淳一の「キース・リチャーズになりたいっ!!」

俺好き、映画好き、音楽好き、ゲーム好き。止まったら死ぬ回遊魚・淳一が、酸欠の日々を語りつくす。

「ON NEW YEAR’S EVE」

2006年12月31日 | Weblog




    君の不幸は、他人の指導理性の中に存するわけではない。
    また、君の環境の変異や変化の中にあるわけでもない。
    しからばどこにあるのか?
    なにが不幸であるかについて判断を下す、君の能力の中にある。
    ゆえに、その能力をして判断を控えさしめよ。
    しからば、すべてがよくなるであろう。

   
    君が、何か外的の理由で苦しむとすれば、
    君を悩ますのはそのこと自体ではなくて、
    それに関する君の判断なのだ。


    
    今日、私は、あらゆる煩労から抜け出した!
    というよりも、むしろ、あらゆる煩労を外へ放り出した!
    なぜならそれは外部にはなく、内部に、私の主観の中にあったのである。


                     マルクス・アウレリウス「自省録」




    

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クリント・イーストウッド監督の「硫黄島からの手紙」を、遅れ馳せながらやっと観た。

2006年12月31日 | Weblog
 本当は、映画封切り初日に観ようと決めていたのに、何かと忙しく、ついに大晦日前日まで引き摺ってしまった。
 クリント・イーストウッド監督による、映画「硫黄島からの手紙」である。
 硫黄島での戦いを日米双方の視点から描く2部作の「父親たちの星条旗」に続く第2弾だ。

 映画の上映が夜の8時半から。
 日中も色々と忙しく、夕食を採ってから部屋に寝転がる。
 行こうか、行くの止めようか。疲労困憊なのだ。
 外は久しぶりの吹雪模様。雪が激しく降っている。これから車に乗って、郊外のシネマ・コンプレックスまで行くのは面倒だ。
 でも重い腰をあげる。行きますか・・・。

 アメリカへの留学経験を持っていて、ある意味合理主義的な考えに立ち、しかも親米派でありながらアメリカ軍を徹底的に苦しめた指揮官、栗林忠道中将が、家族に宛てた手紙をまとめたという『「玉砕総指揮官」の絵手紙』を基にしてこの映画は成り立っている。

 主演が、ハリウッド映画の「バットマン・ビギンズ」や「ラスト サムライ」の渡辺謙。そして共演がジャニーズ「嵐」の二宮和也。
 この二人、素晴らしい演技を見せる。
 特に渡辺謙。日本軍の指揮官でありながら、部下や組織に対する暖かい眼差し、それからアメリカナイズされた仕草を、なんら嫌味なく演じ切っている。

 戦況が悪化の一途をたどる1944年、日本軍最重要拠点である硫黄島に、新たな指揮官、栗林中将が到着するところから映画は始まる。 
 一枚岩かと思われた組織も、海軍と陸軍の確執や、本部からの「支援出来ず」の非情な決定、それから栗林中将への合理的指揮・指導に対する不満などが重なってゆく。

 しかし栗林は、非合理で馬鹿げた精神論が幅を利かせる日本軍の体質を改め、合理的な体制への移行を強引に整えていく。
 ロサンゼルス・オリンピック馬術競技金メダリストである、西竹中佐のような理解者や、栗林に助けられた一兵卒などが、少しずつではあるが彼の理解者として増えてはいくのだが、反発も根強く、それが大きな悲劇への誘導へと繋がって行く。
 
 そして、硫黄島に篭った日本軍は、圧倒的な戦力のアメリカ軍を迎え撃つために、島中に張り巡らせた地下要塞の建設を進め、アメリカ軍との徹底抗戦に臨むことになる・・・。

 モノトーン映画に近い、くすんで重苦しい画質。
 洞窟のシーンは息苦しく、硬質な熱気が観る者を締め付ける。
 圧倒的なアメリカ軍の大物量作戦に対して、武器も乏しい日本軍はゲリラ的に戦ってゆく。

 クリント・イーストウッドの目線は、至ってクールだ。
 日本軍、アメリカ軍のどちらにも感情移入することなく、この残酷で惨たらしい戦争を冷徹に描く。
 2部作である「硫黄島からの手紙」と「父親たちの星条旗」。
 僕は「硫黄島からの手紙」を高く評価したい。

 映画を観終え、外に出たらまたまた猛吹雪。寒い。11時をとっくに回ってるし。
 もう明日は大晦日。



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別に寺尾聰のファンじゃないけど、「Re-C00l Reflections」は中々いい出来。

2006年12月30日 | Weblog
 僕は、寺尾聰に対して特別な思い入れとがあるとか、彼の映画の大ファンだとか、そういうことはまったくない。
 だから、1981年に彼が出して馬鹿売れした怪物アルバム、「Reflections」を買ってもいないし、全曲聴いた覚えもない。

 勿論「ルビーの指輪」は知っている。
 口ずさんだ覚えもある。
 当時のTBS「ザ・ベストテン」は毎週観ていたテレビ番組の中の一本で、確か「ルビーの指輪」は、12週連続第一位という物凄い記録を打ち立てたはずだ。
 それほど、この「ルビーの指輪」は売れに売れたのである。

 そのアルバム「Reflections」が、このたび「Re-C00l Reflections」として完全リ・メイクして蘇った。
 当初、このニュースを聞いた時、僕は何の感慨もなかった。だって、別に興味なかったし。それに、同じ曲を全部改めて採り直すということ自体、何か姑息な感じがして厭だったのである。

 聴いたのは偶然だった。
 車に乗っていて、FMから突然流れ出してきたのである。

 いいじゃん。なかなか。
 やはり、食わず嫌いはいけません。先入観もいけません。

 早速、アルバム買っちゃいました。
 全曲を通して聴いてみて、寺尾聰という人の作曲の才能に驚かされた。いやあ、素晴らしい曲を作ってくれます。
 それから、アルバム・ジャケットが格好いい。渋い。クール。こんなふうに歳を重ねて行けたら素晴らしいと思う。

 歌詞のほとんどは、どちらかと言えば失恋ソングというか、男の未練というか、別れを耐える姿というか、女々しさというか・・・。まあ、そんな感じではある。
 でも、その平板でシンプルな詩に乗せるメロディがとても綺麗だから、心に響いてくる。

 新録の「ルビーの指輪」もいいけれど、「SHADOW CITY」や「ダイヤルM」、それから「北ウイング」、「出航 SASURAI」と続く、怒涛の後半戦が美しい。
 
 いやあ。
 「お前の匂いは 記憶の彩りだけど 生きてゆく道連れは夜明けの風さ」とか、「虚ろな日々だけが 俺に残される あなたを求めながら」とか、一歩間違うと臭くてアホっぽい男の嘆きが、この人の声とメロディに乗ると、何故かカッコいい歌に変化する。

 寺尾聰の「Re-C00l Reflections」、意外と売れているらしい。
 このアルバムも冬にあう。



 

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このアルバム凄くいいっ! ジョン・レジェンド「ONCE AGAIN」。これこそソウル!

2006年12月29日 | Weblog
 「ミュージック・マガジン」2007年1月号を読んでいたら、恒例の「2006年間ベストアルバム」が特集されていて、アメリカ部門のロックがボブ・ディランの「MODERN TIMES」で、イギリス部門のロックがモリッシーの「リング・リーダー・オブ・ザ・トーメンターズ」だった。

 そしてR&B・ソウル・ブルース部門が何とビヨンセ。
 へえー。ビヨンセ。そしてそのあとに続いていたのが、このジョン・レジェンドのセカンド・アルバム「ONCE AGAIN」。

 早速、購入。
 家の中で聴くのもいいんだけど、ちょっと車を飛ばして大音響で聴くのもいいかなあと思いつき、午前中、独りでドライブとしゃれ込んだ。

 12月29日の街は、ほとんど雪がない。
 こんなことも久しぶり。今冬はマジで暖冬かも。
 ただし空はどんよりと曇っていて、時折りみぞれ混じりの雪もちらつく。そして小雨もぱらついてきた。
 師走の海が見たくて、市内の外れに位置する温泉街へ。
 灰色がかった海。少し荒れている。

 ジョン・レジェンドのファースト・アルバムは全世界で約250万枚も売れたらしい。それから、グラミー賞でも3部門で受賞した。
 なので今回、そのファースト・アルバムも一緒に購入した。
 少し、声がスティービー・ワンダーに似てなくもない。確かにソウルフル。
 
 一曲目の「セイヴ・ルーム」から飛ばす、飛ばす。
 どちらかと言うと、ソウル・シンガーというよりも、ピアノを弾きながら歌い上げるシンガー・ソング・ライターという趣きかも。

 5曲目がいい。
 ちょっと懐かしい60年代ソウルの輝きがする。フィラディルフィア・ソウルっぽさも滲み出している。
 全体を通して聴いてみたら、こてこてのソウルという感じはなくて、あくまでも聴きやすくてポップな感触も垣間見える。

 全16曲を聴き終えたら、何と市内を遠く離れ、太平洋岸沿いまで出てしまった。
 僕が住んでいる地域と違って、青空さえ覗いていた。何でこんなにも天気が違うんだ? しかし、冬に聴くジョン・レジェンドっていいなあ。
 暖かくてまろやかで。心がゆっくりと溶けてゆく・・・。

 評価が高いアルバムだけある。
 反戦歌っぽい曲もあるけれど、ほとんどの曲は甘く切ないラヴ・ソング。歌詞もなかなかいい感じ。

 どんよりと曇った空の下で聴くのもいいし、少し太陽が雲間から顔を出すような天候のなかで聴くのも悪くない。
 冬はやっぱりソウル・ミュージックだ。

 よし。
 帰ったら、マーヴィン・ゲイを聴こうっと。

 ・・・って、ここ何処だっけ。道に迷っちゃったよ・・・。



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「都市と自然と人びと」というテーマにひかれ「東京都美術館」の「大エルミタージュ美術展」を鑑賞する。

2006年12月28日 | Weblog
 フランス・パリの「ルーブル美術館」、 アメリカ・ニューヨークの「メトロポリタン美術館」、 ロシア・サンクトペテルブルクの「エルミタージュ美術館」、イギリス・ロンドンの「 大英博物館」。
 僕はそのいずれの美術館にも足を運んだことがない。
 だから、死ぬまで(まだまだたっぷり時間はありそうなので)に、一度はこれらの名だたる美術館を巡る旅に出てみたい。これが僕のささやかな夢である。

 そしてちょうど上京中、上野の「東京都美術館」において「大エルミタージュ美術展」が開催されていたので、最終日ということもあって急いで観に行った。

 約300万点もの所蔵品を誇るといわれている世界最大の美術館のひとつ、ロシア国立「エルミタージュ美術館」。
 今回、日本で開催された「大エルミタージュ美術館展」は、その膨大なコレクションの中から、「都市と自然と人びと」をテーマに、15世紀のヴェネツィア派から20世紀の近代絵画まで、400年にわたるヨーロッパ各国の75人の画家による油彩画80点を厳選して紹介しているということで興味がひく。

 「家庭の情景」、「人と自然の共生」、「都市の肖像」という3つの柱に沿うかたちで、ルネサンス以降のヨーロッパ絵画の歴史を再発見してゆくという仕立てになっていて、ちょうどいい数のコレクションが揃い、その迫力に圧倒される。

 何といっても、自然を描いた絵画に惹かれてしまう。
 僕が、すぐ目がいってしまうのは、やはりその背景に描かれている光と色彩である。
 ルネサンス以降の美の巨人たちの描く、晴れ渡った空や、夕暮れ近くの雲の流れや、太陽の光に揺れる木々の陰翳や、草花や水面の揺らぎ・・・。
 主体となる人物や対象物の奥に描写されているもの。何故かそれに惹かれてしまうのである。

 特に、夕暮れどきの風景。
 橙色や赤を基調としながらも、光の屈折や前方に位置している人物や建物らを溶け込ませ、そこに描かれた主題を際立たせるために、色彩を統制する方向へと導いてゆく仕立て・・・。
そこにこそ、ある種の美が醸し出されてゆくのではないか。

 だから、僕の美術の見方って少し偏向しているのかもしれない。
 何を見てもそこに「意味」を持たせてしまう。それは勿論、絵画とかアートにおいては当然のことで、「作品」のあらゆる部分に「意味」はある。また、なければならない。

 そういうことではなくて、例えば映画や文学において、語るべき「主体」や「核」から少しだけズレている部分。でも、それら周縁がきちんと描かなければ、「主体」や「核」が際立たない、とても重要な部分。
 そこにも、確かな「意味」がある。

 「アートは、今まさに飢えて死にそうな人間に対して有効なのか?」などというアホな問答がこの世界には存在する。
 有効なわけがないだろう。
 今まさに飢えて、このまま何も食しないと死にまで至る人間は、アートとか芸術とか、そんなものを投げ捨てて、今すぐに一切れのパンを食し、飢えを凌ぐべきに決まってる。
 当たり前だろう。

 しかし、「今まさに、心の飢えを感じ、生きてゆく希望も無くし、ビルの屋上から飛び降りようとしている人間に対して、一切れのパンは有効か?」
 有効なわけがないだろう。
 ビルから身を投げようとしている独りの人間にとって、今の空虚さや絶望を救い、明日へと生きる力、その一助となりうるもの・・・。
 それこそがアートであり、一枚の美しい絵画にこそ救済されることだってあるのではないか。

 あらゆるものは同列である。
 そこに上も下もあるわけがない。




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ケン・ローチ監督の映画「麦の穂をゆらす風」。重厚でいて、しかも静謐な質感が漂っている。

2006年12月27日 | Weblog
 2006年カンヌ国際映画祭において最高賞パルムドールに輝いた、ケン・ローチ監督による、歴史に翻弄される兄弟を軸として、1920年代アイルランド近代史を描いた悲劇の物語である。
 主演が、「バットマン ビギンズ」での悪役ぶりが懐かしいキリアン・マーフィ。この人、なかなかいい味を出している。

 1920年。それまで、長きにわたってイギリスの支配を受けてきたアイルランドでは、人々の間で独立の気運が高まっていた。
 主人公のデミアン(キリアン・マーフィ)は、南部の町コークで医師になることを志し、ロンドンへの学業派遣も決まり、街の仲間たちとホッケー競技に興じている。

 しかし、イギリスのアイルランドに対する弾圧は容赦ない。
 軍隊は、アイルランドに押し入り、市井の人々に対して暴力をもって取り囲もうと試みる。街には夥しい数の死者が出る。憎悪と反感。それに対する激しい抵抗。
 若者たちを中心とするアイルランド独立への動きは急を告げ、弾圧による報復テロ、それに対する反撃と連鎖し続け、戦いは袋小路に入り込んでしまう。

 医師になることを目指していたデミアンも、ついにその夢を諦め、兄のテディと共に、武器を取ってアイルランド独立を目指す戦いに身を投じる決心をする。
 そして遂に、イギリス軍との激しい戦闘の末、イギリスとアイルランド両国の間で講和条約が締結された。
 ところが、完全な独立からは程遠いその内容に、条約そのものの評価を巡って、アイルランド人同士の間に賛成派と反対派の対立が生まれ、ついには悲劇的な内戦へと発展してしまうのだ。
 デミアンも兄テディも、考え方の違いから、双方敵味方に分かれて戦うことを強いられ、それが決定的な悲劇となって目の前に現れることに・・・。

 歴史に翻弄され、歴史に振り回される人間たちの、苦悩と悲劇。
 これまでも「物語」として、古今東西において語り尽くされてきたテーマであり、目新しさは特にない。
 それでもこの映画が、他の映画と比べてひときわ輝いて見えるその理由は、歴史の動きを大上段に語るのではなく、アイルランドのある小さな町に生きる一人の若者の視点から激動の歴史そのものを捉えたことだろう。
 ケン・ローチ監督は、気負うことなく、若者たちの抵抗と挫折を一歩引いた目線で静かに追ってゆく。

 目を覆うような残酷シーンもある。
 主人公と、兄を含めた仲間たちがイギリス軍に捕まり、牢屋に閉じ込められる。リーダー格の兄は、アジトと組織の全容を吐くことを強いられ、それを拒否したことで、拷問にかけられる。
 生爪を剥がされるのである。一枚、一枚、ペンチで。
 このシーンは観ているほうもキツい。余りにもリアルだからだ。そういう意味では、ケン・ローチとても上手い撮り方をしている。

 僕は、この映画を観て、なんとなく白土三平の傑作漫画「カムイ伝」を思い出してしまった。
 「カムイ伝」も、権力側と弾圧される民衆との抗争を描いた漫画史に残る名作だが、その中でも語られ主張されていたのは、結局、「真の敵は外部にいるのではなく、内部に宿っている」という普遍的な原理だ。
 外部の敵と対峙している間は一致団結が可能である。しかし、悲劇は必ずそのあとにやってくる。つまり、内部対立だ。
 裏切り。反目。暴力。憎悪・・・。

 激しくて、しかも切ない映画である。
 そして、とても静かで美しさをも内包している。
 悪くない。




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快晴の日曜日。「上野の森美術館」で開催している、生誕100年「ダリ回顧展」を観に行く。

2006年12月26日 | Weblog
 12月24日のクリスマス・イヴ。
 東京滞在最後の日は、とてもいい天気に恵まれた。
 そのポカポカ陽気に誘われるように、上野の森まで足を伸ばした。
 ちょうど、画家サルバドール・ダリの回顧展が「上野の森美術館」で開催されているってことだし。
 
 美術館の前は物凄い人でごった返し。
 何事かと訝っていたら、何と「ダリ回顧展」を観るために列を成して並んでいるのである。仕方がないので最後尾に張り付いた。約30分待ち。仕方ないなあ。並ぶのって大嫌いだけどね。
 いい具合に青森にいる知人から携帯に電話が入り、その遣り取りをしている間に時間が潰せたので助かったけど。
 青森はどんよりと曇っているのだとか。じゃあ、この素晴らしい青空って何なんだ? 
 風土は人間を変える。ダリはスペインという風土で何をインスパイアされたんだろう?

 ダリは、1905年5月、スペインのフィゲラスで裕福な中流階級の役人の息子として生まれた。
 ダリ家には幼くして亡くなった息子がいて、両親は新しく息子が生まれるとその子に亡くなった子と同じ「サルバドール」という名を付けた。のちに画家となるサルバドール・ダリである。亡き兄と同じ名であったことは、ダリ本人に対して大きな心理的影響を与えたと言われている。

 少年時代から絵画に興味を持ち、また父が所有していた別荘の近くに同じく別荘を構えていた画家ラモン・ピショットからも才能を認められ、絵を描き続けるように勧められる。
 やがて、美術学校に通うことになったダリは、その頃、映画監督になるルイス・ブニュエルとも知り合い、映画「アンダルシアの犬」を共同制作することにも繋がってゆく。
 この映画は、超現実主義の代表的映画であり、確か現在、DVDで廉価販売されていると記憶しているんだけど・・・。

 そして今回の、生誕100年ともなる「ダリ回顧展」。
 とにかく冒頭でも述べたように、凄い人混みで、ちゃんと落ち着いてゆっくりと絵を鑑賞するような雰囲気にはなってない。
 この特異の風貌と、絵そのもののシュールさがダリの人気の秘密かもしれないけれど。

 観た感想を一言で言い切ると、「素晴らしかった」というしかない。
 僕はダリの絵が大好きなのだ。
 あらゆる事象に対して「意味」を求めてしまう僕は、目に見えるそのものをあっけらかんと「解体」し、そこにへばり付いている数多の記号を無理やり「剥ぎ落とし」、そこに漂う世界の全てに「新たな意味を挿入し」、対象となる風景自体をがらりと「転換」させるダリが大好きなのだ。

 後方でダリの絵を眺めていた女性が、「全然わかんない!」って呟いていたけれど、一体何をわかろうとするのか、わからない。
 これが世界だろう? これが意味だろう? そして、これこそが世界を「破壊」し、「解体」し、「再構築」するってだろう?
 在るってことは、無いってことだ。無いってことは、在るってことだ。こういうふうにダリには見えたんだから仕方ない。まあ、短絡的に言い切ればだけど。

 僕は、とても美しい絵だと思う。
 しばしの間、見とれてしまった絵も数多い。本当は、誰もいないがらんとした美術館で見たかったけれど、こればかりはどうしようもない。

 ただ漠然とだけれど、この人って、もしも今の時代の若者で、例えば絵の道に進んでいなかったら、ノイジーなパンク・ロックなんかやってたんじゃないのかな? 根拠は全然ありませんが。

 サルバドール・ダリ。いいぞ!
 力が湧くね。うん。




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クリスマスの狂乱に沸き返る渋谷の映画館で、ドキュメンタリー映画「ダーウィンの悪夢」を観て独り考える。

2006年12月25日 | Weblog
 ドキュメンタリー映画「ダーウィンの悪夢」を観終え、明るい冬の太陽が降り注ぐ渋谷の街を歩いたら、さっきまで僕に突き付けられた、アフリカの現実との余りにも大きな落差に少し唖然としてしまった。
 街を行き交う人々はクリスマス気分に高揚していて、誰も彼もが能天気にはしゃいでいるようにさえ思えてくる。

 勿論、ホームレスや年末を越すことさえ難儀な人間もいることはいる。でも、この国に住まう人々の大部分には、相変わらず飽食と浮かれ気分が蔓延しているし、危機意識の薄い、グローバリズムとは無縁な、張りぼてのアジアの大国であることに変わりはない。
 国家間、地域間、世代間、その他を含めて、様々な形での「格差」という怪物が、いかに世界規模で広がっているかを深く考えさせられる。

 「ダーウィンの悪夢」は、グローバル経済に吸い込まれたアフリカの一地域で引き起こされた悪夢のような現実を、真摯に描き出したドキュメンタリー映画である。
 映画の切符を買い求めようと並んだら、次から次へと後列が膨らみ始めていった。それだけ話題性に満ちた映画だということが分る。上映初日ということが当然あるとしても。

 アフリカのビクトリア湖という大きな湖には、かつて多様な生物が生息していた。
 それをもって、「ダーウィンの箱庭」とも呼ばれていたビクトリア湖に、今から半世紀ほど前に、外から持ち込まれた肉食の「ナイルパーチ」という巨大な魚が放たれたのである。
 「ナイルパーチ」は、元からこの湖に住んでいた様々な種類の魚たちを次々と駆逐してゆき、爆発的に増殖し続けることで、湖の生態系そのものを破壊してゆく。

 この「ナイルパーチ」という魚、淡泊な白身魚ということで、食用としてもEUや日本で大変好まれるらしく、湖畔の町に「ナイルパーチ」を加工・輸出する一大産業が誕生することになるのである。
 つまりこの日本で、僕たちも、白身魚のフライとして、いつも食卓や弁当のオカズの一品としていつも食しているのだ。

 ここから、悲劇が生まれる。
 新たな加工・輸出会社は、地域社会にたくさんの雇用を生み出し、それが一部の富をもたらす一方で、すさまじいまでの「格差社会」を招くことにも繋がってゆく。
 街には、売春やエイズ、それからストリートチルドレン、ドラッグがあふれかえる。
 映画は、エイズで死んでゆく人たち、街で売春をしながら生計を立てる女性たち、物乞いをし、暴力を受けながらも、街の舗道で夜をしのぐ小さな子どもたちの姿を執拗に追ってゆく。

 一方で、旧ソ連からやって来て大量の魚を積み、EUへと空輸していく飛行機にも疑惑が向けられる。
 膨大な武器や弾薬を積んでいるのではないか? そしてその武器類が、アフリカの内戦を助長し、回りまわってこのような貧困が生まれているのではないのか? それらを映画はインタビューを交え問い詰める。

 映画は、工場経営者や輸送機のパイロット、そして彼らに群がる売春婦たち、ウジや泥に塗れながら廃棄された「ナイルパーチ」のアラを貪り食う地元民たち、暴力や飢えに苦しみ粗悪なドラッグに手を染めるストリートチルドレンたちの生活を映し出し、グローバル経済システムに組み込まれた各階層それぞれに光を当てながら、グローバリゼーションの縮図とも言えるこの街で繰り広げられる、恐るべき日常を世界に告発する。

 何ともやり切れない、負の連鎖。
 明確な結論は出ない。でもこのままでいいわけもない。
 俺もそのうち、この映画のことなど頭の隅に追いやり、コンビニで買い求めた弁当に入っているフライの白身魚を美味そうに口に頬張るんだろうな。

 しかし、この「ダーウィンの悪夢」、一見の価値はあるかも。




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「GO!」

2006年12月25日 | Weblog



        きっと明日は君の街へ
        パレードはやって来る


                      



        

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「12月の東京へー」その④

2006年12月24日 | Weblog
 今日はクリスマス・イヴ。

 東京の朝は気持ちがいい。
 今日もいい天気だ。青空が広がっている。
 いつか仕事をリタイアしたら、絶対この街に戻ってくるぞ。寒い所なんて厭だもんね。

 ホテルの部屋でのんびりと過ごす。
 朝風呂に入り、髪を洗い、軽めの朝食を採り、新聞に目を通す。
 今日で東京の街ともサヨナラだ。名残惜しい。
 ホテルのチェック・アウトは11時なので、またベッドに潜り込み、また二度寝。ああ、のんびり。

 ホテルのチェック・アウトを済ませ、地下鉄駅を目指す。
 空は青空。風も気持ちがいい。ビル群の間を歩く。人影もまばらだ。日曜の長閑な朝。
 新幹線は午後の3時なので、まだ少し時間がある。
 こういうときは、美術館。これが一番いい。
 
 地下鉄で上野まで。
 地上に出て、上野駅公園口まで歩く。
 西郷さんの銅像の前で缶コーヒーを啜り、「上野の森美術館」で開催されている「ダリ回顧展」。
 何と30分待ちの大行列。仕方がないので最後尾に並ぶ。行列って大嫌いなんだけど、ここまで来たら戻れないし。

 「上野の森美術館」を出て、今度は「東京都美術館」で開催している「大エルミタージュ美術館展」へ向かった。

 途中、不忍池のベンチに腰掛けて、初冬の太陽の淡い光を全身に浴びる。
 何て気持ちがいいんだろう。
 知り合いから携帯に電話が入り、天気を聞くと「曇っていて寒いよ」との返事。
 人は天候で気持ちまでが変わる。

 「大エルミタージュ美術館展」も混んでいた。今日が最終日ということもあるかもしれない。でも30分待ちということはなかったけれど。

 上野動物園の横を通り、ブラブラと上野駅までの道を歩く。
 今日はクリスマス・イヴ。そして日曜日。

 東京駅で新幹線に乗り込んだ。
 青森に着くのは7時過ぎだ。東京、上野、大宮。車窓から午後の日曜日の街を眺める。仙台辺りから夕闇が迫って来た。盛岡の街を過ぎた辺りから少し雪が見え始める。

 車内販売で缶ビールとツマミを買い、飲みながらまた暗い外の景気を眺めた。
 クリスマス・イヴに乾杯。
 もう、去年や一昨年のブログみたいに、「けっ!」なんて言わないよ。
 すべてを素直に受け入れる。もう過去を嫌悪して未来を恐れることにはウンザリだ。そういう思考から心底脱出したい。

 青森の街が見えてきた。
 すっかり陽が暮れている。雪も、想像していたより少ない。
 家までの道を歩いて帰った。
 中心市街地に人影は少ない。今日は、みんな家でゆっくり過ごしてるんだろう。

 心は、とても穏やかだ。



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「12月の東京へー」その③

2006年12月23日 | Weblog
 クリスマス・イヴの前日、つまりイヴ・イヴ。
 ホテルのベッドで目を覚ました。

 本当は、新宿で朝の9時30分から一回だけ上映する、映画「長い散歩」を観ようと8時に目覚ましをセットしたんだけれど、挫けてしまってパス。
 だって眠いんだもん。

 ホテルの窓から、青空が見えた。
 いい天気だ。
 今日は、都内で映画三昧と決め込む。

 ブランチを採り、地下鉄を乗り継いで渋谷まで。
 土曜の渋谷は、物凄い人でごった返している。
 スペイン坂を歩いて、映画館「渋谷 シネマライズ」に辿り着く。
 今日初日のドキュメンタリー映画「ダーウィンの悪夢」を観るためだ。

 映画館は満員。
 映画を観て外に出たら、次の回を待つ人たちで溢れ返っている。さすが話題の映画だ。

 今度は銀座まで。
 地下鉄を降り、地上への階段を上る。
 みんなエスカレーターを使っているのに、僕だけ一人が長い階段を駆け上がる。凄い優越感。まあ、別にいいんだけどさ。
 ちょうど三越前に出た。歩行者天国が行われていて、ここも凄い人で溢れてる。

 有楽町にある映画館を目指して歩こうとするけれど、混雑で中々進まない。
 「グッチ」や「エルメス」の専門店の前は、カップルが列をなして並んでいる。入場制限してるんだ。クリスマス・プレゼントかあ。

 やっとの思いで、有楽町駅前にあるビルの7階に。
 今度は、ケン・ローチ監督の「麦の穂をゆらす風」。
 こっちも混んでいる。何たって土曜日だもんね。しかもイヴ・イヴだし。

 映画館を出たら、もう夜の7時過ぎ。
 クリスマスのイルミネーションの周りには、恋人同士が集まって写メールの雨あられ。
 お腹がすいて、何処かの店で遅い夕食でもと思ったけれど、今夜は何処もカップルで占領されてるに違いない。
 仕方がないので、宿泊しているホテルの近くのコンビニで適当に見繕って、独り部屋で淋しく夕食。

 向かいのビルで、オフィスにたった一人篭って仕事をしている中年男性がいる。そうかあ、土曜日の夜に、こうして仕事している人間もいるんだあ。
 ちょっと切なくなる。

 バスタブにたっぷりとお湯を溜め、ゆっくりと疲れを癒す。
 風呂から上がってミネラル・ウオーターを飲み、ベッドに潜って本を読む。
 向かいの人、まだ仕事してるよ。もう12時まわったのに・・・。

 明日はクリスマス・イヴ。



  

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「12月の東京へー」その②

2006年12月22日 | Weblog
 朝の6時にホテルで起床。
 今日は金曜日。
 あまり熟睡出来ないまま朝を迎えた。
 空はどんよりと曇っていて、今にも雨が降り出しそうな気配。残念だ、抜けるような青空が見たかったのに・・・。

 赤坂見附の事務所に到着して、早速書類の整理に取り掛かる。関係者が早朝から次々に訪れ、情報収集に追われてゆく。
 外は、小雨も時折りパラパラと降っていて、少し寒い。
 プラタナスの樹木から鮮やかな黄色の葉が落ちて来て、晩秋の青森と一瞬見間違えてしまった。

 仕事は夜の6時に無事終了。
 「お疲れ様でした」と、事務所から、めいめいが師走の夜の街中に散らばって行く。
 スタッフ3人で、ささやかな打ち上げの飲み会。

 終わって、僕は地下鉄丸の内線までの道を急ぐ。
 何処を歩いても流れてくるのは、クリスマス・ソング。煌びやかなイルミネーションが眩しく輝いている。

 電車に乗って、何処に行こうか考える。
 映画も観たいし、独りでどっかのバーを見つけてふらっと入るのもいいな。

 あっ! そうだ。
 東京時代に住んでいたアパートまで行ってみよう! 突然、閃いた。
 そのままの姿で残っているんだろうか? もう、街そのものも変わっちゃったろうなあ。そこに行くことで、自分の中の何かが少しでも動いてくれたなら・・・。

 池袋で東武東上線に乗り換えて、大山まで。
 よく、大山駅からアパートまでの約10分を寒さに肩を震わせながら独り歩いたものだった。電気の消えているアパートの窓に目をやり、バイトで疲れた重い足取りを引き摺って階段を登る。寒い部屋の電気を点けてベッドに横たわる。
 窓から、遠く江古田方面に、巨大な水道タンクが暗闇に聳(そび)えていたっけ。

 あの頃も孤独で不安で苦しかったけれど、今のように、萎えて屈折した感情だけは持っていなかったような気がする。もっと前向きで、力が溢れ、未来に対する希望のようなものがあった気がする。いろんなことに挫折して挫けそうになったけれど、立ち直ることにも早かった気がする。
 いつからなんだろう。こんなふうに小さく縮んでしまったのは・・・。

 もうすっかり住宅街は暗く沈んでいて、迷いに迷いながら昔の面影を探してさ迷い歩く。新しい道路が出来ていたり、再開発で大きなマンションや公園が出来たりしていて一歩間違うと別の方角に進んでしまう。参ったなあ。
 結局、迷いに迷ってやっと探し出した。
 あった! 俺の4年間住んでいたアパート! 少し外壁は変わっているけれど、僕のいた部屋に電気が点いている。
 懐かしさに、何分間もただボーっとその部屋の灯りを見つめていた・・・。

 帰りに、近くの寂れた中華料理屋で、独りでビールとチャーハンと餃子を食べる。俺は、一体ここで何してるんだろう。

 ホテルに戻ったのは、もう夜中の12時過ぎだった。
 お風呂を沸かし、ミネラル・ウォーターを一本飲んでテレビをつけた。しーんとしている。窓から東京の夜の街を眺める。
 疲れている。とても疲れている。

 明日は土曜日。明後日はクリスマス・イヴ。
 それが終われば、すぐにも御用納め。そして大晦日。続いて元日がやってくる。

 そう。2006年が終わるんだ。




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「12月の東京へー」その①

2006年12月21日 | Weblog
 12月21日木曜日。

 朝6時に目覚ましが鳴った。外はまだ暗い。
 背広に着替え、鞄に仕事の書類と本をどっさりと詰め込んで、青森駅までの道を歩く。鞄が途轍もなく重い。
 雪はほとんどないけれど、明け方の寒さで道路がツルツルに凍っていて、滑るのなんの。まるでスケートリンクの上を歩いているみたい。

 青森駅6時44分発の八戸駅行きに乗り込み、新聞と缶コーヒーを買い込み、持って来た本を鞄から取り出す。
 「文学界」、「新潮」、「すばる」、「小説トリッパー」、「群像」、「文藝」、「文藝春秋」、合わせて十数冊。重いわけだ。
 一冊の雑誌がそれぞれ電話帳ぐらいの分厚さだから、ボーリングのボールを何個か鞄に詰めたような感じがする。でも仕方ない。こうやって、列車の長い異動時間を利用して読まないと、家では読む暇がないから、ますます溜まって積読だけになってしまう。

 そのほとんどが文学「新人賞」作品掲載号だ。
 全てを読むのは物理的に不可能なので、興味ある作家のロング・インタビューとか、エッセイとか、短編だけを丁寧に読み、読み終えた「文学界」、「新潮」、「すばる」、「小説トリッパー」、「群像」、「文藝」、「文藝春秋」らは、次々と車内に取り付けてあるダストに捨ててゆく。
 これで荷物は少し軽くなる。でもまだまだ鞄には残っているけどね。

 列車で、同じ組織の後輩でARTIZANのメンバーでもあるS君とバッタリ遭遇。
 東京まで同席し、東京駅で仲良く昼食を採って別れる。

 ホテルに荷物を置いて、すぐさま赤坂見附にある東京事務所に直行。
 様々な打合せと書類を作り、夜の7時頃に事務所を出た。

 赤坂見附からバスで新橋駅まで向かう。
 夜の国会議事堂を抜け、省庁が乱立しているオフィス街へ。何処も彼処も電気が煌々と点いていて、不夜城の趣きが。
 楽しいんだろうか? 楽しいんだろうなあ。猛烈に働き続けることの虚しさとかってないんだろうか? ないんだろうなあ。
 矜持と、国を動かしているという高邁な理想と自負なのか。うーん。

 クリスマス・イヴ近いお台場まで、今度は「ゆりかごめ」に乗り換えて揺られてゆく。
 レインボー・ブリッジの綺麗な輝き。東京湾にナイト・クルーズしている船舶がたくさん浮かんでいる。東京タワーや高層ビル群から発する光の渦が美しい。
 星はまったく見えないけれど。

 お台場のオープン・デッキをゆっくりと歩く。
 夜風が心地よく頬を撫で付ける。僕たちが住んでいる地方でいえば、ちょうど秋頃の気温だろうか。
 カップルたちが、イルミネーション輝くクリスマス・ツリーの前で肩を寄せ合い写真を撮っている。海を臨むベンチに腰掛け、熱いキスに興じるカップルも。
 フジテレビの、広くて高い階段に取り付けられた数千もの電球がとても綺麗な光を放っていて、その上方に、息を飲むほどの美しさで聳(そび)えるツリーが見えてくる。

 でも、思ったほど人影は少ない。
 みんな、クリスマス・イヴの夜だけを目指して、今日明日はじっと自粛して耐えてるんだろうか。まあ、別にいいんだけどさ。

 ここからタクシーを飛ばして、六本木ヒルズで上映している、ドキュメンタリー映画「デート・ウィズ・ドリュー」を観に行こうとも考えたけれど、夜中の12時半からの上映じゃあ、ちょっと明日がキツくなる。なので今夜はパスしよう。

 ・・・って、あのカップル、まだキスしたまま離れないよ。まったくもう。




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「明日から、独り東京に篭(こ)もる!」

2006年12月20日 | Weblog
 今日は久しぶりのいい天気。青空が広がっている。
 お昼休み、オフィスの窓から、雲ひとつない晴れ渡った空を眺めていた。
 まあ、いい天気とはいっても、ここの冬の天候はすぐに変わってしまうから油断はできないけれど・・・。

 いつもなら、連日のように雪が降り積もり、早朝の雪掻きに急がされている時期なのに、昨日まで降った雪も暖気で溶け始めている。やっぱり今冬は暖冬?

 来年夏の超大作「ダイ・ハード4.0(仮)」の予告編がオフィシャルサイトに登場したので早速観て見た。
 95年の「ダイ・ハード3」以来12年ぶりのシリーズ最新作は、サイバーテロとマクレーン刑事の戦いを描くとあって、凄くワクワクしてくるけど、予告編第一弾を見る限りにおいては、ノンストップ・アクション満載の作品となりそうだ。
 それに、監督は「アンダーワールド」のレン・ワイズマンだしね。

 来年、これも公開予定の日本映画、「スキヤキ・ウエスタン・ジャンゴ」。
 監督が三池崇史で主演が伊藤英明ということだけれど、これもそそられる。
 セディック・インターナショナルなどが製作する異色ウエスタン(西部劇)ということらしく、現在山形などで撮影中なのだとか。早く観たい。

 そしたらニュースで、元東京都知事の青島幸男氏が今日20日、東京都内の病院で亡くなったという訃報が。74歳だったとか・・・。
 別に死者に鞭打つような真似はしたくないけれど、確かに、都知事後半期の政治行動は、えっ?と、首を傾げるものだった。
 当時、僕はどちらと言えば革新政党に対するシンパシーがとても強くて、何で「保守政党」が長期政権を保っているのかまったく理解できなかった。ラディカルな姿勢こそが是として譲らなかったのである。

 しかし。ラディカルとは何か? 革新とは何か? 保守とは何か?
 「保守本流」のラディカル性ということだって、別に皮肉でもパラドックスでもなく、確実に存在する。誤解してほしくはないのだけれど、これは「自由民主党」だとか「民主党」だとか「日本共産党」だとか、個々具体の「政党」を支持するとかシンパシーを抱くという次元の問題では決してない。
 まあ、別にいいんだけどさ。

 明日から、いよいよ東京だ。
 勿論、仕事で行くわけだけれど、当然、夜は自由時間ということに相成る。
 クリスマス・イヴの街を淋しくうろつくか、独りホテルの中で本でも読みながらゆっくりと寛ぐか。色んな仲間たちも、どういうわけか大挙して上京するという事態になっているようで、予測不可能な状況に陥る可能性も・・・。って、それはないか。
 俺って、そんな飲めないしな・・・。

 ちょっとビックリしたのが寺尾聰のニューアルバムの件だ。
 実は、最初、大ヒットした「ルビーの指輪」が入った昔の「アルバム」をリメイクし直して再発売するというニュースを聞いて、ちょっとそれって安易だなあと思ってた。
 ところが先日、FMから流れた曲(つまり音をすべて取り直した曲)を何気なく聴いてたら、以外といい出来栄えなのである。
 この寺尾聰の新作「アルバム」、やっぱり買いでしょう。

 それはそうと、アメリカの研究結果によると、結婚をしている女性がストレスを感じた際に、夫の手を握ると、ストレスが即座に解消されることが脳のスキャンではっきりと分ったらしい。ニュース速報でやってましたね。
 恋愛関係が良好なら、傷が早く癒え、病気になる頻度も低く、長生きするんだって。

 ふーん。




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ロシアの映像作家アレクサンドル・ソクーロフ監督の映画「太陽」は、天皇ヒロヒトの孤独と苦悩を描き切る。

2006年12月19日 | Weblog
 この映画はどうしても観たかった。
 ところが、忙しさが続き、やっと今夜時間が取れ、即、「シネマ・ディクト」に直行。すると、あらあら、谷田さんご本人がモギリで立っているではないか。久しぶり。
 平日の夜の回なのに、意外とお客さんも多い。やはり、映画「太陽」、関心が高い。

 ロシアを代表する映像作家アレクサンドル・ソクーロフ監督が、歴史上の人物を描く全4部作のうち、ヒトラーの「モレク神」、レーニンの「Telets」に続く第3作目にあたる映画が、「太陽」である。

 昭和天皇ヒロヒトに焦点を当てる。
 敗戦直前から、アメリカ軍のマッカーサー元帥との会見を経て、人間宣言を決断するまでを描いていて、想像力を駆使しながら、ひとりの人間としての孤独と苦悩を描いている。
 主演はイッセー尾形で、皇后役が桃井かおりだ。

 イッセー尾形は力演している。かなり研究したのではないか。細部に至る動作まで緻密に計算尽くしているのがよく解る。
 ただし、皇后役の桃井かおりはミス・キャストだろう。ちょっと強すぎる。
 彼女は、ラスト近くに登場するのだが、ずっと違和感が付き纏った。

 神と崇められ、戦争に翻ろうされた天皇が、終戦から一転して「人間宣言」へ至るまでの経過を、凝縮された時間の流れの中で語ってゆくのだが、アレクサンドル・ソクーロフ監督が凄いのは、閉鎖的な空間で展開される「現人神」の「物語」を、開かれた世界にまで解放してゆくその手腕に尽きる。
 とにかく、イッセー尾形が吐き出すその台詞だけで、昭和天皇ヒロヒトの、歴史の大転換による「神」から「人間」へとその立場を変えざるを得ないことへの戸惑いと苦しみを、観ている者へと伝えるのである。

 本作は第55回ベルリン国際映画祭など世界各地で絶賛されたらしいが、その評価もよく分る。僕はまだ未見だけれど、これで俄然、4部作のうちの、ヒトラーの「モレク神」と、レーニンを扱った「Telets」が観てみたくなる。

 1945年8月。疎開した皇后や皇太子らとも離れ、地下の待避壕か唯一残った研究所で孤独な生活を送る天皇。
 敗戦が決定的となり、御前会議では陸軍大臣が本土決戦の用意があると涙ながらに語るのだが、天皇は降伏を示唆するのである。
 この辺りを、アレクサンドル・ソクーロフはじっくりと描いてゆく。外圧と自分の主張をどのようにして折り合わせるのか? 戦争を長引かせたことで優柔不断と取るのか、それとも戦争を終結させた英断と取るのか?
 空襲の悪夢にうなされ、皇后と皇太子の写真を見つめる天皇。空襲シーンは、幻想的で、しかも冷徹ささえ漂ってくる。
 そして、やがて、連合国占領軍総司令官ダグラス・マッカーサーとの会見の日がやってくる。

 ただ、異質というか、興ざめする箇所もなくはない。
 アレクサンドル・ソクーロフが、ブレヒトの「異化」を意識したのかどうかはよく解らないけれど、ブレヒトが舞台で多用したという「作品転換の際に使った突然の無意味な挿入」。これが突然、この映画においても挿入されるのである。
 つまり、いきなり「笑い」の部分を挿入したり、イッセー尾形が素になったり。

 「異化」は、ヘーゲルの「精神現象学」を基底としている。
 その意味では、ソクーロフ。案外、侮れない?




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