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菅 義偉

2010年04月29日 | 政治家

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菅 義偉 【わが郷・政治家】1948~ 菅 義偉 政治家

 

菅 義偉   (すが よしひで、1948126日 - )

日本の政治家。自由民主党所属の衆議院議員(6期)。自由民主党神奈川県連会長。内閣官房長官(第81代)。
 
自由民主党幹事長代行、総務大臣(第7代)、内閣府特命担当大臣(地方分権改革)、郵政民営化担当大臣、自由民主党選挙対策副委員長、横浜市会議員(2期)等を歴任した。https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8F%85%E7%BE%A9%E5%81%89

 

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来歴・人物

秋田県雄勝郡雄勝町(現湯沢市)生まれ。秋田県立湯沢高等学校卒業後、集団就職で上京する。ダンボール工場で働きながら、法政大学法学部法律学科(夜間部)を卒業。大学卒業後はいったん就職するも仕事を辞め、小此木彦三郎衆議院議員の秘書を11年にわたって務めた。1984年、小此木の通商産業大臣就任に伴い、秘書官を務める。
 
1987年、横浜市会議員選挙・西区選挙区から出馬し、初当選を果たした。市議は2期務める。1996年の第41回衆議院議員総選挙に神奈川県第2区から自民党公認で出馬し、新進党公認・公明推薦の上田晃弘、旧民主党公認の新人大出彰らを破り、初当選した。当時の橋本龍太郎首相の出身派閥である平成研究会に入会(当選同期に平沢勝栄・渡辺喜美・大村秀章・河本三郎・桜田義孝・下村博文・滝実・棚橋泰文・谷畑孝・田村憲久・戸井田徹など)。
 
1998年の自由民主党総裁選挙では所属していた平成研究会の小渕恵三会長ではなく梶山静六を支持し、小渕派を退会。その後宏池会に入会した。2000年の第2次森内閣不信任決議をめぐる「加藤の乱」では、加藤紘一らに同調して不信任案の採決では欠席したが、その後の加藤派分裂では親加藤派の小里派(小里貞利会長)ではなく、反加藤グループの堀内派(堀内光雄会長)に参加した。
 
2002年横浜市長選挙で、自民党横浜市連会長を務めていた菅は4選をめざした高秀秀信市長の支援を決定するが、高秀は中田宏に敗れ、落選。選挙後、神奈川県選出でありながら高秀を無視し、中田を首相官邸に呼んで激励した小泉純一郎首相を批判している(ただし自身も2011年愛知県知事選挙で自民党を除名された当選同期の大村秀章を支援している)。
 
2006年、再チャレンジ支援議員連盟の立ち上げに参加。この議連は実質、ポスト小泉を選出する2006年自由民主党総裁選挙に、安倍晋三を擁立する原動力になった。結果、総裁選で安倍は圧勝する。同年9月に発足した第1次安倍内閣では総務大臣(郵政民営化担当相を兼務)に任命され、初入閣を果たす。同年12月、内閣府特命担当大臣(地方分権改革)の補職辞令を受けた。
 
2007年、第21回参議院議員通常選挙敗北を受けた内閣改造では、安倍は菅の内閣官房長官(次善案として内閣官房副長官)起用を模索したが、直前に菅に事務所費問題が発覚し実現せず、自民党選挙対策総局長に就任した。菅は自民党選挙対策総局長への就任早々「私の仕事は首を切ること」と発言し、候補者の大幅な調整を示唆した。
 
2007年9月、安倍首相の退陣に伴い行われた2007年自由民主党総裁選挙では福田康夫を支持する古賀派の方針に反して麻生太郎を支持し、推薦人にも名前を連ねた。福田政権の下で、選対総局長を格上げした自由民主党選挙対策委員長に古賀誠が就任すると、古賀に手腕を買われ、同副委員長として引続き衆院選対策にあたることになった。古賀の配慮で選対総局長時代の部屋を選対副委員長室として引き続き使用した。
 
麻生内閣発足後は麻生の側近として低支持率にあえぐ政権を支え、中川秀直や塩崎恭久ら党内の反麻生派を硬軟取り混ぜた様々な手段で抑えた。また、積極的な政策提言をおこない、政府紙幣や無利子国債発行、世襲制限を唱えている。
 
2009年7月、古賀が東京都議会議員選挙敗北の責任を取る形で辞任。麻生首相の解散予告後だったこともあり、選対委員長代理として総選挙を取り仕切ることになる。
 
2009年の第45回衆議院議員総選挙では、神奈川県第2区で民主党の三村和也の猛追を受けるも548票の僅差で三村を破り、5選。2009年自由民主党総裁選挙において、96年当選同期の大村や新藤義孝・松本純と共に河野太郎の推薦人になるとともに、所属する古賀派を退会した[3]。
 
2010年、自由民主党国会対策副委員長及び広報本部本部長代理に就任。2011年、自由民主党組織運動本部長に就任。
 
2012年9月、盟友関係にある安倍晋三の自由民主党総裁就任に伴い、自由民主党幹事長代行に起用された。
 
2012年12月26日に組閣された第2次安倍内閣において官房長官に起用された[1]。

 

総務大臣として [編集]
 
菅は2006年10月、NHK短波ラジオ国際放送への放送命令に定義されている放送事項に、「拉致問題」という具体的な内容を加える方針を示し論議を呼んだ。日本の放送法33条には『国際放送等の実施の命令等』という項目があり、そこには「総務大臣は、協会に対し、放送区域、放送事項その他必要な事項を指定して国際放送を行うべきことを命ずることができる」とある(2007年12月の放送法改正で「命令」から「要請」に変更された)。
 
菅は「北朝鮮国内で厳しい生活環境で救出を待ちわびている多くの拉致被害者に対し、日本政府も国民も見捨てていないことが生きる希望になる」と強調し、11月10日に放送事項に「北朝鮮による日本人拉致問題に特に留意すること」を追加する命令をNHKに出した。一方で菅は「報道の自由は守らなければならない。番組内容や放送回数を指示する訳ではない」とNHKに対して編集権の配慮も示した。
 
放送法44条には「編集権」に関して『放送番組の編集等』という項目があり、そこでは「NHKは、国際放送の放送番組の編集に当たっては、海外同胞に適切な慰安を与えるようにしなければならない」とある。
 
2007年1月6日、宮崎県知事選挙期間中の宮崎県を訪れ、「総務大臣を囲む新春懇談会」を開催した。その際、地方自治体の予算配分に強い影響力を持つ総務大臣であるにもかかわらず、市町村の首長たちに自民党推薦の持永哲志への支援を呼びかけたため、マスコミからの批判を招いた。また、懇談会に参加していた市町村の首長たちは川村秀三郎を支援していたため、結果的に地元の反発をも招く結果となった。なお、この知事選では東国原英夫が当選した。
 
2007年1月16日、菅総務大臣が「NHKの改革と(受信料の支払い)義務化によって生じた分を国民に還元していくのは基本」と述べ、さらに「経営合理化とともに、徴収率を現在の70%前後から85%に引き上げることで受信料2割前後の値下げが可能」と指摘したことから、NHK受信料義務化と受信料値下げがセットで議論され始めた。総務省もNHK受信料の支払いを義務づける放送法改正案を第166回国会(2007年1月25日から6月23日)に提出し、2008年度から義務化する方針としている。
 
これを受けて、日本民間放送連盟の広瀬道貞会長(テレビ朝日会長)は「NHK自身が視聴者に利益還元するというメッセージを出すべき」と語り(1月18日)、値下げ案を支持した。ただ、菅が求める「2008年度から2割値下げ」という具体案については「契約数が何割を超えたらこれぐらい値下げしますというぐらいがいい」と述べ、NHKに広く裁量権を認めるべきとの見解を示した。一方、当事者であるNHKは、受信料義務化には賛成するものの、受信料値下げには慎重な姿勢に終始している。
 
2007年3月23日、朝日ニュースターの番組にて、自由民主党参議院幹事長かつ党の通信・放送産業高度化小委員長の片山虎之助は、日本放送協会を担当する総務省放送政策課課長を菅が交代させたことに対し、「総務大臣(=菅)が駄目だ。(総務省放送政策課)課長はNHK寄りだとかいうが、『自分のいうことを聞かないから代える』ということでは大臣を辞めた方がいい」と指摘し、菅の放送行政運営を批判している。
 
菅は日本郵政公社総裁生田正治と会談後、生田から総裁辞任の申し出があったことを発表した。その後、後任の日本郵政公社総裁には、日本郵政社長西川善文が就任することが発表された。なお、生田自身が政府に辞任を申し入れたことはない[4][5]。


エピソード [編集]
 「安倍が最も信頼する側近の1人」とされ[6]、第1次安倍内閣が閣僚の問題発言などで混乱する中、存在感を増していった[7]。地方分権改革推進法など19本の法案を成立させるとともに、ふるさと納税の提唱や、年金記録問題における省内委員会の設置などをおこなうなど、閣僚のスキャンダルが続出した第1次安倍内閣にあって安定した存在感を発揮した。2012年の自由民主党総裁選挙に際しては、早くから安倍擁立に動き、第2次安倍内閣では念願だった官房長官に抜擢された[8]。
 他方でNHK命令放送、受信料引き下げ問題や郵政公社総裁解任などを巡って、強権的と評された。自民党内でも選挙対策責任者として、コスタリカ方式の選挙区解消に努めたため、候補選定で一部から反感を買った。
 安倍・麻生両首相の信頼を得て急速に発言力を増した人物だが、そのスピード出世には周囲の反感も多い[6]。派閥の長である古賀も自らの意に反する行動を続ける菅の台頭に複雑な思いを持っているとされる[9]。また、所属派閥を何度も変えていることから、「信用できない」(森喜朗など)との評価[8]や、側近として活動した第1次安倍内閣、麻生内閣が短命だったことから、「菅さんがやったことは、ほとんど失敗している」との評価もある[8]。
 梶山静六を政治の師匠と仰ぐ。第2次安倍内閣で官房長官に就任した際、梶山の墓前にも就任を報告した[8]。
 中宏池会構想に関してはかつて古賀に対し「反対しないが、次の総裁選で麻生が立候補をすれば麻生を支持する」と明言していた。
 選択的夫婦別姓制度の導入に賛成。
 「私は農家の長男だが地方では農業が衰退しており集約化が必要だ。都市農業は相続税など税制で支援すべき。日本は資源のない島国。雇用をつくるのが政治家の仕事だ」としてTPPの参加に賛成[10]。
 2009年の総選挙で自民党が下野した頃からダイエットを敢行。4ヶ月で14キロの減量に成功し、メディアでも盛んに取り上げられたが、あまりに急に痩せたため、関係者の間では健康不安説が飛び交ったという[11]。


所属団体・議員連盟 [編集]
 再チャレンジ支援議員連盟(幹事長)
 日韓議員連盟
 日本会議国会議員懇談会(副会長)


著書  『政治家の覚悟 官僚を動かせ』(文藝春秋企画出版部、2012年3月12日、ISBN 978-4160087422)
( wikipedia を参照した。 )

 

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