Don't Let Me Down

日々の雑感、引用。
言葉とイメージと音から喚起されるもの。

ゴダール語録-B;映画と人生

2011-06-30 09:03:35 | 日記


★ godard_bot Jean-Luc Godard
ありきたりの言い方だが、《映画とは人生だ》と言うこともできる。でも一緒に暮らしている女たちは、この点でぼくを非難している。彼女たちはこう言うんだ。《あなたは人生を生きていない。映画なんかやめてしまいなさいよ》と。―ゴダール
8時間前

★ godard_bot Jean-Luc Godard
だから私がこの映画でしようとしたのは、映画のなかで《アルジェリア》という言葉を発するということ、しかもそれを、自分が今いる場所で、自分自身のやり方で発するということです。―ゴダール
12時間前

★ godard_bot Jean-Luc Godard
そして映画は、同時に人生でもあるんだ。だからわれわれが人生を映画に撮ると、人々はわれわれに、これはもはや映画ではない、金を払ってまでしてつづけて二度も人生を見たくないはないなどと言ってくるわけだ。―ゴダール
14時間前

★ godard_bot Jean-Luc Godard
ぼくは最近、自分の映像史についてこう考えるようになった。それは、ひとは決してまず最初に映像を見ようとはしないということ、ひとがまずはじめに見るのは二番目に来るもの、テキストの方だということだ。―ゴダール
16時間前

★ godard_bot Jean-Luc Godard
ぼくが思うのに、バルトはモードに本当に興味をもっているわけじゃない。モードそれ自体を好きなわけじゃなく、すでに死んだ言語としての、したがって解読可能な言語としてのモードが好きなだけなんだ。―ゴダール
20時間前

★ godard_bot Jean-Luc Godard
われわれは世界を、現実を、われわれ自身を分析するという刑を宣告されているわけだが、でも画家や音楽家はこうした刑を宣告されていない。―ゴダール
6月28日

★ godard_bot Jean-Luc Godard
私の敵は、映像を役立てようとしない人たちです。あるいはまた、映像を、提示するためよりはむしろ隠すために役立てようとする人たちです。―ゴダール
6月20日

★ godard_bot Jean-Luc Godard
映画をつくるというのは難しいことじゃありません。だいいち、金がかかりません。いや、金のかかる映画は金がかかり、金のかからない映画は金がかかりません。―ゴダール
6月20日

★ godard_bot Jean-Luc Godard
私が映画を好都合だと思うのは、こう言ってよければ、自分のそうした恥部を平気でさらけ出すことができるからです。しかも、それを見事にやってのけることができるからです。だから映画はおもしろいのです。―ゴダール
6月19日

★ godard_bot Jean-Luc Godard
労働者がフォードの車体のボルトを締めようとするときであれ、自分が愛している女の肩を愛撫しようとするときであれ、あるいはまた、小切手を手にとろうとするときであれ、それらのアイディアはどれもみな、運動に属しているのです。―ゴダール
6月19日

★ godard_bot Jean-Luc Godard
事実、人々がそうしたものを必要とするときもあります。私もまた、すべての人と同様、アラン・レネの映画ではなく、アラン・ドロンの映画を見にゆくことを必要としています。そしてそこには、真実のなにかがあります。―ゴダール
6月19日

★ godard_bot Jean-Luc Godard
私はいつも、人々がそれぞれドキュメンタリーとフィクションと呼んでいるものを、同じひとつの運動の二つの側面と考えようとしてきました。それにまた、真の運動というのは、この二つのものが結びつけられることによってつくり出されると考えてきました。―ゴダール
6月19日

★ godard_bot Jean-Luc Godard
ヒッチコックは女優を、植物を撮影するように撮影した。もっとも、薔薇とチューリップの間に探偵もののシナリオを配置してはいた。―ゴダール
6月19日

★ godard_bot Jean-Luc Godard
ヴァディムが美人をつかって映画を撮るときは、観客はしばしば欲求不満になる。というのも、ヴァディムがその女と寝ていることがわかるからだ。でもヒッチコックに関しては、彼はグレース・ケリーをものにしたりはしていないと確信することができるわけだ。―ゴダール
6月18日

★ godard_bot Jean-Luc Godard
エイゼンシュテインは、編集というものを発見したつもりでいたのですが、実際はアングルというものを発見したのです…カメラをどこに置くべきかを知ったのです。―ゴダール
6月18日

★ godard_bot Jean-Luc Godard
今つくられるべき真におもしろい映画は、『極北の怪異』と『恋人のいる時間』をまぜあわせたような映画でしょう。つまり、ある恋する女の仕種とあるエスキモーの仕種はどの点で互いに似ているのかということを示そうとするような映画でしょう。―ゴダール
6月18日

★ godard_bot Jean-Luc Godard
ヌーヴェル・ヴァーグがある時期のフランス映画を突き破ることができたのは、ただ単に、われわれ三、四人の者が互いに映画について語りあっていたからです。―ゴダール
6月17日

★ godard_bot Jean-Luc Godard
そして、映画づくりの外でではなく、映画をつくりながら考えようとしました。なぜなら、そうしようとはしないで紙に書いたりすると、それはむしろ小説になってしまうからです。そしてその小説が、あとで映画としてコピーされるわけです。―ゴダール
6月17日

★ godard_bot Jean-Luc Godard
スターというのがしばしばきわめて興味深いものであるのは、スターが、癌と同様、一種の奇形だからです。スターが誕生するということは、ある人間のきわめて単純な人格が急に増殖しはじめ、ばかでかいものになるということなのです。―ゴダール
6月17日

★ godard_bot Jean-Luc Godard
それに私は、自分の生まれを通して知っていることだけをとりあげようと心がけました。つまり、良家の息子や娘たちに、バカンスの期間中にマルクス・レーニン主義ごっこをさせようとしたわけです。―ゴダール
6月17日

★ godard_bot Jean-Luc Godard
私は映画をつくっていたときは、はじめのうちは、だれかがこの映画を見るということは考えていませんでした。それに私が思うに、映画をつくっている人たちの四分の三も、このことを考えていないはずです。―ゴダール
6月16日

★ godard_bot Jean-Luc Godard
私が思うに、映画は以前は、今よりもいくらか現実主義的なやり方でつくられていました。人物たちはコーヒーを飲んだりしながら、平気で、いきなり《神は存在する》などといったことを口ばしったものです。―ゴダール
6月16日

★ godard_bot Jean-Luc Godard
私はむしろ、ゆで卵をつくることも含め、すべてが政治だと考えています。なぜなら、ゆで卵をつくるためには、ある一定の金を用意しなければならないし、ある一定のやり方を学ばなければならないからです。―ゴダール
6月16日

★ godard_bot Jean-Luc Godard
ところが映画批評というのは、言葉について語る言葉なのです。しかも厄介なことに、その言葉は映像について語ろうとします。映像は言葉で語られるようにはできていないのです。―ゴダール
6月16日








Good-by みたくない顔

2011-06-29 15:28:30 | 日記


感情的発言で恐縮だが、“みたくない顔”が消えるらしい;

<保安院の西山審議官、事実上の更迭 女性問題で>アサヒコム2011年6月29日12時15分

経済産業省原子力安全・保安院は29日、東京電力福島第一原発事故で記者会見の報道対応を務める西山英彦審議官(54)を、森山善範・原子力災害対策監(54)に交代させた。事実上の更迭だ。西山審議官は週刊誌で女性問題が報道され、海江田万里経産相から23日に厳重注意を受けていた。当初は続投する予定だったが、森山対策監は「報道の件で問い合わせがあり、対応に支障を生ずる」と交代理由を話した。
 西山審議官は3月13日の記者会見以来、連日記者会見を担当していた保安院の「顔」だった。役職は審議官のままだが、保安院担当を外れたという。事故以来、保安院のスポークスマンはこれで5人目になる。
(引用)


ぼくは(最近はやめたが)福島原発事故以後2ヶ月以上、“TBSニュースバード”チャンネルで、この保安院、東京電力、政府(枝野)の記者会見(何時間にも及ぶこともある)を見れる限り見続けていた。

だから《3月13日の記者会見以来、連日記者会見を担当していた保安院の「顔」》にウンザリする権利があると思う

もちろん、西山氏よりは後からだが、東京電力記者会見の《顔》、松本ナンタラも同じである。

お二人とも、“お仕事”で、デタラメばかりを発言している、かわいそうなひとなのかもしれないが、やっぱ、こういう“仕事人間の顔”は、見ていて心が寒くなる。

“日本人の顔”がイヤになる。


もうひとり、見たくない顔がある(笑);

<細野氏の「避難区域縮小」発言、福島副知事「違和感」>アサヒコム2011年6月29日11時40分

 東京電力福島第一原発事故で、細野豪志原発担当相が、放射線量の着実な減少などの目標期限にあたる7月17日をメドに避難区域の縮小を検討すると発言したことについて、福島県の松本友作副知事は29日、「違和感がある」と述べた。県災害対策本部の定例会議で指摘した。
 松本氏は「県民が望んでいるのは事故の収束がどこまで進んでいるかだ。見通しが立たない中、避難区域の見直しというのはどうかと思う」と批判。佐藤雄平知事も「現地の状況を政府は分かってもらわないと困る」と述べ、副知事に同調した。
(引用)



ぼくはけっして、けっして、西山英彦審議官、松本純一東電原子力・立地本部長代理、細野豪志原発担当相や枝野とかいうひとの《顔》をぼくのブログに貼り付けたいとは思わない。






無知と貧困

2011-06-29 08:31:23 | 日記


今朝の天声人語は言う;

《▼この国を舞台に映画を撮ったイラン人監督のマフマルバフ氏が言っていた。「米軍が爆弾でなく、本を落としていたら」。識字率は男性で50%、女性は18%しかない。無知と貧困こそ、暴力とテロの温床になる》


ぼくたちは(優しい日本人は)、こういう言葉を、永遠に聞き、そうすることによって、《無知と貧困》、《暴力とテロ》を永久に放置・許容する。

すなち、この、識字率が高い日本国において、《無知と貧困》は、増大している。

毎日、天声人語を読んでも《暴力とテロ》は減少しない。

たとえば“太平洋戦争”(アメリカと日本の戦争である;念のため)において、アメリカ(合衆国、我執国?)は、爆弾の雨を降らせた(原爆は黒い雨を降らせた)だけではなかった。

チョコレートやガムや野球などなどという雨も降らせたのである。

まさに“英語”という言葉の雨を降らせた(つまり“英語の本”が降ってきた)

アメリカンな“カルチャー”と“ライフスタイル”であった。

それは、生活と文化の洗脳である、これを“啓蒙”とか“生活のクオリティの向上”とも呼ぶ。

ぼくも少年時より、このカルチャーにどっぷり侵食され、デズニー映画を見、プロ野球を観戦し、ジーンズ狂となり、ロックンロールにしびれた。

なによりも“テレビ”であった。
テレビが始まったとき、ぼくより熱心にテレビを“観賞して”いたひとは、いるのだろうか?

その“愛”によるのではなかったが、ぼくの職業の多くの部分も、テレビに関与していた。

結局、ぼく(ぼくら)は、テレビが売るものを買ってきたのだ。

それは、電気洗濯機!電気釜!エアコン!のみではなく、カルチャーという“テイスト(味覚)”であった。

“違いがわかる”基準は、このテイストであった。

そのカルチャーの“極めつけ”は、このパソコンである。

おうち(お家)でも仕事場でも、ぼくはこの画面ばかり見て、ポコポコ不器用に“入力”するだけである。

いったい、この灰色に輝く画面は、解放へつながるフィールドなのか、ただ彷徨うだけの閉塞の荒野なのか。

実感としては、もう答えは出てしまった。

だから、実感を裏切ることが必要である。

実感を裏切る(くつがえす)言葉を、さがす。

たとえば、

★ 大事なのは自分は存在していると感じるということなんだ、われわれは一日のうちの大半はこの真実を忘れてすごしているものだが、それも、家々とか赤信号をながめているときに突然、この真実がうかびあがってくる。―ゴダール







<結論>

天声人語ではなく、ゴダールを読め、ジュネを読め、デュラスを読め、ル・クレジオを読め、中上健次を(笑)読め!


識字率が上る、ことは必要である。

なぜなら、言葉が(本が)“読める”。

だが、なにを、どのように読むのか?

あるいは、読む対象を選ぶとき、すでに、ぼくらは、自分に必要なものがわかっている。

もし、読んで、失望しても、実は、そのことが必要だった。

むしろ、あらかじめ“納得されてしまう”言葉こそ、無用なのだ。

多くの人々が、うなずきあう言葉こそ、言葉の危機だ。

私は、字が読めているのか?

私は、他人のおしゃべりを聞けているのか?

自分にこの疑問を突きつけることが、必要である。

そして、電撃のように言葉に出会う。

それは、私が、これまでに知らなかった言葉である。






ゴダール語録

2011-06-29 07:22:19 | 日記


ゴダールの発言だけを集めたツイッターというものを見つけた。

ピンとくるものと、そうでないものがあるが、なぜか読み続けられる。

ゴダールの伝記よりも、ゴダールの映画よりも面白い(笑)かもしれない。

ゴダールは“ツイッター”なのかもしれない;


★ godard_bot Jean-Luc Godard
映画はどれもみな、どんな人の一日の生活よりも想像力に欠けています。ところが、それを見る人たちは、二ドル払わせられたうえになお、その映画は自分の人生よりもずっと素晴らしいと思いこまされているのです。―ゴダール
6月21日

★ godard_bot Jean-Luc Godard
夢が今でもまだ大きい力をもっているのは、夢はサイレント映画の時代に属するものだからだ。夢はテレビの時代のものじゃないわけだ。―ゴダール
6月21日

★ godard_bot Jean-Luc Godard
苦しみを託されたものとしての映画、―ぼくはこれはすぐれた観念だと思う。そして、自分に大げさに考えるべきじゃないと言い聞かせながら、この観念を自分に適用している。―ゴダール
6月22日

★ godard_bot Jean-Luc Godard
だから、映画を撮るというのはきわめて単調な仕事です。そしてそのために、人々はあれこれと技巧をもちいたり、多くの人を呼び集めたりすることによって、その単調さを完全に隠してしまおうとします。―ゴダール
6月22日

★ godard_bot Jean-Luc Godard
まただからこそ、私は自分に、「物語というのは、ひとが自分自身の外へぬけ出るのを助けるものなのだろうか、それとも、自分自身のなかにもどるのを助けるものなのだろうか?」という疑問をなげかけるわけです。―ゴダール
6月22日

★ godard_bot Jean-Luc Godard
アマチュア映画では、パパが自分の娘を、クリスマスに一度とバカンスのときに一度撮るだけです。そこには二つの映像しかなく、それでは十分じゃありません。だからこの場合は、映像をいくらかふやしてやる必要があります。―ゴダール
6月22日

★ godard_bot Jean-Luc Godard
私がこれまでに何本かの映画をつくり、今もなお映画をつくろうと努めているのは、ただ単に、こわいからです。私は仕事を手に入れることに関しては、だれもあてにしていません。だから私には、明日になって仕事がなくなっていることがこわいのです。―ゴダール
6月22日

★ godard_bot Jean-Luc Godard
ひとははじめのうちは、自分は自分を表現していると思い込み、その表現のなかに、自分のなかから生まれたものではない、ある大きな感化の運動が入りこんでいるということを理解しようとしません。―ゴダール
6月23日

★ godard_bot Jean-Luc Godard
よくおぼえていますが、私は『気狂いピエロ』を撮りはじめる一週間前は、完全なパニック状態におちいっていました。なにをすればいいのかわからなくなったのです。―ゴダール
6月23日

★ godard_bot Jean-Luc Godard
映画史というのは、自らの歴史をもつことができる唯一の歴史だということです。なぜなら、映画史というのは自らの痕跡をもっている唯一の歴史だからです…人々がこしらえたさまざまの映像が残っているからです。―ゴダール
6月23日

★ godard_bot Jean-Luc Godard
テレビというのは不安を扶養するなにかだ。人々に責任があるにしろ、あるいはもはやないにしろ、今では人々の肉体に不安が定着しつつあり、しかもその不安は、ときどきあまりに強力なものになる。―ゴダール
6月23日

★ godard_bot Jean-Luc Godard
ジャーナリストというには人から吹きこまれたことをそのまま記事にするものなんだ。だから、できのいいプレスシートをつくれば、それはかならずあちこちに掲載されると確信できるわけだ。―ゴダール
6月24日

★ godard_bot Jean-Luc Godard
フォードのなかには、映画は映画にほかならない。映画は単純なものだという観念がある。そして彼は、いつも同じ主題をとりあつかっていた。彼がより作家的ないしはよりヨーロッパ的な映画作家だったのはそのためだ。―ゴダール
6月25日

★ godard_bot Jean-Luc Godard
かつて映画と認められていたような映画、映画館で上映されるたぐいの映画は今では姿を消しつつある。そうした映画は今では、テレビとともに別のなにかにかわってしまったんだ。そしてその別のなにかを見つけ出す必要があるわけだ。―ゴダール
6月25日

★godard_bot Jean-Luc Godard
ぼくは一人の女優と一緒に仕事をし、その女優を映画に出演させ、しかもその女優と一緒に暮らしていたということだ。こうした部分については語られていないんだが、でもこうした部分が生きられていたんだ。―ゴダール
6月25日

★ godard_bot Jean-Luc Godard
ぼくと一緒に仕事をした人たちはみな、父親を必要とする人たちだったんだ。同様に、ぼくのなかにはしばらく前から、女優を自分の娘とみなし、家族として、映画における家族として一緒になにかをつくりたいという欲望があった。でもこれもまた誤りだった。―ゴダール
6月25日

★ godard_bot Jean-Luc Godard
コクトーの言葉によれば、映画は《死神が仕事をしているところをとらえる》唯一の芸術だ。撮影されている人はみな、そのとき年をとっている最中であり、いずれは死ぬことになる。だからそのとき、死神が仕事をしている瞬間が撮影されていることになるわけだ。―ゴダール
6月26日

★ godard_bot Jean-Luc Godard
ぼくにとっては映画を撮っているときと撮っていないときという、互いに異なった二つの人生があるわけじゃない。映画を撮るというのは人生の一部をなすことであるべきだし、ごく自然でごくふつうのことであるべきなんだ。―ゴダール
6月27日

★ godard_bot Jean-Luc Godard
大事なのは自分は存在していると感じるということなんだ、われわれは一日のうちの大半はこの真実を忘れてすごしているものだが、それも、家々とか赤信号をながめているときに突然、この真実がうかびあがってくる。―ゴダール
6月27日


★ godard_bot Jean-Luc Godard
夜のパリを車で走っているときに目にするものはなにかと言えば、赤、青、黄色の信号だ。ぼくはこれらの要素を、かならずしも現実にあるものとして配置しようとはせずに提示しようとした。―ゴダール
13時間前






誰が?

2011-06-28 06:35:52 | 日記


引用;

maruyamakenji 丸山健二
 もう一度言う。いや、何回でも言う。これは不特定多数の民衆のための国家などではないのだ、と。特定少数の連中がいい思いを独占したいがための国家なのだ、と。そいつらの傲慢で豪勢な暮らしを支える、それだけのために我々は存在し、かれらの奴隷として一生を終えるのだ、と。国家なんて幻だ。
19時間前



このひとつのツィート、言葉のつらなり、ひとつの認識、メッセージ。

ここに書かれていること(のみ)なら、この“認識”をぼくは共有する。

けれども、そもそも、ここに“書かれていること”は、なにか?

ひとは(読む人は)、この“文”を1分で読み、共感したり、反発したりするのだろうか。

あるいは、“疑問”を提示してもよい;

①《不特定多数の民衆》とは誰か?

②《特定少数の連中》とは誰か?

③もちろん《国家》とは、何か?
 それは、“本来的に”何か?ということだけではなく、“現在”、国家と呼ばれるものは、われわれ(たとえば“日本人”)にとって、どのように“認識”され、いや、そのひとりひとりの生きる場所として、どのように“リアル(現実)”なのか?


国家を否定したり、肯定したり、信仰したり、愛したり、憎んだりする以前に、そもそも、“日本(国)”とか“日本人”とかが、ぜんぜん、リアルとは思えない。

そんなものは、たんなる習慣、習性、“いちども考えたことがない空気”でしかないのではないか?

だから、<敵>がいなくては、敵としての<国家>がなければ、競争相手としての国家がなければ、国家など存在しようもない。

それは、商売の単位にすぎない(だからグローバル化は“国家”の根拠を失わせる→それが“国家イデオロギー”を強化する)

もし、共同性の幻想が欲しいなら、まさに、あらたな関係、あらかじめ定義も意図もできない、この関係、の、偶然性に賭けるほかない。

言葉が信用できず、徹底的に無力であるときに、言葉以外のものがあるなら、それでもいいが、別種の言葉の使用について探究し、それに自分の生を賭ける者が、あらわれても、いい。

国家と呼ぼうが、社会と呼ぼうが、“システム”を変えることが必要なのは、“具体的”要請である。

たぶん、システムが変われば、人間が変わる。

いまより良いシステムの構築により、いまより幸せなひとを増やせる。

“そのために”言葉は必要である。

だが、いつも“システム”は、言葉を無視して(無効化して)、自動運動しているように思える。

言葉は、いつもいつも、“後追い”であり、アリバイづくりにしかならない。

“現実を変える”言葉なんか、存在したためしはない。

現実を変えたのは、“暴力”である。

そういう退屈な事実の認識も必要である。

だから、何度も何度も失敗し、失敗しながら、言葉を使用する。

そういう認識をもたずに、発言する者は、たんなるバカである。

だから、言葉を使用することを職業とする人々には、バカが多いのである。

ぼくは、否定的なメッセージを発信していない。

肯定性を目指さなければ、言葉など使用する必要はない。





ジュネ;変身

2011-06-26 13:35:50 | 日記


★ ジャン・ジュネは、自己を変身させる驚くべき力を持っていた。伝記を書くという作業はしばしば、ある一人の人間が一つの明確な方向へと踏み出す小さな歩みの跡を追うことだと思われている。だが、ジュネがその人生の最初から最後までを通して行った尋常でない跳躍を論理的に摑まえることなど、誰にも出来ない。

★ だが再び、今度は政治的な行動主義者の姿で、この不死鳥は甦る。下層階級から出てきた作家は大抵の場合、自分をそこからすぐに切り離そうとするものだが、ジュネは世界の悲惨な人びとの使途となった。1970年代から1986年の死まで、彼は囚人や移民労働者の権利を護ろうとした。そしてとりわけ祖国を失った人々、すなわちブラック・パンサーとパレスチナの人たちの大義に係わっていく。時折発表するエッセイとインタヴューを除けば、彼は堅く沈黙を守り通したが、それは死の一ヵ月後に刊行された、それまでにもまして驚くべき「想い出」の分厚い一冊の著作を作り上げた。しかもこの『恋する虜』は、それまでのもの全てを超えた最後の作品となっている。

★ 彼は新しく、誠実で静謐な調子(トーン)を用いているのだ。彼はまたそこで、自分の周囲の世界に対する新たな関心――歴史、建築、政治、さらには小説の中では避けてきた女性に対するものまで――も示している。

★ 彼は放浪者であり、荷物は小さなスーツケース一つに納まってしまうほどのものしか持っていなかった。たいていは鉄道の駅の近くのホテルを宿とした――これは、すぐに逃げられる場所を確保しておこうとする、泥棒としての長年の習い性だった。

★ 無神論者サルトルは、大いなる皮肉を込めて彼のことを「聖ジュネ」と呼んだのかもしれないが、ジュネ自身は一種の現世での至福というものに憧れを抱いていた。彼は自分の人生を立派なものにするために、物質主義、世間的な出世の仕組み、友人関係を支えるための義務、さらに芸術的な達成にまつわる虚栄心までも否定した。このように性的、社会的に偏向した者が(略)人々に一つの規範を与えることが出来ると思う人はまずいないだろうが、この伝記はどのようにしてこうした変身が形作られたのかを示すものである。ジュネの一生のように驚くべき、そして多様な人生は、柔軟に記述する必要がある。本書の目指すところは、ジュネの人生が描きだしている複雑な文様の痕跡を追うことであり、それを単純な一つの枠にはめることではない。

★ ディジョン南西のアリニィ=アン=モルヴァンでの少年時代、ジュネは家の外の便所で長い時間を過ごすのが好きだった。便所は二つあって、一つはスレート葺きの屋根の大きな石造りの家の近くに、もう一つは野菜畑を横切って二十歩ほど行った小学校の壁の脇にあった。彼が何時間も夢想に耽ったり本を読んだりしたのは、二つのうちの遠くて不便な方の便所だった。

★ フランス語で「ジュネ」というのはエニシダを指す語で、その黄色い花はフランスの田園地帯を広く彩っている。母親が自分を捨てた野原の花に因んで自分は名付けられたのだ、と彼はコクトーと俳優ジャン・マレーに語っている。

<エドマンド・ホワイト『ジュネ伝』(河出書房新社2003)>





★ 徒刑囚の服は薔薇色と白の縞になっている。

★ わたしはそうした婚姻を高らかに歌いたいと思い、そのために、すでに徒刑囚の服が暗示している、自然界の最も甘美な感受性の形式――花――がわたしに差出すものを用いるのだ。徒刑囚の服の布地は色彩以外の点でも、そのざらざらした感触によって、花弁にうっすらと毛の生えたある種の花々を連想させる。この些細なことは、それだけでも、力と汚辱という観念に優雅と繊弱という性質をごく自然に結びつけて考えさせるのに十分なのである。

<ジャン・ジュネ『泥棒日記』(新潮文庫1968)>






葬儀

2011-06-26 09:29:50 | 日記


“刑事コロンボ”さんが亡くなったそうだ。

ぼくは‘ひねくれる’わけではないが(ほんとに!)、“コロンボさん”とか“寅さん”が好きじゃない。
見たことは(もちろん)あるが、見続ける気にはならなかった。

でも、ピーター・フォークは、「ベルリン天使の詩」によって記憶される。


それで葬儀の話である。

あるひとの葬儀の話から、ある本ははじまっている;

★ その日、モンパルナスでは優しさと不安の取り留めのないざわめきの中ですべてが滞っていた。四月の空、肌寒い日の光。(略)葬儀は祝祭の雰囲気の中で始まった。そして今、歩道の上でいきなり終了したデモのように終わって行くのだった。


1980年のことである。


ある《高名な人物》が死んだ。

彼が高名だったのは、彼の言葉が《いつまでも離れ離れにならない蜜蜂の群れのように、地球上のあらゆる場所をくるくると旋回した》からであった。

もちろん、この《地球上のあらゆる場所》には、“日本”も含まれていた。

しかしこの《高名な人物》は、この分厚い本=『サルトルの世紀』(藤原書店2005)を書いたベルナール=アンリ・レヴィというひとにとっても、
《好きだったとは必ずしも言えないあの男、とは言え好きでなかったとも言えないあの男》
なのであった。

なにしろレヴィは、ずっとサルトルの『存在と無』を読まなかったのである。

しかしまさに、サルトルは、《種なき個体、もしかしたらその種の最後の個体であって、その種は彼の死と共に絶滅したのかも知れない》。

この《種》を、“知識人”と呼んでしまうことは、退屈である。

しかし、サイードは(サイードも)『知識人とは何か』において、サルトルを参照したのではないか。


ぼくたちの“常識”では、この世界には、“ある事実”や“ある作品”があり、“ある創造的(生産的)人間”がいて、批評家や思想家はそれを解説したり説明することによって、自らの思想を表明すると考えている。

しかしある人物がいて、かれが“それ”について発言するなら(発言することによって)、<世界>が存在するようになり、<世界>への関心が喚起され、<世界>が面白く感じられる“ようになる”言説というものがある。

そのような言説を発信する人物を、知識人と言う。

だから、サルトルは、“最後のひと”だったのだろうか?

いや“サルトルの後に”、フーコーがいる、デリダがいる、あるいはサルトルより年長のラカンが“いる”のだろうか。

べつに、“フランス系”や“哲学”の話をしていない。

この世界に発信するひと、の話をしている。

そして、まさに、このことは、この本でベルナール=アンリ・レヴィが言っているように、それは、個人の問題ではなく“世紀の”(時代の)問題だったのだろうか。

たしかに“このひと(サルトル)”は、発言するひとであり、読みまくり、書きまくるひとであった(あるいは、かれの”豊富な(貪婪な!)“女性関係に興味を持つか?)

しかし、それらの“総体”としての、かれの“生き方”(実存)があった。

しかも、その軌跡は、まったく“立派な”ものでも“輝かしい”ものでもない。
晩年のサルトルには、“惨めな老残”のイメージがつきまとう。

彼の“過激さ”は、ことごとく“空回り”したのではないか。

すくなくとも彼は、子供たちに規範として示せる人物とは、評価されない。
しかし、ここにこそ、“サルトル”という人間の唯一の生(生存)はあった。

ぼくは“ジャン・ジュネ”という人物を発見しつつある今、サルトルを思い出した。

たしかに大江家健三郎を経由してぼくはサルトルを知り、サルトルの“想像力”を卒論のテーマに選んだにもかかわらず、サルトルを充分に読めなかった。

たぶんこのことが、ぼくの哲学コンプレックスとなった。

結局、ぼくはサルトルもフーコーもデリダも読めない。
永遠にその周辺をさまようばかりだ。

けれども、この<違和>こそを大切にしたい。

ぼくは、そこで、かろうじて世界への感触を得る。

日本回帰は、ありえない。

もしこれが軽薄なら、それでいい。
“重厚な(重い)”日本回帰はありえない。

まさにこの自閉世界から少しでも離脱できるなら、<軽薄>であることが、世界を知ることであると思う。






ツイッター的世界から1950年代へ

2011-06-25 07:36:16 | 日記


ぼくのこのブログには、“難解(むずかしい)”という感想があるらしいが、今回ここに書こうとしているのは、とくに“難解”になりそう(笑)

まず最初にふたつのツィートを読んでいただく;

☆ takagengen 高橋源一郎
宮崎駿の「菅直人支持」メッセージに引き続き、「原発と愛と菅直人」に関するもう一つの黙示的文章。書いたのは矢作俊彦。 http://t.co/mgM0xPq
18時間前

☆ orverstrand やの字枕流
1)博多へゴダールを見に行った。打ち上げ花火のように散っていく20代のジャン=ポールと30代のジャン=ポールを見送り、思い出した。20代の私も30代の私も結局は散ることなく、こうして『少しずつ』死んでいる。放射能よりよほど、退屈に怯えながら。しかし、その夜は少々違った。
22時間前

(以上引用)



まず、“高橋源一郎”と“矢作俊彦”というひとに、これまでなんらかの“関心”がないひとには、上記の“発言”は、おもしろくない(ついでに“宮崎駿”というひとにも)


“ぼくはドーか”と言えば、現在のぼくは、高橋源一郎が嫌いで、矢作俊彦がわりと好きで、宮崎駿もむかしはわりと好きだった。

そういう人たちが、“管直人を支持している”ということには、“ちょっと”関心を持った。

どうやら“orverstrand やの字枕流”というひとが、“矢作俊彦”らしい。

それで上記引用につづく“連続ツィート“を読んだんだが、矢作が”管直人を支持している“とは単純に言えないが、やっぱ、支持していることにはなるだろう(笑)

宮崎駿の発言は知らない(見つけていない→知ってる人は教えてほしい)

ところで、ぼくは、“管直人を支持するか?”と聞かれたら(だれも聞かないが)、支持しない。
けれども、菅直人以外の政治家も、だれひとり支持しない。
つまり、こんどの震災-原発事故であきらかになったことは、現在の日本で“支持できる”ひとは、ほとんど皆無だということである。

もちろんこのことは、“こんどの震災-原発事故”以前から予感されていたことである。
“それ”が明瞭になった。

このことは、ぼくにとっても、“危機”である。

つまり具体的には、“だれの文章も(発言も)アホらしくて読めない”状態におちいる。


ここに書こうという気になったのは、“やの字枕流”というひとのツイートにある、“ゴダール”のことである。

なぜなら、“本が読めない”ぼくが、ここ数日、“ゴダールの伝記”を読もうとしていた。

そして、その本も、放棄したばかりだった。

上記引用に書かれている;
《打ち上げ花火のように散っていく20代のジャン=ポールと30代のジャン=ポールを見送り》
というのは、ゴダールの「勝手にしやがれ」と「気狂いピエロ」のことである。

そもそも“やの字枕流”というひとは、ジャン=ポール・ベルモントや“エースの錠”が好きらしい。
ぼくは、そうではない。

“そもそも”、ゴダールが好きかどうかも、不確かになってきた。
まちがいなく言えるのは、「女と男のいる舗道」は好きだということ。

しかし「勝手にしやがれ」と「気狂いピエロ」が“好きでない”のか、“好きでなくなった”のかは、考えるにあたいすることである。

ああ、しかし、“こんなこと”をいくら書いたって、ゴダールを見たことがない人々には、まったくどーでもいいことである。

つまり、“そのこと”が、問題である。

ぼくが読んでいたマッケイブというひとが書いた『ゴダール伝』(みすず書房)でも、印象に残るのは、アンナ・カリーナとかアンヌ・ヴィアゼムスキーとかとの(ゴダールの)“女との関係”である。

“それでいいじゃないか”とも言える(笑)

いや、“それでいい”のだが、この伝記でも、その関係は、芸能ゴシップとさほど変わらない。
たぶん、それが、まずい。

たしかに、“ヌーベル・ヴァーグ”とか、“五月革命”とかが、“もはや”しんどい。

なにしろ、“ぼくら”は、<世界のフクシマ>にいるのである。

結局、ゴダールの“ようなひと”が、やったことも、“児戯にひとしい”のだろうか?

まだ<?>はつくのである。

たしかに、“作家”とか“映画監督”とかは、不思議な人々である。

その“作品”が、(その一部であろうと)、“信じられない”表出を持ったひとが、くだらないことを言ったり、くだらない振舞いを重ねる。

そのとき、(これも最近読んだ)ジャン・ジュネの、
《どんな人も他の一人と等価であるという啓示》
という言葉が、電撃のように襲う。

この<言葉>自体が、難解であり、“謎”である。

(まさにこういう<言葉>こそが、考えるに“あたいする”)

ジュネもゴダールも、“1950年代”に活動を(その生産を)開始した。

どうもぼくには、“その時代”が、魅惑的である。
サルトルがいた。
“構造主義”と“ポスト構造主義(ポストモダン)”によって<乗り越えられた>サルトルが(もちろん、サルトルのかたわらには、メルロ=ポンティがいた)
マルグリット・デュラス、ミッシェル・ビュトールもいた。
そしてジャン・ジュネがいた。

そして1960年代、ぼくは大江健三郎を読み、“ロックンロール”を聴いた。


『ゴダール伝』に面白いエピソードがあった。
ゴダールが、ジョン・レノンを主役にトロツキーの映画を撮ろうとしたとき、レノンは“ゴダールを信用せず”断ったというのだ。
ローリング・ストーンズがゴダールのオファーを受け、くだらない映画に“出た”ことは、歴史的事実である。

ここにおいても、ジョン・レノンの感性は、まちがわなかった。




このブログのタイトルは、

”ピエロから丘の上のバカへ”

としてもよかった。







丘の上のバカ

2011-06-23 14:35:13 | 日記


もう忘れたが、村上春樹『ノルウェイの森』が、“ノルウェイの森”と題されたのは、ビートルズの“ノルウェイの森”に喚起されたからであった(飛行機か何かで?)

『ノルウェイの森』は1987年頃に書かれたらしい。
1987年の春樹は、1960年代後半の自分の“青春”を回想したらしい。

すでにその時間的へだたりは、“20年”くらいあったことになる。
たしかに自分の青春を回顧するのに、“20年”は充分な時間であった。

ぼくは“昨日”、ビートルズの“丘の上のバカ”が、新宿のパッとしないがコーヒーの味がちゃんとした喫茶店でかかるのを聴いた。

この曲とぼくとの“へだたり”は、40年を超えた。

この時、ぼくは自分の人生の何を、回顧すればよいのだろうか。

音楽の話を(はなしだけを)するにしても、ぼくが聴いてきた無数の曲とは、いったい“なに”だったか?

たとえば、“この曲”とか、“ビートルズの曲(ある曲)”とかが、客観的に特権的(特別)であろうか?

それとも“それ”は、ぼくの個人的な体験-記憶に、きわめて緊密に“結びついて”いるのか?

“それ”は、“この曲”でなければならなかったのか。
“それ”は、なぜぼくにとって、“祭囃子や盆踊り”の笛や太鼓では“なかった”のか。

もっと露骨に言えば、“兎追いし、かの山”とか、“苔のむすまで”ではなかったのか。

むしろ、“いま・ここ”において、ぼくは<丘の上のバカ>とか<ストロベリー・フィールズ、永遠に>を、“選ぶ”のである。



“この人”をぼくが勝手に、“丘の上のバカ”と呼んだら、この故人に(個人に)失礼にあたるのだろうか?

ジャン・ジュネがレンブラントについて書いた;

★ 重大なことが生じた。絵画が対象を認めたと同時に、眼は絵画を、それとして認めたのだ。

★ レンブラントはもはや、絵画を、それが表わすべき対象や顔と混同することで変質させはしない。絵画というものを他のものとは区別された物質として、そのあるがままの姿を恥じぬものとして、彼は私たちに示す。

★ 耕され、湯気を立てている、早朝の畑の率直さ。見る者が何を得ることになるか、それはまだ私にはわからない。しかし、画家の方では彼の職業の率直さを得た。色彩に夢中のへぼ絵描きの狂気のなかに彼はおのれを示す。偽装者の、わざとらしい尊大さと偽善を喪失して。最晩年の絵にはそれが感じられよう。

★ だがそのためには、レンブラントはおのれを認め、おのれを受け入れなくてはならなかった、肉体で、――肉体ではとは、どういう意味だろう?――つまり肉で、安物肉で出来た存在、血、涙、汗、糞で、知性と優しさで、さらに他の、無限に多くのもので出来た存在として。だが、これらのもののどれ一つ、他のものを否定することはない。それともこう言った方がいいだろうか、どれもが他のものに挨拶を送っていると。

★ そして言うまでもなく、レンブラントの全作品に意味が――少なくともわたしにとって――あるとすれば、それはいましがた自分で書いたことが偽りであると、私が知っている限りのことだ。

<ジャン・ジュネ“小さな真四角に引き裂かれ便器に投げこまれた一幅のレンブラントから残ったもの”―『アルベルト・ジャコメッティのアトリエ』(現代企画室1999)>








*画像は、昨日“丘の上のバカ”を聴いた喫茶店ではありません。
この喫茶店も、ぼくにとっては、記憶の時間にはいった(でもこの喫茶店は現在も経堂に存在すると思う)







人生のアマチュア;幸福について

2011-06-21 12:43:17 | 日記


★ これは多くの人が誤解をしていることだと思うので、あえて書いておきたいのだが、若者にむかって若者であることの気持を尋ねたり、老人に老人の道を問うたりすることは、はたして妥当なことなのだろうか。というのも多くの若者はいまだに若者であること以外の状態を知らないわけだし、老人は生まれてはじめて老人になったばかりであって、とりたててその道に熟練しているとはかぎらないからである。

★ 誰もが(よほどの不運に見舞われないかぎり)若者から中年へ、そして老人へと年齢の階段を自然に登ってゆく。とはいえ、最初から自分が次に向かうであろう状態を知悉している者はおらず、新しい階段を登ってみて初めて眼の前に展がる光景に感嘆したり失望したりするばかりなのだ。もっと率直にいうならば、この世のなかにはプロの若者もいなければ、プロの老人もいない。誰もが到達したばかりのその場所において初心者であり、いうなればアマチュアなのではないか。

★ 人生における若さを考えるようになったとき、誰もがもはや自分が若くないという認識に捕らわれているのであって、結局のところ人は失ったもののことしか、思考の対象として内面化できないのだ。同じことが幸福と不幸についてもいえる。幸福のさなかにある者は、自分が幸福であるなどとはいささかも考えないものだ。幸福を思い願うのは、かならず不幸の淵に立たされてしまったときなのである。

  二十歳がもっとも美しい季節だなんて、わたしは誰にもいわせないぞ。(ニザン『アデン・アラビア』冒頭)

<四方田犬彦『人、中年に到る』(白水社2010)>







考えることの歴史

2011-06-21 11:51:11 | 日記


ぼくたちは、目先の問題に追われている。

それで、手いっぱい、である。

目先の問題も、そのひとによって、ちがう。

たぶん、おカネの問題や健康の(病気の―肉体の、心の)問題がある。

自分の問題があり、自分の子供とか、自分の家族の問題があり、ときには自分の友人や同僚の問題もあるだろう。

あるいは、今の、原発をどうするか?とか、日本を復興させるには?とか、日本の政治や官僚~公務員体制や会社や大学やメディアは機能しているのか?(それともそれは、完全に機能不全におちいったか?)という問いもあるだろう。

“デモ”とか、“国民投票”とか、“革命”と言うひともいるだろう。

ぼくには、なにが正しいのか、わからない。
“正しい”ということには、論理的(ロジカルな)側面と、倫理的(モラリスティックな)側面があるらしい。
こういう自分の状態は、“はなはだ遺憾である”。

しかし、ぼくはいったいだれに、“はなはだ遺憾である”と謝罪して、済ませることができるのか。

いったいある行為や、発言を、事後に、“はなはだ遺憾である”と謝罪して済ませることが“できる”社会とか人間関係とかは、いかなることなのであろうか。

ぼくたちは、どんな行為もどんな発言も、謝罪されれば、“許す”ほど、寛容であるのだろうか。

自分を捨てて他者のために生きるというような生き方は、そんなに推奨される生き方であろうか?

なぜ、“被災地の人々のために”、ぼくたちは、突然、生きるのだろうか。
それなら、“被災地の人々”の外に、“ぼく”はいるのである。

あまりにも長く、自分の“エゴ”だけで生きてきたひとびとが、突然、エゴを放棄する生き方を推奨し始めている。

けっきょく、これらは、宗教とかファシズム(全体主義)へ向かうだろう。

それが、“ソフト”であるか、“ハード”であるかは、“わからない”が。

だからといって、このぼくは、それらを“予言”したり、ましてや、“断罪”するわけにもいかない。

なにしろ、ぼくは、“感じている”が、理性的に“判断”しているのでは、まったくない。

ぼくとしては、この自分の限界のなかで、まさに、その限界の範囲“から”、考えるほかない。

ひとつには、“考えることの歴史”にアプローチするという、まったく“遠回りな”道があるように思える。

ぼくがここで“考える”<考えることの歴史>とは、“哲学史”でも“社会思想史”でも、“文学史”でも“自然科学史”でもないということだ。

それらの、“すべて”である。

そういうことを実現した“1冊の本”があるわけではない。
しかし、ぼくにそういうイメージを与えた本はある。

* スチュアート・ヒューズ『意識と社会 ヨーロッパ社会思想史1890-1930』
* 同    『ふさがれた道 失意の時代のフランス社会思想史1930-1960』
* 同    『大変貌 社会思想の大移動 1930-1965』
(以上みすず書房)
* 加藤周一『日本文学史序説 上、下』(ちくま学芸文庫)
* 木田元『反哲学入門』(新潮文庫)と『反哲学史』(講談社学術文庫)


上記の本は、それぞれ“社会思想史”、“文学史”、“(反)哲学史”と命名されているが、その“範囲”は、そういうジャンル分けより“広い”。

ただし、木田元の“(反)哲学史”は、彼がハイデガーやメルロ=ポンティの専門家であるにもかかわらず、“現代”についての記述が弱いと感じた。
それは、木田氏の『現代の哲学』を読めばいい、ということではない。
それは木田氏の“せい”でなく、“現代(反)哲学”とわれわれの<距離>の問題だ。
(木田元のいちばん良い本は、『メルロ=ポンティの思想』=岩波書店だと思える)

加藤周一の『日本文学序説』が、“弱い”のは、(当然)、“戦後文学”である。

ぼくにとって、いちばん“包括的かつ具体的”であったのは、ヒューズ3部作である(しかしぼくはこの3冊を全部通読してはいない)
しかし、この本も、(当然)時代(時期)が限られている(そのあつかった“時期”が人類史上最重要の転換期であったにしても)


以上、これらの“思想史”の欠点をまず述べたが、これらの本は、とても重要な“ベーシックな”本であると考える。

ぼくのように“無駄な”概説書や入門書に足を取られるなら、まず上記の本を手に取ることを薦めたい。

前にも引用したが、ヒューズ『意識と社会』の第1章“いくつかの予備的考察”から引用したい;

★ この研究は、思想史(知性の歴史)についてのひとつの試論である。けれども、思想史を書くといったところで、この思想史という用語の意味を明確にしないかぎり、実際にはなにもいっていないにひとしい。思想史が人間の思想および感情――理性的な議論および激情(パッション)の爆発――をともに取扱うものであることは、あらためていうまでもない。書くこと、話すこと、現実の行為、伝統、などにあらわれる人間の表現の全範囲が、思想史の領域内にある。まったくのところ、野獣の叫び声より判然たる人間の言表なら、ある意味では、そのすべてが思想史の主題になると考えられる。

★ しかしながら、さらにわたくしは、時代を通ずる一観念の推移・変化を海図のごとくに描き上げることは危険な遊戯といってよいのではないかと思う。間隙もなく不確実なところもないきっちりとしたパターンに事物を配列しようという誘惑は、いつでも抗しがたいほどのものとなる。そういう危険を防ぐためには、つねに個々の事例に言及していなければならない。そのようにしてはじめて、歴史的想像力は現実に近いなにものかにつなぎとめられるのである。結局のところ、個人こそ歴史研究の究極の単位である。観念それ自体――思想の「傾向」とか「運動」とか「潮流」とか――は、たんに人間の構成物たるにすぎない。観念はいかに充実していても、そこから個人の思想を生み出しはしない(多くの大哲学者はそのように想像したけれども)。観念は、ある具体的な個人が時間・空間上のどこかでそれを自分の心のなかから産み出すまでは、なんら現実性をももたないのである。





《思想史が人間の思想および感情――理性的な議論および激情(パッション)の爆発――をともに取扱うものであることは、あらためていうまでもない》


《そのようにしてはじめて、歴史的想像力は現実に近いなにものかにつなぎとめられるのである。結局のところ、個人こそ歴史研究の究極の単位である》


《観念は、ある具体的な個人が時間・空間上のどこかでそれを自分の心のなかから産み出すまでは、なんら現実性をももたない》






まだ見ない都市;アレクサンドリア

2011-06-18 12:02:34 | 日記


★ アレクサンドリアを初めて訪れたとき、カイロからバスに乗った。わずかなエジプト・ポンドで切符を買いながら、わたしは、オリエントのあちこちに見られるような、乗客と山羊と雌鳥のひしめきあう、あの古めかしい乗物で旅することを想像していた。ところが、驚いたことに、わたしが乗りこんだ車は現代的な観光バスだった。備えつけのスクリーンには、バスの移動中たえまなく、ポップス歌手のビデオクリップや、女優のはだけた胸もとにカメラがトラヴェリングして、あまりぱっとしない内容を引き立たせるアメリカの連続テレビドラマが映っていた。バスに乗り合わせた人びとは、その映像にひどく夢中になっていたため、自分たちが踵で座席の下に押し込めていた雌鳥の群れが、縛られた足を引きずりながらもすばやく中央通路に出てこようとしていたことにまったく気づかなかった。

★ わたしはスクリーンから目をそらすことにして、この旅の最初の二時間、薄く着色された窓ガラス越に外の風景を眺めていた。ナイルの流れに押しやられた砂漠や、用水路で泳ぐ裸の子供たちが見える。さらに先へ進むと、バスは見渡す限り広大な泥土を通過し、ふたたび変化のない砂漠にさしかかろうとしたところで、椰子の木陰を小走りに行く驢馬とすれちがった。驢馬の背には、ひとりの男と、子供を腕に抱えたその男の妻が乗っていた。それでわたしは、聖ヨセフが、主の天使に「ヘロデ王が死ぬまでユダ王国を離れてエジプトに行くように」と命じられて、家族とともに逃亡したことを連想していたのだった。するとバスがいきなり進路を変えて急停車し、高速道路をふさぐように横向きになった。運転手は悪態をつき、床に唾を吐き、鶏たちはみな、車の前方に投げだされて半ば気絶していたが、乗客の目はスクリーンに釘づけのままだった。黒いブラジャーを着けたブロンドの若い女が一瞬、画面に現れたところだったからだ。

<ダニエル・ロンドー『アレクサンドリア』(Bunkamura 1999)>