おもいッきり

2010-04-15 | Weblog






長いこと物置というより物捨て場と化していたアティックルームの整理を思い立ってやってみた。
いくつかの段ボール箱に将来は必要になるだろうと思っていた小物や端切れなど10年以上は眠っていたのだろう。
ほとんどが今後も日の目を見ることはないであろう小物や端切れの生地など
大きなゴミ袋で7袋いさぎよく捨てることができ自分なりにもびっくりした。
こうして思い切って捨てるのも意外ときもちのいい物だ。


洋服は3年ほど前に整理したのだがあの時とっておいたジャケットなどはあれ以来一度も手を通してなかったのだがあらためて着てみると
まんざらでもなくまたもやタンスの奥底で眠ることになってしまった。


物の少ないシンプルな生活環境を作りたいものだが難しいことになりそうだ。




今日の箴言

精神の欠点は顔の欠点と同じで年をとるほどひどくなる。

弱さこそただ一つどうしても直しようのない欠点である。

(ラ・ロシュフコウ)





根気よく探せば

2010-04-12 | Weblog
(National Gallery,London)







今住んでいる所は生まれ育った所につぐ長い年月になろうとしている
17年間住んでいて一度も引っ越しを考えたことがなかったとは言えないが
数年に一度引っ越したい症状郡が頭を持ち上げて来る。
数年前までは住む場所を変えようと思うといろいろな面倒なことをしなければならず
それを考えると具体的にはならずにたち切れていた。
引っ越しをするためまず最初にすることは住みたいと思う地域のエステイトエイジェントを尋ね歩き資料を取り寄せることから始まるのがあたりまえだった。
ところが今はインターネットという効率の良い機能が地元のロンドンばかりかイギリス全土
それどころかヨーロッパを始めアジア、アメリカ、そして南半球のあらゆる場所の不動産物件を閲覧できるのだ。
予算外な桁外れの不動産項目をクリックするとミリオネアの家の内部やストリートヴューを使えば近所の雰囲気まで垣間見ることができ一時の夢の家を想像したりすることもできる。
当分はこの熱に悩まされそうだがまたすぐ下火になる見込みもありえるものだ。



今日の箴言

希望はもっぱら人をたぶらかすものだが、
それでも、人生の終着点まで楽しい道を通ってわれわれを行き着かせることにおいて少なくとも役に立つ。

(ラ・ロシュフコウ)

















バナナのむき方

2010-04-06 | Weblog
     (St.James's Park,London)







バナナを食べるのに先の方から剥いて食べるかヘタの方から剥いて食べるか人それぞれ違うことをはじめて知った。
先のほうからむくとヘタを持って最後まで食べられるから便利だとか
ヘタの方からむくと細い渋皮が一緒にむけて美味しく食べられるとかいろいろなウンチクがあるようでおもしろい。
みかん類もヘタの方からむくと渋がきれいに取れるそうだが僕はやわらかいハラの方からいつもむいて食べる。特にかたいオレンジの場合はヘタからむくのは不可能に近いものだ。
バナナの場合はなぜかヘタの方からポキンと折って一本目をむき最後の持ち手のことなど考えてみたこともなかった。

あるランチタイムにこれが正統なバナナのむき方と言わんばかりに自信たっぷりにバナナをむいて食べている人に出会った。
彼女は親指でスーッと頭から先まで筋を入れそれをパカット割り裸になったバナナを取り出し食べ始めたのだ。
わざわざ指を汚さなくてもいいのだと思うのだが食べ物を指でも感じて味わうということだろうか。



今日の箴言

人は年をとるにつれて、いっそう物狂おしくなり、またいっそう賢明になる。

(ラ・ロシュフコウ)











難読症

2010-04-04 | Weblog


あの日の青空はほんの一瞬のできごとだった、
それにもかかわらず桜は咲き出してくれた。




















英語圏やフランス語圏の人々の中には “Dyslexia” というアルファベットで書かれた単語通りに読んで理解できない症状や意図した言葉を正確に文字に表すことができない人たちが10人に一人はいるという。
文字がほぼ発音通りに表記されるイタリア語圏ではすくないという。
これは知的能力や学習能力に特に異常が無いにもかかわらずありえることで現に優れた学者にも起これば芸術の分野で才能を発揮している人達にも多く表れるということだ。

日本語では漢字という表意文字とかなという表音文字を使ってきたために間違って言葉を認識することは英語圏に比べると少ないそうだ。

僕の場合は最近日本語でびっしり書かれたブログなどにであうと
数行読み始めたところで全く読む気が失せたり漢字とひらがなの文字の羅列に圧倒され読めば理解できることもなぜか億劫になってきている。
コンピューターのスクリーンに現れる電子文字が悪いのか老眼が進んできているのか読むことに根気が必要になってきているのは確かだ。













今日の箴言

心の健康も、あてにならないことにかけては体の健康と変らない。
だから人は、たとえ情熱からおよそ縁遠いように見えても,
元気な時に病気になるのと同じに,何時情熱にとりつかれるかわからないのである。

(ラ・ロシュフコウ)
























九谷焼

2010-04-02 | Weblog









一時僕は九谷焼の鮮やかな絵が描かれている焼物が好きでした。
あの古九谷の芸術的な色使いのものではなく(あれらはとても高価な物でもあります)
けばけばしく安っぽいとも評価される新九谷と呼ばれる明治時代に描かれた焼物です。
それらは輸出用に描かれたらしくイギリスやフランスのアンティーク屋やブーツフェアなどでもよく見かけ値段もそんなには高くはないものです。
こちらに来てそれらを買ったことはないのですが日本にいた頃はよく骨董市に出かけ徳利だけを買い集めていました。
昭和になってからの絵柄は好きではなくとにかく明治から大正時代の雰囲気のあるものを集めたりもらったりしながら今では50本以上にもなったでしょうか。
それらを入れて陳列してあったキャビネットの鍵が十年以上前から全く見当たらなくなってしまい次に開ける時はドアの鍵を壊すしかないだろうと思っていたところキッチンの棚の片隅からひょっこり出てきたのです。















最近見はじめたブログ“記憶の扉”に出てくる昭和30年代の白黒写真を見ているとあの頃にも確実にあった “色” というものが不思議なことにほとんど脳裏に浮かんでこないということに気がつきました。
“色” は記憶から抹消されるものなのでしょうか。

明治時代のしゃれた料亭で使われていた物でしょうか、
それとも季節限定で使われていた物でしょうか、
あの頃にも確実に“色”は存在し酒席を華やかにしていたのでしょう。






今日の箴言 


美しい物の中にはあまりにも完全にできあがった時よりも未完成のままの時のほうが光って見える物がある。


若くても美しくなければ何もならないし美しくても若くなければ何もならない。

(ラ.ロシュフコウ)