Don't Let Me Down

日々の雑感、引用。
言葉とイメージと音から喚起されるもの。

脳がアメリカンなひと

2010-04-30 17:07:33 | 日記


まず引用;

① 帝国ホテルの地下にある靴磨きコーナー。40年以上働くキンちゃん(77)は、米軍将校に習った腕でスターの足元も光らせてきた。「心をこめてシューシャインすれば、靴はアンサーしてくれる。この10分だけは世界の一流たちを独占できる」。グッドな心意気(今日天声人語)

② アメリカ男性よる伝統的なアメリカ的男性中心主義文化の否定。
あいかわらずアメリカ人のやることは過激である(内田樹ブログ“男性中心主義の終焉”)

③ やっぱり、小学生のときに観たディズニーランドの「キャプテンEO」の感動は超えないね~(某ブログ)


以上はすべて今朝ぼくがネットで見た“言説”である。

これら3者の共通点はなにか?

“アメリカン”である!
“ディズニーランド”である。

コンラート・ローレンツという人によって有名になった“刷り込み”理論というのがある、Wik.から引用しよう;

ローレンツの著書によると、彼は、ハイイロガンの卵を人工孵化して、ガチョウに育てさせようとした。ガチョウが孵化させた雛は当然のようにガチョウの後について歩き、ガチョウを親と見なしているようにふるまった。ところが、一つの卵だけを自分の目の前で孵化させたところ、その雛は彼を追いかけるようになり、ガチョウのふところへ押し込んでも、他の雛がガチョウについて行くのに、その雛だけは彼を追ったという。
ガンの仲間の雛は、親の後ろを追いかけて移動する習性がある。この行動は生まれついてのもの、つまり本能行動である。ところが、雛は親の顔を生まれた時には知らず、生まれた後にそれを覚えるのである。具体的には、生まれた直後に目の前にあった、動いて声を出すものを親だと覚え込んでしまう事が分かった。したがって、ガチョウが孵化させた場合には雛はガチョウを親鳥と思い込み、ローレンツが孵化を観察した場合には彼を親鳥と認識することになるのである。
(以上引用)


ぼくが何がいいたいかわかったひとは、手をあげて!




砂、あるいはマルクスを読む

2010-04-29 14:55:30 | 日記


★ 梅雨明けはまだだろうから、今は梅雨の中休みなんだろう。そういえば、湿気のせいなのか、雨が降っていた日には、今日みたいに激しく砂が舞い上がることはなかった。それでさっきは、あれが特に気になったのかもしれない。あの、どれが誰のだか分からない砂の中の何粒かは、確かに僕のものだった。そのために、長いエスカレーターの途中では、見知らぬ誰かが、秘そかに涙を流していたのかもしれない。あるいはただ、ほんの一瞬宙を舞っただけで、何ということもなく、その辺に散らばっているんだろうか。――

★ 僕がこんなことを気にするようになったのは、要するに、僕も到頭、その歳になってしまったからだった。つい3ヶ月ほど前のこと、仕事から帰って、自宅のパソコンで友達にメールを書いていた僕は、出しっぱなしにしていた風呂の湯を見に行こうと席を立った拍子に、ふと、自分の座っていた椅子の上に、白っぽい粉のようなものが落ちているのを見つけたのだった。

★ その瞬間、僕はまったく奇妙だった。僕だって、もうそれなりの歳なんだから、何時そんなふうに砂が落ち始めたとしてもおかしくはなかったはずなのに、それを目にした時には、咄嗟に、食べもしないお菓子の粉か何かのように思ったのだった。もちろん、半分は、その時にもう気がついてはいたのだろうと思うけれど。そして、身を屈めて、慎重に指先で確かめてみて、初めてはっきりと、何が起こったのかを認める気になったのだった。

<平野敬一郎;『あなたが、いなかった、あなた』(新潮文庫2009)>



★ 男子の普通選挙が実現した共和制下のフランスで、ルイ・ナポレオンのクーデタが成功し、しかも、この独裁権力が国民投票で圧倒的な支持を得たのはなぜか?
この問いをめぐるマルクスの自由で饒舌な語り口は、つねにレヴィ=ストロースやE.サイードのような思想家たちのインスピレーションの源泉でもあった。
<マルクス;『ルイ・ボナパルトのブリュメール18日(初版)』(平凡社ライブラリー2008)カヴァー裏コピー>

★ 本書は、1852年5月にニューヨークのドイツ語雑誌『革命』に発表されたマルクスの論文「ルイ・ボナパルトのブリュメール18日」の翻訳である。底本として、この1852年の初版に基づくMEGA版を用いた。
<マルクス;『ルイ・ボナパルトのブリュメール18日(初版)』“刊行に寄せて”=訳者植村邦彦>

★ 男子の普通選挙を実現した共和制の下でルイ・ナポレオンのクーデタが可能となり、しかもこの独裁権力が国民投票で圧倒的な支持を獲得できたのはなぜなのか。この困難な問いを前にして、自己批判と試行錯誤の跡が生々しく、それにもかかわらず(あるいはそれゆえに)風刺的で皮肉に満ちた饒舌と明るい展望に満たされたテクスト。暗いよどんだ状況の中で生み出された躍動的なテクスト。おそらくこの独特の魅力のためだろう。マルクスの数多い著作の中でも、これまでにこれほどさまざまな読まれ方をしてきたものはない。
<マルクス;『ルイ・ボナパルトのブリュメール18日(初版)』“平凡社ライブラリー版へのあとがき”=訳者植村邦彦>

★ ヘーゲルはどこかで、すべての偉大な世界史的事実と世界史的人物はいわば二度現れる、と述べている。彼はこう付け加えるのを忘れた。一度は偉大な悲劇として、もう一度はみじめな笑劇として、と。
★ 人間は自分自身の歴史を創るが、しかし、自発的に、自分で選んだ状況の下で歴史を創るのではなく、すぐ目の前にある、与えられた、過去から受け渡された状況の下でそうする。すべての死せる世代の伝統が、悪夢のように生きている者の思考にのしかかっている。
<マルクス;『ルイ・ボナパルトのブリュメール18日(初版)』本文>



<注記>

マルクスの本を、”マルクス主義者”じゃないひとが読んでも、かまわないのよ。




牧歌

2010-04-29 11:34:06 | 日記


★ 村にきて
わたしたち恋をするため裸になる
(・・・・・・)
わたしたち裸のまま
火事と同時に消えるもの
大勢の街の人々が煙を見にくる

<吉岡実:“牧歌”>



*下記ブログ及び下記ブログ掲載画像と<比較>せよ

わかんない?(笑)

あるいは、今日の読売編集手帳と比較せよ;

きみの部屋にオバケはいないかい? その歌は問いかける。オバケは名前を「ムカシ」という。都はるみさんの『ムカシ』(詞・阿久悠、曲・宇崎竜童)である◆〈こいつにうっかり住みつかれたら/きみも駄目になってしまうぞ/何故(なぜ)ってそいつはムカシ話で/いい気持ちにさせるオバケなんだ…〉。現実から目をそむけて、遠い日の感傷に逃避するなかれ、という教えだろう◆作詞した阿久さんはかつて本紙の連載『時代の証言者』で、「いい時代があったとすれば昭和30年代に入ったころでしょう」と語っている。ムカシとはその頃を指すのかも知れない◆まだ多くの人が貧しかったが、今日よりも明日は暖かく、明日よりもあさっては明るいと、信じることができたのは確かである。親類の小学生に将来、何になりたいかを聞いたら、「正社員」と答えた――今年1月、本紙の『気流』欄に載った読者の投稿にそうあった。いまの世に欠けているものを一つだけ挙げるとすれば「希望」であろう◆阿久さんに叱(しか)られるのは覚悟のうえで、昭和のムカシと差しつ差されつ、世の行く末を語らってみたい夜もある。
(2010年4月29日01時19分 読売新聞)



わかんない?


ぼくは”保守的なひと”がきらいなんです。

だから、”ぼくより若いひと”に言っている;

君は生きろ、何かを変えるまで。





あなたはどうして“この現実”を現実と感じられるのか?

2010-04-29 11:21:49 | 日記


このタイトル<あなたはどうして“現実”を現実と感じられるのか?>という“テーマ”について説明する必用があるだろうか?

たとえば、あなたが見ているテレビ・ニュースが、“やらせ”である可能性。
“9.11”も“イラク戦争”も“北朝鮮”も “小泉改革”も“オバマ”も“政権交代”も、ぜんぶ“やらせ”である(笑)
というような“可能性”である。

この問題は、もはや“新しく”ない、ぜんぜん。
SFやミステリやホラーの世界では古臭いテーマである。

一般に“新しくない”というのは、それが“あたりまえ”になったから。
つまり、ぼくたちが暮らしている<現在>において、それが“どこにでもある”から。

すなわち、(これもよくいわれているけど)、“現在のぼくたち”にとっては、なにが‘やらせ’でなにが‘やらせ’でないかが、もはや識別できない。

“識別できない”こと自体は、最近の問題ではない。
そうでなければ、なんで<哲学>などというものが、古代からあるのか。

そうではなくて、現在の問題というのは、“識別しようという意欲”自体がなくなったことだ。

逆に言えば、“誰もが”、自分及び自分を取り巻く世界が、“本当の現実”であることを確信して“いないのに”、だれもが自分及び自分を取り巻く世界が、“本当の現実”であることを“信じている”のである。


ぼくがこういうことを思ったきっかけは、昨夜テレビで見た“古い”映画「カプリコン1」(1977)である。
ぼくはこの映画を見ていなかった、たいした映画ではない(笑)

いちおう筋を説明するため、Wik.から引用する;
《人類初の有人火星探査宇宙船カプリコン1号が打ち上げられる事になった。しかし、その打ち上げ数分前、乗組員のブルーベーカー、ウイリス、ウォーカーは突如として船内から連れ出され、砂漠の真ん中にある無人となった古い基地へと連れて行かれた。
3人はそこで、本計画の責任者であるケロウェイ博士から、カプリコン・1の生命維持システムが故障したため有人飛行が不可能になった事を告げられ、政治的な問題で計画が中止出来ないので、火星に行ったという事実の捏造を行う事を命じられた。人々と科学を裏切る結果になる事を嫌った飛行士達は最初は拒否したが、家族の安全を人質に取られ、やむなく承服した。こうして、火星往復の間や火星探査の様子などを、この基地で収録するという大芝居が始まった。
大芝居は成功するが、地球への再突入の際に宇宙船の熱遮蔽板が破壊されたという報告が入った。その報告を聞き、自分達は存在してはならない人間になった事を察した飛行士達は、ここに居ると殺されると直感し、砂漠の基地から脱出を図る・・・・・・》
(以上引用)


すなわち《人類初の有人火星探査宇宙船》の成功の“やらせ”がアメリカという国家ぐるみで演出されるという話。
そもそもアポロによる“人類初の月面への一歩”が、“やらせ”だったのではないかとの推測もあった。

しかし“このようなやらせ”は、ある意味では単純である。
つまり1970年代にこういう映画で“あばかれた”ことは、この2010年のテクノロジーでは完璧に可能である。

一国家(とくに“アメリカ”さ)、あるいは複数国家の“協力”によれば、どんな<事実>も<テレビ>や<NET(WEB)>を通して、<現実>になる。

“視聴者”は、完全に騙される。

この映画で、“国家的陰謀”を暴くのは、この陰謀にイヤイヤ加担したあげく命まで狙われる宇宙飛行士と、取材していて“たまたま”この陰謀を察知して“追及”するジャーナリストである。

すなわち、“ジャーナリスト”の個人的な能力に、“まだ”希望が託されている。

これが、古い(笑)

アメリカ的に“古い”のである。
もちろんこの“古いアメリカ”の後を追うことしかできない<国>は、もっと古い。

この“やらせ問題”は、上記のような単純なケースのみではない。

ぼくが“テレビを見るな”と言っているのには、“そういう意味”もある。

再度問う;

あなたはどうして“この現実”を現実と感じられるのか?

あなたが、<現実>だと思っているものは、現実なのか?
あなたが、<現実>だと思っているものは、“どうして”、現実なのか?





猿と経済

2010-04-28 23:22:57 | 日記


★ 桑潟幸一助教授、通称桑幸も、相変わらずレータンで教え続けていた。桑幸は以前から学生を猿だと思うようにしていたが、これは学生の学力レベルを見誤らないためと、猿だと思えば腹も立たないという、精神衛生上の要請からそうしていた。そしていまなお桑幸は学生を猿だと考え続けていたが、しかしこれは以前とは内容に若干の変化があった。というのは、以前は学生を猿だと思うことには幾分のアイロニーと自嘲が含まれていたのに対して、いまは端的に猿と思うようになったのである。そこになんら感情の入り込む余地はなかった。猿はただ猿であった。

★ 以前は教室へ一歩入ったとたん、むせかえるような香水の匂いに鼻を撃たれ、そこここでコンパクトを取り出して熱心に化粧する女の子たちを見れば、風俗店に迷い込んだかと錯覚しそうになったものだが、このところなぜか学生はすっかり地味になり、一見すると真面目そうな風もあるのだけれど、反応は著しく鈍くて、何を考えているのかさっぱり分からず、桑幸はむしろ妙に色目を使ってくる厚化粧の群が懐かしかった。猿は大人しくなった。私語も少なくなり、高窓から差し込む午後の日差しに、同じ顔と同じ服装をした人たちが灰色の影に変わって佇む教室で授業をしていると、世界が終わった後の時間を静かにやり過ごしているかのような気分になることがままあった。

<奥泉光;『モーダルな事象』(文春文庫2008)>



★ つまり、われわれが個々人の立場から自らの経済生活を改善させたいと思うのなら、日本の経済が将来どのような方向に進んでいくのかということについて、ある程度の見通しを持つ必要があるということです。これが「経済を知ることがなぜ必要か」という本章の問いへの、一つの答えです。

★ しかし、ここで重要なのは、このようなプロセスが正しく機能するためには、有権者としてのわれわれ自身が、経済なるもののメカニズムについて、ある程度の知識は持っていなければならないということです。というのは、有権者が、なされるべき経済政策について、誤った経済知識に基づいて誤った判断をしてしまえば、その結果が失望すべきものに終わるのは明らかだからです。実際、歴史の中では、人々が誤った政策を支持してしまったために悲惨な結果がもたらされた例を、数多く見出すことができます。これが、「経済を知ることがなぜ必要か」という本章の問いへの、もう一つの答えです。

<野口旭;『ゼロからわかる経済の基本』(講談社現代新書2002)>



★ 決定的なのは次ぎの点である。すなわち、労働、土地、貨幣は産業の基本的な要因であること、しかも、これらの要因もまた市場に組みこまれなければならないことである。事実、これらの市場は経済システムの絶対的に重要な部分を形成する。ところが、労働、土地、貨幣が本来商品でないことは明白である。売買されるものはすべて販売のために生産されたものでなければならないという公準は、これら三つの要因については絶対的に妥当しないのである。つまり、商品の経験的定義によれば、これらは商品ではないのである。

★ 第一に、労働は、生活それ自体に伴う人間活動の別名であり、その性質上、販売のために生産されるものではなく、まったく別の理由のために作り出されるものである。また、その人間活動も、それを生活のその他の部分から切り離して、それだけを貯えたり、流動させたりすることはできないものである。つぎに、土地は自然の別名でしかなく、人間によって生産されるものではない。最後に、現実の貨幣は購買力を示す代用物にすぎない。原則としてそれは生産されるものではなくて、金融または国家財政のメカニズムをとおして出てくるものなのである。労働、土地、貨幣はいずれも販売のために生産されるのではなく、これらを商品視するのはまったくの擬制(フィクション)なのである。

<カール・ポランニー;『経済の文明史』(ちくま学芸文庫2003)>




THE RHYTHM OF THE HEAT

2010-04-28 12:57:54 | 日記


The land here is strong
Strong beneath my feet
it feeds on the blood
it feeds on the heat

The rhythm is below me
The rhythm of the heat
The rhythm is around me
The rhythm has control
The rhythm is inside me
The rhythm has my soul

Smash the radio
No outside voices here
Smash the watch
Cannot tear the day to shreds
Smash the camera
Cannot steal away the spirits
The rhythm is around me
The rhythm has control
The rhythm is inside me
The rhythm has my soul

<Peter Gabriel;“THE RHYTHM OF THE HEAT”>




Wanting contact
I’m wanting contact
I’m wanting contact with you
Shake those hands , shake those hands
Give me the thing I understand
Shake those hands , shake those hands
Shake those hands , shake those hands

Pull my chin , stroke my hair , scratch my nose , hug my knees
Try drink , food , cigarette , tension will not ease
I tap my fingers , fold my arms , breath in deep , cross my legs
Shrug my shoulders , stretch my back -
but nothing seems to please

I need contact
I need contact
Nothing seems to please
I need contact

<Peter Gabriel;“I HAVE THE TOUCH”>




You’re not one of us
Not one of us
No you’re not one of us
You’re not one of us
Not one of us
No you’re not one of us

<Peter Gabriel;“NOT ONE OF US”>




The streets are lived camera crews
Everywhere he goes is news
Today is different
Today is not the same
Today I make the action
Take snapshot into the light
Take snapshot into the light
-I’m shooting into the light

All turned quiet - I have been hear before
Lonely boy hiding behind the front door
Friends have all gone home
There’s my toy gun on the floor
Come back Mum and Dad
You’re growing apart
You know that I’m growing up sad
I need some attention
- I shoot into the light

<Peter Gabriel;“FAMILY SNAPSHOT”>




* 以上すべて“Peter Gabriel;PLAYS LIVE”1983に収録





GWの過ごし方

2010-04-28 08:32:32 | 日記


よく降るねぇー。

さて、GW。

みなさんのご予定は?

ぼく?(だれも聞いてない;笑)

読書!

あるツイッターで見た言葉;
★ 懇意にしている編集者から教えていただいた言葉。古井由吉さん、「毎日、この椅子に何時間も座っていられる体力が、作家なんですよ」

さすが古井由吉!

ぼくは“作家”ではなく、“読む人”である。

“読む人”にも体力はいる。

“引用”する“入力”にも、体力はいる。
“コピペ”ではないからである。


★社会について何か考えて言ったからといって、それでどうなるものではないことは知っている。(略)こんな時にはまず考えられることを考えて言うことだ。考えずにすませられるならそれにこしたことはないとも思うが、どうしたものかよくわからないこと、仕方なくでも考えなければならないことがたくさんある。すぐに思いつく素朴な疑問があまり考えられてきたと思えない。だから子供のように考えてみることが必要だと思う。<立岩真也『自由の平等-簡単で別な姿の世界』>




ぼくと読書会したいひと、コメント欄で連絡を。

<東京でロリータを読む>


《簡単で別な姿の世界》へ!





応用問題

2010-04-26 18:05:14 | 日記


まず柄谷行人『トランスクリティーク』に引用されている、マルクスの文章を引用し、それを使って村上春樹『1Q84』を“批判”してみよう。
もちろんぼくは、村上春樹にうらみがあるのではなく(多少あるが;笑)、現在ニッポンの“表現者”(=本とか書いたり、テレビに出てる人、ようするに“タレント”)を批判したい、内田樹でもよい(笑)

★ マルクス『ドイツ・イデオロギー』(マルクスが生きていた当時のドイツの“イデオロギー”よ<注>)から引用;
日常生活では、どんな店屋の主人でもしごくあたりまえに、ある人が自分がこうだと称する人柄と、その人が実際にどういう人であるかということとを区別することぐらいはできるのに、わが歴史記述ときては、まだこんなありふれた認識にさえも達していないのである。それは、あらゆる時代を、その時代が自分自身について語り、思いえがいた言葉どおりに信じこんでいるのである。


展開;

☆ 日常生活では、どんな店屋の主人でもしごくあたりまえに、ある人が自分がこうだと称する人柄と、その人が実際にどういう人であるかということとを区別することぐらいはできるのに、わが春樹『1Q84』 ときては、まだこんなありふれた認識にさえも達していないのである。それは、あらゆる現在日本の現実(つまりありふれた日本人の生き方)を、その時代が自分自身について語り、思いえがいた言葉どおりに信じこんでいるのである。



<注>
すなわちマルクスは、当時の”右翼”を批判したのではなく、”左翼”を批判したのである。







君は生きろ、何かを変えるまで。




お小遣いの稼ぎ方

2010-04-26 16:12:36 | 日記


世の中にはスマートな(頭の良い)人がいるもんだ!


<「2千万円稼ぐ方法教えます」 情報料商法トラブル急増>アサヒコム2010年4月26日13時50分

 年2千万円稼ぐ方法を教えます――インターネット上の広告で誘い、その情報料をクレジットカードや現金振り込みで支払わせる商法でトラブルが急増している。全国の消費生活相談窓口への相談数は2009年度は2月末現在718件で、前年同期に比べ2.5倍強だ。情報の内容は「肩すかし」も多く、返金に応じない例も目立つ。国民生活センターは安易に契約しないよう注意を呼びかけている。

 兵庫県の20代女性はメールマガジンの中に「年間2千万円稼ぐ方法」という広告を見つけた。「3カ月実行しても100万円以上の収入がなければ全額返金」とあったことから、「情報」をクレジットカード決済で5万円で購入した。

 だが、入手した情報は「人材派遣会社を開業し、紹介手数料を稼ぐ」というもの。役所への登録や開業資金で500万円以上必要なことが分かった。業者に返金を求めたが拒否され、連絡がつかなくなったという。

 別のケースの奈良県の40代男性もメールマガジンに、「○○するだけで毎日1万円稼げる方法」の広告を見つけた。○○の中身は伏せられて分からなかったが、「業務の提供がなかったら90日間は無条件で代金返却」とあり、カード決済で3万円を払って、情報のPDFファイルをダウンロードした。

 業務とは、指示された企業のサイトの誤字脱字などを見つける作業。指示通りに指摘したら、「すでに他の人が指摘した個所なので手当は出せない」と業者に言われ、報酬はもらえなかったという。

 情報をパソコンでダウンロードし、閲覧できる手軽さから被害が拡大。相談は06年度の37件から年々増え、この4年で1300件を超えた。平均契約額は約5万2千円で30、40代が6割を占める。

 同センターによると、「仕事を提供する」といって勧誘し、情報料を払わせる行為はクーリングオフの対象になるとして、「被害救済ができる場合もあるので、購入時の取引データなどを残し、最寄りの消費生活センターに相談してほしい」と話している。(小林未来)





ヒント=メモ=走り書き

2010-04-26 14:04:21 | 日記


☆ もし現実を認識する、根底が、経済にあるのなら、
資本主義と資本主義“でないもの”の認識が必要だ。
単純には、資本主義“以前の”人類の“全経済活動”との比較が必要だ。

☆ さらに、この“経済活動=経済関係”自体が、どのように人間の本質であるかを、考える。

☆ これは“社会科学的な”アプローチのみを意味しない。

☆ 音楽における、<エスニックなもの>(無償なもの)と<コマーシャルなもの>の対立。

☆ あらゆる“表現=表出”における、<つくりだすもの>とそれを<受け取るもの>との差異。

☆ あらゆる<つくりだすもの>にとっての、<引用>の意味と方法。

☆ いかにして、この私の感覚=主観性と、法とか公共性とか呼ばれるものを、自己疎外としてでなく、同時に実現させ得るか。

☆ いかにして、<楽しみ>を、愚鈍でないものに変更しうるか。

☆ いかにして、時間の直進性、進歩とか、古い新しいという単純な価値観を変更しうるか。

☆ いかにして、自分の唯一の体験を、孤立の虚無でなく、“共有”しうるのか。

☆ いかにして、この生を、たんに“気が利いた幸福(無事にまっとうされる生)”におとしこまず、それ以上であることの確信を得、それを閉じたものではなく、“共感”としうるか。

☆ 私の唯一性を、自己満足ではなく、また他者に対する寛容でもなく、ただ唯一の体験として、生きて死ぬことは、いかに可能か。

☆ 私の欲望、それが性であり、カネであり、地位-権力-支配であるという単純な事実に、ベイスから向き合うことの、そういう“生き方”。

☆しかも、この欲望(私)を、殺すのではなく。




“基地問題”は、“問題”なのか?

2010-04-26 12:34:27 | 日記


世間に‘うとい’、ひきこもり初老であるぼくにとって、現在の政治-経済-社会的問題とゆーのは、ますます“疎遠”(アッシには係わりのないことでゴザンス)と思われるのだが、新聞を取らず、TVニュースも見ず、ネット・ニュースをぱぱぱっと見るだけでも、<フテンマキチ”というワードが目に入ってくるのである。

フテンマキチ?
キチ?

ああいやだ、アッシは、そーゆーことには、かかわりたくないなぁー。
残り少ない人生、どーせ<客観状勢>は変わらんのだから、自分の<観念>の世界で生きたいぜ。
すなわち、“ドイツ・カンネン論”とか、“ゲージュツ”とか、“ブンガク”とかにかかわりたい。
せめてよい夢をみながら死にたいね。

けれども(笑)、きょうたまたま(見なけりゃいいのに)田中早苗さんという弁護士が“あらたにす・新聞案内人”に書いている、<普天間問題の疑問にメディアは答えているか>というのを見てしまった。

そもそも、このタイトルはヘンではないか?

“普天間問題の疑問にメディアは答えて”いないことは、明瞭(考えるまでもない)ではないか。
まあ、この“作文”は、そんなに悪くもないが(つまり可もなく不可もなく)

それでぼくも“論点”を整理してみた。
どう考えても(つまりぼくの“脳”では)以下のことしか思いつかない。

基地とは?

① こっちから攻撃したいか、攻撃されたら防衛するためにある
② 日本国に基地が必用なら、攻撃したいひとがいるか、攻撃してくるひとが必要である
③ 現在の“議論”では、もっぱら“攻撃したい人”は話題にならず、“攻撃してくるにちがいない”仮想敵国がなんとなーく前提されている
④ たしかに日本も、<国>をやっている以上、攻めてくる国が“ない”とは、いえない。
⑤ しかし北朝鮮とか中国が“攻めてくる”という根拠は、いかなるものか?
⑥ 北朝鮮も中国も日本国を攻めたり、滅ぼして、なんの得があるのだろうか
⑦ そーいうことがわからない“気狂い”が、北朝鮮国や中国には多いということだろうか
⑧ たしかにそういう“可能性が”ないわけではないが、いままでそういう国も日本を攻めて来ていないし、某国の独裁者はたしかにそうとう“狂っている”模様だが、そういうひとに支配されていてさえ、北朝鮮だって“国際外交でかけひき”しているのである
⑨ さらに、どっか攻めてくる国があると仮定しても、“基地”があると、どーして“防衛”できるのであろうか、ほとんど役に立たないと思う
⑩ もちろん“日本国の米軍基地”というのは、日本国のためにあるのではなく、米国の世界軍事戦略の一環としてしかないのだが、“米国の世界軍事戦略”というのは、米国の問題であって、その意図など、“こっち”にはまったくわからない
⑪ むしろ現在の“大きな暴力”的危機は、<テロ攻撃>にあり、それに対して現在の<基地>が有効な防衛手段になりえないことも明瞭である
⑫ もちろんこういう“軍事レベル”ではない“小さな暴力”(の増加・激発・集積)こそ恐怖である
⑬ ぼくが考える“小さな暴力”は、他国の軍事基地に頼りきるような“精神の頽廃”からやってくる
⑭ “他国(米国)の軍事力に頼らないために、自国の軍事力を強化するという、シンプル(無思考)発想にも組しない
⑮ これでは、なんのために<政治>や<外交>や<文化>や<理性>があるかが、不明である
⑯ ぼくはDoblogの時すでに、はっきり自分の<立場>を言明している;
A:日本国は(この国家形態であるのなら)、日本国憲法にもとづき、あらゆる“武力の行使を放棄する”
B:このことを、宣言し、実行し、“国際社会”にたいして、あらゆる機会をとらえて“言明する”
これにより、日本国の、<世界>におけるグレードと独自性は、決定的となるだろう。
ぼくは“愛国的”でもないが、“愛国者”はこれにより、日本国の独自性(唯一性)を世界に示せるだろう。
きわめて、ベーシックである(笑)




君は生きろ、何かを変えるまで。






Snapshot;昼間でも点いてるモノ

2010-04-26 10:40:57 | 日記


今朝の“ネット巡回”で、あるひとの“ツイッター”を見た;

《という私も失業中はずっとテレビを見ていたんだったわw 今も家にいると点いてるし 約9時間前 webから》


ぼくは実はあまりひとの悪口を言うのが好きでない(笑)のだが、暗いとき電灯を点けないわけにはいかないが、時をえらばず、あるモノを“点けている”のは、電気代のムダだけではなく、資源の(有限の資源の)ムダである。

しかしこの<ムダ物質=マシーン>の有害性は、環境問題(資源問題-物質的問題)のみではないのである。

なにが<問題>であるかは、このブログで繰り返し言っておる。

すなわち<テレビ>によって、感受性のベースが狂う。

“ベースが狂う”というのは、本当に恐ろしいことなのである。
すなわち、“ベースが狂う”と、なにを見ても、なにを聴いても、なにを読んでも……

ああ俺に最期まで言わせないでくれ!

もし、“昼間から(夜まで)無駄なモノを点けている人”が、このツイッターを書いた人ダケなら、ぼくもわざわざこんなブログを書かない。

ぼく自身が、“テレビ創世記”からテレビと付き合ってきたのである。

昨日『テヘランでロリータを読む』を読んでいて奇妙な体験をした。

実はぼくは、小説にせよ映画にせよ、あまり“巻き込まれる”方ではないのである。
“冷静”というのとは、ちがうのだけれど。

けれども『テヘランでロリータを読む』を読んでいて、“この日常”にもどると、この日常がとても奇怪なものに見えた。

それは、この本の<力>でもあろうが、なによりも、“テヘラン”と“この東京”との<差異>である。

“本を読む”というのは、その読んでいる<状況>に“かかわりなく”、その<テクスト>に没入すればよい。

しかし、“その本を読んでいる状況”というものの重要性が、たしかにあるのだ。

単純に言えば、『テヘランでロリータを読む』の状況では、テヘランと“ぼくの暮らしている”東京は、対極にある。

対極にある。
たとえば、テヘランでの“女としての条件”と“東京での”女としての条件は対極にある。

しかしそうか?

このことは少なくとも“二重”である。
テヘランには自由がなく、東京には自由がある。

しかし、自由なきテヘランでの“読書会”では自由が模索-追及されているのに対し、東京では、自由は“すでにある”と“了解”されているため、誰も自由を模索-追及していない。

ゆえに、
ほんとうに<自由>なのは、どっちだ?

自由を希求すること。
自由がなんであるかを考えること。
すべてのひとが自由であることを望むこと。

そのような<行為-関係>がなければ、自由などどこにもない。

“自由主義”だから、“新自由主義”だから自由だ、などとテレビを見ながら夢想している人々には、たんに“自由がない”だけではなく、そういう人々には、<自由>というセンスがそもそも欠落している。


毎日歩く道が同じでも、足の踏み場がちがえば、違った風景がみえる(“スカイ・クロラ”)

“昼間でも夜でも点いているもの”以外を見なくては、“自由”はない。




君は生きろ、何かを変えるまで。






2010-04-25 16:03:00 | 日記


★ 岩石を作るのはマグマばかりではない。宇宙から飛来する隕石もある。しかしなにより重要なのは生物の働きである。風化作用を引き起こすのはなにも水や氷だけとは限らない。生物が岩石の風化に一役買うのであるし、生物の軀そのものが今度は石に変わる。石炭が太古の樹木の化石であるのは君も知っているだろう。石灰岩やチャートなどは水底に溜まった生物の死骸が凝り固まったもので、たとえばわれわれの軀にしても、骨のカルシウムはいずれ岩になって鉱物の循環に投げ入れられる。だから君が河原で拾う石ころは、どんなによそよそしく疎遠にみえようとも、君とは無縁でありえない。君自身を一部に含む地球の歴史の総体を君は眺めるのであり、いわば君は君の未来の姿をそこに発見するのである。

★ 上等兵は語り続けた。不意の饒舌がなにより命の火が燃え落ちつつある徴に違いなかった。あるいはあのときわざわざ彼の隣に床をとったのは、極く僅かな交わりではあったにせよ、なにかしら敬愛のような気持をその人に抱いて、最期を看取ってやりたいと考えたからなのかもしれない。だがそのあたりからマラリア熱がぶりかえし、朦朧となった真名瀬の記憶は明瞭でない。上等兵が語りはじめたのは夜であった。眼を向けた洞窟の入口が墨を塗ったように漆黒だったのをたしかに覚えている。

★ 葉裏燦めく濃緑の森が陽炎に揺れていた。オルモックの港に捕虜を運搬するトラックが到着するまで、熱帯の強烈な日差しを無帽の頭に浴びたまま真名瀬は焼けた砂地に坐り続けていた。あまりの落魄ぶりを見かねたのか、灰色の眼をしたひとりの米兵が、嘲笑とも応援ともつかぬ仲間の声を浴びながら、おどけた仕草で煙草を一本ずつ日本兵に配って回り、敗残兵らは小さくお辞儀をして押しいただいた品に、見たこともない巨大なライターでひとりひとり火を付けて貰った。陽光に灯の見えぬ紙巻きの先端を見つめ、煙を喉から肺に吸い込んでようやく、真名瀬は自分が捕虜になったのだと実感し、見上げれば黒に近い紺色の空の中央に燃え盛る太陽があった。

★ 隣の兵隊が首から吊った錦の護符を取り出している。とにもかくにも命ばかりは助かったと、この男も実感を新たにしているのだろうと眺めていたら、彼が煙草をくれた米兵に身振りで何事か伝え、護符を煙草一箱と交換して貰うのを見たときには、ひどく驚きながら、これからはこうして生きていくのだな漠然と思い、何か交換できる品を身に着けていないかと、はやくも考えている自分に二度吃驚した。

★ 探ってみると上衣の胸ポケットに何かあった。指先に摘んだそれは灰色の生地に微かな緑色の筋の入った小石で、掌にころがしてみた真名瀬は、こんなものでは一銭にもなりはしないと嗤いながら、かといって捨てる気にもなれなくて、すべすべした鉱物の感触を何度も何度もたしかめてみた。

<奥泉光:『石の来歴』(文春文庫1997)>





Prismatic or Rock’n’roll nigger

2010-04-25 12:53:46 | 日記


Prismatic;
プリズムの
虹色の、多色の、変化に富む
角柱の、斜方晶系の


★ 女は庭仕事の手をとめ、立ち上がって遠くを見た。天気が変わる。<M.オンダーチェ:『イギリス人の患者』>


★ 背筋をまっすぐにのばして目を閉じると、風のにおいがした。まるで果実ようなふくらみを持った風だった。そこにはざらりとした果皮があり、果肉のぬめりがあり、種子のつぶだちがあった。果肉が空中で砕けると、種子はやわらかな散弾となって、僕の腕にのめりこんだ。そしてそのあとに微かな痛みが残った。<村上春樹:“めくらやなぎと眠る女”>


★ 雨がつづいた。それは烈しい雨、ひっきりなしの雨、なまあたたかい湯気の立つ雨だった。(レイ・ブラッドベリ:“長雨”>


★ 一夏のあいだ、雲の彫刻師たちはヴァーミリオン・サンズからやってくると、ラグーン・ウエストへのハイウェイの横にならび立つ白いパゴダにも似た珊瑚塔の上を、彩られたグライダーで飛びまわった。<J.G.バラード:『ヴァーミリオン・サンズ』>


★ 二日前に雪が降り、京都御所では清涼殿や常御所の北側の屋根に白く積もって残るのを見かけた。大きな建物だから寒かろうと覚悟して行ったが、冬暖かい青空で、光に恵まれた昼となった。<大仏次郎:『天皇の世紀』>


★日本を統ぐ(すめらぐ)には空にある日ひとつあればよいが、この闇の国に統ぐ物は何もない。事物が氾濫する。人は事物と等価である。そして魂を持つ。何人もの人に会い、私は物である人間がなぜ魂を持ってしまうのか、そのことが不思議に思えたのだった。魂とは人のかかる病であるが、人は天地創造の昔からこの病にかかりつづけている。<中上健次:『紀州』 終章“闇の国家”>


★ 赤ん坊の揺り籠は深淵の上で揺れているのだ。<ナボコフ:『記憶よ、語れ』>


★ 哲学がもし、考えること自体について考える批判的な作業でないとしたら、今日、哲学とはいったいなんだろうか。また、すでに知っていることを正当化するというのではなく、別のしかたで考えることが、どのようにして、また、どこまで可能なのかを知ろうとするという企てに哲学が存するのでないとしたら、今日、哲学とはいったいなんだろうか。<ミシェル・フーコー:『快楽の活用』>


★思考とは自発的なものであると言われているが、それは思考が自分自身と合体するという意味ではなく、反対に、思考は自らをのり越えてゆくという意味であって、発語はまさしく、思考が真理へと自分を永遠化してゆく運動にほかならない。<メルロ=ポンティ:『知覚の現象学』>


★ わたしが来たのは、人をその父と、娘をその母と、嫁をその姑と仲たがいさせるためである。そして、家の者が、その人の敵となるであろう。わたしよりも父または母を愛する者は、わたしにふさわしくない。<『福音書』>


★僕らがいるのはどうやら最後のフロンティアであり、本当に最後の空を見ているらしい。その先には何もなくて、僕らは滅びていく運命にあるらしいことはわかっているのだけれど、それでもまだ、僕らは「ここから、どこへ行くのだろう」と問いかけているのです。僕らは別の医者に診て貰いたい。「おまえたちは死んだ」と言われただけでは、納得しません。僕らは進み続けたいのです。<エドワード・W・サイード:『ペンと剣』 >


★ウィトゲンシュタインが同じことを述べていまして、「この世界に神秘はない。この世界があることが神秘だ」という言い方をしています。つまりこの世界、別の言葉では自然といってもいいのですが、そのことが神秘(奇蹟)だというわけです。その中に、あるいはそれを超えて、特別に神秘があるわけではない。<柄谷行人:“世界宗教について”―『言葉と悲劇』>


★ぼくは生涯において、三人の異なった女性を知り、そしてぼくの内部の三人の異なった男性を知った。ぼくの生涯の歴史を書くことは、この三人の男性の形成と崩壊を、またこの三者のあいだの妥協をえがくことだろう。<野村修『ベンヤミンの生涯』よりベンヤミンの日記>


★いかなる楽しみのために詩は、あらゆる技芸の「子宮」として、その「スタンツァ」をしつらえたのか。その「詩法」は、そんなにも堅固に何を閉じこめているのか。<ジョルジュ・アガンベン『スタンツェ―西洋文化における言葉とイメージ』プロローグ>


★そこでは、汗の一滴一滴、筋肉の屈伸の一つ一つ、喘ぐ息の一息一息が、或る歴史の象徴となる。私の肉体が、その歴史に固有の運動を再生すれば、私の思考はその歴史の意味を捉えるのである。私は、より密度の高い理解に浸されているのを感じる。その理解の内奥で、歴史の様々な時代と、世界の様々な場所が互いに呼び交わし、ようやく解かり合えるようになった言葉を語るのである。<クロード・レヴィ=ストロース:『悲しき熱帯』>


★ 固定され安定しているように見える対象も、それを見る側が不安定に動いていれば別の見え方をする。マジョリティたちが固定的で安定的と思い込んでいる事物や観念が、実際には流動的であり不安定なものであるということが、マイノリティの目からは見える。<徐京植:『ディアスポラ紀行』>


★ 喜びとともに息を凝らした。やはり彼だ。短いようで、長い時間だった。人けの絶えようとする、周囲の目からも奇妙なほど隔絶されている庭の中央で、指先にしばし、大きな複眼と透き徹った四枚の翅を載せていた。<平出隆:『猫の客』>


★ 気がつくと、運命から切り離されたエメラルド色の蜥蜴へと三たび姿を変えていた。開きっぱなしのその瞳孔は、何万回目かの雨が砂浜にどっと降りつけるのを、灌木の枝間から動くことなく見つめている。雨はやがて琥珀となるだろう。
もうどこへも行かないし、砂浜には誰もいない。
<青山真治:『ホテル・クロニクルズ』>


★ ――「雨の木(レイン・ツリー)」というのは、夜なかに驟雨があると、翌日は昼すぎまでその茂りの全体から滴をしたたらせて、雨を降らせるようだから。他の木はすぐ乾いてしまうのに、指の腹くらいの小さな葉をびっしりとつけているので、その葉に水滴をためこんでいられるのよ。頭がいい木でしょう。<大江健三郎:“「雨の木」を聴く女たち”>


★よくいるかホテルの夢を見る。<村上春樹:『ダンス・ダンス・ダンス』>


★ 愛とは、私であるということと、他者(あなた)であるということとが、同じことになってしまうような体験なのだ、と。愛とは、私であるという同一性が、他者であるという差異性と完全に等値されている関係なのだ。<大澤真幸 :『恋愛の不可能性について』>


★ だが、<出来事>の記憶が、他者と、真に分有されうるような形で<出来事>の記憶を物語る、とはどういうことだろうか。そのような物語は果たして可能なのか。存在しうるのか。存在するとすれば、それはリアリズムの精度の問題なのだろうか。だが、リアルである、とはどういうことなのだろうか。無数の問いが生起する。<岡真理:『記憶/物語』>


★ 日が長くなり、光が多くなって、太陽がまるで地平線を完全に一周しようとするかのように、だんだん西に、いくつもの丘の向こうに沈んでいくとき、あたしの胸はじんとする。<ル・クレジオ:“春”>


★ 母はぼくを茶色の軍用毛布に包んで抱き上げ、ゆっくりハミングしながら、そこらを歩き回った。曲は「わが心のペグ」だったと思う。自分に聞かせるように、やさしくハミングしていた。心はどこか遠くをさまよっているようだった。
ぼくらはゆっくりと、恐竜たちの間を出たり入ったりしつづけた。足と足の間を、腹の下を、くぐり抜けた。ブロントザウルスのまわりを一周した。ティラノザウルスの歯を見上げた。恐竜たちはみな、目のかわりに青い小さなライトをつけていた。
そこには誰もいなかった。ただぼくと、母と、恐竜たちだけがいた。<サム・シェパード:『モーテル・クロニクルズ』>


★ よだかは、実にみにくい鳥です。<宮沢賢治:“よだかの星”>


★ だまされやすい人たちは全員サンタクロースを信じていた。しかしサンタクロースはほんとうはガスの集金人なのであった。<ギュンター・グラス『ブリキの太鼓 第1部』>


★ 午前1時。皆、寝静まりました。カフェー帰りの客でも乗せているのでしょうか、たまさか窓の外から、シクロのペダルをこぐ音が、遠慮がちにカシャリカシャリと聞こえてくるほかは、このホテル・トンニャット全体が、まるで深海の底に沈んだみたいに、しじまと湿気とに支配されています。<辺見庸:『ハノイ挽歌』>


★ 人間が意志をはたらかすことができず、しかしこの世の中のあらゆる苦しみをこうむらなければならないと仮定したとき、彼を幸福にしうるものは何か。
この世の中の苦しみを避けることができないのだから、どうしてそもそも人間は幸福でありえようか。
ただ、認識の生を生きることによって。
<ルートウィヒ・ウィトゲンシュタイン:“草稿1914-1916”>


★ そのとき、匂いが蘇った。新しい紙と印刷インクの匂いだ。それが彼を取り巻いていた。30年暮らした中国の村では、活字はどれも黄ばんだ紙に印刷されていた。
もう一度、思い切りその匂いをかいだ。そのとたん、胸がつかえた。胃が暴れ、何かが喉にこみ上げてきた。歯を食いしばってそれを止めると、涙がわっと溢れでた。<矢作俊彦:『ららら科学の子』>


★カーテンの後には見るべきものは何もない。<ドゥルーズ:『無人島』>


★ でも、気が狂ってるというのは、やはり悲しいことですわ。もしほかの人たちが気違いだとしたら、その中でわたしはどういうことになるのかしら?<デュラス:『ヴィオルヌの犯罪』>


★ 夜のことは覚えている。青い色が空よりもっと遠くに、あらゆる厚みの彼方にあって、世界の奥底を覆いつくしていた。空とはわたしにとって青い色をつらぬくあの純粋な輝きの帯、あらゆる色の彼方にある冷たい溶解だった。ときどきヴィンロンでのことだが、母は気持ちが沈んでくると、小さな二輪馬車に馬をつながせて、みんなで乾季の夜を眺めに野原に出た。あれらの夜を知るために、わたしには運よくあのような母がいたことになる。空から光が一面の透明な滝となって、沈黙と不動の竜巻となって落ちてきた。空気は青く、手につかめた。青。空は光の輝きのあの持続的な脈動だった。夜はすべてを、見はるかすかぎり河の両岸の野原のすべてを照らしていた。毎晩毎晩が独自で、それぞれがみずからの持続の時と名づけうるものであった。夜の音は野犬の音だった。野犬は神秘に向かって吠えていた。村から村へとたがいに吠え交わし、ついには夜の空間と時間を完全に喰らいつくすのだった。<デュラス:『愛人(ラマン)』>


★ 言語もまた、一個の神秘、一個の秘密である。ロドリゲス島の<英国人湾>に閉じこもって過ごしたあのように長い歳月を、祖父はただ地面に穴を掘り、自分を峡谷に導いてくれる印しを探すことだけに費やすわけではない。彼はまた一個の言語を、彼の語、彼の文法規則、彼のアルファベット、彼の記号体系でもって、本物の言語を発明する。それは話すためというよりはむしろ夢みるための言語、彼がそこで生きる決意をした不思議な世界に語りかけるための言語である。
<ル・クレジオ:『ロドリゲス島への旅』>


★ するといま嬉しいことが起きる。ペン軸と覗き穴のなかの小宇宙とを想い出す過程が私の記憶力を最後の努力にかりたてる。私はもういちどコレットの犬の名前を想い出そうとする―と、果たせるかな、そのはるか遠い海岸のむこうから、夕陽に映える海水が足跡をひとつひとつ満たしてゆく過去のきらめく夕暮れの海岸をよぎって、ほら、ほら、こだましながら、震えながら、聞こえてくる。“フロス、フロス、フロス!” <ナボコフ:『記憶よ、語れ』>


★ 社会について何か考えて言ったからといって、それでどうなるものではないことは知っている。しかし今はまだ、方向は見えるのだがその実現が困難、といった状態の手前にいると思う。少なくとも私はそうだ。こんな時にはまず考えられることを考えて言うことだ。考えずにすませられるならそれにこしたことはないとも思うが、どうしたものかよくわからないこと、仕方なくでも考えなければならないことがたくさんある。すぐに思いつく素朴な疑問があまり考えられてきたと思えない。だから子供のように考えてみることが必要だと思う。<立岩真也『自由の平等-簡単で別な姿の世界』>


★ 今もおなじだけれど、20数年前のその頃も、毎日、夕方になると、飲まずにいられなかった。<開高健:黄昏の力>


★ 「もしも地獄が一つでも存在するものでございますなら、それはすでに今ここに存在しているもの、われわれが毎日そこに住んでおり、またわれわれがともにいることによって形づくっているこの地獄でございます。これに苦しまずにいる方法は二つございます。第一のものは多くの人々には容易(たやす)いものでございます、すなわち地獄を受け容れその一部となってそれが目に入らなくなるようになることでございます。第二は危険なものであり不断の注意と明敏さを要求いたします、すなわち地獄のただ中にあってなおだれが、また何が地獄ではないか努めて見分けられるようになり、それを永続させ、それに拡がりを与えることができるようになることでございます。」<イタロ・カルヴィーノ:『見えない都市』>


★ 私たちは共有の歴史であり、共有の本だ。どの個人にも所有されない。好みや経験は、一夫一婦にしばられない。人工の地図のない世界を、私は歩きたかった。<M.オンダーチェ:『イギリス人の患者』>


★ 今日のことは忘れよう、明日までは。<ボブ・ディラン:“ミスター・タンブリン・マン”>


★ むかしのことを思い出すと、心臓がはやく打ちはじめる。<ジョン・レノン:“ジェラス・ガイ”>


★ 八千矛神(やちほこのかみ)よ、この私はなよなよした草のようにか弱い女性ですから、私の心は浦や洲にいる鳥と同じです。いまは自分の思うままにふるまっている鳥ですが、のちにはあなたの思うままになる鳥なのですから、鳥のいのちは取らないでください……
いまは朝日がさしてきた青山ですが、やがて夕日が沈んだら、まっ暗な夜が来ましょう。あなたは朝日のように晴れやかに笑っていらっしゃり、さらした梶の皮の綱のような白い腕、泡雪のような若やかな胸を抱きかかえ、玉のような手と手とをおたがいに枕とし、股を長々と伸ばして寝ましょうに、そうやみくもに恋いこがれなさるものではありません……<高橋睦郎:『古事記』現代語訳―『読みなおし日本文学史』による>


★ どんなことがあっても、フィクションを現実の複製と見なすようなまねをして、フィクションを貶めてはならない。私たちがフィクションの中に求めるのは、現実ではなくむしろ真実があらわになる瞬間である。<アーザル・ナフィシー:『テヘランでロリータを読む』>

★ 朝の光が濃い影をつくっていた。影の先がいましがた降り立ったばかりの駅を囲う鉄柵にかかっていた。体と共に影が微かに動くのを見て、胸をつかれたように顔を上げた。鉄柵の脇に緑の葉を繁らせ白いつぼみをつけた木があった。<中上健次:『地の果て 至上の時』>


★希望なきひとびとのためにのみ、希望はぼくらにあたえられている。<ベンヤミン:“ゲーテの『親和力』”>


★ ぼくたちは、すでに、混血種である。<warmgun:“ロックンロール・ニガー”>


★ 魔女1 この次3人、いつまた会おうか?かみなり、稲妻、雨の中でか?<シェクスピア:『マクベス』>





Snapshot:偶然 ― 読んで損はしない

2010-04-25 11:52:52 | 日記


☆ 今朝は数本たばこを吸ったら、たばこが切れたので、セブンイレブンに買いに行った。
ひさしぶりの青空。

☆ 今日は日曜日であるのを思い出し、“朝日新聞”を買った(\130!)
読書ページがあるからである。

☆ 偶然。
人生は偶然か必然か?と問う。
べつに、哲学的な問いではない。
ながく生きれば生きるほど、(ぼくの場合)、この問いは、ある。

☆ たとえば、今日朝日新聞を買って、読書ページ下の広告で阿部和重の『ピストルズ』を知るのは、偶然のように思える。
ぼくは阿部和重の小説を数冊読みかけたが、1冊も読了していない、本棚から取り出す。

☆ 村上春樹『1Q84 BOOK3』の斉藤環による書評がある。
ぼくは『1Q84 BOOK1,2』を刊行直後に買い、このブログで読書経過実況中継を行った。
このBOOK3は買ってないし、買う気もない。
この斉藤環書評を読んでも気は変らなかった、ぼくが予想していないものはなにもない。

☆ 斉藤環は書いている;
《この「妊娠」を小説的必然として受け入れるか、オカルト的つじつま合わせとして一蹴するか。私はあえて、前者に賭けることにした》
しかし、なぜ斉藤氏は“前者に賭ける”のだろうか?
ぼくは、賭けない、“一蹴する”、すなわち、蹴っ飛ばす。

☆ なぜなら、この人生、すべて<賭け>だからである。
現在のぼくは、春樹に賭けるなら、“他の人”に賭ける。
たとえば、この『1Q84 BOOK3』書評の隣に、奥泉光による渡辺活『日本政治思想史17~19世紀』という本の書評がある。
ぼくは“日本政治思想史17~19世紀”について、ほとんど何も知らない。
“だから”読んでみたいと思う。

☆ あるいは、この読書ページの筒井康隆“漂流”という連載コラムに今日取り上げられている本は、ル・クレジオ『調書』である。
ぼくは、ル・クレジオに賭ける。

☆ その下の小さなコラム“扉”にはこうある;
都内の大手書店では『1Q84 BOOK3』が1時間に100冊ペースで売れた。
しかし書店担当者は言う;「昨年から文芸書は本当に売れていない。『1Q84』の勢いがほかの本にも広がるといいのですが……」
このコラムの書き手は言う;「折しも20日には本屋大賞が発表され……、いずれも読んで損のない小説ばかり。ぜひもう1冊いかがでしょうか」

☆ しかし、本は、数多く読めばよいのではないのだ。
ぼくが“数多く”読んでいるなら、それは、“選択眼”が不充分だからだ。
ぼくは“選べない”から、数多くの本に手を出す。
しかし、結局、自分に必用な本に出会うのも、<偶然>なのだ。
まったく出会えないのも、偶然なのだ。

☆ 本との出会いと、人との出会いは、同じことである。

☆ 《私、イバラの道が好きなのかもしれません。つらいほうと楽なほうがあったら、つらいほうを選びたいと思う。ぼこぼこ壁にぶつかったほうが、人生、面白いと思うんですよね》
これは、“著者に会いたい”の木村多江さんの発言。
  この発言は良い。
  こういう自分の人生のキャリアから発せられた“女の発言”を、“いまどきの人々”(つまり“ぼく”ではない人々)は、“読み易い”のであろう。
  しかしそうなら、『1Q84 BOOK3』ではなく、『日本政治思想史17~19世紀』を選ぶべきではないか?
  あるいは、ル・クレジオ『調書』を。

☆ 自分が、知っていること、のみを、読んでいても、出会えない。

☆ 《本は買えば買うほど得をする。このスタンスは、10代のころから変わりません》(プロ棋士・羽生善治)
《今話題になっている米軍普天間飛行場の移設問題に対する沖縄の人々の気持を理解するためにも『対馬丸』を読むことを勧めます》(佐藤優・元外務省主任分析官)
《ぼくも、自己否定に自己否定を重ねて最後にただの人間-自覚した人間になって、その後あらためてやはり一物理学徒として生きてゆきたいと思う》(『磁力と重力の発見』を書いた“予備校教師”山本義隆元東大全共闘代表)

☆ 本は……
《買えば買うほど得をする》だろうか?
《いずれも読んで損のない小説ばかり》だろうか?

☆ しかし、
なぜ“損をしては”いけないのだろうか?
なぜ“得をしなければ”いけないのだろうか?

☆ そんなにもひとは、なにが得で、なにが損であるかを、わかっているのであろうか?

☆ <あなた>が、以上のブログを読んだのも、偶然であった。