これまで、一体何本の映画を観て来たのだろう。
子どもの頃、ほとんど毎週、というか新しい映画が封切られるたびに、家族と一緒に映画館まで足を運んだものだ。僕は映画館というそのハコ自体もまた大好きなのだ。
たった独りで映画館に足を踏み入れたのは、拙い記憶を辿ってゆけば(勿論、記憶はいつでも嘘をつくものだけれど)確か小学校4年生の頃だと思う。
独りで家から3キロほど離れた場所にあった「歌舞伎座」という映画館ではなかったか。そこは当然今では跡形もなくなっていて全く別の建物が建っているけれど、僕は独りそこまでの道を歩き、スティーヴ・マックイーン主演の「遊星からの物体X」(だったと思う。間違ってたらごめんなさい。ジョン・カーペンター監督の映画じゃなくてね)を観に行った。
「歌舞伎座」という少し変わった映画館、そこに昔、詩人で劇作家で映画監督でもあった、かの寺山修司が住んでいたという話を聞いたのは、当然それから何年も経ってからの話ではある・・・。
それから映画館への小さな旅が始まった。
中学・高校では頻繁に学校帰り映画館に立ち寄ったし、それは東京に住んでいた時分も同様だった。もう完全に生活の一部なのである。
「ぴあ」とか「シティ・ロード」(懐かしいなあ!)を買い求め、マーカーでチェックをし、首都圏の映画館を随分回った。なので、東京都内の映画館にとどまることなく、横浜や川崎や千葉の映画館まで足を運び、必死になって地元の映画館を捜し歩いたものだった
そしてそこで、本当に数多くの映像作家たちに出会った。尊敬すべき大好きな監督たちもたくさんいる。それはこのスペースのみでは到底言い切れるものではない。それほど語るに足るべき作家たちが、僕の中で息づいてきたのである。
その中の一人に、スウェーデンの映画監督、イングマル・ベルイマンがいる。
新聞報道で、そのイングマル・ベルイマン氏が30日、スウェーデン南部にあるフォラ島の自宅で死去したということを知った。
今年89歳だったことも新聞で知った。勿論、かなりの高齢であることは知っていたけれど。死因も不明ということだった。
僕は死亡記事に対して軽いショックを受けてしまった。
僕がイングマル・ベルイマンの映画を意識的に観るようになったのは、彼の名声がすでに高くなってしまった後のことだ。
しかし、正確に言えば、イングマル・ベルイマンの名声は、初期の作品が次々と発表されてゆく時点において、もう巨匠の域に達していたわけで、1918年にスウェーデン南部にあるウプサラという場所に生まれ、ストックホルム大学を卒業後、映画製作を本格化させ、「危機」という46年の作品で監督デビューしたわけだけれど、55年に発表した「夏の夜は三たび微笑む」で、映画評論家たちからすでに高い評価を得ていることから、その意味でも早咲きの人だったのである。
彼の代表作と世間で認知されているのは、「第七の封印」、「野いちご」、「処女の泉」、「沈黙」(63年)辺りだろうか。
しかし、彼の作品は初期の傑作群だけにあるわけではない。後期においても積極的に映画を発表し続け、「秋のソナタ」など素晴らしい映画も数多作っている。
個人的に傑作だと思っている作品は、まず「野いちご」である。
この映画に対しては、その後、様々な監督たちが、尊敬と敬意を持って模倣し、そして心からのオマージュを捧げている。
その一人がウディ・アレンである。ウディ・アレンの作品の中には、ベルイマンが宿っている。
イングマル・ベルイマンの映画は、そのどれもがひんやりとした冷たい質感で覆われていて、死や老いや孤独が漂っている。それから「神」や「信仰」という内面的な問題も。
僕が最も衝撃を受けた彼の作品。それは、1982年に発表した「ファニーとアレクサンデル」である。
僕は、この5時間にも及ぶ大長編映画「ファニーとアレクサンデル」を映画館で観終え、そのラスト近くで映し出されたある数シーンに対して凄い衝撃を受け、しばし言葉を失い、呆然をその場に立ち尽くしたことを、今でも鮮明に思い出すことが出来る。
「ファニーとアレクサンドル」以降、彼はテレビと演劇に活躍の舞台を移し、最終的に5度の結婚の末に8人の子どもを残し、彼らもまた、現在では、監督、女優、俳優、TV監督として活躍しているらしい。
ベルイマンは、結局40本以上の作品を残し、20世紀を代表する映画界の巨匠と呼ばれたまま、ついにはこの世を去ってしまった。
僕はその全ての作品を観たわけではない。何本か見逃している作品もある。
それをこれから時間を掛け、じっくり向き合ってみたいと思っている。
子どもの頃、ほとんど毎週、というか新しい映画が封切られるたびに、家族と一緒に映画館まで足を運んだものだ。僕は映画館というそのハコ自体もまた大好きなのだ。
たった独りで映画館に足を踏み入れたのは、拙い記憶を辿ってゆけば(勿論、記憶はいつでも嘘をつくものだけれど)確か小学校4年生の頃だと思う。
独りで家から3キロほど離れた場所にあった「歌舞伎座」という映画館ではなかったか。そこは当然今では跡形もなくなっていて全く別の建物が建っているけれど、僕は独りそこまでの道を歩き、スティーヴ・マックイーン主演の「遊星からの物体X」(だったと思う。間違ってたらごめんなさい。ジョン・カーペンター監督の映画じゃなくてね)を観に行った。
「歌舞伎座」という少し変わった映画館、そこに昔、詩人で劇作家で映画監督でもあった、かの寺山修司が住んでいたという話を聞いたのは、当然それから何年も経ってからの話ではある・・・。
それから映画館への小さな旅が始まった。
中学・高校では頻繁に学校帰り映画館に立ち寄ったし、それは東京に住んでいた時分も同様だった。もう完全に生活の一部なのである。
「ぴあ」とか「シティ・ロード」(懐かしいなあ!)を買い求め、マーカーでチェックをし、首都圏の映画館を随分回った。なので、東京都内の映画館にとどまることなく、横浜や川崎や千葉の映画館まで足を運び、必死になって地元の映画館を捜し歩いたものだった
そしてそこで、本当に数多くの映像作家たちに出会った。尊敬すべき大好きな監督たちもたくさんいる。それはこのスペースのみでは到底言い切れるものではない。それほど語るに足るべき作家たちが、僕の中で息づいてきたのである。
その中の一人に、スウェーデンの映画監督、イングマル・ベルイマンがいる。
新聞報道で、そのイングマル・ベルイマン氏が30日、スウェーデン南部にあるフォラ島の自宅で死去したということを知った。
今年89歳だったことも新聞で知った。勿論、かなりの高齢であることは知っていたけれど。死因も不明ということだった。
僕は死亡記事に対して軽いショックを受けてしまった。
僕がイングマル・ベルイマンの映画を意識的に観るようになったのは、彼の名声がすでに高くなってしまった後のことだ。
しかし、正確に言えば、イングマル・ベルイマンの名声は、初期の作品が次々と発表されてゆく時点において、もう巨匠の域に達していたわけで、1918年にスウェーデン南部にあるウプサラという場所に生まれ、ストックホルム大学を卒業後、映画製作を本格化させ、「危機」という46年の作品で監督デビューしたわけだけれど、55年に発表した「夏の夜は三たび微笑む」で、映画評論家たちからすでに高い評価を得ていることから、その意味でも早咲きの人だったのである。
彼の代表作と世間で認知されているのは、「第七の封印」、「野いちご」、「処女の泉」、「沈黙」(63年)辺りだろうか。
しかし、彼の作品は初期の傑作群だけにあるわけではない。後期においても積極的に映画を発表し続け、「秋のソナタ」など素晴らしい映画も数多作っている。
個人的に傑作だと思っている作品は、まず「野いちご」である。
この映画に対しては、その後、様々な監督たちが、尊敬と敬意を持って模倣し、そして心からのオマージュを捧げている。
その一人がウディ・アレンである。ウディ・アレンの作品の中には、ベルイマンが宿っている。
イングマル・ベルイマンの映画は、そのどれもがひんやりとした冷たい質感で覆われていて、死や老いや孤独が漂っている。それから「神」や「信仰」という内面的な問題も。
僕が最も衝撃を受けた彼の作品。それは、1982年に発表した「ファニーとアレクサンデル」である。
僕は、この5時間にも及ぶ大長編映画「ファニーとアレクサンデル」を映画館で観終え、そのラスト近くで映し出されたある数シーンに対して凄い衝撃を受け、しばし言葉を失い、呆然をその場に立ち尽くしたことを、今でも鮮明に思い出すことが出来る。
「ファニーとアレクサンドル」以降、彼はテレビと演劇に活躍の舞台を移し、最終的に5度の結婚の末に8人の子どもを残し、彼らもまた、現在では、監督、女優、俳優、TV監督として活躍しているらしい。
ベルイマンは、結局40本以上の作品を残し、20世紀を代表する映画界の巨匠と呼ばれたまま、ついにはこの世を去ってしまった。
僕はその全ての作品を観たわけではない。何本か見逃している作品もある。
それをこれから時間を掛け、じっくり向き合ってみたいと思っている。