我が郷は足日木の垂水のほとり

文化芸術から政治経済まで、貧しくなった日本人の紐帯を再構築したいものです

森繁さん死去:知床の自然と人を愛す

2009年11月09日 | 記事紹介

毎日jp

http://mainichi.jp/hokkaido/news/20091111hog00m200008000c.html

2009年11月11日配信

(^_^;)記事の紹介です。

森繁さん死去:知床の自然と人を愛す ゆかりの人が感謝

      

映画「地の涯に生きるもの」のロケが終わり、ギターを片手に「サラバ羅臼」を歌う森繁久弥さん(右)=1960年7月17日撮影、志賀謙治さん提供

 

俳優の森繁久弥さんが亡くなった。自ら作詞・作曲した「知床旅情」の大ヒットが、空前の知床ブームのきっかけとなり、後の世界自然遺産登録につながった。知床の自然と人々を愛した森繁さん。道内のゆかりの人たちからは「世界遺産登録への運動は、森繁さんの精神が根っこにあったから」「今日の知床があるのは森繁さんのおかげ」と哀悼と感謝の声があがった。【本間浩昭、渡部宏人、】

 「お礼を言いたい時になって、その人はいない。100歳まで生きてほしかった」。網走管内斜里町の前町長午来昌さん(73)は森繁さんへの思いをこう語る。

 午来さんが初めて森繁さんに会ったのは、映画「地の涯(はて)に生きるもの」のロケで町に滞在中の1960年3月だった。午来さんはエキストラで出演。森繁さんが病床中の妻役の最期を見取る迫真の場面に「涙が出た」と振り返る。

 最後に会ったのは約10年前、各界の有志が東京に集った「元気なシゲさんと遊ぶ会」。以来、連絡は途絶えたが、観光ブームの中「目先の利害ではなく、知床の真の将来を考えてほしい」と忠告し続けた森繁さんの姿が忘れられない、という。 「地の涯に生きるもの」のロケは、根室管内羅臼町でも行われた。森繁さんは町を出発する日の朝、後の「知床旅情」の原型となる「サラバ羅臼」の歌詞を旅館の前に張り出した。

 「日本は人情の機微が紙より薄いと言われていますが、僕は羅臼の人情に触れました。お世話になった皆さんの後々のために歌を作りました。この歌を歌って別れましょう」と呼びかけた。

 その場で大合唱が繰り返され、やがて400人の輪となり、涙を流して別れを惜しんだという。この中に盛り込まれた「後々のために」という言葉の重みを、元助役の志賀謙治さん(85)は今もかみしめる。

 映画の原作は故戸川幸夫著「オホーツク老人」。それを映画化するに当たり森繁さんは、「おれのために書いてくれた小説だ」と語り、森繁プロダクションを設立し、その第1作にするほど思い入れがあった。そして、毎晩のように飲み歩き出発の前夜、当時の村長だった故谷内田進さん宅で一気に1番の詩を書き上げ、メロディーを付けた。

 加藤登紀子さんが歌って大ヒット、知床ブームをけん引した。志賀さんは「半世紀も歌い継がれる歌はそうない。しかも古い歌でなく、今もぷんぷんと良い香りを漂わせている。この歌は将来も歌い継がれるだろう」。

 脇紀美夫町長(68)は「旅館の前で『サラバ羅臼』を合唱した日が49年前の7月17日。知床が世界自然遺産に登録されたのが4年前の同じ日。今日の知床があるのは森繁さんのおかげ」と語った。

 知床羅臼観光協会の辻中義一会長(66)は「羅臼は自然の厳しさが強く残っているからこそ、森繁先生は人間の温かみを感じたのだと思う。『知床旅情』が作られて来年が50年。いまにしてみれば、ここが知床観光のスタートだったと思う」と語った。

毎日新聞 2009年11月11日 22時52分

(^_^;)紹介終わります。

 

 

 我が郷……』の本日記事へは、  をクリックしてお進みください。

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« マーチン・オマリー | トップ | 「人々の暮らし案じられます... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。

記事紹介」カテゴリの最新記事