Don't Let Me Down

日々の雑感、引用。
言葉とイメージと音から喚起されるもの。

この世界を肯定することについて

2010-07-15 07:18:13 | 日記


ぼくの生活は単調である。

もう現役サラリーマン時代のように、日々“仕事に追われる”わけではない。
たくさんの人に会うわけではない。
かなり“自分の時間”があり、それをいかようにも使用できる。
“いかようにも使用できない”限界があるなら、それはやはり“おカネ”である(笑)

こう今思うのは、ここ1ヶ月くらい、仕事の日が多く、ここ数年続けてきた生活のペースがくるったからだ。
端的に言って、まとめて本を読めなかった。

はっきり言って、そうなると“あせる”のである。
ぼくが本を読んでも、一銭にもならないが、ぼくはやはり本を読むことが、自分の<仕事>だと思っている。
それはまったく個人的な義務である。
ぼくが本を読まなくても困るひとはいない。
ぼくが本を読まないことが、“外部”に関連することがあるとすれば、“このブログ”くらいだ。

ならば、なぜ本を読むことがぼくの義務であるかを、いぶかるひともいるだろう。
一般に本を読むことは、気晴らし・息抜き・エンタメであるか、“スキルを身に付ける”ことの一環であることもあろう。

本を読むことが“仕事”であるのは、学者やガッコの先生であることになっているが、ぼくはそのいずれでもない。
もちろん他者が気晴らしや知的生産のために本を読むのは勝手である。
というか、ぼくにとっても、本をよむことが“エンタメ”であってもいいとは、思う。

あるいは、エンタメ“として”本を読んできた経験もぼくにはある。
いまだって、面白い本を読みたいとは思うのだが、年を取るとなかなか、“ただ面白い”ということはないのである(これは本に限らない、はなはだ残念なことに;笑)


ここ1週間くらいにぼくが感じたこと。

ぼくは今度の選挙で“政治”がつくづく嫌になった。
端的に、このブログでも政治(というより政局だが)について、いっさい書かないことにしようかと思った。
しかし“政治の範囲”はどこまでだろうか。
政局について書かないなら、<社会>についても書けなくなる。
天声人語や読売編集手帳や、大新聞“社説”も批判しない(笑)

もちろん“そういうこと”もこれまで何度も考えたことだった。

ぼくは“空の写真”や“花の写真”を出し、デュラスやル・クレジオの“非政治的”文章に対する愛を書いていればよいのだ。
しかしすでに、もちろん、デュラスやル・クレジオの<小説>が“非政治的”であるはずがないという疑念が生じる。
大江健三郎や中上健次が“非政治的”であろうか、村上春樹さえも(笑)


そういうときにかぎって(つまりまとめて本が読めないときにかぎって)、サイードの『オリエンタリズム』というような本を読み始めてしまう。
まだ“序説”を読んだだけだ。

しかし、“この本”は序説だけでも衝撃であった(この有名な本に対して“いまさら”言うのははずかしい)

まさにぼくが、“非政治的な”ものに惹かれていきそうなとき、サイードは“そのこと”の欺瞞を語った。

すなわち“オリエンタリズム”という問題の設定によって、この世界が(歴史が)完全に政治的であることを記述することによって、逆に<政治>についての認識のラジカルな変更を迫る。

もっと単純に言えば(サイードは単純に言っていないが)、あらゆる<文学>は政治である。

しかもこの場合の<文学>の範囲は広大である、たとえば<映画>や<写真>も含まれる(サイードはそういうことは直接言ってないと思うが;笑)


さて、以上の記述(ブログ)に対して、<この世界を肯定することについて>というタイトルが付けられたことを“説明”する必要があるだろうか?

‘あーもんど’というひとの掲示板で、<心の平安について>の応答が出ている。

たしかに誰もが“心の平安”を求めるし、ぼくや‘あーもんど’も求めないわけではない(なぜ‘あーもんど’さんがそうであるかぼくが知っているかは、ぼくが彼女と暮らしているからだが)。

しかし、この<世界>を遮断して、“心の平安”を求めることはできない。