉は、大仰でかったるい言葉である。
しかし、“そこらのお姉ちゃん・お坊ちゃん”も、言うときには(言わないことが多くとも;笑)、<政治>について語る(語ってしまう)

だから<政治>は、べつだん大層なことではない。

<現在>について言えば、“誰だって”中国という国に“おこる”ことができる。
すなわち“巷に”ノイズは満ちる、“中国”にもノイズは満ちている(らしい)

そういう“時”にぼくは言いたい;

<政治は言葉ではないのか>
<社会は言葉ではないのか>


立岩真也のようなひとの本を読むべきだと、思う。





<エグザンプル>

下記ブログを書いてから、第1章“天下国家”で中断していた立岩真也『希望について』(青土社2006)の第2章“政治のこと”の最初にある“選択の前に”を読んだ。

これは2001年7月の参院選当日の朝日新聞に掲載されたインタビューである(短い)

引用する;

(“改革”選挙について)
★「改革」の向こうにあるのはよりすっきりした競争社会、できる人だけが得する社会です。もう一つは今まで通りの人たちが得をする社会、序列が決まった社会です。そして実際には両方が微妙に混ざった社会になるでしょう。それでよいのかということです。


(改革のための「痛みの共有」ということで失業者が増えるのもやむなしと言われていますが)
★ 意味不明です。「競争に負けた人は痛いよ」と言って「活性化」させる戦略なんですから「ともに」のはずがない。
参入の機会が開かれ、よい仕事をしたら社会が受け入れるようになるのには賛成です。しかしそれと、利益を得る人とそうでない人との格差の拡大を是正することとは別です。このまったく別のことを「自由化」の一語でくくってはいけない。
報酬の差は生産活動を動機づける手段にはなります。けれどもこの社会は、餌で人を釣り、失業で人を脅さなくては生産が確保されない社会なのかということです。


(国全体が依然「右肩上がり」にとらわれているということですか)
★ 「弱者救済」という言葉は、弱者を社会が作っていることを忘れた上で慈悲にすがらせているようで好きになれません。正面に「公正」、本当の「自由」をすえて、本来はこの先をやっていけると思います。公正で同時に開放的な社会の方が、「危機」にあおられ、あせらされるより、気持ちがいいと思うんですよ。からっぽの選挙公約としてではなく、そういう社会は可能だと私は思います。それを追求しないなら、結局今すでに有利な人たちが、より有利になるだけです。


(選挙ではどんな選択が望ましいと?)
★ 繰り返しですが、われながら青いと思っても「正しさ」を気にすること。歯切れのよさそうな主張がまさに自らの「既得権益」の主張でしかなかったりします。だから国内の経済の問題と対外問題も別のことではありません。正義に繊細で不正に反省的でいられないほど私たちは余裕のない状態に置かれているでしょうか。そんな余裕はない、自分のことで精一杯だと思う心性が、かえって自分をつらくさせているのだと思います。
(以上引用)




くり返す。
《正義に繊細で不正に反省的でいられないほど私たちは余裕のない状態に置かれているでしょうか。そんな余裕はない、自分のことで精一杯だと思う心性が、かえって自分をつらくさせているのだと思います。》









<比較せよ;内田樹ブログ“外交について”引用>

☆どれほど外交内政上の失策を犯しても、どれほど政治的無策が続いても、それでも法治が継続し、内戦が起こらず、テロリスト集団が形成されず、略奪や犯罪が横行しない「民度的余裕」において、日本は世界最高レベルにある。
その意味で、日本は中国に対して(中国以外のどの国に対しても)外交上、圧倒的な優位にあると私は考えている。
外交上、「一手も打ち間違えるわけにはゆかない」という緊張が日本人には求められていない。
かなり打つ手を間違えても、それが統治システムそのものの崩壊の危機にまでゆきつくことはない。
もちろん、その「ゆるさ」のせいで、権謀術数に長けたマキャヴェリストが出てこないという弊はあるが、「凡庸な人間でも外交ができる」という利の方がはるかに大きいと私は思う。
(引用)


たしかに現在の“外交問題”について、ヒステリックになる必要はない。

しかし、
しかし、この内田樹的“楽観”は、いかなる<認識>か?

自分がめぐまれていると人は、“日本国家が薔薇色に見える”らしい(笑)

ぼくは疑う;

”このひと認知症じゃないの?”(笑)





人間の条件――そんなものない

2010-09-26 08:54:28 | 日記


このブログタイトル“人間の条件――そんなものない”というのは、立岩真也氏の新著のタイトルである。

ぼくはこの本がこの8月に出ていることに気づかず、ひさしぶりに立岩サイトを見て今朝知った。

ゆえにこの本を買っていない(書店で手に取ってもいない)
しかし、ぼく自身も買うし、このブログ読者にも読むことを薦める。

読んでもいない本を人に薦めるのは無責任である。
それどころか、ぼくは立岩真也の本を2冊(『自由の平等-簡単で別な姿の世界』、『希望について』)持っているが、いずれも“読みかけ”である。

にもかかわらず、このブログで、立岩氏のこれまでに書いた“本”のリストを掲載し、“このひとを読め”と呼びかけた。

立岩氏の文章は、読みにくいのである。
しかし“このこと”は単純ではない。
立岩氏の文章や、そこで述べられていることは、少しも“難解”ではない。

しかしまさにそこでは、“自分で考える”文体が実現している。
実は、ぼくもぼくたちも、このような文体に慣れていない。
まさに、“このこと”(この驚くべきこと)がまず立岩氏の本を読むと“わかる”。

はっきり言って、これはぼくには“ショック”だった。
“ぼく”は、立岩氏のように“書けない”のである。

“このひとは、ちがう”と思った。
しかし、ぼくにはなかなか“読めない”。
だから“ぼくより読める人に読んで欲しい”と思った。



さて、この新刊は、理論社のウエッブ・サイトに連載したものを元につくられたという。

Amazonの紹介文を引用する;

内容紹介
人間がただそのままのすがたで生きているということ、そのことの価値を、立岩本史上、はじめてやさしく語る、驚きの1冊!全く画期的な、立岩学入門! 成果主義、能力主義、自己決定、安楽死、介護、格差、貧困、税。 著者のライフワークとしてのテーマを、いまほど待ったなしに再検証すべき時代、またそれが可能である時代は、かつてなかったはず。それらをいま、広く多くの人たちに向けて、著者がはじめてやさしく、ていねいに書き下ろしました。 100%ORANG/及川賢治のイラストとマンガでさらに楽しく魅力的な本に。いままでどこにも語らなかった、みずからの研究の源泉を語る、インタビュー&対談(山田真ほか)なども収録。

内容(「BOOK」データベースより)
「できる」か「できない」かで人間の価値が決まる。できれば、多く取ることができる。―そんなこの世のきまりや価値が、正しい理由はない。だったらなぜそうなっているのか、そしてどうするのか、社会は人は、どうあれるのか。おとしまえをつけねばならない。―泣く子も黙る「生存学」のたおやかな巨匠が、はじめてやさしく語り尽くす。マンガ、イラスト多数、対話も収録。
(以上引用)



理論社ホームページには、立岩氏自身の<本出ました+余談>という文章が載っていた。

おどろくべきことに(ぼくにとって)ここで立岩氏は、1967年の「モンタレー・ポップ・フェスティバル」DVDのことを書いている、ジャニス・ジョプリンとジミ・ヘンドリックス。

ぼくは、消滅したDoblogの最後のころ、ユーチューブを貼り付けていた。
つまりユーチューブをいろいろ検索していたのだが、そこで初めてジャニスのモンタレーでの“BALL &CHAIN”映像を見たのだった。
この“伝説”については何度も聞いていたのに、それから40年たって初めて見たのだ。
それは、伝説より衝撃だった。<注>



立岩氏の自著紹介からも引用する;

★この連載がもとになった本が1つできた。結局『人間の条件――そんなものない』という題になった。同じ題名の有名な本がすくなくとも2つはある――ということの以前に、この題はないだろうと思いもしたのだが、まあいいやということになった――が、関係はないです。

★さて、「本旨」とは関係ない話を。私がものを考えて書いてきた、というか、そういう気分になったり、その力を得たりしてきたそのもとは、「学問」から来てるんではないというようなことをその本に書いて、そこですこしだけ音楽の話をしているところがある。

★1967年にあった「モンタレー・ポップ・フェスティバル」のことをほんのすこし書いて、DVDを買ったけど再生されなかったと書いた。が、それはたんに私のPCのドライブが壊れていたからだということがわかった。なおったらちゃんと再生された。それは3枚組みで、1枚がドキュメンタリー映画で、私がテレビで見たというのはこれのはず。

★ で、あと2枚のうち1枚は映画では使われてない曲をいくつか並べたもの。もう1枚は、ジミ・ヘンドリックスとオーティス・レディングの演奏を集めたものでこれも映画になったもの。オーティス・レディングのことは、本では清志郎の「親戚みたい」などと書いたのだが、むろん、清志郎がその甥のような存在であるわけで、清志郎の「あいしあっているかあい?」はこの人の「We all love each other, right ?」から来ているのだろうと思う。

★ やはりこのコンサートで名をあげ、そして超偉いということに決まっているジミ・ヘンは、他にもっとよい演奏もあると思った。たいがい人が仰天するのは、1969年のこちらも超有名な「ウッドストックコンサート」――映画になってます――でのアメリカ国歌の演奏、あとソロが普通にかっこよくて聞きやすい、という言い方がよいのか、ボブ・ディランの「オール・アロング・ザ・ウォッチタワー」とかがよいかと。(さっき、猫が間違ってキーボードを踏んでかかってしまった「リトル・ウィング」のスタジオ版など聞くと、まずはスタジオ録音のを聞くと、真面目で正統で上手なギタリストであることがよくわかる。)

★で、「ボール・アンド・チェイン」のジャニス・ジョプリン。「ウィキペディア」によれば1943年生まれ。1970年没。コカインが致死量を超えたためだということだ。
私は1枚だけベストアルバムのLPをもっていて、他は友人から借りたりして聞いた。1枚通しで聞いたりすると疲れるので、そんなことはそうしないのだが、そこに「サマータイム」がはいっていて、それは、私がこの世にたくさんある名曲・名演奏の中で最も好きな何曲かの1曲だ。1968年のフィルモアでのライブを収録した『チープスリル』というアルバムに入っている。ガーシュインの有名な曲で、ジャズの歌手なんかがたくさん歌っているが、ジャニスのはもとの曲とまったく違って聞こえる。歌詞はそのとおりに歌っていると思うのだが、歌われるのはまったく別の世界だ。

★そのLPを買ったのと、番組とどちらが先だったのか。検索してみたら、「Young Music Show 放送リスト」というものがあった。はいはい、見てました、いっしょうけんめい。「ヤング・ミュージック・ショー」。NHK総合。1971年から始まったというのは知らなかった。1981年に終わったというのも知らなかった(私はその時には大学生で、下宿にテレビはなかった)。で、「モンタレー・ポップ・フェスティバル」は、1975年8月30日放映、1976年9月4日に再放送とある。中学3年か高校1年か。とすると見てからLP買ったのかなと。

★彼女は、このコンサートのあった1967年に最初のレコードを出しているが、それは売れなかったのだそうだ。で、このコンサートの「ボール・アンド・チェイン」で有名になった、ということのようだ。この時24歳というところか。すでに酒と薬でということもあったのか、肌は荒れていて、おばあさんのようにも見える。子どものようにも見える。服も、その頃そういうところでで流行っていた「サイケ」なやつではなくて、解説書によると「gold-knit pants suit with no bra underneath」とある、ぼおっとした色の,薄い長めのニットの上と、ちょっとキラキラしたものは入っているパンツで、その声と、跳ねて、というよりはかかとをサンダルから浮かせ、小さく膝を曲げて、そして膝を伸ばして、足を真下に蹴るようにして、歌う姿は、しんに心揺すぶられるものがある。で、歌い終わると、やった、うまく歌えた、ってかんじで、彼女は舞台袖の方にうれしそうに走っていく――このシーンは覚えてなかった。

★で、また「Janis Joplin Summertime」でユーチューブを見る。すると、1969年のストックホルムでのライブ、同じ年のアムステルダムでのライブ、同じ年のフランクフルトでのライブ、などを見る・聞くことができる。ただ、結局、『チープスリル』に入っている「サマータイム」が一番よいように思った。短い間に消耗したのもあるのかもしれない。こういうふうに歌う人だと、同じ歌を同じように歌えなかったりする。そしてジミ・ヘンドリックスは、1972年生まれで、よく知られていることだがジャニスと同じ1970年に死んでいる。やはり異常に詳しいウィキペディアの記事によると、こないだのマイケル・ジャクソンの一件のときもそうだったが、死んだ事情についても諸説あるらしいが、彼の場合は睡眠薬と酒をいっしょに大量にということであったらしい。

★薬物が演奏・歌を高めるといったことは明らかにあるはずだ。そんな演奏はにせものだとか言っても仕方がない。薬が作用してすごい演奏になることは実際にある。本人たちも死にたくはなかっただろうし、死なないように、死なない程度にやってもらいたかったとは思うし、実際そんなぐあいにやって来れた人たちもけっこういる。ただいつもそうそううまくいくものでもない。まともに演奏できなくなってしまうこともあるし、死んでしまうこともある。チャーリー・パーカー(34歳で没)だってもっと長生きしてほしかったのだ。「夭折の天才」という言い方を私たちはよくする。してしまう。こういうことをどう考えてよいのか、わからない。

★今度の本読んでもらってもわかるように、私は「細く長く」派で、それでよいと思っている。そのことは、私の仕事がどうであるかということとは基本関係ないのだが、ただ私のような仕事をする人間の場合、かなりできのよい人でなければ、一定の仕事をするのには手間がかかるということもある。そしてまあしらふでないと、ものを書いていくのは難しい。

★他方に、すごく短い時間を「駆け抜けた」人がいる。実際には、あの時、げろを吐けない程飲まなければ死ぬことはなかったのに、とか、突然売れ出しておかしなことになって、とかそんなことでたいがいのことは起こっている。あの何年しか生きてなかったから「伝説上の人物」に祀り上げられてしまって、ということもある。ただ、そうやって冷静になった上でも、命を削って、みたいなこともあることがなくはないのだろうと。結局、よくはわからない。ただそういうものを聞いて、「私(たち)は正しく、勝利しており、肯定されてよく」、「おおよそどうのこうの世間が言われていることはどうでもよい」(98頁)と思ったのだった。そしてその上で、「そのずっと後にいて、退屈な、でも必要だと思う仕事をする」(14頁)、そう思って仕事をしてきて、この本も書かせてもらった。というわけで、今回の本は、こういう話とか、学生の頃になにをいろいろと血迷っていただとか、恥ずかしめの話がいくらか混じってしまっている。ただそういうこともあってよいように思って、書いてしまった。

★DVDが再生できなかったのは、米国製のそれが規格に合わなかったとかではなく、私の機械のせいでしたということだけお伝えしようと思ったら、こんなことになってしまった。次回から、また真面目に、と思います。では。

(以上引用―しかしあまり長くなるので、文中いくつかの部分をカットしました、立岩さんごめん;笑)






<注>

”今だからわかる、
 あの夏のかがやき”

ということもある。







今朝の雑感

2010-09-25 09:01:53 | 日記

なんどもこのブログで言っているように、ぼくは“日本の政局”とか“世界情勢”とかへの関心を失っている。

しかし、テレビニュースも見ず、新聞も購読していないが、“ネット(WEB)”で、ある程度のニュースや論説を読むのは<義務(労働)>だと思っている。

このところ“前代未聞”のニュースがつづく。
今朝は“菅-オバマ首脳会談”と”中国船長釈放“である。

いつものようにニュース報道、社説、コラムを読むと、かぎりない空しさに襲われる。

いったいこのひとたち(“メディア”だよ)は何を言っているのか!<注1>

こういう時は、“天木直人ブログ”の出番である(笑)
この“問題”についての天木氏の最新ブログが二つ書かれている。

元外交官の天木氏は言う;

《外交力で筋を通す事は決してナショナリズムを煽る事ではない。》

まったく“あたりまえ”のことである。
しかしぼくが読んだ限りで、このことを言った“大メディア”はない。

おそるべきことである。

とうぜん以下の天木氏のような発言もない;

《米国は日本の為に中国と戦う気などはじめからない。》


この文を含む天木直人ブログ“日米首脳会談報道のむなしさ”から引用する;


菅・オバマ首脳会談を報じる日本のメディアはあまりにも不毛だ。
普天間問題の実施に向けて引き続き協力していく事。中国漁船衝突問題で日米同盟を確認して協力していく事。それだけが強調されて報じられる。
しかしその具体的中身はさっぱり不明だ。

それどころかそれらは嘘だ。
普天間移転問題の日米合意は、米国側の都合で白紙にもどった。グアムのインフラ整備が米国の予算不足で予定通り進まなくなった。合意された日本の負担分をさらに増やすしかなくなった。その交渉がこれから始まる。沖縄住民を説得する以前の問題だ。あらたな難問が出てきたということだ。

尖閣諸島の領土問題は、日米安保が適用されるかどうかの問題ではない。米国が日本と一緒に中国の軍事的脅威と戦ってくれるかという問題である。
米国は日本の為に中国と戦う気などはじめからない。もはや米国は潜在敵国の中国を警戒しながら、当面は手を結び、アジアを共同管理しようとしているのだ。
 
こんな事はわかりきった事なのに、メディアは外務省の広報資料を垂れ流すだけだ。これでは国民はだまされる。
しかしいくら国民を愚弄しても、現実がどんどんと日本外交の矛盾をあぶり出してくれる。
(以上引用)



しかしいくら“むなしい”、“不毛だ”と言っていても、<問題>が解消するわけではない。

菅-仙谷-岡田-前原が馬鹿であることをいくら証明しても、解決しない。

中国にいくら怒っても、解決しない(それとも戦争する?)

“政治家-官僚”に怒っても、“お抱え評論家”に怒っても、“痴呆的メディア”に怒っても、解決しない。

“ぼく”がひとりでいくら怒っても、この乏しい知能でいくら考えても解決しない。

《愚弄される国民》
しかし、どうやら<国民>は愚弄されるのが、好きなのである(笑)<注2>

まだ国家の利益(“国益”という;笑)が、自分の利益と連動すると信じているのである。


ぼくには“前向きの提言”などありません。

もちろん、<わからない>のさ。

ただ<労働>は続けたい。




<注1>

もちろん”メディア”は、”イチロー”がどうしたこうした、とも言っている。

イチローさん、ご苦労さん!




<注2>

とにかく、この国民は、<テレビ>で自分(視聴者)を愚弄して稼ぐタレント=有名人をいつまでも飽きずに見ていられるほどの“神経”なのである(笑って、いいとも!)
スタジオで“一緒に笑っていられる”なら、民主的であろうか。
ぼくはバラエティとやら(のみ)を言っているのではない、NHK製討論番組も同じである。
(”朝生”なんてとんでもない! ―最近ぜんぜん見てない)


とにかく、テレビを見ているひと(見ていられるひと)は、ダメである。

”論理的”にダメというよりも、”感性的”に救いようがない。


テレビが”感性の”洗脳マシーンであることは、いくら言われても、言われ足りない事実である。

もちろんこの”ネット”もテレビである。



すなわち、
みなさん、

テレビにうつらないものを見よう!





ぼくはこの人生のかなりの時間、”テレビをうつるようにする”工事会社に勤務していたのであった!(爆)






映画

2010-09-25 06:12:45 | 日記




「女と男のいる舗道」主演のアンナ・カリーナが見ていた映画。

カール・テホ・ドライヤー『裁かるるジャンヌ』(1927)

ぼくはこの映画を昔テレビで一度見ただけ。

ジャンヌを演じた女優の名も知らない。