Don't Let Me Down

日々の雑感、引用。
言葉とイメージと音から喚起されるもの。

物語が始まる;白痴

2010-07-03 16:12:21 | 日記


★ 11月の末、寒さがゆるんだ日の朝9時頃のこと、ペテルブルグ=ワルシャワ鉄道の列車が全速力でサンクト・ペテルブルグに近づきつつあった。ひどく湿っぽくて靄がかかっているせいで、あたりはようやく明るんだばかり。線路の右手も左手も、十歩離れるともう何ひとつ車窓から見分け難いほどだった。乗客には外国帰りも混じっていたが、格別混みあった3等車の座席を占めているのは、概して仕事で旅する普通の人々で、遠方からの客は少なかった。みなお定まりのように疲れきって寝起きのどんよりとした目をしており、体は冷えきって、顔も靄と同じように血の気のない黄ばんだ色をしていた。

★ 3等車の窓際の席に、夜が白む頃からずっと、二人の乗客が向かいあって座っていた。いずれもまだ若く、ほとんど手ぶらで、しゃれた身なりもしておらず、いずれもかなり特異な容貌の持ち主で、おまけに、互いに相手と話を始めたがっていた。

★ ・・・・・・向かいに座った客のほうは、湿っぽい11月のロシアの夜のご馳走を、がたがた震える背中ひとつで受け止めねばならなかった。明らかにこんな状況を予期していなかったのだ。彼がまとっているのはかなりゆったりとした厚地の袖なしマントで、大きなフードがついている。ちょうど冬場にスイスだとか北イタリアだとか、遠い外国を旅行する人たちがよく着ているものと同じだが、もちろん、そんな格好のままアイトクーネンからペテルブルグまで行こうなどという者はいない。

★ フードつきマントの持ち主も同じく26か7といった年頃の青年で、背丈は中背よりも少し上、つやつやしたブロンドの髪は豊かで、こけた頬にほんのひとつまみ、先のとがったほとんど真っ白な顎ひげを生やしていた。大きく青い目はじっとこちらを見つめてくるようで、しかもその眼差しは、なにか物静かながら重苦しいものを含み、一種不思議な表情をたたえていた。ある種の人は一瞥しただけで、この人物が癲癇病みだと見抜くことだろう。

★毛の裏地がついた外套を着こんだ髪の黒い同乗者は、手持ち無沙汰のせいもあってこのすべてを観察し終えると、隣人の失敗を見た人間の満足感を無遠慮にさらけ出してしまう、例のあけすけな薄笑いを浮かべて、こう訊いた。
「寒いかい?」

<ドストエフスキー;『白痴 1』(河出文庫2010)>






ひき蛙たち

2010-07-03 15:08:12 | 日記


★ 海を前にして浜辺に坐る。すると同時に、人は浜辺のなかや海のなかにいるのだ。いかなる種類の言葉も必要なく、期待もなかったのに、そういうことが生ずる。本当にはなにものも欲しなかった。ただそういうことが生じたというだけだ。言葉を殺すための音楽、言葉よりも早く進むための音楽。理解するための音楽ではなく、苦しくて、極度に意識的な熱狂。するとたちまちのうちに、宇宙の模様が見られ、聞かれ、感ぜられ、知られる。

★ 一閃のきらめきのうちに社会のかなたに達する音楽。歴史や図面や地図がなんになろうか。もはや個人もなければ、支配もない。問いもないし答えもない。粉砕された対話。頭脳は外部にある。そのことだ、恐ろしくて美しいのは。

★ つくりだされた模様、記号やアラベスクや仮装、そういうものが今ではありありと見える。音が視線のようにそれらを照らし出したのだ。それらが小石や海の上に、日の光を浴びつつ現われる。それは長いあいだ続く、終わることのない爆発だ。燃焼の息吹きは、止むことのない風のようだ。

★ 空気、水、森、樹々の葉、月、雲、河、池を這う影、動物たちの目、そしてたぶんかなたでは、都市、靄の立ちこめた街路、自動車の車体、女たちの顔、戦火の響き。それらは、沼のなかに坐りこみ、向かいあいながらも、互いの姿は見ずに鳴き続けるひき蛙なのだ。

★ ある日のこと、人間たちは、森の奥の沼の中で、湿っぽい隠れ家に姿を隠して坐っていた。すると、家々や、コンクリートの都市や、自動車の行き交う道路や、駅や、海岸や、無味乾燥な大きい広場が、奇妙な動物たちによって満ちあふれてしまう。動物たちは、ふにゃふにゃした手と、膿疱(のうほう)におおわれた背中と、鼻のない顔と腫物のような両の目とをもっている。ひき蛙たちだ。

<ル・クレジオ;『悪魔祓い』(岩波文庫2010)>





コメントへの答え方の練習

2010-07-03 12:36:19 | 日記


今朝書いた“瞬間沸騰社会”に対して、“はやくも”コメントがついた。

最近このぼくのブログには、“コメント”がつくのである(笑)
いよいよgooにおいて、“認知度”が上がってきたと、“はっぴい!”である。

努力は報われる、であろうか?(爆)


そこで、このコメントに対して、ていねいに、“コメントへの答え方の練習”をしてみたいと思う。
まず全文を掲載;

<負けたのに英雄気取りの日本サッカーは国民不在のペテン協会だ> (美奈子) 2010-07-03 10:51:03

日本サッカーは本当に弱い。野球のように世界選手権で二連覇することなどさらさらない。またもや日本サッカーは決勝トーナメントで負けてしまった。それもなんと最後のいちばん大事なところでヘマをして負けたのだ。PKなんて入れて当たり前で、べつに代表選手でなくても成功させることはできる。それを失敗すれば日本チームが負けることがわかっているのに、代表になった選手が失敗するとは最悪だ。こんな弱弱しい代表チームの連中だが、日本国内に帰ってくるとでかいツラで莫大なカネをふところにして、高級車を乗り回し大勢の美女を引き連れて栄耀栄華を楽しんでいる。負けて帰ってきたのに市民栄誉賞を贈られるしまつであるから、あきれはてたものだ。これでは強制的に人生を破壊されたまま虐待にあえぐ国民はまったく浮かばれない。ジェーリーグなどやめたほうがいい。日本サッカーはすでに国民から離れていて、日本の外では勝てないのに実力がなくても優雅な人生を送ることができるペテン協会である。サッカー協会に入れてもらって凶悪犯の談合でうまい酒を飲みまくる詐欺集団なのだ。負けているのに国民をだまして英雄気取りで芸能活動でうまいしるをすする最悪の日本サッカーである。
(以上コメント引用)


レッスン1 ごあいさつ;

★美奈子さま、はじめまして。


レッスン2

☆《日本サッカーは本当に弱い。野球のように世界選手権で二連覇することなどさらさらない。またもや日本サッカーは決勝トーナメントで負けてしまった。》

★ そうだよね、でもぼくは野球で日本が強いとも思わない。


レッスン3 

☆《それもなんと最後のいちばん大事なところでヘマをして負けたのだ。PKなんて入れて当たり前で、べつに代表選手でなくても成功させることはできる。それを失敗すれば日本チームが負けることがわかっているのに、代表になった選手が失敗するとは最悪だ。》

★ PKというのは、偶然です。すなわち技術的には入れられるものが入れられないのは“心理的”要因です。だから過去においても優秀な選手(たとえばバッジョ)がはずした。
だからそれが<ヘマ>であることはおっしゃる通り。
プロとか日本代表であるなら(あるわけだ)そのヘマは“最悪”だという観点もアリです。
もしこの“ヘマ”を許せることがあるなら、それは、その失敗した選手への人間的興味です、すなわち“ヘマ”をするのが人間ですから。


レッスン4 

☆《こんな弱弱しい代表チームの連中だが、日本国内に帰ってくるとでかいツラで莫大なカネをふところにして、高級車を乗り回し大勢の美女を引き連れて栄耀栄華を楽しんでいる。負けて帰ってきたのに市民栄誉賞を贈られるしまつであるから、あきれはてたものだ。これでは強制的に人生を破壊されたまま虐待にあえぐ国民はまったく浮かばれない。》

★ たしかに《あきれはてたもの》です。
ただボールを蹴るのがうまいだけでね(笑)
ただ《あきれはてたもの》は、サッカー選手にかぎらないでしょ?
現在ニッポンの“有名人”(ようするにテレビに出てるひと)は、みんな同じではないでしょうか。
つまり“栄誉賞”を贈られる人々というのは、みんな疑わしい。
さて、問題は《強制的に人生を破壊されたまま虐待にあえぐ国民》ということ。
つまり《強制的に人生を破壊されたまま虐待にあえぐ》という“状態”にも、いろいろあるということ。
《強制的に人生を破壊されたまま虐待にあえぐ》というのは、“論理的”には正しいのです。
けれども、ぼくが関心を持つのは、《強制的に人生を破壊されたまま虐待にあえぐ》人々の“在り方”なんだ。
ぼく自身をふくめたそのような人々の“在り方”を変えることが、“あきれはてた状況=この世界”を変えることだ。


レッスン5 

☆《ジェーリーグなどやめたほうがいい。日本サッカーはすでに国民から離れていて、日本の外では勝てないのに実力がなくても優雅な人生を送ることができるペテン協会である。サッカー協会に入れてもらって凶悪犯の談合でうまい酒を飲みまくる詐欺集団なのだ。負けているのに国民をだまして英雄気取りで芸能活動でうまいしるをすする最悪の日本サッカーである。 》

★ ぼくはJリーグが開幕した頃、WOWOWに加入して、“セリエA”に夢中になった。
Jリーグも数年は熱心に見た。
けれどもこの何十年も見ていない。
今回W杯中継を見ていたら、“むかしの名前”の人々がゾロゾロ出てきたのに感嘆した。
これらの“解説者”や“元選手”が、日本サッカーをダメにした。
“戦犯”が、“戦後”大きな顔をして生き残るどころか“繁栄”してしまうというのが、<日本史>である。
すなわち“サッカー”もまた<日本社会>である。


《凶悪犯の談合でうまい酒を飲みまくる詐欺集団》は、日本サッカー協会のみではない。

このところ街頭を、“お騒がせ”している詐欺集団のみでもない。

いつかは、この詐欺集団の仲間入りを果たそうと、《うまいしるをすすろう》と、“テレビとケータイとネット”ばかり見ている<国民>こそ、問題である。





瞬間沸騰社会

2010-07-03 10:32:31 | 日記


まずニュースから;

<駒野選手の母に謝らせた…誤情報炎上、批判殺到すぐ修正>アサヒコム2010年7月3日8時30分

 サッカー・ワールドカップ(W杯)日本代表のパラグアイ戦で「TBSの番組が、PKを失敗した駒野友一選手の母親にインタビューして謝罪させた」という情報が一時、インターネット上を飛び交った。「思いやりがない」という批判が殺到したが、実はこれは誤った情報だった。投稿者たちも気づき、すぐに修正された。

駒沢大学グローバル・メディア・スタディーズ学部の山口浩・准教授は「数時間で収まり、たいした騒ぎにはならなかった。しかし、誤解が完全には修正されず、被害や迷惑が広がる可能性もある。多くの人が情報の送り手側になったが、ネット上の情報が正確なものかどうか気をつける意識が必要だ」と指摘する。
(以上引用)


ぼくの感想;

現在の“日本社会”というのは、幼稚園か!


ぼくが上記記事でいちばん驚くのは、《駒沢大学グローバル・メディア・スタディーズ学部准教授》の発言である。

“グローバル・メディア・スタディーズ学部”というのは、何を教え学ぶ所であろうか。
この“准教授”は、何を“指摘”しているのだろうか。

《ネット上の情報が正確なものかどうか気をつける意識が必要》であることは、あたりまえである。

ならば、新聞=テレビ上の情報が《正確なものかどうか気をつける意識が必要》ではないのだろうか。

“一般に”、他人が言っていることは、《正確なものかどうか気をつける意識》が常に必要である。

《他人が言っていることは、正確なものかどうか気をつける意識》を、<批判精神>という。

批判精神を持ったものを、<大人>という。

批判精神を持つためには、“気長な思考”がいる。

聞くこと(読むこと)と、考えること(表出すること)の長い作業=持続する思考がいる。

それは、目前のことのみに“瞬間沸騰”する態度とは対極にある。

根気ある地道な努力は、必要である。

孤立に耐える強さは必用である。

ぼくは人間には2種類しかないと、前に書いた。
保守的なひとと、そうでないひと。

ぼくが考える“保守的でないひと”とは、“他者から学ぼうとするひと”である。

“世界から学ぼうとするひと”である。

ドゥルーズ的に言うなら、“この差異としての世界の<差異>を認識することによって”、《事物をあれではなくこれに、他の何でもなくこれにさせる》ひとである。

《なぜ、他のあの事物ではなくこれなのか》を知ろうとするひとである。

なぜなら、ぼくらが愛することができるのは、《他のあの事物ではなくこれ》であるからである。


《事象そのものへ》と言ったのは、フッサールである。

フッサールにかぎらない。

この世界の<危機>を感知したからこそ、《事象そのものへ》の苦闘は始まったのだ。

ねばりづよく考えようではないか、批判精神を失わずに。