たとえば天木直人の最新ブログは、<小沢一郎よ、いまこそ立ち上がれ!>である。
内田樹ブログは、<フリーズする政治>である。
天声人語は、“海の日”の思い出が“死の海”にならないように、という。
読売編集手帳は、“国民負担”の勧めである。
あるツイッターには、《ノーラン監督は今回も期待を裏切らなかった》とある。
あるブログは、記事を更新せず、ブログタイトルを、<ホテル・ノンセックス>から<カフカ的夕暮れ>に変えている。
もうひとり、過去にぼくにかかわりがあったブログは、動物園の虎の写真に<非暴力>のタイトルをつけ、シモーヌ・ヴェーユを引用している。
もちろんぼくは上記を、“たまたま”見たのである。
いずれにも感銘を受けなかった、退屈である。
“たまたま”見たものが、退屈であるからとて、“この日本が退屈”だとか、“この世界が退屈”であるわけではない。
しかし、ぼくが“世界のすべて”を見れるわけではないのだから、いつも世界には“もっと面白いことがあるはずだ”ということも、ぼく自身には意味がない。
なぜなら、ぼくは、<ぼく>を通してしか、<世界>を感受しない(感受できない)
だから、<世界>は、ほっておけば、“フリーズ”するのだ。
フリーズしているのは、<政治>だけではない。<注>
たとえば、<フリーズした政治>を語る内田樹というひと、および、“内田樹的なもの”こそが、フリーズしているのだ。
すなわち、“売れている(人気ある)言説”がフリーズしているのだ。
たぶん村上春樹『1Q84』は、まだベストセラーを続けている。
そして“ひとりごと”が、フリーズしている。
ひしひしとこのぼくを取り巻く、“フリーズさせるもの”に、どのように<抵抗>すればよいのか。
ぼくは<現在の言説>から離脱し、<Base>の構築をめざす。
<注>
現在の”政局”(政治ではない)に対して、”フリーズしている”などという形容は不適切である。
ただどの”政党”の”政治家”も、仕事をしていない、と言えばいいだけだ。
★ 言語もまた、一個の神秘、一個の秘密である。ロドリゲス島の<英国人湾>に閉じこもって過ごしたあのように長い歳月を、祖父はただ地面に穴を掘り、自分を峡谷に導いてくれる印しを探すことだけに費やすわけではない。彼はまた一個の言語を、彼の語、彼の文法規則、彼のアルファベット、彼の記号体系でもって、本物の言語を発明する。それは話すためというよりはむしろ夢みるための言語、彼がそこで生きる決意をした不思議な世界に語りかけるための言語である。
― J・M・G・ル・クレジオ 『ロドリゲス島への旅』
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