妹マリーナさんは語る;
(貧乏について)
★ あの頃は誰もが生活が苦しかったので、私たちが特別貧しいとは思いませんでした。兄は読書家でした。父が残していった書物もあり、母はいつも私たちのために図書館から本を借りてきてくれました。母は子供たちはロシアだけでなく世界の文学を学ぶべきだと思っていました。コンサートにはよく行きました。
★ でも本当は生活はとても苦しかったのです。ある日、母が友人の家を訪問した時、その友人は母が下着をつけていないことに気づいたんです。「まあ、はだかの上に洋服を着てるの」って言われて、母は「そんなことはどうでもいいのよ。下着のかわりに、来年度分のコンサートの切符を買ったわ」と言ったのです。
★ でも本当に貧乏で、たまには駅前に立って花売りもしました。月曜から金曜まで働いて、土曜、日曜は郊外で花を集めて駅前で売ったのです。母は大学で文学を学んだ教養ある人間だったのですが、はずかしがったりはしませんでした。私たちも手伝いました。兄はえぞ桜の木に登って枝を折ったりしていました。映画「サクリファイス」の制作の時、マリアの家の前に兄はえぞ桜の木を植えるように言いました。そして暗闇で白い花が花嫁のように白く光るようにと注文したのです。えぞ桜は兄にとって、純潔のシンボルだったのです。でもその願いはかなわず、映画は桜の木なしで撮影されました。
(家を去った父)
★ 父が去ったのは1936年、アンドレイが4歳、私が2歳の時でした。それは一生の深い傷となりました。(略)父は兄アンドレイにとって「父という人間」というよりもなにか大きな「現象」、「世界」そのものだったのです。
★ 父は、たまにこの家にやって来ました。特に誕生日には必ずやって来ました。(略)
この建物の廊下は木でできていたのですが、父が来る日、戦争でケガをして松葉杖をついていた父のコツコツという足音が聞えるのを、私と兄は、今か今かと持っていました。
★ 父は変わった人間でした。(略)たとえば、子供の物を買うお金を持って出かけて、途中の骨董屋で素敵な花瓶を見つけると、それを買ってしまうような人でした。
(離婚について)
★ 兄は、自分の子供を妻に残して、離婚した時にひどく苦しみました。私は、兄が自分自身、あれだけ苦しんだ父の不在というおなじ苦しみを、なぜ自分の子供にも味わわせたのかわかりません。
★ 5年間も、最初の家庭と、次ぎの家庭の間とを揺れ動いていたのです。その苦しみは映画「鏡」にも表現されています。それは「良心の痛み」というものです。それは映画「惑星ソラリス」にも顔を出しています。
(“スチリャーガ”について)
★ 1948年にソビエトでは、西側の影響をうけたひとつの流れが当時の若者を熱狂させました。人々は、その流行にのった若者を「スチリャーガ」と呼びました。現在ではそれは、若者の社会への反抗とみなされています。その反抗とは、すべての人が同じような服を着、同じ髪型をし、そして同じ考えを待たなくてはいけないという灰色の社会に対してのものです。若者はその共産主義的な退屈さに耐えきれなくなったのです。
★ 当時、兄は明るい反面、突然自分の内に閉じこもってしまうところがありました。何を考えているのか全然わからなくなり、空を見つめてまるで死んだようにじっとしているのです。「兄さん」と呼ぶと、びくっとして我に返ります。(略)一番ひどいのは恋をしている時でした。
兄はいつも美しい女性に恋をしていました。
<馬場朝子編『タルコフスキー 若き日、亡命、そして死』(青土社1997)>
*画像は、タルコフスキー「惑星ソラリス」
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