Don't Let Me Down

日々の雑感、引用。
言葉とイメージと音から喚起されるもの。

Living Zero

2012-06-30 14:05:42 | 日記

昨夜の抗議行動について“賛否両論”があいかわらず姦しい。

“姦しい”という漢字は、女三人から形成される。

《愚者の行進》(池田信夫)
《単調なかけ声「さ・い・か・ど・う・は・ん・た・い」への苦痛》(石井孝明)
というようなブログもある。

ぼく自身は、家で“ニコ生”現場中継を見ていた。


さてこの事態に、ぼくが注目する(笑)“有名人”はどのように反応したか;

☆ 内田樹 ‏@levinassien
昨日平川くんと「ネット隠居」というアイディアを話しました。その日をさかいにして、ネット切断しちゃうの。もうメールも読まないし、ツイートもしないし、携帯にも出ないの。そしてひっそりと隠居するのであります。よし、決めた。でも、いつからにしようかな。
(引用)

さっさと隠居すればよい、とぼくは思う。


☆ 茂木健一郎・連続ツイート「私が、野田首相だったとしたら」

わの(3)すでにツイートしているように、私は、日本のエネルギー安全保障(純粋に物理的に、エネルギーが足りるかどうか)という視点から見て、原子力を使い続けることは仕方がない選択肢である、という立場をとっている。今でも、その考えは変わらない。それでも、デモを支持する。kenichiromogi 2012/06/30 07:25:11

わの(4)デモが表現しているものは何か。それは、何よりも、感情である。福島第一原発の事故が人々の心に及ぼした影響は、甚大である。放射線の健康被害についての科学的議論をいくら積み重ねたとしても、事故によって生まれた不安や恐怖を消すことはできない。kenichiromogi 2012/06/30 07:26:58

わの(5)同じことは、東京電力やメディアに対する不信感についても言える。重要な情報を隠しているのではないか、偏向した報道をしているのではないかという疑心暗鬼は、事実においてどうかという点を離れて、人々の心の中に「感情」としてすっかりと根付いてしまっている。kenichiromogi 2012/06/30 07:28:03

わの(6)昨日の官邸前デモは、何よりも、そのような人々の感情のうねりを表現したもの。自由で民主的な社会において、自分たちの感情を表すことは当然の権利であり、特に原子力政策という、国論を二分するような問題については、昨日のデモのようなかたちで気持ちを表すことは大切なプロセス。kenichiromogi 2012/06/30 07:30:03

わの(7)事実と予測に基づいた精緻な議論とともに、人々の感情もまた為政者にとっては考慮すべき大切な要素である。国民が、現に原子力政策について不安を抱き、疑念を持っているのに、それを無視して政策を進めるというのは、民主主義国家のあり方としては明らかに不当である。kenichiromogi 2012/06/30 07:31:46

わの(8)デモ参加者は、国民の代表。あれだけ多くの人たちが、官邸前に何らかの感情を伝えに来ている。私が野田首相だったらどうするか。憲政史上異例なことであるが、デモ参加者の代表10名くらいを、首相官邸に招き入れ、原発政策について対話する、くらいの対応をしても良かったのではないか。kenichiromogi 2012/06/30 07:33:59

わの(9)一度招き入れて対話したら、多人数でデモをすれば首相官邸に入れるという「前例」をつくるという懸念もある。しかし、原発の問題は、明らかに異例な対応が必要な事案。対話を通してのみ、気持ちは変化することができる。再稼働を伝える先日の一方的な記者会見は、明らかに届かなかった。
kenichiromogi 2012/06/30 07:36:26

(引用)


茂木健一郎はなにを言っているか。
デモは“感情的”であり、“科学的(理性的)”ではないが、ボクはそれ(感情!)を理解するので、デモを支持する―と言っている。

これはまったく間違った(反理性、反知性、反論理)見解である。

なぜなら“反原発”は感情ではない。

“感情的”なのは、中途半端な“科学者”、インチキな“脳科学者”の非理性である。

まさにこのような“科学者”こそ、自分の<感情>を対象化したことがない。

茂木健一郎は、アインシュタインとか原子力を愛しているだけである。

ぼくは茂木健一郎より“感情”を重視するものであるが、だからこそ“科学的”に考える必要性を無視しない。



さてぼくにとって、問題は<隠居>である。

内田樹のような脳天気老人の“隠居”イメージは、笑ってすませられるものではない。

ぼくは現在、たいした仕事をしていないので、自分の仕事については、このブログにほとんど書いてこなかった。

まずめんどうくさいのである。
しかし今週、仕事で聴いた訪問医療を行っている医師の発言をここに記録する。

くわしく書けばいくらでも書けるが、めんどうなので要点だけを書く。
現在、病院で死ぬひとの数は減ってきている。
病院で死なないひとは、“在宅”で死ぬ。

死ぬというのは、多くの人が望んでいるように、ある日、トンコロリンと死ぬのではない。

死ぬまでに、人によってまちまちの“期間”が存在する。
その期間において、“介護される”という事態が発生し、“介護する人”が必要となる。

すなわち“老人”とは、自分が死ぬまで、介護される人となるわけだ。
ぼくが話を聴いた先生(若い医師)の言葉では、《人は死は受け容れられるが、介護を受け容れるのは難しい、なぜなら死には美学があるが、介護にはないから(笑)》ということである。

もちろん、介護される人も苦しいが、介護する人も苦しい。

この医師が訪問するケースは、ほとんどが独居老人か老老介護の家庭であるという。

このふたつのケースにも大きな違いがあることは、想像するだけでわかる。
しかもいずれのケースであっても、それぞれ個別の事情があるだろう。
また今後20年以上にわたってこのケースは激増するだろう。



さてこのブログのタイトルは、<Living Zero>である、ぼくは日野啓三という作家にこのところ惹かれている。
日野啓三は1990年還暦の年に腎臓ガン発見、摘出手術。
1997年膀胱ガン手術、1998、99鼻腔ガン手術、2000年クモ膜下出血で手術。
2002年大腸ガンのため死去。

しかし、不謹慎であるが、この病歴がめざましいのではない、この間、日野啓三は短編小説、長編小説、エッセイを書き続けていたのだ。

最後期の彼の小説には、たしかに病気や闘病についての“私的”記述がある。
しかし、そこからこそ幻想は紡ぎ出された、そこから、“この世界”を現出させる力が現われ出た。


池澤夏樹が日野啓三の短編集文庫化のさい書いた‘解説’から引用したい;

★ 彼らはみな「向こう側」へ行こうとしている。

★ 小説であるから登場人物は日常の中にいる。彼らは普通の人々であり、特別な能力や資格を持っているわけではない。サイゴンに赴任した特派員として、離婚を考える男として、久しぶりに故郷を訪れた者として、彼らは事象の雑踏の中にいる。この雑踏をぼくたちは日常と呼ぶ。

★ しかし彼らは日常に満足していない。暮らしに不満があるというのではなく、はじめから暮らしの中では得られないものを求めているのだ。彼らの視線は日常の外へ、あるいはいわゆる世間の外を向いている。通常の小説が世間の中で完結しているとすれば、日野啓三の小説はなんとか契機を得て世間を離脱しようと努力している。重力に逆らい、大気圏の外へ出ようとしている。

★ 世間の外への回路を探している者がいつの時代にも少しだけいる。日野啓三はそのような人たちを描く。彼岸、別世界、異次元、現世の向こうにある真理。呼びかたはいろいろあるが、そちら側を希求する思いが小説を書かせてきた。

<池澤夏樹‘解説“―日野啓三『あの夕陽 牧師館』(講談社文芸文庫2002)>




蛇足をひとこと。

つい先日ぼくは、村上春樹『1Q84  BOOK3』を読んだ。

ぼくは『1Q84』のBOOK1とBOOK2を刊行時に読み、がっかりし、BOOK3は購入しなかった。
このたびBOOK3が文庫化されたので買って読んだ。

このたくさんのひとが読んだらしい小説は、SF的なとか、荒唐無稽なとか呼ばれる世界を描いている。

しかしこの世界は、日野啓三の世界より、“世間的”である。

この村上ワールドは、決定的に、“世間ばなし”の内部にあり、《世間の外への回路》は閉ざされている。







首相官邸前抗議

2012-06-30 10:44:02 | 日記

6/29 首相官邸前抗議 上空 ヘリコプターからの 石井麻木撮影





*今日(6/30)のニュース;

<福島4号機プールの冷却が停止 水温急上昇なし>
共同 2012年6月30日 11時23分

 東京電力は30日、福島第1原発4号機の使用済み燃料プールの冷却装置で、午前6時25分ごろに異常を知らせる警報が鳴って自動停止したと発表した。
 冷却が停止した時のプール温度は31度で、放射性物質を含む水の漏えいは確認されていないという。東電は、水温が急上昇するとはみていないが、原因を調査するとともに、別系統の冷却装置を稼働させるか検討している。
 4号機の燃料プールでは、6月4日にも冷却が停止していた。
 4号機プールは原子炉建屋5階にあり、未使用の燃料204体を含む計1535体が保管されている。今夏に未使用の燃料を試験的に取り出す予定。




*これは昨日のニュース

<核燃処理方法、国が判断…国民聴取せず>
毎日新聞 6月29日(金)22時26分配信

 政府は29日、エネルギー・環境会議を開き、新たな中長期のエネルギーと地球温暖化対策に関する三つの選択肢を決めた。2030年の総発電量に占める原発の比率は(1)0%(脱原発)(2)15%(依存度低減)(3)20~25%(一定程度維持)--で国民の意見を踏まえて政府が8月にも決める。一方、使用済み核燃料の処理方法は(1)では再処理せずに地中に埋設する「直接処分」としたが、(2)と(3)では国民が選択できる処理方法を示さず、政府が判断するとした。

 使用済み核燃料の処理方法について、(2)と(3)の場合、「再処理・直接処分がありうる」と表記。現行政策の「全量再処理」以外に、全量直接処分、両者の併用も可能性として残した。

 核燃料サイクルをめぐっては、政府の「脱原発依存」方針のもとで、エネルギー・環境会議の要請を受け、内閣府原子力委員会が見直しに着手。原子力委は(2)の場合、「併用が適切」と報告した。しかし、同会議はこの見解を採用しなかった上、全量再処理を否定せず、あらゆる処理方法を網羅した。古川元久・国家戦略担当相は記者会見で「原発比率を決めたときに、政府として核燃料サイクル政策を示す」と語った。

 一方、電源構成では(1)の場合でも、それまでの短期間は原発を稼働して電力不足を補う。水力を含めた再生可能エネルギーは10年実績の10%から30年に35%に拡大し、原発、再生エネ以外は火力でまかなう。(2)では新設なく運転40年で廃炉にするシナリオで、(3)では新設・更新が必要としている。

 30年の温室効果ガス排出量は、(1)と(2)で90年比23%減、(3)で同25%減。20年時点は同0~11%減で、「20年に25%減」の国際公約の撤回は不可避となった。

 省エネのため30年までに約80兆~約100兆円の投資が必要とし、30年時点の家庭の電気料金は月額2000~1万1000円増えると試算した。【久田宏、阿部周一】


◇解説…民主的手続きと言えぬ

 エネルギー・環境会議が「国民的議論をしてもらう」として29日示した選択肢から、核燃サイクルの将来像が外された。原発を動かす限り増える「核のゴミ」について、今のまま再処理計画を進めるのか、直接処分地探しを始めるのか。福島第1原発事故後、国民の関心は強いが、直接選ぶすべを失った

 内閣府原子力委員会は今月21日、2030年の原発比率を15%にする場合、青森県の六ケ所再処理工場で使用済み核燃料を再処理しつつ、一部は直接処分も始める「併用」を適切と結論づけた。だが、この日提示された選択肢は全量再処理も否定せず、具体的な選択肢を示さなかった。トラブルが続く高速増殖原型炉「もんじゅ」(福井県)にいたっては記載が全くない。内閣府幹部は「立地自治体との関係など丁寧に考える論点がある」とし、人気投票的な国民選択になじまないと説明するが、民主的な手続きとは言い難い

 核燃サイクルを巡っては、原子力委の公開審議とは別に、推進派だけを集めた秘密会合を重ねた問題が発覚したばかり。核燃サイクルが事故前と同様、不透明な場で決められかねない。【阿部周一】








この顔の耐えられない軽さ

2012-06-29 10:17:26 | 日記

☆ある日、あの時の野田というひとの演説;

マニフェスト、イギリスで始まりました。
ルールがあるんです。
書いてあることは命懸けで実行する。
書いてないことはやらないんです。
それがルールです。

書いてないことを平気でやる。
これっておかしいと思いませんか。
書いてあったことは四年間何にもやらないで、
書いてないことは平気でやる。
それはマニフェストを語る資格がないと、
いうふうにぜひみなさん思っていただきたいと思います。

その一丁目一番地、税金の無駄遣いは許さないということです。
天下りを許さない、渡りは許さない。
それを、徹底していきたいと思います。

消費税1%分は、2兆5千億円です。
12兆6千億円ということは、消費税5%ということです。
消費税5%分のみなさんの税金に、天下り法人がぶら下がってる。
シロアリがたかってるんです。
それなのに、シロアリ退治しないで、今度は消費税引き上げるんですか?
消費税の税収が20兆円になるなら、またシロアリがたかるかもしれません。

鳩山さんが4年間消費税を引き上げないといったのは、そこがあるんです。
シロアリを退治して、天下り法人をなくして、天下りをなくす。
そこから始めなければ、消費税を引き上げる話はおかしいんです。
徹底して税金の無駄遣いをなくしていく。
それが民主党の考え方です。






スターダスト

2012-06-27 23:38:58 | 日記

やっぱりぼくの感情の基層に、こういう詞、メロディー、こういう情感、そしてなによりもその声がまちがいなく埋もれているんだな。(なにかが終わる、ある時代は終わる、やっぱり人はかならず死ぬんだと思うんだよ)



ああ恋のよろこびに
バラ色の月日よ
はじめてあなたを見た
恋のバカンス



街はいつでも
後ろ姿の 幸せばかり
ウナ・セラ・ディ東京 ムー













悪党どもの巣窟(笑)

2012-06-25 16:25:39 | 日記

NHKテレビで国会中継を見ていて、あまりの退屈さに眠くなったとき、以下のブログを読みました;

丸山健二 【一刀両断62】 2012-06-25 13:11:56

 もっとしっかりとした、もっと本気で働く、もっとまともな、もっとその才に長けた、もっと誠実な人物が、どうして代議士や知事や首相にならないのでしょうか。なぜ、この程度の、お粗末極まりないどころか、国家や社会を疲弊へと誘いこむような、あまりにもひどい輩しか国民の代表にならないのでしょうか。突出した優秀な人材がいないからでしょうか。仮に存在したとしても、選挙を人気投票くらいにしか受け止めておらず、あるいは、自分たちの目先の欲を満足させてくれるだけの、悪辣な人物を平気で推す、そんな愚民に対して愛想をふりまき、作り笑顔と握手と土下座と大嘘の涙と見え見えのハッタリのみを歓迎するような軽薄な選挙民などまともに相手できないと思っているのでしょうか。
あるいはまた、胡散臭さと、なりふり構わぬえげつない手口と、どろどろした駆け引きが伝統的なものとして固定化してしまっている世界に、高い理念と実行力のみを引っ提げては入って行くことが不可能であると見抜いているでしょうか。

 それとも、テレビの馬鹿番組に出ることによって名前と顔を売った、ただそれだけのお調子者が、国民の大半を占める愚民の機嫌をうかがいながら、かれら好みのパフォーマンスを演じることだけで絶大な支持を得ているという現状を目の当たりにして、この世界には自分の出る幕がないと改めて悟ったからなのでしょうか。ために、政界は悪党どもの巣窟と化し、ために、国民はいつまでも食い物にされつづけ、ために、国家は安心安全の道を辿れないのでしょうか。

 つまり、問題の本質は国民のレベルのあまりの低さに在るのです。国民の意識が改まらないかぎりはこの国はいつまでもこのままです。

(引用)






光と力

2012-06-24 12:44:49 | 日記

★ 七年前の手術前夜、私は病室にひとり横になっているのが耐えられなくて、病院正門前の喫茶店に逃げ出した。その喫茶店のガラス戸越しにJR中央線信濃町駅の改札口が目の前に見えた。電車が着く度に人たちが改札口から出て来て、思い思いの方角に散ってゆく。どこの駅でもいつもの通りのその何でもない光景が、この世のものならぬ明るさに輝いているようだった。生きている、とはああいうことなんだ、と。

★ 七年前、駅の改札口の照明を発見しただけではなかった。手術前後、自然にいまそこに居合わせるような現実感で甦った過去の幾つかの場景――「あのときは本当に生きていたな」と萎えかける心を支えてくれた光景には、常に光が射していたことを知った。必ずしも秋の日射しばかりではなかったけれども、時を越えて魂の芯にじかに差し込むようだったあの光は何だったのか。退院後もそのことをずっと考えてきた。

★ いわゆる明るく楽しく希望にみちた光景ばかり浮かんだわけではない。自分でもよくわからない憂愁に駆られたとき、身を切られるように痛切な経験、どうしようもない絶望感に沈みこんだとき・・・・・・そのような一見暗い光景にもふしぎに透明な光がどこからか、場面全体に静かに射し込み、その事態がそうでしかなかったことを、私自身の意志を超えてありありと浮かび上がらせた。黒水晶の内部の小世界を照らし出すように。

★ そのふしぎな光が射していないほとんどの事態、無理しなければ思い出せない記憶、実感をもっては想起できない多くの略歴的事実は、私がこの危うい世界を生きてゆく上で実はどうでもよかったことだったのだ、とゆっくりと気付いたのだった。

★ そう、この宇宙、この世界、この歴史的現実には、どうしようもなく自分の期待と意志を超えるものがある。いつか必ず自分が死なねばならないという事実をはじめ、目的も意味も筋書きも不明なままに、避け難く逃れられないことが。

★ だが私自身の意識を超えて働くその無記の力は、私を死なせるだけでなく生きさせる力でもあった。まるで救いのように、時には奇跡のように、光り輝く場面が、思いがけない打開の地平も不意に出現させるのだった。それは私がこころ正しかったからでも、努力を尽くしたからでもなかった。

<日野啓三“冥府と永遠の花”―『梯の立つ都市 冥府と永遠の花』(集英社2001)>






ゴダール語録;映画は人生だ

2012-06-23 07:45:59 | 日記

Jean-Luc Godard ‏@godard_bot
たぶん、ブレッソンは一時期見失っていたなにかをまた見つけ出したんだ。彼は同じ場所に長くとどまりすぎていた。ひとは自分が存在する条件と無関係に、世界と無関係に生きているわけじゃない。―ゴダール

Jean-Luc Godard ‏@godard_bot
ぼくは自分をむしろ、自分の小さな農地を耕す小さな農夫にたとえたい。そしてその農夫は、自分はどの部分を保持し、どの部分を国家に売り渡さざるをえなくなるのかを見ようとしているわけだ。―ゴダール

Jean-Luc Godard ‏@godard_bot
ひとは映画をつくることによって、より大きいスケールで進行していて、見てとるにはあまりに茫漠としているものを、小さなスケールで見ることができる。―ゴダール

Jean-Luc Godard ‏@godard_bot
ひとことで言えば、このカメラではピントを合わせることができないわけで、だからぼくとしては、このカメラではピントを合わせることができないという事実にピントを合わせることができればそれでいいといったところだ。―ゴダール

Jean-Luc Godard ‏@godard_bot
私が自分は観客の近くにいると感じるのは、もっぱら、私が映画を自分自身のために必要としているからです。そうでなければ、私は映画をつくったりはしないはずです。―ゴダール

Jean-Luc Godard ‏@godard_bot
形容詞というのは状況を判断するためのものじゃありません。でもわれわれは今、形容詞によってものごとが定義される時代にいます。―ゴダール

Jean-Luc Godard ‏@godard_bot
物語を語るというこの問題は、私にとっては深刻な問題です。というのも、映画をつくろうとすると…映画をつくるための金を見つけようとすると、連中は必ず、《その映画には物語があるかい?》と聞いてくるからです。―ゴダール

Jean-Luc Godard ‏@godard_bot
私ははじめから、自分の映画を断片としてつくったわけです。でもそれによって、私は大いに損をしました。なぜなら、―商業的観点から考えれば―人々はそうした映画のなかにはなかなか入りこむことができないからです。―ゴダール

Jean-Luc Godard ‏@godard_bot
私には、三、四人の人のためにつくられるべき映画というものもあると思えるからです。もっとも、映画を三、四人の人のためにつくろうとすると、その三、四人の人さえ獲得できないということがあります。―ゴダール

Jean-Luc Godard ‏@godard_bot
私には教育がありません。私は映画をつくりながら、そのつど、自分で自分をつくりあげてきました。私が学校に通ったのは、両親が私に通わせたからです。―ゴダール

Jean-Luc Godard ‏@godard_bot
私はいつも、映像をつくる人たちは音楽を必要としているのに、音楽家は映像を必要としていないという事実を、不思議なことと…おもしろいことと思ってきました。―ゴダール

Jean-Luc Godard ‏@godard_bot
だから私がこの映画でしようとしたのは、映画のなかで《アルジェリア》という言葉を発するということ、しかもそれを、自分が今いる場所で、自分自身のやり方で発するということです。―ゴダール

Jean-Luc Godard ‏@godard_bot
ぼくが思うのに、バルトはモードに本当に興味をもっているわけじゃない。モードそれ自体を好きなわけじゃなく、すでに死んだ言語としての、したがって解読可能な言語としてのモードが好きなだけなんだ。―ゴダール

Jean-Luc Godard ‏@godard_bot
そして映画は、同時に人生でもあるんだ。だからわれわれが人生を映画に撮ると、人々はわれわれに、これはもはや映画ではない、金を払ってまでしてつづけて二度も人生を見たくないはないなどと言ってくるわけだ。―ゴダール

Jean-Luc Godard ‏@godard_bot
ありきたりの言い方だが、《映画とは人生だ》と言うこともできる。でも一緒に暮らしている女たちは、この点でぼくを非難している。彼女たちはこう言うんだ。《あなたは人生を生きていない。映画なんかやめてしまいなさいよ》と。―ゴダール

(引用)

抗議する

2012-06-22 23:51:11 | 日記

<首相官邸前で原発再稼働に抗議 市民ら>
  東京新聞 2012年6月22日 21時31分

 関西電力大飯原発(福井県)の再稼働に反対する市民らが22日、首相官邸前で再稼働の反対と脱原発を訴えた。
 午後7時ごろ、首相官邸前を先頭とする参加者の列は、約500メートルに。「原発を許すな」と書いたプラカードや横断幕を手に「再稼働反対」「大飯を止めろ」と声を上げた。
 小学校に通う2人の子どもを連れて参加した甲府市の主婦ディアス治子さん(42)は「政府の判断は非常に愚か。エネルギー問題を次世代にまで背負わせてはいけない。今私たちが止めなければならない」と話した。
 今回のデモはツイッターなどを通じて呼びかけられた。
(共同)



<大飯再稼働撤回求める 官邸前で「4万人」抗議>
  アサヒコム2012年6月22日21時11分

 関西電力大飯原発(福井県おおい町)の再稼働撤回を求める市民らが22日夜、首相官邸前で抗議集会を開いた。主催者発表で約4万人、警視庁調べで約1万人が参加。プラカードや横断幕を手に、「再稼働決定は許せない」と参加者が次々に声を上げた。
 俳優の山本太郎さんは「この声が聞こえないなら、(首相は)即刻退場すべきだ」。この抗議集会に初めて参加したという作家の落合恵子さんは「私たちは一歩も後ろに引かない。これほど市民を裏切る人々を許さない」と野田政権を批判した。
 官邸前では大飯原発再稼働への抗議活動が週末ごとに続き、16日の再稼働決定で反発が一段と強まっている。22日は市民団体有志がツイッターで呼びかけ、仕事帰りの若者や女性らの参加者が車道にあふれた。
 また、この日は、再稼働を支持する団体などが抗議集会に批判の声を浴びせ、官邸前は騒然となった。



<大飯再稼働 撤回求め官邸前でデモ 列は700メートルに>
  毎日新聞 6月22日(金)21時22分配信

 東京・永田町の首相官邸前で22日、関西電力大飯原発の再稼働撤回を政府に求める抗議行動があった。主催者によると約4万5000人、警視庁によると約1万1000人が参加。周辺の歩道を埋め尽くした人が「再稼働反対」と、約2時間にわたって声を上げた
 有志の市民ネットワーク「首都圏反原発連合」の呼びかけ。3月に始めた当初は300人程度だったが、回数を重ねるごとに参加者が増えたという。この日集まった人の列は約700メートルにも達した。
 茨城県土浦市から来たという会社員、東原裕樹さん(32)は「フェイスブックで今日の活動を知った。核廃棄物の処理方法も決まっていないのに再稼働するなんてあきれてしまう。黙っていてはいけないと思った」と参加理由を話した。【池田知広】







シャティーラの四時間

2012-06-20 12:50:51 | 日記


★ 誰も、何も、いかなる物語のテクニックも、フェダイーンが過ごしたヨルダンのジェラッシュとアジルーン山中での6ヶ月が、わけても最初の数ヶ月がどのようなものだったか語ることはないだろう。数々の出来事を報告書にまとめること、年表を作成しPLOの成功と誤りを数え上げること、そういうことならした人々がある。季節の空気、空の、土の、樹々の色、それも語れぬわけではないだろう。だが、あの軽やかな酩酊、埃の上をゆく足取り、眼の輝き、フェダイーンどうしの間ばかりでなく、彼らと上官との間にさえ存在した関係の透明さを、感じさせることなど決してできはしないだろう。すべてが、皆が、樹々の下でうち震え、笑いさざめき、皆にとってこんなにも新しい生に驚嘆し、そしてこの震えのなかに、奇妙にもじっと動かぬ何ものかが、様子を窺いつつ、とどめおかれ、かくまわれていた、何も言わずに祈り続ける人のように。すべてが全員のものだった。誰もが自分のなかでは一人だった。いや、違ったかも知れない。要するに、にこやかで凶暴だった。

★ 政治的選択によって彼らが撤退していたヨルダンのこの地方はシリア国境からサルトへと縦長に伸び広がり、ヨルダン川と、ジャラシュからイルビトへ向かう街道とが境界をなしていた。この長い縦軸が約60キロ、奥行きは20キロほどの大変山がちな地方で、緑の小楢(こなら)が生い茂り、ヨルダンの小村が点在し、耕地はかなり貧弱だった。茂みの下、迷彩色のテントの下に、フェダイーンはあらかじめ戦闘員の小単位と軽火器、重火器を配備していた。いざ配置に着き、ヨルダン側の動きを読んで砲口の向きを定めると、若い兵士は武器の手入れに入った。分解して掃除をし油を塗り、また全速力で組み立て直していた。夜でも同じことができるように、目隠しをしたまま分解し組み立て直す離れ業をやってのける者もあった。一人一人の兵士と彼の武器の間には、恋のような、魔法のような関係が成立していた。少年期を過ぎて間もないフェダイーンには、武器としての銃が勝ち誇った男らしさのしるしであり、存在しているという確信をもたらしていた。攻撃性は消えていた。微笑が歯をのぞかせていた。

★ ほかの時間にはフェダイーンは、お茶を飲んだり、上官を、またパレスチナやよその金持ちを批判したり、イスラエルをののしったりしていたが、とりわけ革命のことを、自分たちが遂行している革命、これから取りかかろうとしている革命のことを語り合っていた。

★ 私にとって、新聞記事の見出しであれ本文中であれビラのなかであれ、「パレスチナ人」という語を目にするたびにたちまち心に浮かぶのはフェダイーンの姿だ。それもある特定の場所――ヨルダン――、容易に年月が確定できる時期――70年10月、11月、12月、1971年1月、2月、3月、4月――のフェダイーンだ。この時期この場所で私はパレスチナ革命を知った。起こっている事柄の並外れた明証性、あの存在の幸福が持つ力はまた美とも呼ばれる。

★ 10年が過ぎ、フェダイーンがレバノンにいることを除けば、私は彼らの現状を何も知らずにいた。ヨーロッパの新聞はパレスチナ人民のことをあれこれ言ってはいた。だがぞんざいに。軽侮さえ含んで。そして突然、西ベイルート。



★ 写真は二次元だ、テレビの画面もそうだ。どちらも隅々まで歩み通すわけにはいかない。通りの壁の両側の間に、弓型にねじ曲がったもの、踏んばったもの、壁の一方を足で押しつけもう一方には頭をもたれた黒くふくれた死体たち。私が跨いでゆかねばならなかった死体はすべてパレスチナ人とレバノン人だった。私にとって、また生き残った住民たちにとって、シャティーラとサブラの通行は馬跳びのようになってしまった。死んだ子供が一人で、時にはいくつもの通りを封鎖できた。道は非常に狭く、ほとんどか細いといってもよく、そして死体はあまりに多かった。その臭いは年寄りには親しみやすいものらしい。それは私を不快にしなかった。だが、何という蝿の群。

★ 蝿も、白く濃厚な死の臭気も、写真には捉えられない。

★ 愛と死。この二つの言葉はそのどちらかが書きつけられるとたちまちつながってしまう。シャティーラへ行って、私ははじめて、愛の猥褻と死の猥褻を思い知った。愛する体も死んだ体ももはや何も隠そうとしない。さまざまな体位、身のよじれ、仕草、合図、沈黙までがいずれの世界のものでもある。



★ ……キャンプにはまた別の、もう少し押し殺したような美しさが、女と子供の支配によって定着していた。戦闘基地からやってくる光のようなものをキャンプは受け取っていた。そして女たちはと言えば、その燦めき(きらめき)は、長く複雑な討論を経なければ説明がつかない類のものだった。

★ アジルーンの森で、フェダイーンはきっと娘のことを考えていたのだろう。というよりも、ぴったりと身を寄せる娘の姿を、一人一人が自分の上に描き出し、あるいは自分の仕草で象って(かたどって)いたようだ。だからこそ武装したフェダイーンはあんなにも優美であんなにも力強く、そしてあんなにも嬉々としてはしゃいでいたのだ。

★「もう希望することを止めた陽気さ」、最も深い絶望のゆえに、それは最高の喜びにあふれていた。この女たちの目は今も見ているのだ、十六の時にはもう存在していなかったパレスチナを。



★おそらく認めねばならないのは、革命あるいは解放というものの――漠たる――目的は、美の発見、もしくは再発見にあるということだ。美、即ち、この語によるほかは触れることも名づけることもできないもの。いや、それよりも、盛んに笑う傲慢不遜という意味を、美という語に与えよう。

<ジャン・ジュネ『シャティーラの四時間』(インスクリプト2010)>








もういいかげんにしてくれないか

2012-06-20 00:32:31 | 日記

今日のツイート

☆内田樹 ‏@levinassien

Sight連載の高橋源一郎さんとの対談本『沈む日本を愛せますか?』の続編が出ました。『どんどん沈む日本をそれでも愛せますか?』です(タイトル考えたのは僕)。第三弾のタイトルが『さらに沈む日本をあなたはまだ愛しているんですか?(いい加減にやめたら)』になりませんように。
高橋源一郎さんがリツイート

(引用)



まずぼくは、こういう文章を書く内田樹というひとの“神経”をうたがう。

次にいったいこの本=『どんどん沈む日本をそれでも愛せますか?』をどんな人が買うのかうたがう。

震災・原発事故“以後”においても、あいかわらず漫談でカネを稼ぐ人々を疑う。

まさにそれは、原発支持か脱原発か、とは関係ない。

まさにそれは、“「あの日」からぼくが考えている「正しさ」について”(高橋源一郎)とも関係ない、ことはない(ぼくはこの本を読んでないが、想像できる)

以下に書くことは、このぼくのブログをよく読んでくださっている方以外にはピンと来ないことだろうが、書く。

数週前、東浩紀がキャスターの“ニュースの深層”にゲスト出演した高橋源一郎は、東が『「あの日」からぼくが考えている「正しさ」について』に話題をふったとき、唐突にジャン・ジュネの『シャティーラの四時間』を絶賛したのだ。

『シャティーラの四時間』については、ぼくは数回このブログに“引用”した。
この翻訳は、ここ数年ぼくが読んだ文章でまちがいなく、ベストのものと思ったのだ。

ぼくは、なんらジュネの専門家でも愛読者でもなく、パレスチナ問題についても特段の知識を持ち合わせていない。

しかし、『シャティーラの四時間』を読むことによって、ジュネというひとを発見し、パレスチナについても、これまでより少し認識を更新できた。

だからぼくの“読み”をなんら正当化できないが、この文章でジュネは、“正しいことなど存在しない”とか“正しいことは存在する”とか言ってはいないが、自分にとってなにが愛せるものであるかは、言っている。

ここで重要なのは、ジュネが誰をも啓蒙していないことだ。

高橋源一郎がジュネを“評価”し、高橋源一郎が自分の文を売って稼ぐプロなら、なぜ高橋は自分の文により、ジュネに迫る表現者であることを目指さないのか。

いったい高橋源一郎とか内田樹とやらとか、その他の“お仲間たち”は、相互漫談ツイートとか、相互漫談本で、いかなる自己表現を目指しているのか。

いや、彼らが行っているのは、いつもいつも、<啓蒙>なのだ。

誰を?

彼らが自分より愚かだと“想定している”読者を、である。

君たちのやるべきことは、他人(お人好しの読者)の啓蒙ではなく、自分にしかなしえない自己表現である(笑)

もちろんぼく自身は、なんらプロではないので、この条件をまぬがれている。






<追記>

上記のブログは6月19日から20日へと日付が変わる時に書かれた。

ぼくの住んでいる地域は台風の暴風雨圏にあり、《消費増税関連法案をめぐる自民、公明両党との修正合意について、前原誠司政調会長が一任取り付けを宣言し、党内手続きを打ち切った》という報道がなされた時。

それから寝て起きて、今、追記を書く。
まず上のブログに書いた“ニュースの深層”での高橋源一郎の『シャティーラの四時間』絶賛に対する東浩紀の反応について。

どうやら東浩紀は『シャティーラの四時間』を読んでいない。
なぜなら東は“あの小説”と言ったから。

『シャティーラの四時間』は小説ではない(笑)
『シャティーラの四時間』を書いた当時、ジュネは彼が生涯に書いた“小説と戯曲”をすでに書き終わっており、それ以後“小説と戯曲”を書くことはなかったと思う。

ジュネの後期の人生において彼が“書いた”のは、『恋する虜』として死後出版された文章のみである(“発言”を集めた『公然たる敵』と)

今、東浩紀ツイートで、彼の雑誌“日本2.0 思想地図β vol.3 表紙&帯”を見た。

なぜ《日本2.0》なのだろうか?
いったい《2.0》とはいかなる意味なのだろうか?
いったいなぜ《日本》なのだろうか?

上記ブログで話題にした内田樹と高橋源一郎の漫談本(『どんどん沈む日本をそれでも愛せますか?』)にも《日本》はあった。

彼らは、そんなにも《日本》に執着し、《日本》を良い国にしたいのであろうか!

たしかにぼく自身も、日本に生まれ育ち、日本語以外の言葉を日本語のようには使用できない。

けれども、それは、《日本》に執着することをまったく意味しない。

しかし、“日本に執着する日本人”を否定することも、できない。

しかしこの場合、《2.0》が問題である。

《一般意志》とかなんたらこうたらという過去の概念に、《2.0》をつければかっこいいキャッチになるというのは、あまりにも安易である。

もちろん東浩紀はこの雑誌の内容によって、この《2.0》を実証するつもりである(らしい)
しかしすでに“一般意志2・0”の無内容に失望したぼくは、その成果を読む気がしない。

だいいち、東浩紀が“一般意志2.0”で参照した人(思想)は、《日本人》ではない。
そして東浩紀が持ち出す《日本人》は、梅原猛や小松左京というぼくにとってはさっぱりイケてない人物である(ぼくは東が弟子たちと梅原猛に会いに行くというテレビ番組を見て、その内容の貧困に唖然とした)

いやいや、上記のぼくの東浩紀“批判”だって、単なる趣味の違いに過ぎないのかもしれない。

これこそぼくが、今、“言いたいこと”である。

近日、ぼくは何年も維持してきた自分の“読書計画”を放棄した。
まずこれはまったく“個人的な体験”である。

ぼくの人生の大きな節目、2003年の退職時、ぼくはそれまで溜まった本を大量に処分した。
それから10年近くが経過し、その間、またまた大量の本がぼくの机の周りを包囲している。

ああ、うんざりである。

これは、ぼくの個人的な失敗であるにすぎないが、これをなんらかの“教訓”としていただけるなら、幸いである。

ひとは、本など読まなくても生きていける(笑)

つまらないおしゃべりよりも、黙っているひとのほうがカッコいい。

本が読めなくなったぼくは、ジョン・ル・カレの“スマイリー3部作”を読み返す。

現在のぼくにとっては、ドストエフスキーよりも、夏目漱石よりも(マルクス、フロイト、ハイデガー……よりも!)“ジョージ・スマイリーと仲間たち”の方が、リアルである。






話すゴダール

2012-06-17 11:55:42 | 日記

ぼくはゴダール教(狂)ではないが、やっぱ、このひとはおもしろい。

文庫になって読んでいる『ゴダール映画史』は、話し言葉である。

一種の“講義”であろうが、その“文脈”はかなり矛盾していたり、なにを言っているか受け取りにくいこともある。

しかしそれがおもしろいのである。
そのような語りのリズムや文脈が、ゴダールの映画自体を思い出させる。
それはやはり、一種の自由である。

結局、“そのひとは何を言ったのか?”ということだ。

“その時、その人は、何を言ったのか?”
あるいは、“その人の生涯で、その人は何を言ったのか?”


比較的、文脈が取れる部分を引用する;

★ 私はたとえば、言うべきことをほとんどもっていないときにかぎって、あれこれ多くのことをしゃべってしまいます。すると人々は、あいつは言うべきことをたくさんもっていると考えてしまうのですが、でも実際は、その反対なのです。そうした場合の私は、こう言ってよければ、テレビのようなものです。テレビでは、ほとんどなにも言わないようにするために、あるいはまた、言うべきなにかを言わないようにするために、多くのことが語られます。そうであってはいけないわけで、私は今では、自分のそうしたしゃべり方を自制しようとしています。

<ジャン=リュック・ゴダール『ゴダール映画史(全)』(ちくま学芸文庫2012)>







ちょっとびっくり

2012-06-16 17:22:48 | 日記

いま見た國分功一郎ツイート(今日の);

國分功一郎 ‏@lethal_notion
僕のツイートをまとめてくださっている方がいたので紹介。この前の再稼働発表の時のことを忘れないために。みんな何でもすぐ忘れてしまいます。そして今は概ねテレビがその原因です。テレビが現時刻の雰囲気を作り出し、過去を葬り去る。http://blog.goo.ne.jp/wamgun/e/7ebf9a225a8002f3dc16dc8dfd03aeb2
(引用)


ここでリンクされてんのは、ぼくのブログ(2012/4/14“この発言に共感します”)ですね(笑)

國分功一郎さんのことは、彼のブログで知り、『暇と退屈の倫理学』も実は読みかけたが、このところ定期的に訪れる“哲学不信症”におちいっており、それと、ぼくはハイデガーというひとがどうしても苦手で(もちろん解説書レベルの話ですが)、中断してしまっています。

ぼくはツイッターをやってないので、國分さんに直接応答できませんが、これもなにかの縁になるなら、ちょっと希望です。







放置国家への反撃

2012-06-16 12:44:22 | 日記

下記(引用)ブログをアップした後、天木直人ブログを見た、これも全文引用;


<野田暴政民主党政権と国民の本当の闘いはこれから始まる>

それにしても野田民主党政権は悪辣だ。
権力を最大限に利用して多くの国民の意思を無視して暴政につきすすむ。
それにしても自民党、公明党は卑劣だ。
権力ほしさにそれに加担する。

民主・自民・公明の大連立が事実上決まったようなものだ。いや既にかなり前から決まっていたのだ。
ここ数日のドタバタ劇を眺めながら私は痛感していた。
消費税増税も原発再稼動もすでにとうの昔に決まっていたのだ。
自民党や公明党との難航した協議も、民主党内の不協和音も、すべて見せかけであり、ポーズなのだ。
これだけ国民の反発がある大きな決定を、すんなり決めては格好がつかない。だから政局の混乱を装い、苦渋の決断の末決断したという振りをして決断の野田を国民に見せようとしたのだ。

その一方で、壮大な情報操作を行なう。
全国で湧き起こる反対の声を見事にメディアから封殺した。
オーム逮捕劇をこの日に合わせてメディアをジャックしたのも見え見えだ。
スキャンダル報道をぶつけて小沢派の戦意を削ぎ、大阪維新の会の松井知事のスキャンダルをちらつかせて国政参加を思いとどまらせようとする。
原発稼動と消費税増税を交互にメディアに登場させて争点を拡散させる。
メディアがそれらすべてに加担する。

そして究極の背信は解散・総選挙の先延ばしである。
国民の唯一の抵抗は選挙しかない。

消費税増税を強行した野田、前原、菅グループなど許すものか。
大飯原発再稼動を強行した野田、藤村、枝野、細野の四人組は落選させる。
後ろで糸を引いている仙谷など噴飯物だ。

そう思っても選挙が先送りされればどうにもならない。
その間にどんどんと状況は変わって行く。すべてが既成事実化されていく。
国民の怒りは気勢をそがれる。

しかしそうは問屋はおろさない。
なぜか。
彼らのやろうとしている事が間違っているからだ。正義がないからだ。
野田民主党政権や自民党、公明党はみずからが談合して強行した政策に首を絞められることになるだろう。
国民の反撃はむしろこれから始まる・・・





法治国家ニッポン!(放置国家ニッポン)

2012-06-16 12:09:20 | 日記

“中央新聞”がとぼけた(ふざけた)社説を掲げているなかにあって、地方紙・信濃毎日新聞が、明晰な社説を掲げているのを読んだ、以下に全文引用;


<原発再稼働 これが法治国家なのか>
信濃毎日新聞06月15日(金)社説


 関西電力大飯原発の再稼働が秒読みに入った。このままだと安全性をめぐる抜本対策は先送りしたままの暫定的な運転となる。

 野田佳彦首相は「国民の生活を守るため」と強調するが、福島第1原発事故をどこまで深く受け止めているのだろうか。

 野田政権に欠けているのは、ものごとの手順だ。事故の総括を行い、それを踏まえて論議を深め、新たな安全基準をつくる。こうした過程を欠いた再稼働では国民の信頼は得られない。

<福島の被害を原点に>

 昨年の原発事故は、チェルノブイリと同じ最悪の「レベル7」だった。人類史に記録されるべき大事故は、日本社会を根底から揺さぶりつづけている。

 野田政権が新しいエネルギー政策を打ち立てるに当たっては、事故がもたらした衝撃にまず目を向けなければならない。

 第一は、福島県が受けた傷の深さである。

 原発に近い自治体など11市町村が避難指示区域とされ、基本的に人が住めない状況にある。区域内の人口は8万6千人に上る。

 天災であれば直ちに復興に取り組むことができるが、原発事故は除染を徹底しなければならない。元通りの暮らしに戻るまで何年かかるか分からない地域もある。広範囲に及ぶ故郷喪失の影響は計り知れず、産業だけでなく人々の心にも暗い影を落としている。

 被災自治体の首長らが大飯原発の再稼働に疑問を呈するのは当然だろう。野田政権は、県民が被った傷の深さに思いをはせ、将来のエネルギー政策を検討しなければならないはずだ。

<根拠を欠いた手続き>

 首相は8日、大飯原発再稼働を決断した理由を国民に語りかけた。被災者の気持ちは「よく、よく理解できる」としながらも、「国政を預かる者として人々の暮らしを守るという責務を放棄するわけにはいかない」と述べている。

 人々の暮らしを台無しにしたのは、政府と東京電力である。それなのに「暮らしを守る責務」を強調するのはふに落ちない。

 福島の被害はひとまず置き、大飯原発を動かして関西圏の暮らしを守る―。首相は、こう言っているに等しい。これが「責務」なのか、首をかしげざるを得ない。

 事故の第二の衝撃は、政府の原子力行政と危機管理能力に対する信頼が根もとから崩れさったことである。

 首相が原発を再稼働させるというのであれば、信頼の土台を再構築しなければならない。

 なぜ事故が起きたのか、政府はなぜ住民を十分に守ることができなかったのか、丁寧に検証する。それを踏まえ、再発防止に向けた抜本対策を講じ、新たなエネルギー政策を国民参加のもとでつくっていくことである。

 現実はどうか。事故の検証は、民間、東電、国会、政府による事故調査委員会が、それぞれ取り組んできた。民間と東電の事故調は報告をまとめているが、残りはこれからである。

 一方で政府は、(1)大飯原発再稼働(2)原子力の安全規制をめぐる新たな仕組みづくり(3)中長期のエネルギー政策の策定―の作業に取り組んでいる。

 このうち最も急いだのが、(1)大飯原発再稼働である。ストレステストの1次評価や政府が急きょ示した安全基準をクリアし、関西圏の理解や立地自治体の合意も得た―と政府は説明するだろう。

 だが、地震のときに必要な免震重要棟やフィルター付きベント装置の設置などは済んでいない。政府は関西電力に工程表を提出させ、その審査でよしとしている。

 そもそも、(2)の新たな安全規制の仕組みづくりは、民主、自民、公明の3党が基本合意した段階である。再稼働までの政府の手続きが、事故を踏まえた新たな法的根拠を欠いていることは明らかだ。

<国民的議論とは何か>

 首相は「政府の安全判断の基準は暫定的なものであり、新たな体制が発足した時点で安全規制を見直していく」と述べている。首相自身が、とりあえずの見切り発車であることを認めたといえる。

 大事故が起きたというのに、政府の判断で原発を動かすというのは信じ難い。これで法治国家といえるのだろうか。

 (3)の中長期のエネルギー政策の決め方にも注意が要る。

 首相は「国民的な議論を行いながら、8月をめどに国民が安心できるエネルギーの構成、ベストミックスというものを打ち出していきたい」と述べている。

 首相の言う「国民的議論」は欠かせないプロセスだが、どんな形で国民の声を聞くつもりなのだろうか。(2)の安全規制のように、3党協議で進めるようなことになれば、国民的議論どころか国会軽視と言わざるを得ない。

 「脱原発」とか「脱原発依存」といった言葉が先行している。中身を煮つめるには、国民参加の場が必要だ。首相には有権者に信を問う覚悟で臨んでもらいたい。