Don't Let Me Down

日々の雑感、引用。
言葉とイメージと音から喚起されるもの。

子供たちの時間

2010-01-31 18:47:23 | 日記


★ この日、日掛けの集金をやすませてもらった田中屋の正太は、表町組の店を見まわるうちに、団子屋の背高から美登利にその日が訪れたことを耳にする。団子屋の背高にはどうやら隠しおおせたものの、正太が受けた衝撃の深さは、ほとんど無意識のうちに口をついて出るそそり節の一節にまぎれようもなく露にされる。

★ 正太が口ずさむそそり節の類型化された哀調は、この「結約証書」(注;明治時代の妓楼と遊女のあいだにかわされた契約書)に凝縮されている契約の非情さとうらはらの関係にある。もちろん、正太はこの一枚の証書によって決定される美登利の過酷な運命を見とおすことができないし、それは一葉自身によっても書かれなかった余白の部分である。しかし、正太にとって大人になることは、結局は金銭がつくりだすこうした非情な関係に入りこむ以外のなにものでもなかったのだ。

★ 団子屋の背高に別れた正太は廓の角で大黒屋の番頭新造につきそわれた美登利と行きあわせる。「初々しき大嶋田」に姿をかえた美登利は、正太の眼には、「極彩色のただ京人形を見るやう」に映る。しかし、何時になく家路をいそぐ美登利の態度を、「何故今日は遊ばないのだろう」といぶかしむ正太は、美登利の変身が意味するものからとおくへだてられている。大人の世界に迎えとられてしまった美登利と、子どもの世界にとりのこされている正太との残酷な対照が一瞬のうちに照らしだされる卓抜な場面である。

★ 美登利にゆるされていた子どもの時間が閉ざされてしまったとき、大音寺前の子どもたちの時間も終わりを告げる。(略)大音寺前を賑わわせていた子どもの世界を跡かたもなく崩してしまった見えない力の正体が、「近代」そのものであったとすれば、それは『たけくらべ』に導かれて子どもの時間へと遡行する旅を終えたばかりの私たち自身が引きうけなければならない原罪なのである。

<前田愛“子どもたちの時間”―『都市空間のなかの文学』>




アカルイ老後

2010-01-31 14:30:22 | 日記


60過ぎの方々、もしくは、もうすぐ60代を向かえる方々、に呼びかける。

アカルイ老後をめざそうではないか!

もしあなたに、まだ権力があるなら、放棄せよ。

もしあなたが、“若者”に差別されているなら、彼らの愚かさを、許せ。
若者も、また、老後をむかえないはずは、ない(のだから)

あるいは、“かれら”が、みずからの愚かさによって、現在より無意味な社会を形成するとしても、“ぼくら”は、もう生きてはいない。

しかし、<孫>が気になり、<人類の未来>とか、<文化の継続>が気がかりだろうか。
それなら、あなた(にも)やることがある。

けれども、あなたが、“もう休みたい”と思うのも、もっともなことである。

おすすめの<音楽>は、キース・ジャレットのトリオ演奏とグールドのバッハである(ピリスのモーツアルトもよい;笑)

たまには、“グランド・ファンク・レールロード”の<HEART BREAKER>で涙を流してもよい。

いずれにしても、このイルミネーションばかりで明るい<世間で>、だれからも無視されても、輝け!   じんわりと。





ヒデリノトキハナミダヲナガシ
サムサノナツハオロオロアルキ
ミンナニデクノボートヨバレ
ホメラレモセズ
クニモサレズ
サウイフモノニ
ワタシハナリタイ





Snapshot;学校という恐怖

2010-01-31 12:43:46 | 日記

★ なんか、「学校の怪談」というような映画があったようだが、<学校>という場所やシステムやそこでの“人間関係”が、<怪談>そのものである。

★ “ブログ”とかを見ていても、その書き手が(現在学校にいなくても)、学校にいたとき、どんな<位置>にいたかが推測される。

★ つまり“クラス委員長”タイプとか、その“補佐官”とか、“掃除当番主任”とか、“ガリ勉タイプ”とか、“ちょいグレ-タイプ”とか、“お笑いタイプ”とか、“ちょいギレ-タイプ”とか、“無気力タイプ”とか、“弁論部タイプ”とか、“体育会タイプ”とか、“ナンパ系”とか、“いじめられっ子”とか、“デレデレ系”とかである。

★ そうだね、<世界>を見てもわかる、“オバマ系”とか(爆)
昔は、<コイズミ系>とか<ホリエモン系>とか<タモリ系>とか<たけし系>とか<エーちゃん系>とか<下手なダンス系>というのもあったなぁー。

★ 最近仕事で、“コミュニケーション”についての<現在アメリカ理論>というのを、聞いたが、印象的だったのは、“コミュニケーションが苦手な職業”の典型は、<教師>だという(笑)

★ しかし、かつて柄谷行人は、“教え-教えられる立場”こそ、“命がけの飛躍”だと言った。

★ さて、学校での<関係>が、すべてを決定してしまう。

★ “余生”は、そこで身につけた<関係>を反復するだけだ。
<会社>でも<家庭>でも<老後>でも。
だからこんなに<たいくつなひと>が多いのだ。

★ つまり、“NEET”だろうと、“ひきこもり”だろうと、“ホームレス”だろうと、“引退老人”だろうと、“社会から脱落したひとびと”も、<永遠のガッコウ>で暮らしている。


<キング・オブ・ホラーから引用>

★だが飛行機がふたたび雲から出て揺れもなくなると、2万7千フィートのここで鳴っているのはたくさんのベルだ。たしかにベルだ。ベン・ハンスコムが眠るとそれはあのベルになる。そして眠りにおちると、過去と現在を隔てていた壁がすっかり消えて、彼は深い井戸に落ちていくように年月を逆に転がっていく―ウェルズの『時の旅人』かもしれない、片手に折れた鉄棒を持ち、モーロックの地の底へどんどん落ちていく、そして暗闇のトンネルでは、タイム・マシンがかたかたと音をたてている。1981、1977、1969。そしてとつぜん彼はここに、1958年の6月にいる。輝く夏の光があたり一面にあふれ、ベン・ハンスコムの閉じているまぶたの下の瞳孔は、夢を見る脳髄の命令で収縮する。その目は、イリノイ西部の上空に広がる闇ではなく、27年前のメイン州デリーの、6月のある日の明るい陽の光を見ている。
たくさんのベルの音。
あのベルの音。
学校。
学校が。
学校が

終わった!

<スティーヴン・キング『 IT 』第2部“1958年6月”の第4章“ベン・ハンスコム、ノックダウンのふりをする”>






<追記>

ぼくに<反-学校>のイメージを喚起したのは、『テヘランでロリータを読む』という本の書評に引用されていた言葉だった。

これについてDoblogに出したものの下書きを探したが発見できない。
ゆえに、今、Amazonマーケット・プレイスにこの本を注文した。
この本を読んでいないことが、怠惰だった。

それで、もうひとつスティーヴン・キングから引用しよう。
思うに、キングは、現代の<学校生活>をビビッドに書き得た作家であった。

この引用部分は1966年にメイン州立大に入学した主人公の回想である;

★ 「おっと、あれはなんだ?」ネイトが言った。足をとめて頭だけうしろにむけ、なにかをじっと見ている。スキップとわたしも足をとめ、背後に目をやった。ネイトになんのことかと質問しかけたところで、それが目に飛びこんできた。ストークはデニムジャケットを着ていた。その背中に、黒い油性マジックで書かれたとおぼしき、丸で囲われた模様のようなものがあるのが、初秋の夕暮れの薄れてゆく光のなかでかろうじて見えた。
「あんなの見たことないな」スキップが言った。「雀の足跡みたいに見えるが」
松葉杖をついた若者の姿は、変わりばえのしない十月の変わりばえのしない木曜日の夜に、変わりばえのしないコモンズへとむかってくる学生の群に飲みこまれていった。大半の男子学生はきれいにひげを剃っていたし、大半の女子学生はピーターパンカラーのついた<シップ&ショア>のブラウスとスカートという姿だった。満月に近い月がすでに空にのぼって、オレンジ色の光を学生たちに投げかけていた。<フリークスの時代>が最盛期を迎えるのはまだ2年ほど先で、わたしたち三人のだれひとり、たったいま自分たちが生まれてはじめてピース・サインを目にしたことに気づいてはいなかった。

<キング;『アトランティスのこころ』(新潮文庫2002)>






ぼくは<スティーヴン・キング>と<サリンジャー>と<カフカ>のいずれが、“客観的に”すぐれた作家であるかを、しらない。

しかし、<キング>が、好きであり、ぼくにとっては重要な作家であることは、知っている。





Snapshot10-01-31

2010-01-31 10:58:21 | 日記


★ 時間

今日で2010年の1月も終わりであるという、今月が今年(2010年)の最初の月だったことを思い出す。


★ Twitter

不破君や鳥男君がTwitterをやっているので、ときどき、“Twitter”というものを見てみるのだが、そこで驚くのは、“驚くような発言がない”ということである。

しかしぼくは“Twitter”発言を全部見たわけではないので、“どこかに”あるのかもしれない。

しかし単純に驚くのは、“政局”にたいする話題の多さである。
このことだけでも、ぼくにはTwitterは退屈である。

なぜ“彼ら”は、<自分の問題>を語らないのか?


★ブログ

ならば、“ブログ”が面白いかというと、ぜんぜん面白くない。

ひとことで言って、ブログを書いているひとたちも、ぼくよりほとんど年下なんだが、“彼らの感じ方”は、どうしてこうも<古臭い(年寄りくさい)>のだろうが。

<常識的道徳観>でがんじがらめである。

あるいは、ちっとも新しくないことを、新しいとおもったり、“いいふるされてきたこと”を自分の独創(ユニークネス)のように語る。

こっちは、ただ恥ずかしい、だけである。


★ おろかな共感

なんかどんどん狭い場所で、<共感>したがっている。

いや<共感>してしまっている。

そのこと自体が、<閉塞>であり、アンチ・コミュニケーションである。

要するに、自分が聞きたくないことは、聞かないだけだ。

<ムズカシイ>ことは、ネグレクトする、排除するだけだ。

まるで<信仰>のように、<他者>を自分の仲間であるか、そうでないかに、<選別>するだけだ。


★ コメント

ブログで面白いのは、“本文”ではなく、“コメント欄”である。

つまりそのブログでは、どのような<共感>が実現されているかがわかる。

ところが、“第3者”から見ると、そこにはなんの<共通点>もない(笑)

人間というものは、まったく他者の言うことを聞いていない(誤解している)ということが、わかる。


★ 商売

ぼくは時々、“商売人”という言葉を、“けなし言葉”として使うが、かならずしも、<商売>が悪いとは思わない。

良い商人と、悪い商人がいる。

ぼくは、直接モノを売った経験がほとんどないが、仕事でごくささやかなモノを直接売ろうとした時、とても充実した。

ぼくは<ブログ>をやっているのも、ささやかな<商店>を出していることだと考える。

だから“品揃え”も豊富なほうがいい。<注>

なによりも、“更新しない”商店などというのは、どうかしている(体調不良などの場合はやむをえない)

さっぱり更新しないブログを、<毎日>見ると、“このひとは便秘体質ではないか?”といぶかる。

好意的に考えれば、<そういうひとたち>は、ぼくのように<軽薄>でないらしい。

なにか<深遠>なことを、<熟考>しているらしい。

しかし<ぼくの経験>では、人生は短い。

”平均寿命”が、いくら延びようとも。



<注>

たしかに、”量より質”ということも、ある。

しかし、質もわるいのに量もない<商店>にだれが行くだろうか。

もちろん、量はあるが、”みな同じ”品揃えでは、飽きがくる。

つまり、”サービス精神がない”ということは、自分勝手であり、ほんとうは<他者>のことなどぜんぜん考えていない。

せいぜい、自分と”ママ-パパ関係”が、あるだけである。




エンターテイメント=文学

2010-01-30 23:13:36 | 日記

★ あらたな虚構の介入とはどういうことか。それは武藤が制作したひとつの8ミリ短篇映画を見た唯生が、そこにいままで見知っていたはずのツユミを、まるでべつな人物として発見したというそれだけのことなのだが、しかし彼を「恋する男」たちへ仲間入りさせるには充分な出来事であった。(……)いくらか虚ろな眼つきで口をすこし開けたままの、真剣さと放心が入り混じったような顔つきでいくつもの卵を割って中身を出し、腹がたつのか不器用なだけか、そのどちらともうけとれるひどくぶっきらぼうな素振りで、料理道具や食器を乱雑にあつかうのだが、できあがる5人分のオムライスはそうした粗雑さのなかにあってさえ、どこかべつの次元からとりよせたもののように見事な出来栄えで画面のなかにおさまり、だからといって……
<阿部和重;『アメリカの夜』(講談社文庫2001)>


★ 僕が小学生時代の夏休みは、暑い陽差しに首をうなだれた黄色い大きなひまわりの、原色の激しいイメージを抜きに語れない。
★ そうやって気まぐれに育てて8月――。大きな花が真夏の太陽を燦々と浴びるころ、僕は縁側に老人のようにけだるい軀を横たえ、夏が過ぎるのを、じっと待った。こうしてずっと退屈な午後を生きねばならないという漠然とした不安を、ひまわりは生命力を誇示しながら教えてくれたのだった……。
★ 僕には、僕だけでなく、似たような午後の一刻を記憶している者であれば、三島由紀夫の日常性への呪詛を否定することはむずかしい。だが、やはり彼はどこか違っているのだ。天才であること、それだけでなく、どこかが違っている。
★ 恐らく近代官僚制は、そうした不在の何かを埋め合わせるシステムなのだ。立身出世の野心に溺れた祖父、屈折した小役人でトリックスターの倅、そして三代目に三島がいる。いずれも官僚を志向するが、結局、官僚機構からの落伍者で終わった。その血脈から一筋の愚直さがこぼれ、絢爛たる文学が開化した。
<猪瀬直樹;『ペルソナ 三島由紀夫伝』(文春文庫1999)>


★ 突然、あらゆる活動が止る。あるいは、マンディの意識に入らなくなる。映像とサウンドトラックが同時に途切れ、また始まったかのようだ。サーシャはまだ演説台から滔々としゃべっている。しかしエキストラはみな叫んでいる。何重もの武装警官の輪が抗議者のまわりで狭まり、杖が盾を打つ音が雷鳴のように轟く。最初の催涙弾が炸裂する。
★ そこらじゅう怒号と殴り合いの混乱のなかで、品位らしきものを保っているのはただひとり、法官ユディットだ。驚いたことに、毛沢東のジャケットのなかから大きな野球バットを取り出し、消極的抵抗を唱えるサーシャを無視して、若い警官の真新しいヘルメットをしたたか殴りつける。そのあまりの強さにヘルメットは天からの贈り物のように警官の手に落ち、彼は馬鹿げた薄笑いを浮かべて膝から崩れ落ちる。
<ジョン・ル・カレ;『サラマンダーは炎のなかに(ABSOLUTE FRIENDS)』(光文社文庫2008)>


★ 私が『振り子』を見たのはあの時だった。
教会のドームから吊るした一本の長い糸の先端に取りつけられ、その球体は等時性を厳守しながら、ゆったりと孤を描いて揺れていた。
★ ステンドグラスを通して差しこむ夕暮れ時の太陽光線に反射して、その銅球は玉虫色の弱い光を放っていた。昔と同じように湿った砂を床に敷きつめ、重りの先端が微かに触れるようにすれば、重りは揺れるごとに砂上に軌跡を描き、その方向をごくわずかに変えながら溝を広げ、左右対称の放射線を描き続けることになるだろう。(……)いやそれはむしろ、広漠とした砂の上を際限なく移動する旅商(キャラバン)の残した足跡か、あるいは何千年もの単位でゆっくりと進む移動の歴史なのかもしれない。
<ウンベルト・エーコ;『フーコーの振り子』(文春文庫1999)>


★ 夕陽が斜面の木々を染めていた。琥珀の内側に閉ざされて時を止めたように見える場所だった。秋彦は、その場所でもう一度バスを降りた。あのトンネルの前だった。しんとした、草いきれの混じる冷えかけの空気を吸いこむと、バスからバスへ、それから二本の列車、そしてさらにバス、と何度も乗り継いでとうとうここまで来た、その間ずっと溜めてきた息もろとも、一気に吐いた。地図上でいうならそれは、衛星写真が捉えた台風の、九州という島のちょうど中心から時計回りに描く雲の影の放物線が、遠心力で自分をその外へ放り出すような行程だった。九州に暮らす者にとって、台風は荒々しい生き物だ。しかし旅程は、この山あい同様、静かすぎた。
<青山真治;『サッド・ヴァケイション』(新潮社2006)>




<注記>

以上の引用文の本は、すべて”読みかけ”です。

このなかで、どれが好きかと問われたら、最後ですね。

どれが嫌いかと問われたら、最初ですね(笑)、しかしぼくは阿部氏はこの本だけでなく(本当にいやになるまで)読み続けようと思う。

これからテレビを見て、適当に寝ます、おやすみなさい。



あかるい家とくらい家;二階のある家

2010-01-30 16:44:48 | 日記

二葉亭四迷の『浮雲』を読んだことがありますか?

ぼくはない、読みたいと思ったこともない。
二葉亭四迷という名や、『浮雲』という小説の名は、かなりのひとが知っていると思われるが、それを読んだ人がどれだけいるだろうか。

逆になぜ現在、『浮雲』を読みたいと、思わないのだろうか。
たぶん、漠然と<古い>と思う。
<古い>ということにも、様々な感覚がありえるが、“たぶんぼくらの生活感とかけ離れている”ということだ。

つまり、時代がちがい、意識がちがう。
なぜ明治時代の小説に<共感>できるだろうか。
しかし『浮雲』は、落語や坂本龍馬より、<新しい>のである。

ぼくは、前田愛『都市空間のなかの文学』に収められた「二階の下宿」という文章で、『浮雲』“について”読んだのである。

この文章は、“お二階”という言葉についての考察からはじまっている。
“落語”も出てくる(「宮戸川」)
それから、“二階に住む人”を描いた明治文学へと展開される。

この『都市空間のなかの文学』がぼくに魅力的なのは、まさに“それ”が、“都市空間のなか”という視点から記述されていること。
つまり、<記号論>とか<テクスト>とかいう方法が、文学を具体性において(その文学空間にあらわれる<モノ>の記述として、あるいは、その<モノ>への視線として)描かれていることだ。

つまりここでは<二階>である。

ぼくは一度も<二階のある家>に住んだことがない。
<二階のある家>というのは、<戸建住宅>のことである。

ぼくが子供の頃、唯一住んだ戸建住宅は、<平屋>であった。
その後は、もっぱら(形態はちがっても)<集合住宅>に住んでいる、すなわち“二階”はない(下の階や上の階があっても)
しかし明治期においては、あるいはその小説世界においては、<二階がある>のである。

ならば、まさに、この居住空間の<変化>が、ぼくたちの<意識とか内面>を変えたであろうか。
まさにここにおいて、今、明治期の文学や明治以降の<昔の>文学を、<解読する>スリルがある;

★ 島崎藤村は、長編『家』の末尾を「屋外(そと)はまだ暗かった」という暗示的な一句でしめくくったが、この一句が、「すべてを屋内の光景にのみ限ろうとした」『家』の方法を象徴していたとするならば、二階に通ずる梯子段をのぼっていく文三(注;『浮雲』主人公)の後姿を点出した『浮雲』の最後の一句も、その世界全体のありようを私たちにひらいてみせる暗喩であるかのように思われてくる。内側へ内側へととぐろを巻いて狭まってくる閉ざされた空間の構造だ。『浮雲』を読み終えた読者は、この作品の舞台が冒頭の髭づくしの場面や団子坂の菊見の場面をのぞけば、ほとんど園田家の屋内に限定されていたことに思い当たるのである。
<前田愛“二階の下宿”―『都市空間のなかの文学』>


しかしぼくらは、“二階さえない家”に住んでいる。
もちろん、“二階もある(3階も、4階もある)明るい家に住んでいらっしゃる方々もいるだろう。

実は問題は、“二階があるか否か”ではなかった(笑)

<問題>は、<家>である;

★ 文三の免職をきっかけに園田家をおおっていた日常性の皮膜がほころびはじめると、お政をはじめとしてお勢と昇も、彼の予測をこえたところで奇怪なエゴのかたちをむきだしにする。身内と信じていたお政は他人以上の冷酷さをあらわすし、文三から吹きこまれた新思想を鸚鵡がえしにくりかえしていた英学少女お勢は、昇に挑発されるままに性的に成熟したひとりの女として文三の手の届かないところへ遠ざかって行く。文三がその俗物性と無教養をひそかに軽蔑していた昇は、したたかな詭弁家の面目を発揮し、文三を論理的破産に追いこむことになるだろう。しかし、これらの登場人物の端倪すべからざる変貌をとおして、日常世界の解体をドラスティックに造型した『浮雲』には、それとパラレルに進行するもうひとつのかくされたドラマがある。日常的な世界を構成するもっとも基本的な仕掛けといってもいい生きられた家をめぐるドラマがそれだ。
<同書引用>


前田愛氏はこの文章において、“園田家”の間取りを復元している(笑)

まったくぼくのように、“3LDK”とやらに住んでいる<家族>というのには、<複雑さ>が欠けている(爆)

“だから”ぼくたちはいま、<文学>を失いつつあるのかもしれない。
あかるい、クリーンな<家>では。

いや、けっして、そんなことは、ない。

もしそうであるなら、ぼくらは、前田愛の言葉も二葉亭四迷の言葉も、一語も理解し得ない。

ぼくらこそ、<都市空間のなかに>住んでいるからである。




大人の“いんちきな世界”

2010-01-30 10:32:39 | 日記

さて、有名人が死ぬと、“大新聞”は、同じことを言うのである;

「十八歳。紺サージの制服を脱ぎ捨てて、ジーンズとバスケットシューズが新たなる制服になったあの頃。サリンジャーの『ライ麦畑でつかまえて』が愛読書だった季節……」。かつて小紙に寄せた、落合恵子さんのエッセーの一節である。青春の逃げ足はいつも速い……▼『ライ麦』は内容もさることながら、野崎孝訳の日本語タイトルが光っていた。題にひかれて手にとった我が昔を思い出す。近年は原題の『キャッチャー・イン・ザ・ライ』で村上春樹さんの訳本も出た。売り上げは双方で290万部にのぼっている▼伝説に殉じるように作者は逝ったが、遺産は世界で読み継がれることだろう。青春は短い。だからこそ、稀有(けう)な青春文学の頭上には、「永遠」の枕詞(まくらことば)が色あせない。(天声人語)

例えば科学者とか弁護士とか、将来、何になりたいの? 妹に聞かれ、高校生ホールデンはある風景を語ってみせた。崖っぷちにライ麦畑があり、何千人もの子供たちが遊んでいる◆〈僕のやる仕事はね、誰でも崖から転がり落ちそうになったら、その子をつかまえることなんだ…〉。J・D・サリンジャー、野崎孝訳『ライ麦畑でつかまえて』(白水社刊)の一節である。「崖の下」は、大人の“いんちきな世界”を指すらしい◆自己を据える場所が見つけられないいらだちと、大人社会への反抗と、永遠の青春小説を残し、サリンジャー氏が91歳で死去した◆米国ニューハンプシャー州の自宅にこもり、半世紀を姿なき「伝説の人」として生きた。越してきた当座は、地元の子供たちと親しく交際したという。ある少女が彼との会見記を特ダネとして新聞に載せたことに激怒し、敷地に高い塀を巡らせて世間との交渉を絶ったと伝えられる。信じていた子供たちまで崖の下に消え、ライ麦畑にひとり残された人の孤独がしのばれる◆みずからの後半生を原稿用紙にして小説のつらい続編を書いた、そんな気もする。(読売編集手帳)


《青春の逃げ足はいつも速い》

《タイトルが光っていた》

《伝説に殉じるように作者は逝った》

《青春は短い》

《「永遠」の枕詞(まくらことば)が色あせない》

《永遠の青春小説を残し》

《ライ麦畑にひとり残された人の孤独がしのばれる》

《みずからの後半生を原稿用紙にして小説のつらい続編を書いた》


なぜか、<大新聞>でこういう文章を書く方々は、『ライ麦畑でつかまえて』を読んだし(つまり彼らの<青春>にだ)、そのことを“なつかしんで”いるらしい。

かくいう、ぼくも、むかしむかし読んだが(つまり“青春”に)、ぜんぜんピンとこなくって、それ以来読み返したことがない。
だから、ひょっとしたら、この小説は、よい小説かも知れない。

その小説が、現在のぼくにとってよい小説か否かは、現在において読むことでしかない。
<伝説>はいらない。

だが、現在この小説を読むことを妨げるのは、ぼくが<青春>にはいないことである(笑)
たとえば、“サリンジャー氏は自分の人生の初期に『ライ麦畑でつかまえて』などの著書が世界的に売れたので、<余生>を隠遁生活で過ごすことができた”というような、<肯定評価>はできないのだろうか。

すなわち<大人のいんちきな世界>になるべく接触せずにすんだのである。

しかし<ライ麦畑>において、《誰でも崖から転がり落ちそうになったら、その子をつかまえることなんだ…》という<使命>は、どーなったのであろうか。

<青春>とか<伝説>などというものは、“くだらない”ことではないのだろうか。

《「永遠」の枕詞(まくらことば)が色あせない》とか、
《みずからの後半生を原稿用紙にして小説のつらい続編を書いた》
などという、“決めぜりふ”を書いて、なにかを言った気になる、“ジャーナリスト習性”こそ、<文学>ではない。

<文学>ではない、のである。

<文学>とは、誰かを伝説にしたり、<枕詞>にしたり、自分の青春を誰かの青春と混同し、味噌も糞も一緒にする“一般化”を行うことでもない。

なによりも、ぼくたちは、ここで、<大人のいんちきな世界>で今日も生きている。

《誰でも崖から転がり落ちそうになったその子》をキャッチするのは、このぼくである。

あるいは、《崖から転がり落ちそうになったその子》は、<ぼく>のことである。





私の幸福

2010-01-29 11:56:42 | 日記


求めること に倦みはててより、
見いだすこと を私は覚えた。
風に 遮られてからというもの、
どんな風をも追い風にして 私は帆を張る。

<ニーチェ;『悦ばしき知識』序曲>




この完璧な日、ぶどうのふさがとび色に色づいているだけでなく、すべてのものが熟しているまさにこの日、一条の日ざしが私の生涯の上に落ちて来て、それを照らし出した。

<ニーチェ;『この人を見よ-人はいかにして自分が本来あるところのものになるのか』序言>










★ 空軍や海軍の飛行場は通常荒れはてたところ、あるいは辺境の地に広がっており、明け方のうそ寒い光のなかで普通の人が見たら、とりわけ荒涼として見えただろう。しかし若いパイロットは、太陽が地平線の端からいまにも顔をのぞかせようとしているころ、航空機が整列して駐機している場所にくると名状しがたい幸福感に包まれた。飛行場全体はまだ影のなかにあり、遠くの山の峰はシルエットを描き、飛行進路は排気ガスの青一色に色どられている。貯水搭や鉄塔の先の小さな赤いランプはいずれも光が鈍く、収縮し、凝固しているように見え、まだついている滑走路灯も色褪せて見えた。折しも着陸して誘導路を入ってくる戦闘機の着陸ランプですら、夜中に見るほどまぶしくはなく、燭光の凝縮した固まりのように見えた――にもかかわらず、それは美しく、気持を引き立たせるものがあった――というのも、若きパイロットは、日の出前に離陸し、下界の家のなかでぬくぬくと眠っている死んだも同然の何千という昏睡状態の魂が意識をふきかえす前に、山々の峰々を超えて陽光のなかに舞い上がって行きたいと張り切って、気力が横溢しているからだ。

★ F100Fに搭乗して払暁に離陸し、アフターバーナーを点火して急上昇し、30秒で2万5000フィートを駆け登ることは、あまりに急で、羽ばたく鳥ではなく、まさに弾道弾のような感じがするが、しかしこの弾丸は完全に自分が掌握していた。4トンの推力を完全に掌握化においていた。それはすべて意志の働きにより、指先から流れ出たものだ。巨大なエンジンはすぐ足元にあるので、裸馬の背にまたがっているような気がする。そしてついに超音速に達し、それは地上では、耳をつんざく轟音となって窓ガラスを振動させるが、上空では、いまや完全に地球から解放されたという事実あるのみ――それを妻や子供、愛しき肉親、にすら説明することは不可能に思われた。そこでパイロットは自分の胸にしまっておく。もっとずっと説明しにくい……もっとどえらく罪深いものかもしれないが、到底人には打明けられない……優越感――正しい資質(ザ・ライト・スタッフ)の唯一の持主である彼と彼の同類にとってふさわしい優越感――と一緒に自分の胸におさめておくのだ。

★ 夜明けの上空から、パイロットはみじめな希望のないラスヴェガス(略)を見下ろし、訝り(いぶかり)始める。下界にいるこれらの人々、やがて目覚めて、ちっぽけな四角い家から這い出し、ヌードルのような細いハイウェイを一寸刻みに進み、彼らの毎日の生活が営まれる細い隙間や溝に向かって行くこれらの哀れな人たち――もし彼らがこの上空の、正しい資質(ザ・ライト・スタッフ)を持ったものの世界がどんなものか、これっぽっちでも知ったら、あのような生活をあんなに熱心に営むことがはたしてできただろうか。

<トム・ウルフ;『ザ・ライト・スタッフ 七人の宇宙飛行士』(中公文庫1983)>




例外状態

2010-01-29 11:24:55 | 日記


★ ものを考えるのは、ある意味で、例外状態あるいはアブノーマルな事態から考えることです。たとえば、誰でも重い病気になると人生について考えますね。ノーマル(規範的)ではない形態から出発するというのは、ものを考える上での基本的な姿勢だと思うんです。しかし、それはノーマルな状態を軽蔑することではない。ただ、日常的なノーマルなものが、どんなに複雑であるか、またそれが堅固に見えてどんなに脆弱であるか、そういったことを知るために不可欠なのです。ニーチェはそれを「病者の光学」と呼んだと思います。それは、他のあらゆる事柄についてもあてはまります。

<柄谷行人;“議会制の問題”(1992早稲田大学学園祭講演)-『<戦前>の思考』>





世界と世界の間で

2010-01-29 11:05:10 | 日記

★ ネーションが本当に形成されるのは、それが人々にそのために死ぬことが永遠に生きることを意味するような気持にさせるときです。この点で、それは宗教や親族あるいは部族と似た構造をもっている。つまりそれは人を、先祖のみならずまだ生まれてもいない世代との連続的な関係において理解することを可能にし、人がそこに生まれたという偶然性を必然的なものに変えることを可能にする。しかし、アンダーソンがいうように、これは宗教や部族ではなく、むしろそれらが崩壊した後で出てくるものです。

★ ある日本の批評家がかつてこう書いたことがあります。私を日本に結びつけているのは、国家ではなく、日本語であり、つまり、そこにおいて一切の過去が現存し且つ将来にも永遠につながるような日本語である、と。いうまでもなく、これはロマン派=ナショナリストの典型的な認識です。(略)しかし、深く連綿とつづいてきたと見なされる過去の歴史、あるいは過去の文学は、近代ロマン派によって再解釈・構成されたものでしかありません。

★ あらためていえば、日本の明治において、本来的な意味でのナショナリズムを生みだしたのは文学であり、汎アジア主義を生みだしたのも文学です。文学者は他の誰よりもそのことに自覚的でなければならない。なぜなら、文学に無縁であると思う人々こそ、たんに知らずにナイーヴな文学を信奉しているにすぎないからです。これは、日本にかぎらず一般的に妥当する事柄です。

★ ここで、私は、漱石と岡倉(天心)の違いを強調しておかねばなりません。漱石は、西洋の普遍性を認めなかったが、東洋の普遍性も認めなかった。彼は、それらを超えた普遍性を求めようとしました。それゆえに、彼は、岡倉のように「詩的」ではなく、「科学的」だったのです。それは、何も積極的なものを提示していません。しかし、私は、いずれの極にも逃げることなく、いわば東洋と西洋の「間」において、その不安定な場所において思考しようとした漱石のほうに、敬意を払いたいのです。

★ それは今日の問題でもあります。われわれは「想像の共同体」としてのナショナリズムを否定すれば、他の選択肢として「想像のトランスナショナル共同体」に行き着くほかないのでしょうか。いわゆるインターナショナリズムが崩壊した現在、われわれは、あらためて、というより、はじめてインターナショナリズムの可能性を問う地点に立っているのではないでしょうか。

<柄谷行人;“帝国とネーション”(プリンストン大学・シカゴ大学での講演)―『<戦前>の思考』(講談社学術文庫2001)>





アメリカ“告発”映画の不快

2010-01-29 09:17:12 | 日記

昨夜は、“意味不明”Snapshotを書いて、すぐ寝ようと思ったが、なぜかテレビで<映画>を見てしまった。

テレビで映画を見るというのは、別に“選んで”みるわけではなく、“そこに写っているから”見るのである。

この映画の巻頭、主演女優の<妻>が、妊娠可能日であることを確認し、<夫>のところへ駆けつけて“子供をつくろう”と“呼びかける”シーンで、普段なら(気力のある時なら)チャンネルを変えるはずが、惰性で見続けたのであった。

そしたら、れれれ、いがいにへヴィーな展開なのだ。
<軍事法廷裁判>ですよ。

<夫>がむかし、エル・サルバドルで“現地人”9名を虐殺した嫌疑。
それが“でっちあげ”であることをめぐる映画。
となると、これは“アメリカ軍の暗部を暴く”映画なんでしょうか。

この映画(「ハイ・クライムズ」2002年)を見た人があまり多くない?と思われるので、allcinemaサイトの“解説”を引用しよう;

《海兵隊特殊部隊に属し、エル・サルバドルで一般市民を虐殺したとして逮捕された夫の無実を晴らそうと奮闘する女性弁護士の活躍を描くサスペンス。夫の無実を信じながらも、自分の知らなかった夫の暗部に戸惑い、また軍との法廷闘争を通じて身の危険をも感じていくヒロインを演じるのは「恋する遺伝子」のアシュレイ・ジャッド。軍事法廷に精通し、彼女をサポートする弁護士役にモーガン・フリーマン。
 美しく優秀な女性弁護士クレアは、建設会社を経営する夫トムとともに幸せな毎日を送っていた。だが、ある日、二人の家に泥棒が侵入、事態は思わぬ方向へと進む。強盗事件を調べる過程で、採取した指紋からトムの本名がロナルド・チャップマンであることが判明。その結果、トムは海兵隊の特殊工作員時代の1988年にエル・サルバドルで一般市民9人を殺害した容疑でFBIに逮捕されてしまう。クレアは、無実を訴えるトムを信じて軍事法廷に立つことを決意。特殊な軍事裁判を熟知する弁護士チャーリーの助けも借りて、軍のスキャンダルを暴いていくクレアだったが……。》(以上引用)


この映画を見終わっての“後味”は悪いですよ。

ぼくはそれを<説明>したくない。<注>
この映画の“ハッピーエンディング”は、サイテーです。

ぼくは<アメリカ人>が嫌いではありません。
好きなアメリカ人と嫌いなアメリカ人がいます。
それは好きな中国人と嫌いな中国人がいるとか、好きな日本人と嫌いな日本人がいるのと同じだ。

しかし最近のアメリカ映画をつくる人々や、最近のアメリカ映画で描かれる“ような”人々は、そうとう不愉快です。



<注>

ひとことで言えば、この映画は、なにひとつ<批判>していない。

この<予定調和>が、<キリスト教社会>なんですか?

自己満足的自己愛の恐るべき無限循環。

ナルシシスト肥満児=商売人。

神よ!許したまえ。





Snapshot;下半身について

2010-01-28 19:37:47 | 日記

★問題提起

仕事から帰りパソコンを開けたら、突如、電光のように“下半身について”という<テーマ>が浮かんだ。

このテーマをどう展開するかは、<未知>である、数分待たれよ。

君たちは信じないかもしれないが、このぼくのブログというのはいつも、“あらかじめ書くことが決まって”書かれてはいない。

<引用>の場合は、たしかに引用個所は(ほぼ)決まっているが、それにコメントをつけるか否か、そのコメントがどう展開するかは、書いているうちにきまる。
当然、漢字や送り仮名のチェックはするが、書き直しは、ほとんどしない。


★ “下ネタ”

ぼくは“下ネタ”ということばも、その言葉で表現される内容もきらいである。

とても親の躾がきびしく、<上品>に育ったからだ(嘘)

だが(下ネタはきらいだが)、“下半身の問題”というのは好きである。
さて一般に、“下半身の問題”には二種類あるといわれている。
セックスと排泄である(どっちも同じであるという“見解”もありえる)

どちらも、ヒジョーに重要なのに、軽んじられているor話題にされることが(つまり“公共的”討議が)貧困ではないだろうか。

たとえば、寝たきりの人々の<オムツ問題>。

人間の“最後の尊厳”の具体的根拠のひとつは、自分で排泄することである。


★ まずい展開

根が真面目なので、どうもこの<下半身問題>が、ハナから、<ヘヴィー>(いま“屁ヴィー”と変換!)になってしもうた。


★ 精神分析学

精神分析学に関する本を読んでいると、やたらに<肛門期>という言葉に出会う。

みなさん、この言葉に、なんらかの“ムズムズ”をかんじませんか?!

べつに“肛門のあたり”がムズムズしなくてもいいのよ。

<人間>というものを、“シンプルに”考えれば、たしかに(人間も)、口~肛門につながる<管(くだ)>なんよ。

まあこういう“発想”に、顔をしかめるひとがいるなら、“この管に<脳>が連結している”と<定義>しよう!


★ 未知なる展開

あっという間に上記を書き終わり、いよいよ<本論>突入か?と思われる。

<肛門>の次はなんでしょう?(爆)

しかし今日は(今日も)疲れてるのよね。

今日は変な時間に(5時過ぎに)渋谷で旭川味噌ラーメン食べたよ、その後コーヒー(マンデリン)も飲んだ。

もう夕飯抜きで寝ちまうか。

この深淵かつ遠大な<テーマ>については、いずれまた。

明日から4連休(予定)なので、本を読み、<引用>ブログを書くほうが、(ご期待に添えないかもしれないが)<生産的>かも。

しかし<生産=排泄>という論理展開もありえるなぁー。




もったいない

2010-01-28 10:09:01 | 日記

仕事に行く日が続くと、便秘がちになる、いや、本が読めない。
通勤電車や喫茶店で数ページ読むだけである。

《誰かがヨーゼフ・Kを中傷したにちがいなかった。悪いこともしていないのに、ある朝、逮捕されたのだ。》(カフカ『訴訟』(光文社古典新訳文庫2009)

というような、苦手なカフカさえ、面白そうに見える(笑)

電車に乗ったり、街を歩いて、なにが<面白い>だろうか!
毎日、同じ人の顔を見て、どうして心ときめくであろうか!

街を行き、楽しげな“若者たち”を見るにつけ、溜息がでる。
ああ“若いって、すんばらしい”、彼らは自分が60歳になったときを<想像>できない。

<ああ、もったいない>(爆)

もちろん<反省>すれば、ぼくも彼らと同じ年代の頃は、“同じように愚か”だったのである。
まったく、徹底的に愚かだったなぁー。

しかし、<現在>、そう反省できるからといって、ぼくが、この<愚かさ>から脱したなどということは、まったくない。
<別種の愚かさ>に突入したのだ!(笑)

つまり<本を読む>という行為も、<愚かさ>と無縁ではない。
まったく。

しかし(笑)、もし本がこの世になかったら、ぼくは退屈で死ぬであろう。
このことだけは、たしかである。

つまり、<その本>が、エンターテイメント(ジャンル)であるか否かなど、なんの問題でもない。
<それ>が哲学であるか、社会科学であるか、文学であるかなぞ、なんの問題でもない。

<カント>だって、エンターテイメントである。
<フロイト>なら、スリル満点。
<ベンヤミン>は、満天の星。

ぼくは近年、<小説>というものをあまり読んでない。
中上健次と青山真治は例外であった。
ぼくの机の回りには、数々の<小説>が、ぼくを待っている。

<カフカ>が、もぞもぞ存在をアッピールする。
『パルムの僧院』、『闇の奥』、『若い芸術家の肖像』、『アブサロム、アブサロム!』、『水死』、『黄金探索者』、『存在の耐えられない軽さ』……

ああ、<存在の耐えられない軽さ>!
<失われた時を求めて>!!!

あなたの<欲望>、あなたが<何を楽しむか>は、重要である。

飢えた子の前では、<文学>は不可能(無効)である。

“アウシュヴィッツのあとでは、<詩>は、<野蛮>である。

もし、ぼくらが、飢えた子でも、アウシュヴィッツの住人(捕獲されたもの)でもないのなら、読むことは、やはりこの人生で他になかなか見出せない<楽しみ>である。


今日もこれから、仕事に行く(笑)



基地についての機知ある考察;停止しない思考

2010-01-28 08:44:24 | 日記

さて内田樹最新ブログ“基地についての思考停止”を取り上げる。

しかしここでぼくが、ぼーっと“考えたい”のは、<基地問題>というより<思考停止>の方である。

すなわち、内田樹のような文章を、面白がって読む人々(そーゆう人々が多いようだが)は、<思考停止>ではないのか?と問う。
あるいは、内田樹というひと、も、<思考停止>ではないのか?と問う;

引用開始;

アメリカが沖縄の基地を返還するということがありえないのは、保守派の政論家たちが言うように、それが対中国、対北朝鮮の軍事的拠点として有用だからではない。
軍事基地が有用であるように見えるように、アメリカは対中国、対北朝鮮の外交的緊張関係を維持しているというのがことの順序なのである。
軍事基地を他国領内に置く合法的な理由は、「そこに軍事的緊張関係があり、それをコントロールすることがアメリカの責任である」という言い分以外にないからである。
だから、沖縄の基地問題は、単なる軍事技術や外交の問題ではなく、アメリカが「思考停止に陥るマター」という国民的トラウマの問題だと申し上げているのである。
基地問題を論じるさまざまの文章を徴するときに、「アメリカがそもそも他国領内に軍事基地を持つことにいかなる合法性があるのか?」という根本的な議論はきまってニグレクトされている。
それはアメリカ人がその論件については自動的に思考停止に陥るからであり、アメリカ論を「アメリカ人がアメリカを論じるフレームワーク」で語るすべての「専門家」もひとしくその「思考停止という病」に罹患しているからである。
(以上引用)


けっこう“正しい”ことを言ってるじゃん(笑)

しかし、こんなことは<あたりまえ>である。

これを<あたりまえでない>と思う人々は、“保守派の政論家たち=すべてのメディア”の言うことをただ鵜呑みにしてきた<阿呆ども>である。

しかしこういうことに<気づく>のは、内田樹先生だけではないのである。
柄谷行人は1990年のアメリカ・プリンストン大学での講演で、
★ しかし、私が今日話したいと思うのはそれ(注;「帝国」、「近代国家」、「帝国主義」)を政治・経済的に解明することではありません。たとえば、ナショナリズムの問題は、たんに政治・経済的な視点ではけっして理解できません。それは、むしろ文学的あるいは美学的な問題です。(“帝国とネーション”-『<戦前>の思考』)
と言い切っている。

ぼくはこの文章を、たまたま昨日読んだだけである(笑)

この発言は“20年前”ですよ。
やっぱり頭の良い人というのは、いるもんだ。
この<発言>にくらべれば、内田樹は“トロい”。

つまり柄谷行人は、“すべては、<文学>(美学)の問題だ”と言わんとしている。

こういうのが<ラジカル>なんです。

内田樹の“論議”においては、まだ、
《基地問題を論じるさまざまの文章を徴するときに、「アメリカがそもそも他国領内に軍事基地を持つことにいかなる合法性があるのか?」という根本的な議論はきまってニグレクトされている》(引用)というような、<法的根拠>が問われている。

こういう論議に<説得性がある>と思う人が多いだろうね。
しかしほんとうに、“そんなこと”が<問題>ですか?

もし<合法性>で、すべてが裁かれる(誰によって?)なら、この世に<矛盾=不正>なんてあり得ない。

“これが合法的か否か”と問うような<リアリスト>の感性こそ、現在の<思考停止>をもたらしているんじゃないの?

まさに、ぼくたちは、この<合法性>という<法の思考>をこそ問うべきだ。

どこかに依拠すべき<法=正義>が、“すでにあり”、それから逸脱しているか否かを“問う”ダケでいいんですか?

ぼくたちが<思考する>というのは、<そういうこと>なんですか?


おそらく<文学に依拠する>と言ったら、<誤解>する人々が多いと思う。

しかしそういう人々は、<文学>を知らない、あるいは、<文学>を甘く見ている。

だからこそ、まさに<文学>についての<思考>と、<文学>の革新が要請される。

すなわち、<思考を停止しない文学>が。

<文学>は、たんなる気晴らし(エンターテイメント)じゃない。


<文学>だけじゃ、ダメかしら?




美しいだけじゃダメかしら?

2010-01-27 11:18:32 | 日記


まず今日の読売編集手帳を読んでいただく;

ルノワールと聞いて、薔薇色の頬をした可憐な少女を思い浮かべる人も多かろう。生命力あふれる肖像画によって「幸福の画家」と呼ばれるその人も、当初の評判は散々で、光の点々を描く技法は“腐乱死体”との悪評を浴びたという◆〈モデルたちでさえ、ルノワールに描かれるのを嫌がったので、彼は自分の家の家政婦をモデルにしなければならなかった〉。美術評論家の高階秀爾さんが著書「近代美術の巨匠たち」(岩波現代文庫)に書いている◆新しいことを始める人に受難はつきもの、印象派の巨匠も例外ではなかったらしい◆『団扇を持つ若い女』『アンリオ夫人』など国内外の主要コレクション77点を集め、画業と技法を振り返る「ルノワール―伝統と革新」展が東京・六本木の国立新美術館で開催されている。うっとうしい世相をしばし離れ、ルノワールならではの、一枚一枚の絵が放つ暖かな春の空気に触れるのもよろしかろう◆愛らしい少女や美しいご婦人に別れを告げて外に出ると、風は身を切るように冷たい。〈ルノアルの女に毛糸編ませたし〉。俳人、阿波野青畝の句に、ひとりうなずく。
(以上引用)


このひとは、何に《ひとりうなずく》のであろうか?(笑)

この文章のテーマは、どうやら<美>(美しい)ということらしい。

《生命力あふれる肖像画によって「幸福の画家」と呼ばれるその人も、当初の評判は散々で、光の点々を描く技法は“腐乱死体”との悪評を浴びたという》

<腐乱死体>!

すなわち、“美の評価”も、時代によって変わるということであろうか。

だっから、《新しいことを始める人に受難はつきもの》なんよ。

下記ブログ(「アバター」関連ニュース)には、<現在の美>についての記述があった;

《コンピューター・グラフィックスで描かれる星の自然風景の美しさや3Dの映像が観客を引きつけたようだ》

《この現象は、3D(3次元)で描かれた美しい神秘の惑星パンドラの風景や、自然と調和した住民の平和な生活に魅せられた人が、現実の生活との差に悩むことで起きているようだ》

はてさて<教訓>はなんでしょう?
ルノワールVS.“アバター”、でしょうか?

ぼくは昨日仕事の帰りに、冬枯れの上野公園を歩いたんですね(とてもよい天気)
その景色は、<美しかった>でしょうか?
少なくとも、“ルノワール”でも“アバター”でもなかったよ。

そんで、《映画に出てくるユートピアと全く違う現実が一層不完全に見えてしまう》とか、《日本はアニメ・ゲーム文化が根付いていて、そこまでの人はいないのでは》ということになるのかね。

べつにぼくは<リアリズム>が好きなワケでもないですが。

上野で、コーヒーが飲みたくて入ったがらがらの喫茶店に、女二人、男一人の“大学生”がいたのよ(会話で大学生であることが聞えた)。
そのうちのひとりは、ぼくが喫茶店にいるあいだ中、“化粧”をしていた。
小太りの“男の子”の前で。

かくも<美>は、重要であった!

たしかに、ぼくにとっても、<この世>は、あんまり美しく見えない。

でも、美しい瞬間は、ある。