我が郷は足日木の垂水のほとり

文化芸術から政治経済まで、貧しくなった日本人の紐帯を再構築したいものです

奄美群島

2011年03月16日 | 課題分類

 

 

 


奄美群島 (あまみぐんとう)

南西諸島の内薩南諸島南部にある島嶼群である。鹿児島県奄美市および大島郡の区域をいう。「奄美群島」が正式名称であるが、奄美諸島(あまみしょとう)が用いられることもある。気候は全体が亜熱帯に属し、珍しい生き物も多数生息する。

 

名称 [編集]
 
初めて文献上に現れたのは『日本書紀』で、斉明天皇3年(657年)条に「海見嶋」とある。682年に「阿麻弥人」、714年には『続日本紀』に「奄美」との表記がある。
 
名称の由来については、今なお不明な点が多い。伝承では琉球王国の創世神話に登場する「アマミキヨ」(アマミコ、阿麻弥姑)神に由来するとされる。ただし琉球王国の神話や「アマミキヨ」の起源は文献上10世紀から13世紀の間までしか遡れず、7世紀には日本列島の中央政権にその名称と存在が知られていたこととは時間的な開きが生じている。また「アマミキヨ」の名称使用自体が沖縄本島周辺に限られており、奄美群島では「テルクミ」の名称で伝わっている(沖縄本島に隣接する与論島では「アマミキヨ」)。これらの事を含めて「アマミキヨ」とは奄美そのものを指し、琉球王国の成立には奄美勢力の南下、又は奄美を経由した本土勢力が深く関わっていたのではないかと指摘する研究者もいる[誰?]。「アマミキヨ」降臨の地とされる「アマンデー」(奄美嶽、海見嶽)もその立地条件や奄美群島北部には希少な御嶽的存在であり、それらが琉球王国の聖地とされる「斎場御嶽」と酷似しているため琉球領時代に持ち込まれた伝承とも言われている[要出典]。
 
長らく「奄美諸島」「奄美群島」と2通りの呼称があったが、2010年2月15日に日本政府の国土地理院(地名等の統一に関する連絡協議会)は「奄美群島」を決定地名に採用した[2]。 

 

概要 [編集]
 地理 面積:1240.28km²(一部境界線未定地域あり)
 人口:121,266人(2008年9月1日現在)
 構成:1市9町2村(2006年3月20日、名瀬市・笠利町・住用村が合併して奄美市が発足)
 政治 鹿児島県議会:奄美市区(定数2)と大島郡区(定数2)
 衆議院選挙区:鹿児島県第2区(選出議員:徳田毅)

 

島嶼 [編集]
 
奄美群島 奄美大島
 枝手久島(無人島)
 喜界島
 加計呂麻島
 江仁屋離島(無人島)
 須子茂島(無人島)
 与路島
 請島
 木山島(無人島)
 ハンミャ島(無人島)
 徳之島
 沖永良部島
 与論島
 
※また、徳之島の西方65キロに位置する硫黄鳥島(沖縄県島尻郡久米島町)を沖縄諸島でなく奄美群島に所属させる分類方法もある。[要出


文化 [編集]
 
Category:奄美群島の文化も参照
 
Category:奄美群島の食文化も参照
 
奄美群島の文化は鹿児島県の大隅諸島以北に比べると、沖縄県に近く同じ琉球文化圏にも属している。奄美大島から与論島に、南下するに従って琉球文化の色彩が濃くなっていく。ただし、奄美群島に伝わる風習の中には、沖縄県とも本土とも異なる奄美独自のものや沖縄県より本土に近いものも少なからずあり、方言にも昔の大和言葉の発音などが残っている。
 
方言は琉球語(琉球方言)のうち、奄美方言と国頭方言の一部が話されている。奄美方言は喜界方言・北奄美大島方言・南奄美大島方言・徳之島方言、国頭方言は沖永良部方言・与論方言と分類される。言語学的な分類とは別に、奄美群島では統一的に奄美方言と表現することがある。日本語の新方言については全体として標準語をベースにしつつ鹿児島県所属としての薩隅方言の影響、さらに関西弁の影響も見られ、沖縄県の新方言(ウチナーヤマトグチ)とは違うものになっている。また奄美群島の場合、島嶼ごとに新方言が発達する傾向にある(ただし相互の影響はある)。
 
奄美群島の食文化には歴史的経緯から沖縄料理・薩摩料理との共通点が多いが、独自の料理もいくつかある。名物料理としては鶏飯、油ぞうめんなどがあり、黒糖焼酎・がじゃ豆などが名産品として知られる。
 
地域 [編集]
 中心都市は、奄美大島にある奄美市名瀬である。
 大学、短期大学といった高等教育機関は現在、1つも存在しない。奄美大島では2004年度より鹿児島大学法文学部の大学院がサテライト教室を、奄美市中央公民館金久地区分館3階にて開講している。鹿児島大学大学院より教授が派遣され、集中講義形式(一部はインターネットによる中継画像)で授業が行われている。事務員を1名同館3階事務室に常駐させている。詳細は、奄美市役所で聞ける。大学卒であれば科目等履修生になることができ、鹿児島大学の大学院の単位を取得できる。また徳之島でも2007年度から開講され、徳之島町亀津の生涯学習センターにて授業が行われている。こちらは初年度は奄美大島からのインターネットの中継画像による授業が多かったが、2008年度からは徳之島で開講される授業が増えた(どちらの島で開講するかは科目ごとの受講生の人数による)。但し2007年度までは文部科学省の助成があった為に受講可能な科目数が多かったが、2008年度からはそれが無くなったためにサテライト教室で受講可能な科目は大幅に減ってしまった。科目は「奄美根ざした講座」が提示されており、受講生はそれぞれの島の社会人である為、授業風景は教授が一方的に講義するよりも、教授と学生との双方向のやりとりが盛んで和気藹々としている。このサテライト教室から鹿児島大学大学院に進んだ生徒が3名いる(2006年度現在)。2009年度も開講予定である。過去には1891年から1894年にかけて設置されていた鹿児島師範学校教員養成講習科分教場や、米軍占領統治下の1952年から1953年にかけて設置されていた琉球大学大島分校が存在した。
 テレビ放送、AM放送の中継局は設置されている。FM放送はNHKの中継局とコミュニティ放送局のディ!ウェイヴのみで、鹿児島県を対象地域とするエフエム鹿児島は聴取不可能。
 地域の新聞社として南海日日新聞と奄美新聞がある。
 生物地理区の分類ではトカラ列島を通る渡瀬線を境に北側が旧北区、南側が東洋区となっている。生物学的に、奄美群島は九州本土よりも沖縄県の方が近い。
(wikipedia より抄出 )

 

 

奄美群島の本土復帰

1953年(昭和28年)1225日復帰。


 
日本政府と連合軍側(現在の国際連合)との条約であるサンフランシスコ講和条約が発効までの期間は、アメリカ軍の琉球列島米国民政府による自治権制約などの政策や、沖縄戦で疲弊した沖縄本島への資金集中、本土との分離に伴う換金作物や物産の販売経路の途絶などにより、経済が疲弊し飢餓の兆候さえ出てきていた奄美の住民は不満を増大させた。分離直後から始まっていた奄美群島祖国復帰運動は激しさを増し、日本復帰を願う署名は14歳以上の住民の99.8%に達し、ガンディーの運動を真似て集落又は自治体単位でハンガーストライキが行われ、小中学生が血判状を提出する事態も発生した。
 
サンフランシスコ講和条約と日米安全保障条約が発効した後では、アメリカは基地が少なく復帰運動の激しい奄美の統治を諦めるようになり、1953年(昭和28年)12月25日に施政権を返還した。クリスマスであることから、米国政府は「日本へのプレゼント」と皮肉った。  ()

太平洋戦争はアメリカが日本へ仕掛けた戦争であり、その目的は支那の利権と日本国への干渉であった。奇しくも日本国が軍隊の無条件降伏に応じてしまったので、米国は日本を軍事的に占領したが、日本国の領有は民族自決の大原則を踏みにじり、日本国の植民地化は歴史の流れに逆行し、果たせぬ野望であった。

朝鮮は南北に分断され、台湾はその独立が曖昧にされている。このことは、日本国の大東亜大戦以前の領土回復を、困難にするための民族関係を複雑にもつれさせるための仕掛けともみなすことができる。もし朝鮮半島が統一されて、台湾も独立する。そして日本国が核武装して軍事的にも独立すれば、台湾や朝鮮は日本国に復帰することを望む可能性も出てくる。

 

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