Don't Let Me Down

日々の雑感、引用。
言葉とイメージと音から喚起されるもの。

最後の審判

2014-05-30 14:13:31 | 日記

★ 出来事の連鎖に必然の様相を帯びさせる最後の審判の視点そのものが、究極的には、偶然の選択の所産である。そこで、異なる最後の審判の視点を採用すれば、どうなるのか。それまで、存在していなかったことにされていた、過去の失敗や挫折が、存在しえたこととして見出され、しかるべき意味を受け取ることになるのだ。

★ こうした最後の審判の視点の置き換え、再選択は、しかし、歴史を専門とする学者の象牙の塔の中での知的努力の問題ではない。ある社会に内属する者として、歴史を振り返るとき、われわれは、その社会の基本構造を規定する規範や枠組みを受け入れてしまっている。言い換えれば、最後の審判の視点は、この場合、支配的な体制の視点と合致するほかない。それゆえ、過去の中の「存在していたかもしれない可能性」を救済するということは、現在の体制そのものを変換することを、つまり革命を意味しているのだ。革命は、未来を開くだけではなく、過去を救済するのである。

★ 逆に、こうも言える。「もし敵が勝てば、死者でさえも安全ではない」(ベンヤミン“歴史哲学テーゼⅥ”)。今、歴史の中で、輝かしい勝者や英雄として登録されていた死者も、革命の結果によっては、無視される敗者の方へ、遺棄されるクズの方へと配置換えになるかもしれないからだ。死者が、もう一度死ぬこともあるのだ。

<大澤真幸『量子の社会哲学』(講談社2010)>




“私はついに決心した”

2014-05-29 23:48:49 | 日記

このブログを4月18日以来更新してないので、(ほとんどいないと思うが)ぼくのことを心配している方がおられるなら、ぼくは生きています(笑)

この自分のブログを、(ほとんど)見さえしないのだけれど、たまに見ると、それなりの“訪問者”さえあるので、不思議です。

ただし、このブログは、ずっと“引用”なので、(更新されなくても)これまで引用された文章の数々を読み返していただけるなら幸いです。

ぼくまったく“気分”でこのブログをやっているので、また、新しく“引用”をはじめるかもしれないが。

最近のぼくの“生活”もこれまでとさして変化しているわけではありません(変化しようないじゃん!)

“読書”は、どうも新しい本を読むより再読が多いね。
“再読”すると、ほとんど初めて読むような気がするので、いったい俺は(最初)なにを読んでいたんだ、とばかり思う。

さてこのブログのタイトル=“私はついに決心した”は、スピノザからの引用ですが、ぼくはいくつになっても、“私はついに決心した”とは言えません(ああ!)
だから、“こう言えたら、カッコいいな~”と思うよ;

★ 一般の生活で通常見られるもののすべてが空虚で無価値であることを経験によって教えられ、また私にとって恐れの原因であり対象であったものは、どれもただ心がそれによって動かされる限りでよいとか悪いとか言えるのだと知ったとき、私はついに決心した、われわれのあずかりうる真の善で、他のすべてを捨ててもただそれだけあれば心が刺激されるような何かが存在しないかどうか、いやむしろ、それが見つかって手に入れば絶え間のない最高の喜びを永遠に享受できるような、何かそういうものは存在しないかどうか探求してみようと。

(スピノザ『知性改造論』―上野修『スピノザの世界』(講談社新書2005)より引用>