Don't Let Me Down

日々の雑感、引用。
言葉とイメージと音から喚起されるもの。

季節、市場(いちば)、匂い

2011-07-31 15:04:33 | 日記


字を読むのがかったるいときは、絵や写真を見るのがいい。

絵や写真で見ないで、どこかへふらっと出かけたい気もするが、おカネがないし、エネルギーもない。

ささいなこと、なにかをすると、そこで使わなくてはならない“伝達言語”の使用が、とてもおっくうなのだ。

それで立派な画集とか、大判の写真集とかを見るわけでもない。

文庫本である。
開高健の昔の釣り紀行(『オーパ!』(集英社文庫)、『もっと遠く』、『もっと広く』(文春文庫)、そして藤原新也『全東洋街道』(集英社文庫)


『全東洋街道』は、最初に見た・読んだときから好きだった。
このごろ、ふと手にとって、その写真をパラパラ見るだけで、前とはちがった感触があった。

この本での藤原新也の文章はもちろんわるくない。
しかし、“写真”である。

ぼくは自分でも写真を撮るが、いかなる意味でも“写真にうるさく”ない。
ようするに、技術も理屈もないのである。

だから藤原新也の写真が、どういいかを言語化できない。
ひょっとして、“写真がいい”のではなく、“うつっているモノ(景色、ひと、食べ物、雨、風、街のにおい、光etc.)がよいのかもしれない。
が、その同じ対象を撮っても、フジワラ写真に“ならない”こともわかる。

文庫本『全東洋街道(下)、226ページと227ページ見開き写真。
街路に露店が並び、積み上げた豚の頭に雪が積もっている。
キャプション;《イスタンブールより一年 季節は再び冬》

文章(“湯気”)を読む;
★ 雪が降りはじめた。
舗道には泥土まじりの黒ずんだ氷がはりついている。
前方の道の面が肉屋のショーウインドウの真赤な灯を受け、一瞬どす黒い血を垂れ流したように輝いた。
遠い異郷にいるような気がした。
歩きながら先ほど聞いたうろおぼえのパンソリのメロディーが口をついて出た。
声帯がこごえて震えているだけのみっともない音声になってしまう。
歌をやめて顔を上げた。雪片が顔を刺した。
降りしきる雪の中に人影が右往左往している。
市場の匂いがした。
★ 雪の降りしきるむこうに湯気が立った。
★ 目の前にゆでた豚の頭が五つ並んでいた。私はこごえた手でのりまきをつまみ、おでんを食べながら目の前の豚の頭をながめていた。
(引用)







“腐りきっている”

2011-07-30 09:19:05 | 日記


日々報道される事態に対して、ぼくはコメントする意欲を失っている。

とてもだらしないことだと思う。

今日も“国家的やらせ”について何か書こうと思ったが、面倒くさい。

天木直人のブログが、ひじょうにシンプルに言っていることが、ぼくの“意見”と同じなので引用したい;



<「やらせ」大騒ぎはガス抜きだ>

 今頃になって原発宣伝のやらせが電力会社だけではなく経済産業省の仕業だったと大騒ぎしている。
 そんな事は、メディアはとっくに知っていたはずだ。それなのに、今頃になって大発見の如く驚いてみせる。
 「アクセルとブレーキを同時に踏んでいた」のではなく、「アクセルだけだった」と茶化してみせる。
 だったら直ちに関係者を処罰したらどうか。経済産業省を解体したらどうか。それを菅政権に求めたらどうか。
 決してそんな動きにはならない。
 
かつて裁判員制度挿入の際のタウンミーティングがヤラセだったと騒がれたことがあった。
 あれこそ政府の中枢の凶悪な情報操作の動かぬ証拠だった。
 しかし誰かが罰せられたか。最高裁は批判されたか。

 犯罪まがいは政府だけではない。
 原発推進のやらせが報じられた同じ日の各紙は、東工大の研究費をめぐる不正経理が報じられていた。
 しかも文部科学省によればすべての大学で不正経理の疑いがあるという。
 要するにこの国の中枢は腐りきっているのだ。
 それがわかっていながら権力者たちも、それを監視する立場にあるメディアも、本気でそれを追及する気配はない。責任者を処罰することはしない。
ガス抜きで終わるのだ。

 同じ日の報道にこんな記事が並んでいた。
 ベンアリ・チュニジア前大統領禁固16年の有罪
 ムバラク・前エジプト大統領公開裁判へ
 フジモリ元大統領7事件すべて有罪

 日本は権力者が罰せられない国なのである。
 こんな国であるから震災復興も原発事故対策も一向に進まず、被災民は救われず、権力者が居座って平気で増税しようとするのである。


(以上引用)









読んだ-書いた-死んだ

2011-07-28 12:27:27 | 日記


<伝記>というものがある。

最近の子供はどーかしらないが、ぼくが子供だったころ(半世紀前!)には、大人は子供に“偉人伝”を読ませたがった。

たとえばぼくの父である(笑)
彼は母と離婚して、母の元に残った(?)ぼくに、子供向け“科学者の偉人伝シリーズ”を送ってきたのだ。

いろいろな科学者がいたと思うが、いま記憶に残っているは、“ファラデー”とか“メンデルとルイセンコ”という名である。

ぼくの父は技術系であり、ぼくに“サイエンス”に興味をもってほしかったのだろう。
ぼくの母は“新古今和歌集”とかのひとだったので、そういうホーコーにぼくが行くことを恐れたのかも。

ぼくはといえば、当時、けっしてサイエンスが嫌いではなかった。
なにしろ“鉄腕アトム”であった。

というか、ぼくは“百科全書”派であった。
“科学者偉人伝”シリーズが終わった時、ぼくは子供向けの図や写真がたくさんはいった、“百科全書”的シリーズを毎月送ってもらうことにした。

そのなかで今でもはっきり覚えているのは、『天体と宇宙』という本である。
しかし、そこでぼくが、“天体と宇宙”についてなんらかの知識を得たわけではない。
なんとなく写真や図を見ていたのである。
ぼくの“なんとなくサイエンス好き”は中学生の頃まで続いたよーな気がする。
当時としては、図版が明瞭な大人向けの生物関係の本を(かなり高い本を)母に買ってもらったと思う(これも図をながめていたのだ)

いや“伝記”の話である。

現在ベルナール=アンリ・レヴィの『サルトルの世紀』を読みつつある(ひじょうに厚い本である)

これははじめて読んでいるが、これを読んでいたら、前に読了した『ミシェル・フーコー伝』(ディディエ・エリボン)がまた読みたくなった。

このフーコー伝については、立岩真也が“おもしろい”と言っているのをネットで読んだことも、この本を思い出させるきっかけになった。

* サルトル:1905年-1980年
* フーコー:1926年-1984年

彼らの生涯を数字で表わせば、上記の通り。

この彼らの“生涯”を伝記として書くにあたって、それぞれの著者は、さまざまな“方法”を提示している。

すなわち、あるひとの生涯を伝記に書くことにも、さまざまなアプローチがあり、その“客観性(事実性)”とそれを記述するものの“個性(感性―論理)”が問われる。

あるひとの生涯は、無数の要素からなる。
なにを食べ、どのようにセックスしたか。
どこに住み、どこに移動したか。
どのように生活の糧を稼いだか。
かれらの正当性と偏見はいかなる相互作用をもたらしたか。
かれらは、死にどのように向き合い、結局、どのように死んだか。
かれらのジョークは、いかなるセンスだったか。
かれらは、なにを読み、そこからなにを学び、そしてみずからなにを書いたか。
しかし、この読むこと-書くことの連鎖は、彼らをどのように歪めたか。
かれらは、誰に、どのように出会ったか。
しかし、かれらは、ただ売名するだけのひとでなく、やはり人類に希望をもたらしたかったのか。


伝記は、サルトルとフーコーのみに係わるのではない。
ぼくが読もうとしている<ひと>の伝記は、いくつかある。

ジュネである。
ニーチェ、フロイト、ラカン。
アーサー・ランサム、グレアム・グリーン。
マルグリット・デュラス(まだ翻訳がない)、ハンナ・アレント。
中上健次(笑)

ぼくの知る限り現在“良い伝記”が存在しないひと=ベンヤミン(野村修の『ベンヤミンの生涯』はよい本だが、情報が不足している)

“自伝”というジャンルもある。
ギュンター・グラス『玉ねぎの皮をむきながら』を読もう。
アルチュセール『未来は長く続く』を買おう、サイード『遠い場所の記憶』も。

インタビューによる自伝もある。
レヴィ=ストロース『遠近の回想』は良い本だ。

“日本人”に関しては、まったく伝記が不足している。
大江健三郎の伝記が書かれるべきだ。
宮沢賢治についても、“現在からの”伝記を書く若者が現われないのか?

もちろん、“作家の死”や“テクストの至上権”の時代をぼくたちは経過し、“歴史”はまったく不明の概念となった。

偉人伝は、はやらない。

人類の歴史も、個人の歴史も、この現在のドタバタ騒ぎのなかで、まさに“空無(夢まぼろし)”となりつつあるのだ。

もはや、無名の人も、有名の人も記憶されない。

ただただ、この現在の、歴史的な他者の言説を窃盗し、それをチャート化してパソコンでプレゼンしてみせる“学者”のたわごとばかりが、氾濫するのだ。

その学者のたわごとを、自分の独創であるかのようにしゃべりちらす(もちろんそういう“参照”すらなく、しゃべりちらす)ソーシャル・メディアによる言葉が、ますます、言葉の形骸化をもたらすのみだ。

きみが、けさ思いついたおしゃべりは、そんなに“歴史的に独創的”なのか!

まさに“読んだ-書いた-死んだ”ひとから学ぶ。

あるいは、旅するひとに。







運動

2011-07-27 10:49:19 | 日記


★ godard_bot Jean-Luc Godard
労働者がフォードの車体のボルトを締めようとするときであれ、自分が愛している女の肩を愛撫しようとするときであれ、あるいはまた、小切手を手にとろうとするときであれ、それらのアイディアはどれもみな、運動に属しているのです。―ゴダール

★ godard_bot Jean-Luc Godard
私はいつも、人々がそれぞれドキュメンタリーとフィクションと呼んでいるものを、同じひとつの運動の二つの側面と考えようとしてきました。それにまた、真の運動というのは、この二つのものが結びつけられることによってつくり出されると考えてきました。―ゴダール
(引用)



上記引用二番目の、《ドキュメンタリーとフィクション》を、“リアルとヴァーチャル”に変換する(読み替える)ことができる。

現在の言論が徹底的に無意味なのは、無意識に・無思考に・無感覚に“リアルとヴァーチャル”を仕分けてしまってしか考えられない(文章が書けない・発言できない)“言論人”ばかりになってしまったからだ、と思える。

すなわち“リアルな人”(自分をリアルと考える人)は、“リアル”なことしか言わず(笑)、“ヴァーチャルな人”(ヴァーチャルな自分が好きな人)は、“ヴァーチャル”なことしか言わない(言えない)


要するに、一方に“古代の遺物”のような感性=論理の多数が存在し、もう一方に“オタク=ポストモダン”的な自分の存在自体がなかば架空の多数が存在する。

しかもこれら“多数”の人々は、瞬時に、“入れ替わりうる”人々なのだ。

だから、“多様な言説空間”なんか、どこにもない。

なにが起ころうが、“同じ人が同じことを言う”だけである。


だから、この状況への唯一の対抗策は、“現在の時空を離れる”ことである。

“現在の時空を離れた言説”を参照すべきだ。

それが、現在(この時代、場所)における《運動》である。

なんども言うが、“そういう言説”は、ゴダール語録のみではない。

離脱するために、探せ。







ドン・キホーテ;世界の解読・巡礼

2011-07-24 12:54:09 | 日記


★ 名は思い出したくないが、ラ・マンチャのさる村に、さほど前のことでもない、槍かけに槍、古びた盾、痩せ馬に、足早の猟犬をそなえた、型のごとき一人の郷士が住んでいた。昼は羊肉よりも牛肉を余分につかった煮込み、たいがいの晩は昼の残り肉に玉ねぎを刻みこんだからしあえ、土曜日には塩豚の卵あえ、金曜日には扁豆、日曜日になると小鳩の一皿ぐらいは添えて、これで収入の四分の三が費えた。そののこりは、厚羅紗の服、祭日用のびろうどのズボン、同じ布の靴覆いに使い、ふだんの日は黒っぽいベリョリ織で体面をととのえた。(・・・)われらの郷士の齢はまさに五十歳になんなんとしていた。

★ ところでご存じねがいたいことは、上に述べたこの郷士が、いつも暇さえあれば(もっとも一年のうちの大部分が暇な時間であったが)、たいへんな熱中ぶりでむさぼるごとく騎士道物語を読みふけったあまり、狩猟の楽しみも、はては畑仕事のさしずさえことごとく忘れ去ってしまった。

★ あらゆるこの種の本の中で、あの名高いフェリシアーノ・デ・シルバの作ったものほど彼の嗜好に投じた作品は一つもなかった。なぜならその文章の明快な点と、あの独特のこんがらがった叙述が、彼にはまるで珠玉とも思われたからであって、中でもどこを開いても『わがことわりに報い給う、ことわりなきことわりにわがことわりの力も絶えて、君が美しさをなげきかこつもまたことわりなり』などと書いてある、ああいう恋の口説きや決闘状を読むに及んでいっそうその感を深くしたからである。

<セルバンテス『ドン・キホーテ』(ちくま文庫1987)>





★ 紆余曲折にみちたドン・キホーテの冒険は、そのまま境界線を描いている。類似と記号とのかつてのたわむれはここでおわりをつげ、そこにはすでに新しい関係が結ばれているのだ。

★ テクストの証人であり、代理者であり、現実におけるその類比物であるドン・キホーテは、それらのテクストに自分を類似させることによって、それらが真実を語っていること、それらがたしかに世界の語る言語であることを証明し、そのことの疑うべからざる標識をもたらさなければならない。書物の約束しているものを実現することが彼の義務なのである。

★ 彼ドン・キホーテは、物語の内容のない記号を現実によってみたさなければならない。彼の冒険は世界の解読となるであろう。それは書物が真実を語っていることを示す形象を地表のあらゆるところで指摘するための、細心な巡礼となるであろう。

★ 『ドン・キホーテ』は、ルネッサンス世界の陰画を描いている。書かれたものは、もはやそのまま世界という散文ではない。類似と記号とのあの古い和合は解消した。相似は人をあざむき、幻覚や錯乱に変わっていく。物は頑固にその皮肉な同一性をまもりつづける。それらはもはや、それらがあるところのものでしかない。語は、みずからをみたすべき内容も類似も失ってあてどなくさまよい、もはや物の標識となることもなく、書物のページのあいだで塵にまみれて眠るのである。

★ とはいえ、言語がまったく無力になったわけではない。以後、それらはあらたな固有の力を帯びるのである。

★ 書物を読みすぎたために世界をさまよう記号と化し、世界から見忘れられていたドン・キホーテは、いまやおのれの意に反して、それと知らずに一冊の書物と化したのである。

★ 小説の第一部と第二部のあいだ、その二巻の間隙で、書物のみの力によってドン・キホーテはみずからの現実に到達した。言語のみからきて、まったく言語の内部にとどまっている現実に。

★ 『ドン・キホーテ』は近代の最初の作品である。なぜなら、そこでは同一性と相違性との残酷な理性が記号と相似とをはてしなく弄ぶのが見られるからであり、言語が物との古い近縁関係を断絶して、あの孤独な王者の地位にひきこもるからであり(これ以後言語は、文学としてしか、その峻険な存在においてこの孤独のなかから姿をあらわさない)、さらにそこで、類似が、みずからにとって非=理性と空想とのそれである、あらたな時代を迎えるからだ。

<ミシェル・フーコー『言葉と物』(新潮社1974)>







引用

2011-07-21 01:32:22 | 日記


地球の中心から延びる一本の直線が、地表の一点に立って空を見上げるあなたの足の裏から頭へ突きぬけてどこまでもどこまでも延びて行き、無限のかなたで天球を貫く一点、天の頂、天頂。

地球を南極から北極へ突き通る地軸の延長線がどこまでもどこまでも延びて行き、無限のかなたで天球を貫く一点、天の北極。

遥かに天の北極をかすめ遥かに天頂をよぎり、大空に跨って目には見えぬ天の子午線が大宇宙の虚空に描く大円を、38万4400キロのかなた、角速度毎時14度30分で月がいま通過するとき月の引力は、あなたの足の裏がいま踏む地表に最も強く作用する。

そのときその足の裏の踏む地表がもし海面であれば、あたりの水はその地点へ向かって引き寄せられやがて盛り上がり、やがてみなぎりわたって満々とひろがりひろがる満ち潮の海面に、あなたはすっくと立っている。

<木下順二「子午線の祀り」ラスト、影身の内侍の朗読>








解けない謎

2011-07-18 21:13:39 | 日記


★ 70年代、80年代、90年代と、私はゆっくりベンヤミンを読み継いでいく。そのなかに記憶にかんするものがあった。「1900年頃のベルリンの幼年時代」である。おそらく私だけではあるまいが、この本を読んでいると、まるで自分の幼年時代を読むような気持になる。どうしてか?生活環境が似ていたとか、それが子供としての大都市の経験であったとかいうのではなく、だれの内面にも埋もれている記憶があり、ベンヤミンがいうように、この記憶は想起する瞬間としての「いま」にかたちをとることに気づくからであろう。

★ 「1900年頃のベルリンの幼年時代」は一種の文学作品である。文学作品ならではのさまざまな読み方が可能である。この書物は記憶している事柄よりも、想起とはなにかということについて教えるところが大きい。私は自分自身の少年時代の記憶との向き合い方をあらためて考えるようにもなったが、ここではそれを述べない。いまは「1900年頃のベルリンの幼年時代」をどのように読んでいったかを語りたい。そしてここでは論じるという態度よりも、その繊細な言葉を読み取っていった経験を綴るほうが相応しい。溺れるのではなく、どのように深い感情にとらえられていったかを記述できれば幸いである。

1932年に外国 [スペインのイビサ島] にいたとき、私には、自分が生まれた都市に、まもなくある程度長期にわたって、ひょっとすると永続的に別れを告げねばならないかもしれない、ということが明らかになりはじめた。(ベンヤミン「1900年頃のベルリンの幼年時代」序)

★ 大人が、主として生活する人間の立場で都市や住居を経験すのとちがって、「子供」は都市や部屋やさまざまな道具を、考古学者か地質学者のような好奇心だけで探検していればよかったのである。彼は発掘し発見し、その細部を眺めていることができた。そこにあるすべての徴候を世界から送られてくる暗号として受け取っていたのだ。あるいは太古の人間のように、場所や部屋や家具に同化したというのが正確かもしれない。実際彼は、物に似ようとしていたと書いている。

★ われわれは子供のころに、その後も長く生き続ける象徴を貯え込んでいるのだ。見たものばかりではない。あるとき父親が部屋に入ってきて従兄弟の死を告げ、「子供」は父親の態度に不思議なものを感じる。こうした解けない謎もまた象徴として残っていくのだ。この象徴の集合がいわば神話をなすのである。しかし同時に彼が「いま」経験しつつあるのは歴史であり、そこにこの神話がどう溶け込んでいくかが、そこでの課題となるのだ。

<多木浩二『雑学者の夢』(岩波書店2004)>








ぼろぼろ

2011-07-16 12:18:19 | 日記


アサヒコムから;

<大飯原発1号機停止へ 冷却装置トラブル 16日夜にも>

 関西電力は16日、大飯(おおい)原子力発電所1号機(117万5千キロワット、福井県おおい町)を手動停止する、と発表した。緊急時に原子炉の炉心を冷やすために使うタンクの圧力が下がるトラブルがあり、原子炉を止めて原因を調べるという。関西の夏の電力需給はさらに厳しくなる見込み。
 関電によると、トラブルが起きたのは、事故時などに冷却水を注入するために複数設置されている「蓄圧タンク」の一つ。15日午後10時46分に異常を知らせる警報が鳴り、圧力を確認したところ保安規定上の制限値を下回っていた。圧力が低下すると緊急時に冷却水を注入できなくなる恐れがあるという。
 安全確保のため、16日午後1時ごろから出力を低下させる作業に入り、午後9時ごろには原子炉を停止する。トラブルによる環境への影響はないとしている。


<文科相、もんじゅ中止「言ってない」 午前会見から一転>

 高木義明文部科学相が、高速増殖原型炉「もんじゅ」(福井県敦賀市)の開発中止を含めて検討する考えを示した問題で、高木氏は15日夕、記者会見を開き、「びっくりしている。中止とは一言も言っていない」と火消しに努めた。
 高木氏は同日午前の会見で、もんじゅについて、東京電力福島第一原発の事故を踏まえ「エネルギー政策の見直しの中で方向性を出すことになる」と述べた。記者団に「中止を含めた方向性か」と問われ、「そりゃそうですよ」と認めた。
 高木氏は2回目の会見で「もんじゅは、これからのエネルギー政策の全体的な中で議論されること。それについて予断を持つものではない」などと繰り返し、中止については肯定も否定もしなかった。

(以上いまのアサヒコム・トップ10から)



すなわち、ひともマシーンも(システムも)ぼろぼろである。

けれども、


《トラブルによる環境への影響》は、あ・り・ま・せ・ん。


ぼくは断固として、別の場所=別の時間(すなわち別の<環境>、すなわち<読書>)へワープする。








ヌーヴェル・ヴァーグ;新しい波

2011-07-16 10:18:23 | 日記


★ godard_bot Jean-Luc Godard
ヌーヴェル・ヴァーグの誠実さは、自分がよく知らないことについて下手に語るよりはむしろ、自分が知っていることについて上手に語ろうとするところにあった。それにまた、自分が知っていることのすべてを混ぜあわせようとするところにあった。―ゴダール

★ godard_bot Jean-Luc Godard
ぼくにとっては映画を撮っているときと撮っていないときという、互いに異なった二つの人生があるわけじゃない。映画を撮るというのは人生の一部をなすことであるべきだし、ごく自然でごくふつうのことであるべきなんだ。―ゴダール
(引用)


このゴダール(初期だと思う)の“語録”を、ただ引用してるだけのツィッターが、最近のぼくにはいちばん面白い。

というか、その日起きて、いろんなニュースやブログやツィートを読んで、気分が悪くなったとき、最後にコレを読むと、やっと“正常な”気分になれる。

しかもこの“語録”ツィートは、ただリピートしている(循環している)だけなのだ。
何度も同じ言葉を読むことになる。

ただし、その“同じ言葉”を、“その日の(おびただしい)別の言葉”との対比によって読むことができる。

今日は、《宮台真司×小林武史「世界の手触りを失うな」》という細かい字で書かれて長い、“対談”もしくは、宮台へのロング・インタビュー記事の“後に”読んだのだ。

ここで、宮台真司が“まちがったことを言っている”とは(あまり)思わない。
またぞろ“ルーマン”とか“アガンベン”とかの固有名詞も健在である。

むかしのぼくだったら、その記事の“さわり”を引用したり、批判したりしただろう。

しかし現在のぼくは(震災-原発危機以後のぼくは)、もはや、そういう自分に面白くないことはやりたくない。

その発言が、いかに正しくても、自分に“つまらない”ことについて、コメントする必要を感じない。

現在、ぼくと年齢が近い“作家たち”=池澤夏樹、高橋源一郎、矢作俊彦等によって、“菅直人支持”の言説が現われている。<注>

ぼくは、一貫して“管直人不支持”である。
ぼくは“政権交代”のときから“民主党”を支持していない(過去のブログに書いた)

ぼくは現在のあらゆる政党、あらゆる“政治家”を支持しない。

だから、“管を支持するかしないか”などという話は、はなから、退屈である。

ぼくと“同世代の作家”たちも、見事に“認知症”に突入したものだと、思うだけだ。


そして宮台真司に話をもどせば、たしかに、《世界の手触りを失わない》こと、世界の手触りを失わないこと“のみ”が、ぼくには、肝要な、肝心なことである。

しかしもし《世界の手触りを失わない》言葉があるならば、それは宮台真司のようなボンボン東大出身教授(学者!)の言葉ではない。

ぼくは、“ヌーヴェル・ヴァーグ”や“ゴダール”を絶対化したり、信仰するものではない(そういうひともたくさんいる)

むしろ、いま、この言葉の氾濫(垂れ流し)のなかで、そのなかで、ゴダールの言葉が輝くことに驚く。


もちろん、それらの言葉は、ゴダールのみによって発せられなかった。

ぼくたちには、言葉を理解する無限の時間があるわけではない。

言葉をさがす努力もまた、この世界への《手触り》である。






<注>

”政治について”とぼけたことを言うひとは、”映画”についてもなにもわからない。

昨夜のBSで、「イージー・ライダー」という映画について、高橋源一郎がしゃべっているのを(たまたま)見た。

”あの時代”(「イージー・ライダー」が公開されたとき)、ぼくは”ロック”に夢中だった。

しかし「イージー・ライダー」という映画を、まったく評価していない(ようするに嫌いだった)

あの映画は、ロックを裏切っている、と感じた。

だから、ベトナム戦争反対で、ロックが好きだが、「イージー・ライダー」が嫌いな、ぼくのような人間もいた(いる)ことに、高橋源一郎の”想像力”は、思い及ばないほど、貧困なのだ。







文体;スタイル(辺見-藤原-大江-村上-中上)

2011-07-15 09:15:00 | 日記


★ 店にモーツァルトが流れている。窓際で対面している若い男女が影絵になっている。
双方とも黙したままである。けれど、腕と指とが、まるで曲を指揮しているみたいに、ときに緩く、ときに速く動いている。
二人の間に、鉢植えのサルビアがある。影絵の指の輪郭を、花がときおり緋色に縁どる。開いた朝刊を縦にずらし横にずらしして、私はシルエットを盗み見ている。都合二十本の指が、撓り、曲がり、折れ、くねり、弧を描き、射しこむ朝陽をたおやかに弾く。
店の外をダンプカーが地響き立てて通りすぎる。美しい指たちは、しかし、難なくノイズを跳ね返した。
二つの影絵から、やがて音のない声が私にも聞こえてくる。声のない声に豊かな抑揚を感じる。手話を、私は盗み聞きしている。抑揚の大きさを目でなぞっている。

<辺見庸“黙と抑揚”―『眼の探索』(角川文庫2001)>


★ 雨が止み、跨線橋の向こうに、一年越しのマーマレードみたいに萎びた太陽があらわれた。それが線路に沈み、ぐしゃりと貨車に轢かれて、この日もすっかり黄昏れたころ、私は首切り地蔵の隣の酒場に飲みに行く。
途中、惣菜屋の前で騒ぎがあった。薩摩揚げを二枚盗んだというので、中年男が小突かれている。ガード下で股引をつくろっていたあの男。路上に糞のように落ちた薩摩揚げを跨ぎ「ごめんなさいね、みなさま、ほんとにごめんなさいね」とつぶやいて、よろよろとあとじさる。昼にはまっすぐだった背を、くの字にして。
酒場では元鳶職のシゲゾウさんがいつもどおり、ただれ目に涙を浮かべて「みちのくひとり旅」をがなっていた。福建省から来た働き者のホステスのリンちゃんが、これもいつもどおり、私に「にいちゃん、元気か」と声をかけてくる。

<辺見庸“言葉の徒雲”―『眼の探索』(角川文庫2001)>




★ 海が荒れた次の日の静かな渚に、奇妙な形の海草がたくさん打ち上げられていた。
先端にバレーボールくらいの大きさの空気の入った球体があり、紐状の細長い茎が伸びている。茎の長さは50フィート以上もあり、引きちぎれた根の一部がついていた。その形状は別の天体から落ちてきた巨大な動物の子宮のように見える。
ホテルの人々は海を見ながら朝食をゆっくり済ませたあとで渚に降りてきた。そして海草を前に静かに語りはじめる。

★ 苦い思いのまま15分ほど走った。
ロング・ビーチの黒い海の広がりが途切れ、前方にロスアンゼルス川を渡る橋が現われる。橋が見えたとき私は無意識に先程から何かを躊躇している自分に気づいた。
あの橋を渡れば、
すべてが過去へと消え去るだろう。
夜の帳の中で橋が迫ってくる。
道が橋に向かってわずかに傾斜しはじめる。
何かの境界を示す振動が体に伝わる。
そのとき不意に手が動いた。
橋の直前でハンドルがまわる。
闇の中で車は金属音を発し、ヘッドライトが路上に大きな半円を描く。
怒鳴るようなクラクションが耳のわきを駆け抜けた。

<藤原新也“写真の女”―『アメリカ』(集英社文庫1995)>




★ ダケカンバの林にさえぎられて浅間は見えないが、噴火があると屋根に灰が降りつもる位置の、山小屋に来た。ソバにウドン、豚肉のショーガ焼き定食という種のものを出す、昔からの街道筋にある食堂で、近辺の狭い範囲に限られた地域に購読者を持つのらしい新聞を読み、僕はある記事に引きつけられ、それに発する想像をした。

★ 新聞で見つけたのは、ウガンダのマーチソン・フォールズ国立公園船着場で、日本人の青年が、若い牡の河馬に噛まれた、右肩から脇腹にかけて相当の怪我をした、という記事である。土地の新聞社の社長兼主筆が、日航の招待でヨーロッパ旅行をした。かつは自弁でアフリカまで足を伸ばしもした。その旅行記が一面トップに連載されているのである。河馬に噛まれたとはめずらしいし、わけても日本人の事故だからと、すでに負傷はなおり、リハビリテイションかたがたとでもいうか、観光客用のロッジで雑用をしている青年に会いに行った。ワーッ、ワーッと叫んだ、というほか災難の話はしたがらなかったが、浅間の麓で新聞を出しているというと、妙に懐かしがって、地形についてや気候のことをあれこれ聞いた。しかし言葉から、このあたりの人間でないことも確かな青年に、浅間周辺との因縁をたずねてみると、これは断固として一切話さない。新聞に紀行を書くことをいうと、自分の名をあきらかにしてはならぬというので、現地の言葉で河馬と闘う勇士と綽名されている、その「河馬の勇士」と呼ぶと、当の物語の記事はしめくくられていた。

★ そして僕の想像したところでは、やはり同じ匿名を用いることにするが、ウガンダで河馬に噛まれた「河馬の勇士」が、かつて僕とわずかながら関わりのあった青年で、かれのアフリカ行きには――つづまるところ国立公園の河馬に噛まれることになったいきさつにも――僕が責任の一半を問われねばならぬのではないか、ということである。

<大江健三郎『河馬に噛まれる』(講談社文庫2006)>




★ よくいるかホテルの夢を見る。
夢の中で僕はそこに含まれている。つまり、ある種の継続的状況として僕はそこに含まれている。夢は明らかにそういう継続性を提示している。夢の中では、いるかホテルの形は歪められている。とても細長いのだ。あまりに細長いので、それはホテルというよりは屋根のついた長い橋みたいにみえる。その橋は太古から宇宙の終局まで細長く延びている。そして僕はそこに含まれている。そこでは誰かが涙を流している。僕の為に涙を流しているのだ。

★ 目が覚める。ここはどこだ?と僕は考える。考えるだけではなく実際に口に出して自分自身にそう問いかける。「ここはどこだ?」と。でもそれは無意味な質問だ。問いかけるまでもなく、答えは始めからわかっている。ここは僕の人生なのだ。

<村上春樹『ダンス・ダンス・ダンス』(講談社文庫1991)>




★ タイチはそうやって生まれた。タイチは驚くほど元気な産声をすぐにあげた。オリュウノオバはタイチを手でささげ、人の技とは思えない素早さでどこも欠ける事のない男の子だというのを確かめ、衝立の向こうで息を殺している菊之助に「こんな子が他におろか。見てみ、こんな子おったら何も要らんど」と言う。菊之助は素直に「ほんまか」と嬉んだ。「よかった。弦のようでなかってよかった」オリュウノオバは菊之助のその言葉に苦しんだ。

★ 確かに弦のように手が牛馬の蹄さながらにただ二本の又に裂けて生まれるより、五本の指がついている方が、子は苦しまなくても済むのかもしれないが、女の腹を蹴って生まれてくる生命そのものに違いはない。オリュウノオバはいつも女の腹から顔を出す子に言った。何でもよい。どんな形でもよい。どんなに異常であっても、生命がある限り、この世で出くわす最初の者として待ち受け、抱き留めてやる。仏が生命をつくり出す無明にいて、人を別けへだてし、人に因果を背負わせる悪さをしても、オリュウノオバは生命につかえる産婆として、愉楽に満ちたこの世のとば口にいてやる。

★ 夫の礼如さんもそうだった。金持ちの家であろうと貧乏の家であろうと祥月命日には必ず経をあげに行き、冥福を祈った。この世の入口に別けへだてがないようにこの世の出口にも別けへだてがない。オリュウノオバは五体満足というので嬉び入る菊之助にそう言って説きふせたかったが、「えらい大っきい声やねェ。山も海も俺のもんや言うとるみたいやねェ」とタイチに声を掛けるしか言葉がなかった。

<中上健次『奇蹟』(小学館文庫・中上健次選集7 1999)>







日付のある写真

2011-07-14 15:53:17 | 日記


だれも非難したくない、こんな日本の現状になんの文句も言いたくない、と思う。

けれども、この日々ふりそそぐ言葉の貧しさと、映像のボケ具合と、聴こえてくる音楽の惰性は、どうしようもない。<注>

それだって、“客観的にそう”なんじゃなくて、“ボク”の夏バテとか、年齢による感受性の衰え、新しいものを受け入れられなくなった頑固さでしかないのではないかとも思う。


それにしても、“新しいもの”を読むのが、ダメである。
ぼくは、けっこう、“新しいもの”を追いかけてしまうタイプであった。
なにが“新しい”かには、モンダイがあるにしても。


先日は、“日野啓三”を思い出した。

今日は、辺見庸と藤原新也を、“思い出した”。
死んだ人を思い出すのと、生きている人を思い出すのは、ちがっている。
ある意味では、まだ生きている人を思い出すのは、現役で活動している人(この場合は辺見庸と藤原新也)に失礼にあたる。

そういえば昨年?ぼくは“大江健三郎”を思い出した。

さて今日の話題は、藤原新也である。
ここに1981年10月2日という日付をもった写真がある。

1981年というのは、もはやずいぶん昔である。
ぼくは、辺見庸や藤原新也の文章を、年代順にたどれば、この時代のリアルに触れるような気がする

その写真について書かれた文章(藤原新也の)を引用する;

★ 私は、その「事件の家」を撮る場合、その家を、惨劇の起こったイメージに沿って、たとえば、鬱々とした雨雲の低くたれ込めた日であるとか、嵐の吹きすさぶ凄惨なイメージの日に撮ることは、その家の現実を表わさないと考えていた。

★ 私がその「事件の家」を撮る場合、方法として選んだのは、(略)あのアート紙にカラーで印刷された「不動産建築広告」の写真の技法であった。
その一点の曇りもない晴れ渡った青空の下に、午後2時の直射日光に照らし出された、真新しい家々の写真である。

★ ただ、私はその無機的な写真に、ほんのちょっぴりだけ、その見え方に眼差しを与える方法を盛り込んだ。
折り込み不動産屋広告の写真の片隅に大書しているコピー、たとえば、
家族のみんなが、シティ感覚になった
といったわけのわからぬ美辞麗句を、
血飛沫を あつめて早し 最上川
と変えたのだった。

<藤原新也『東京漂流』(朝日文庫1995)>


上記引用文を読んで、藤原新也を誤解するひとがいるかもしれないので、公平のために(笑)、以下の部分も引用しよう;

★ 数枚のシャッターを押して、その場を立ち去ろうとした時、脚に触れた可憐なものがある。
……ほととぎすの花であった。
その白地に土紫色の斑点のあるいくつかの小さな花は庭の隅に隠れるようにしてひっそりと息づいていた。
(略)
ふと、そこに人の魂の残り火を見たような気がしたのだ。家の庭というものが主婦の心模様であるとするなら、その小指の先ほどの小紫は千恵子夫人の心の中の何か?……



辺見庸と藤原新也は、いずれも1944年生まれ。
辺見は東北の人、藤原は九州の人であるが。

すなわち、ぼくより数歩先を行くひとである。

この二人だって、とうぜん異なっている。

が、ある種の“過剰”を抱えており、たぶん、“ポストモダンな人びと”には、それがうざったい。





<注>
”ニュース”とそれに対する、わけ知りの”論評”(あらゆる論評)など、ウンザリだ!






* 画像は藤原新也の写真であるが、上記の日付のある写真ではない。
いずれにせよ、著作権が存在すると思うが、無断掲載、許せ。