淳一の「キース・リチャーズになりたいっ!!」

俺好き、映画好き、音楽好き、ゲーム好き。止まったら死ぬ回遊魚・淳一が、酸欠の日々を語りつくす。

全米最高視聴率TVドラマ「デスパレードな妻たち」、遂に日本上陸!これは必見!!

2005年09月30日 | Weblog
 遂に日本で放映が始まった。
 アメリカでテレビ上映されて、巨大お化けドラマ番組にまでなった「デスパレードな妻たち」である。
 日本での放送権を獲得したのはNHK。BS2で水曜日の夜10時からその第一回が放送された。

 いやいや、これはまた面白い!
 「ツイン・ピークス」のホームドラマ版? 「アメリカン・ビューティ」のテレビ版? 「金曜日の妻たち」のアメリカ版? はたまた究極の謎解き推理ドラマ?
 さすが全米視聴率連続第1位の怪物ドラマだけのことはある。
 様々な要素が絡まって、観るものを飽きさせない。

 ドラマは、自殺した女性がナレーションしながら進行してゆく。
 自殺した主婦と仲がよかった4人。彼女たちにドラマは視点を合わせるのだ。
 離婚して長女と暮らし、近くに引っ越してきた独身男性に恋をするもの。
 金持ちの男と結婚までしながら現在は冷え切って、若い庭師と不倫を続けているもの。
 全ての家事を完璧にこなし過ぎ、家族から疎まれ、夫から離婚を突きつけられているもの。
 そして、4人の子どもの世話に忙殺されへとへとに疲れきっている元キャリア・ウーマン。
 これら様々な事情を抱えた主婦たちが、友達の不可解な自殺を切っ掛けに、その謎に迫ってゆく。
 兎に角、全員何らかの秘密を抱えている。怪しい住人たち。何かがありそうだ。
 そして第一回のラスト。
 4人が自殺した女性の遺品を分け合っている時、1枚の紙切れを発見する。
 そこには「お前のおぞましい秘密を知っている!」という趣旨が書かれている。
 一体自殺の原因は何なのか? そして複雑に入り組んだ人間関係は、どのように解き明かされていくのか?

 デスパレードとは、「崖っぷち」とかの意味があるらしいけれど、直訳すると「欲しくてたまらない」という意味になるらしく、何となくアメリカの主婦たちのセックス・ライフの実態を描いたテレビドラマのように捉えがちだけど、それはちょっと違う。
 それそれの妻たちの抱える悩みと同時に、ミステリーが軸ともなるので結末が知りたくてついつい次を観たくなる。中毒になりそう。

 アメリカ本土では、第2シーズンが始まったのだそうな。
 一回目を見逃した人は、ホームページで一回目のストーリーをなぞり、次に臨むべし!
 観て損はない!

 
 
 

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「さよなら、九月」

2005年09月29日 | Weblog
 明日で九月が終わる。

 今日はとても穏やかな日だ。朝から雲ひとつ無い青空と爽やかな風が街中を包んでいる。
 お昼休み。いつものように外に飛び出す。
 自転車を漕いで、海へ。
 海風が頬を撫で、秋の程よい光を含んだ太陽が蒼い海を優しく照らしている。
 ベンチで寝転んでいるホームレス風の男性が独り。寒くはないのだろうか。
 
 数年前に、この街で暮らしているホームレスを取材したドキュメンタリー・ニュースをテレビで観た事があった。
 壮絶な映像だった。
 それは厳寒の街中で生き抜く姿を追ったもので、まさしく生きるか死ぬかのギリギリの人間そのものの姿を映し出していた。
 猛吹雪が舞う真夜中の駅前付近で、自動販売機のお釣り箱に残った十円玉を必死で見つけようと動き回る中年男性。
 雪に埋まったゴミ箱の中を片っ端から漁って、残飯を確保しようとする初老の男性。
 青森港に停泊している船の隙間から、岸壁に開けられた穴蔵のような窪みに入り込み、寒さをしのぐ年老いた男性。
 それから、雪が降り積もった公園のトイレで寝泊りし、数十キロ離れた中心市街地までの雪道を黙々と歩く中年の女性。
 僕はそれらの映像を、暖かい暖房の部屋で熱い珈琲を飲みながら観ていたのである。
 人間とはいい加減なものだ。
 自分だけヌクヌクとした場所から、悠々と高みの見物をしているに過ぎない。そして、少しそれを反省する振りをしながらも、その場所から抜け出ることを絶対的に拒んでいる。
 首都圏ならいざ知らず、こんな厳寒の街で暮らしながら越冬するなど、生死を掛けた戦いと言っても過言ではないだろう。
 今、あの画面の中で必死に寒さと飢えとに戦っていたホームレスの人たちは一体どうなったのだろう?
 
 陽の光はあくまでも淡く、これからこの街にやって来る厳しい冬将軍のことさえ知らないとでも言うように、ひたすら海辺を照らしている。
 サラリーマン風の旅行者らしき男が、駅横の噴水近くのベンチに座ってぼんやりと列車を眺めていた。プラットホームの人影もまばらだ。
 秋の光。明るさと隣り合わせの寂しさ。

 九月が終わる。
 十月がやって来る。その先には辛くて暗い冬が訪れる。
 
 そしてまた、僕たちはひとつ歳をとる。


 

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村上龍の「すべての男は消耗品である」VOL8、「ハバナ・モード」を読む。

2005年09月28日 | Weblog
 最初、そのタイトルにショックを覚えた。「すべての男は消耗品である」。
 そうかあ。男ってみんな単なる消耗品なんだ。何となく解らないでもないな。男なんてこき使われてポイ捨てされるだけの、100円ショップで売られている壊れやすい消耗品。
 このエッセイは、「ザ・ベストマガジン」で連載中のエッセイだけど、それは読まずにあとで本にまとめたものをいつも読んでいる。
 そしてまた新刊としてVOL8が発売された。タイトルは「ハバナ・モード」。
 
 ほとんどゼロに思える可能性に対する不断の努力というものが必要なのだ、と村上龍は言う。
 つまり、例えばそれは、「イラクに平和はやってくるのか?」というような、馬鹿げた意味のない質問に対してである。
 イラクに本当に平和をもたらすためには、アメリカ軍、アメリカ政府、それから数多のイスラム原理主義者たち、地元のスンニ派の過激な武装集団、そして、様々な主義主張を持つ多くの国連加盟国、この複雑に絡まった糸を解き解し、解決策を講じなければならないのだと。
 それは並大抵の努力なしでは到底到達しえないものだ。
 だから能天気に「イラクに平和はやってくるのか?」などと平然と問いかけるほど、世界はそんな単純なものではない。
 
 何とかなるだろうという曖昧でポジティブな前提と、このままではもうどうしようもないのだという絶望との、物凄く大きく開いた乖離からこそ、個人としての希望が生まれる。こうも村上龍は言っている。
 
 言い換えると、矜持と諦観。居直りと努力。
 アンビバレントだけれど、それはぴったりと結合していて離れることはない。
 ハバナ・モードなんて、カリブ海にゆったりと佇む豪華ヨットで寛ぐそんな明るさや穏やかさだけが漂っているが、実はもっと深くて強いものなのだ。
 つまり、どうしようもない絶望感に塗れても、何とかなるさという肯定性と、一種の不可能性への自覚。
 それが「ハバナ・モード」。

 まあ、納得できないことはないけどね。
 ただ、それを自分の中にキチンと組み入れることが出来るのか?
 基本的な戦略として、実生活でフレキシブルに活用できるのか?
 まあそれだって、自分次第だけどさ。

 面白かった本ではあるけれど、最後にちょっと不満な点。
 2003年から2005年までのエッセイなんだけど、2005年から逆に過去に向かってページが進むから、ちょっと読みにくい。
 国際政治や社会情勢についての記述が大半だから、やっぱり時系列的に掲げてほしかった。
 

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「LEON的な男たち」

2005年09月27日 | Weblog
 雑誌が大好きだ。
 今でも「月間プレイボーイ」や「ポパイ」や「ホットドックプレス」や「FRIDAY」や「AERA」や「宝島」などの雑誌の創刊号を、宝物のようにずっと持ち続けている。
 特に「ミュージック・マガジン」や「エスクワイア」や「CUT」なんかの雑誌は、キチンとバックナンバー順に本棚に並べ、暇な時に見返しているのだけれど、もう物凄い数に膨れ上がっていて、このままだと対処のしようがなくなるのではと少し不安になる。
 
 今「LEON」という雑誌がバカ売れしているらしい。
 いわゆる、これまでターゲットにしていなかった40代、50代の男性にスポットを当て、「モテる男の条件」だとか「このスーツが女性たちを魅了する」だとか「不良中年が今モテる」だとかのタイトルで煽り立てていて、それがくたびれた中年男性に活力を与えているようだ。
 3大編集方針というのがあるらしく、それは「ファッション」に「車」に「時計」である。そしてそれらはどれも女性という対象者を当て込んでいる。
 最近は、若い女性たちもこの「LEON」を買っている人が増えていて、女性サイドも様々なフィールド・ワークをしながら、男性に対して日々涙ぐましい努力を続けているんだなあということが解る。

 しかし、現実にこんな「LEON的な男たち」って一体何人いるんだろうか? 
 全体の紙面作りが物凄く濃くて、イタリア野郎のテイストなのである。今時の中年男性って、確かに昔よりは服装やグルメや趣味に対してレベルが高くなってきてはいるけれど、これを読んで女にモテると本気で思っている男性なんて皆無なはず。
 でも、それなのに売れ続けているのだ。
 「男の隠れ家」とか「OFF」とか「東京人」とかの雑誌だって、相当に女性たちを意識して作られているのではないか。
 「2人で行く秘密の京都」って・・・。いかにもだよなあ。

 読んでる雑誌によってその人間のある一面が垣間見れるというのは、少しだけ正しい。
 「文藝春秋」を読んでいる人と「中央公論」を読んでいる人では微妙に違うし、「週間大衆」と「ニューズ・ウイーク日本版」でも全然イメージに乖離が生じる。
 まあ或いは「ビックコミック」を読んでる大人と「漫画サンデー」を読んでる大人でも微妙な違いがあるだろう。

 男たちは共同幻想を持っている。
 夢は夢として割り切れない。まだ出来るのではないかという、ささやかな期待感と希望的観測。
 そして今日もまた「LEON」は売れ続け、微かな恋愛願望を疲れ切ったその胸に抱きながら、男たちは明日を生きる。

 ああーっ!!
 

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「肌寒い月曜日、そしてまた新しい一週間が始まる」

2005年09月26日 | Weblog
 今年もあともう100日を切ってしまった。
 速い。月日の流れは本当に速い。あっという間に過ぎてゆく。
 3連休も終わって、また新しい一週間が始まる。でも月曜日って何でこうも憂鬱なんだろう。快晴も快晴で、自分の心の落ち込みとのギャップがあって奇妙な切なさに苛まれるけれど、だからと言って曇や雨の日も、それなりに憂鬱な気分に襲われる。
 じゃあどうしたらいいんだと言われると、それもまた酷く困惑してしまうのだが、要するに仕事に行くのが億劫なだけの単なる怠け者なんだろうなあ。

 昨日は、ジムのプールでひと泳ぎした。
 とても気持ちがいい。水って何故か癒される。
 そのあと、独りで街をぶらぶら。本を買って、ドーナツを買って、そのあと「空間実験室」で珈琲を一杯。
 国際芸術センターの浜田館長もそこで独り寛いでいて、2人で色々と話をする。
 肌寒い一日だった。
 連休が終わって月曜日を迎えることでの、ちょっとしたざわめきと憂鬱感。それが日曜日の夕方ぐらいから徐々に始まってゆく。

 本屋で本を買って、雑誌を立ち読みしていたら、最近流行の「大人のロック」と、それ系の雑誌に目が留まる。
 最初創刊された時には、物珍しさも手伝い興味深く読んでいたのだけれど、近頃はだんだんと腹が立ってきた。
 なんなんだ一体。
 大人のためのロック・バー紹介だとか、いかにも40代50代の、「はいっ、若い時にディプ・パープルとかツェッペリンとか聴いてました。僕はビートルズに生き方を、そして人生を学びました!」的な匂いをプンプ匂わせる。それも強制的に。
 そして、如何にも昔ロックを聴いたおじさん世代を取り込もう、ターゲットにしよう、マーケットに打ち出そう、商売にしようという出版社の魂胆が見え見え。
 好きだから聴くだけだろう。
 確かにロックから様々な事を吸収したし、自分の生き方とか人生への多大な影響もある。それはそれでいい。
 このムーブメントに胡散くささを感じるのは、マニュアル化し、記号化し、紋切り型に世代を括ってしまう、その見え透いた戦略が覗かれるからだ。
 まあしかし、所詮、音楽自体だって巨大な一産業であることは否定できないし、売らんかな商業主義の最たるものじゃないかって言われたらそれまでだけど。
 でもなあ。
 こういう雑誌を読んで、マニュアルどおりにその「大人のロックを聴けるバー」とやらに出掛ける中高年ってやっぱりいるんだろうなあ。

 今日も風は冷たい。日差しも弱い。秋もこうして深まってゆく。
 「100㌔ウルトラマラソン」を僕は今年キャンセルしたけれど、出場したマラソン仲間から電話。
 「夜明けの5時スタート時点でもう雨が降っていて、50キロ地点まで止まなかった。そのあとは天気になったけど、風も強くてかなりキツくしんどかった。12時間57分でゴール。あと3分間遅れたら間に合わなかったよ。でも物凄く嬉しい!!」

 よし。今日からまたランニング開始。
 

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「魯迅」

2005年09月25日 | Weblog


        
        精神の糸に、過ぎ去った寂寞の時をつないで
        おいたとて、
        何になろう。

        私としてはむしろ、それが完全に忘れられない
        のが
        苦しいのである。




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ベルリン国際映画祭銀熊賞を受賞した映画「サマリア」。キム・ギドク監督は本当に凄い!絶対観るべし!!

2005年09月25日 | Weblog
 今、韓国というより全世界の映画人が最も注目している監督。それがキム・ギドクである。
 僕は「春夏秋冬、そして春」を観た時、しばらく映画館のシートから立つ事が出来なかった。それほどあの映画には衝撃を受けた。
 そして、その後最新作「ソマリア」が上映されたのである。
 ところが県内での上映は、八戸フォーラムただ一館のみ。それも一週間。
 当然、観に行こうとは思っていた。でも結局見逃してしまった。悔やんでも悔やみきれなかった。
 そして。そして遂に! 遂にDVDが発売され、レンタルが開始された。
 僕は速攻でビデオ・レンタル店に駆け込み、DVDを借りた。ちょっと拍子抜けしたのは、5枚ある「ソマリア」、誰も借りていないこと。
 まあ別にいいんだけどさ。

 女子高校生の援助交際の話である。勿論、それはほんの発端に過ぎない。
 そして、今作もそれぞれ三章に分かれている。
 「バスミルダ」。「サマリア」。それから「ソナタ」。
 ソナタは、交響曲の三部形式のことだけれど、それぞれが、大きな流れの中の一つを形成しているのである。
 原罪。性。暴力。再生。孤独。救済。愛。
 ここにはその全てが描かれている。

 実は観終わって「なんだあ、この程度か。『春夏秋冬、そして春』の方が数段よかった」と思った。正直にいいます。
 描いているのが現代だし、女子高生の援交だし、確かにソウルの秋を舞台にした重厚な物語ではあるけれど・・・。などなどと。
 そして、だんだんと気付いてきた。少しずつだけど。この映画の真の怖さを。
 ベルリン国際映画祭で銀熊賞を獲った意味も、ヨーロッパで今でも熱狂的に受け入れられている意味も、突然、霧が晴れたように理解した。

 やはり、この映画。
 傑作である。
 原題は「サマリアン・ガール」。
 あの新約聖書ヨハネ第四章に登場する「サマリア」だったのだ。キリストに救済される、罪深いサマリア人。
 そして、第一章の「バスミルダ」。これはインドの高級娼婦。

 人間は赦されないのかもしれない。あらゆるものから開放などされないのかもしれない。
 主人公の2人の女子高生。それを抱いた、何処にでもいるような中年太りのオヤジが満願の笑みを浮かべてこう言うのだ。幸せだと。今が一番幸せだと。
 そう言えばこの映画。笑っている場面が幾つかあった。それも脈絡もなく唐突に。
 そうだったのか。行き着く場所まで行き着けば、もうそのあとに残されているのは、ただ笑う事なのか・・・。

 参った!
 キム・キドク。すげえっ!


 
 
 

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怪盗ルパン生誕100年記念映画「ルパン」。これは奇作か?はたまた陳作か?

2005年09月25日 | Weblog
 ルパン・シリーズを小学校の図書室でよく読んだ。
 これって、僕を含めた大部分の人間の共通した経験なのではないだろうか。堀口大學の翻訳もまた素晴らしかった。
 そしてそれは、例えばモンキー・パンチの「ルパン三世」や宮崎駿監督の「カリオストロの城」へと続いてゆく。
 それほど日本人にとって、怪盗ルパンはポピュラーな存在なのである。
 今年がルパン生誕100年だとは知らなかったけれど、「奇巌城」や「813」を夢中で読んだ者の一人としてこれは見逃せない。

 で、とりあえず映画館へ。
 冒頭、盗みのプロであった父親に格闘技の指導を受ける若き日のルパンが登場する。その最中に父親は警察に踏み込まれ、一転、仲間と逃亡を図るのだが、無残な惨殺死体となって発見されることになる。
 その辺りをサクサクと手際よく描く、監督のジャン・ポール・サロメ。でも一抹の不安が過ぎる。あの「ルーブルの怪人」を撮った監督である。だって全然面白くなかった。

 大人になったアルセーヌ・ルパン。
 豪華客船での盗みのテクニック。そして海上への脱出劇。ここまでは好調。そのまま突っ走るのかと思いきや・・・。
 あとはもうダラダラダラダラ、ルパンを誘惑するカリオストロ伯爵夫人や、ルパンと恋に落ちるクラリスや、悪党たちが登場するのだけれど、兎に角もうかったるい。
 後半、ちょっとした山場は用意されてはいるが、これとて特に度肝を抜くというものでもない。
 盗みのシーンさえ、ただ単に盗むというだけ。そこに緊張感の欠片もない。どんでん返しというほどの見せ場もあるわけではないし、底の見える浮ついたトーンに終始する。

 未だに信じられないのは、この映画、本国フランスで大ヒットしたということ。
 嘘でしょう? 
解らん。あの思索に耽る、芸術と哲学の国のフランスで大ヒットとは・・・。
 これは奇作と呼ぶべきなのだろうか? それともルパンオタクにとっては、素晴らしいカルト・ムービーとでも呼ぶのだろうか?

 うーん。解らん。

 
 

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「冷えた缶ビールを片手に、秋の夜長をたった独りで漂う」

2005年09月24日 | Weblog
 冷えた缶ビール。
 ゴクリと飲み干す。そしてまた冷蔵庫からもう一缶。
 日付はもうとっくに土曜日。
 吉田美奈子の「LIGHT’N UP」のアルバムをかける。このアルバムは素晴らしい。まあ吉田美奈子のアルバムはどれも凄いけれど。
 その中の「頬に夜の灯」。どうしたらこんな素晴らしい曲が書けるのだろう?
 
 漫画の「バカボンド」と「ホムンクルス」の新刊を読み、「週間ファミ通」と「ミュージック・マガジン」と「CUT」の最新号を捲り、また缶ビールを一缶空ける。
 吉田美奈子から、今度はモーツァルトの「クラリネット協奏曲」。
 テレビの「MUSIC ON TV」を消音で流す。ビデオ・クリップが音なしで流れている。
 明日は早起きをしないと。
 WOWOWで、またまた「ラストワルツ」が放映されるのだ。マーティン・スコセッシ監督のザ・バンドを撮ったドキュメンタリー。
 ディランに、ニール・ヤングに、ロン・ウッドに。
 それから、これも見逃した「モナリザ・スマイル」。これはジュリア・ロバーツね。

 本来なら、明日は列車にゴトゴト揺られ、秋田の角館に行く筈だった。
 そう。「秋田内陸縦断ウルトラ100キロマラソン」に出場する筈だった。
 去年は一睡も眠る事が出来なくて、そのままスタート。練習不足も手伝って、結局50キロでリタイアしてしまった。
 だから今年こそは出場して、最後まで完走したかったのだけれど・・・。仕方ない。仕事も忙しかったし。
 でも来年こそは必ず。そして二勝二敗のタイに持ち込んでやる。

 秋の夜を漂っている。
 ふんわりと。ふわふわと。
 たった独りで漂っている。
 右に左に。それから上下に。
 散歩に出ようか。このまま独りで。

 僕もいつか、この世界から独りぼっち静かに消えてゆくんだ・・・。



 

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一分間のCGが8000万円!スパイダーマン2の製作スタッフが作った映画「ステルス」を観る!

2005年09月24日 | Weblog
 映画「ステルス」のことを始めて知ったのは、アメリカのソニーピクチャーズのホーム・ページ。それも春の頃だった。
 H・Pで予告編が流れていて、それはひたすらカッコよかった。なので、ずっと期待していたのである。
 アメリカでは今年のサマー・シーズンの公開で、前評判の割には余りパッとした興行成績を上げる事ができなかったけれど・・・。
 そして日本での公開が10月8日。それなのに試写会が2週間前ということで、兎に角、会場に駆けつける。
 今年度のアカデミー賞で主演男優賞を「レイ」で受賞したジェイミー・フォックスも出演しているということで、それだけでも興味が湧く。

 最新鋭の超高性能人工頭脳を搭載した究極の戦闘機「ステルス」。
 アメリカ海軍のエリート精鋭パイロットが、そのサポートを務めることになるのだが、それがジェイミー・フォックスを含める女性一人を加えた3人。
 ところが、この最新鋭「ステルス」。飛行中に雷の衝撃を受けて、突然狂ったように大暴走を始めてしまうのである。
 敵を自分勝手に想定し、容赦ない攻撃を加えてしまうのだ。それを阻止すべく立ち向かう3人のパイロットたち。
 果たして賢いこの「ステルス」戦闘機の暴走を止めることは出来るのか?
 
 中々面白いストーリー展開・・・になるはずなのに、兎に角、映画は余りにも乱暴に進んでゆく。
 大体、アジア某国のテロ組織を壊滅せんとアメリカ本国の命を受けてミッションを遂行する場面が幾つかあるのだが、ちょっと酷くないか?
 一歩間違うと、一般市民に絶大な被害を及ぼすというのに、強引に事を運ばせるわ、山間部のテロ組織をステルスの大暴走で木っ端微塵に打ち砕くのだが、その余波を受けて付近の村人たちが何十人も死に到らせてしまうわ。
 これがアメリカ本土を舞台に展開するならば、多分、ここまでは描かないのではないか? 直前で回避し、めでたしめでたしということに絶対なる筈。
 ちょっと馬鹿にしてる。

 まあ監督があのロブ・コーエン。
 「トリプルX」や「ワイルド・スピード」を観れば、まあ解らないでもないが。
 それはそれとして、見せ場は確かにたくさんある。
 お金もかなりつぎ込んでいるのも解るし、2時間飽きさせることもない。
 でもなあ。

 アクションがてんこ盛りでも、やはり映画の文脈がしっかりしてないと・・・。
 乱暴なのはアクションだけにすべきである。
 
 
 

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「頬に夜の灯」

2005年09月23日 | Weblog
        


        灯ともし頃ならば 少しははにかんだ
        うつ向きかげんでも恋はかなうはず


                


        

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「成瀬巳喜男の『乱れ雲』、『24』シーズンⅣ、エアロビクス耐久マラソン、それから秋の夕暮れ」

2005年09月23日 | Weblog
 昨日は夜の10時少し前にオフィスを出た。
 フジテレビ系の「電車男」の最終回を観なくてはならない。
 小雨の降り頻る中、自転車を飛ばす。肌寒い夜だ。でも中心部のビル群には所々電気が灯っていて、残業をしている人もまだまだ多い。
 セーフ。「電車男」の最終回に何とか間に合った。
 ドラマの出来? まあこんなものだろう。

 予めビデオで予約していた、NHK衛星放送第二の映画「乱れ雲」。これだけは何としても観なければ。
 多分、あともう何年間もこの名作はテレビ放映されることはないだろう。ビデオ屋にも、もう置いてないし。
 そして観るたびにこの映画、何某かの新しい発見がある。
 もう5、6回目になるだろうか。
 今回観て思ったのは、司葉子のその演技力だ。憎しみに満ち溢れた顔から、愛に溶け込む優しい表情まで、さすがに巧い。それから、森光子と加東大介のいぶし銀の演技。
 成瀬巳喜男監督の、生誕100年を記念してのこの度の映画放映。NHKに感謝しないとね。

 そして今日は「エアロビクス耐久マラソン」の日。
 夕方の3時からのスタートなので、それまでビデオの「24」シーズンⅣを観る。といっても、まだ第五巻までしかレンタルされていないので全体の評価までは出来ないけれど、このキーファー・サザーランド主演のTVシリーズ、「Ⅰ」よりも「Ⅱ」、「Ⅱ」よりも「Ⅲ」と、全作よりも面白度が高くなる。
 こういうふうに、進化し続けるドラマというのも中々ない。得るものが何かあるのかと問われたら、返す言葉はないけれど・・・。
 面白いからいいじゃん。

 「24」を観終え、スポーツジム。
 いよいよ「エアロビクス耐久マラソン」。でも2時間って意外と短い。
 普通のエアロビクスに、ヒップポップに、ラテン・エアロに、ボクシング・エクササイズにと、怒涛の如く次から次へと入れ替わる。
 ただ、そんなにハードな内容じゃないので、少し拍子抜け。もっとキツイのがいい。ヘロヘロに疲れて、ほかの雑念が全て消え去るような・・・。
 終わった後で、全員記念写真。
 熱いシャワーを浴びて冷たい水を一気に飲む。うーん。快感!

 夕暮れの中心市街地を自転車で。
 汗がひかずに、耳元をゆっくりと流れる。
 週末の街は、道行く人の顔も心なしか穏やかそうに思える。
 もうすっかり秋。

 風が心地よい。
 
 
 

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「9月3連休前日の、少し肌寒い木曜日ー」

2005年09月22日 | Weblog
 日本テレビ系のドラマ「女王の教室」の最終回視聴率が、何と25パーセントまで達したらしい。ビックリ。
 当初10パーセント台だった視聴率が、その過激な内容もあってグングンと上昇し、終わってみたら今期新ドラマの最高視聴率を稼いでしまった(勿論、今日が最終回の「電車男」の結果を待たなければならないが)。
 「この生徒の中で幸せになれるのなんてホンの6パーセントだけ!」とか「結局、あんたたちは富裕層にいいようにコキ使われるだけ!」と、教壇から冷たく言い放つ女性教師の言葉に、当初は抗議が殺到したらしいけれど、結局は話題が沸騰してこういう結果になった。
 もう、続編の話題が上っているらしい。

 しかし、自民党の圧勝を受けて、あの郵政法案に反対をし、小泉総理の言動を批判し続けた造反議員たちの今後の身の処し方に興味が湧いてくる。
 解せないのは、新党結成した者を除いた造反議員たちの首相指名投票での発言。
 「国民の圧倒的な支持を受けているので小泉さんに一票を投じた」。おかしくないか?じゃあ、あの批判は何だったんだ? 自民党の対立候補と論戦を経て、選挙区で当選を果たした上で国会に足を踏み入れたのではないのか?
 これではまるで大政翼賛会的発想ではないか。
 こうして全員なし崩し的に大勢になびいて行くんだろうな、きっと。まあ、人間ってこんなもんだけどさ。

 100㌔マラソンへの不参加を決めてから、何か走る意欲が失せてしまった。なので、金曜日に開催される「エアロビクス・耐久マラソン」に急遽エントリー。ギリギリ最後の一人だった。
 でもやっぱり普段の練習に尽きる。塵も積もれば山となるではないけれど、最後はどれだけの距離を走ったのか。これに尽きる。
 来年こそは100㌔を12時間以内で完走してみせる。

 もうすっかり秋。
 冷たい雨が降っている。明日からは3連休。100㌔マラソンでホテルも調達し、あとは秋田に向かう段取りまで組んでいたのに、全部キャンセル。
 ぽっかりと時間が空いてしまった。
 たまには何も考えずにぼんやりと一日を過ごしてみようか。
 多分、今年度、もう日祝日を全部休めるなんてことはないだろうから・・・。
 溜まった雑誌や新聞を読み、少し汗を流して、あとの時間はただ訳も無くボーッと過ごす・・・。
 これだな。うん。

 って、出来るわけがないじゃん! んなこと!!
 

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「冬のソナタ」のペ・ヨンジュン主演の「四月の雪」。でもこれはホ・ジノの映画である。

2005年09月21日 | Weblog
 映画関係者に聞いたところ、「四月の雪」の前売り券の数が物凄いらしく、やはり「韓流ブーム」、それも「冬のソナタ」のペ・ヨンジュン恐るべしの感を強くしていた。
 でも初日に映画館に駆け込むと、それほどの賑わいまでには到らず、ちょっと拍子抜け。しかし今日の韓国ドラマ・韓国ドラマのブームを作ったのは、やはりペ・ヨンジュンでありチェ・ジウであり「冬のソナタ」であることは間違いない。

 でも本当はペ・ヨンジュンなんてどうでもいい。
 一にも二にも、監督であるホ・ジノの最新作を観てみたい。これしかない。
 「8月のクリスマス」、そして「春の日は過ぎゆく」。この素晴らしい二本の映画によって、ホ・ジノは韓国映画界の頂点を極めたといっても過言ではない。
 
 ホ・ジノは、余韻の監督である。
 そして、静謐と沈黙を語る監督である。
 彼の映画はゆっくりと流れ、最後には口では言い表せないような余韻を残してゆく。
 映画館を出てもその残響は心の中に鳴り続け、決して終わるということがない。
 僕は、この「四月の雪」でもそれを期待しないわけにはいかない。ホ・ジノの作家としての新しい展開を観て見たかったのである。

 ストーリーは今回も至ってシンプルなものだ。
 交通事故を起こした二人は不倫関係にあり、どちらも意識不明の重態に陥っている。その知らせを聞いて駆けつけた二人。つまりそれが、ペ・ヨンジュンとソン・イェジン。
 その事故で、2人は、自分の妻、それから自分の夫が、互いに秘密の関係であったことを知るのである。
 そこから生まれる波紋。憎しみ。葛藤。喪失感。そして孤独感。
 2人はやがて惹かれ合い、恋に落ちてしまう。二人の連れ合いを看病しながらも・・・。

 ドラマは、ペ・ヨンジュンの妻が意識を取り戻す事から急展開を迎える。
 でも映画そのものは静かに、しかも淡々と流れる。まるで何の変化もないみたいに。
 ペ・ヨンジュンもソン・イェジンも巧い演技をする。内に深い悲しみを抱いていることが伝わってくるかのような。
 ラストは明かすことが出来ないが、心に深く余韻が残る。さすがはホ・ジノ。
 しかし、この映画が同じ監督の作品である「八月のクリスマス」や「春の日は過ぎゆく」を超えたものになったかと言ったら、それはまた別の話だ。
 
 勿論、悪くはない。
 

 
 

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村上春樹の新刊「東京奇譚集」は、摩訶不思議なムラカミ・ワールド。

2005年09月20日 | Weblog
 祭日の静かな午後。
 初秋の街はとても落ち着き払っていて、しんと静まり返っている。
 僕は、何処にも出掛けず、一日ゆっくりと部屋で本のページを捲った。
 村上春樹の最新作、「東京奇譚集」である。

 この連作集は五つの短編で構成されている。
 ここでもまた、少し曖昧で、読む側にその解釈を委ねる、あの独特のムラカミ・ハルキ・ワールドが繰り広げられている。
 今回の連作集は、純文学雑誌の「新潮」に掲載された作品からなっていて、「品川猿」という短編だけが新たに書き下ろしされた。
 奇譚というぐらいだから、ちょっと不思議な、そして奇妙な物語が次々と展開されてゆくことになる。
 何かを予感させるような偶然の重なり。少し現実離れした兆候や、おかしな事件。
 例えば、文鎮代わりに置いておいた石が次の日になると少しだけ移動していたり、自分の名前だけが突然思い出せなくなってしまったり、サーフィンで亡くなった息子を弔うために赴いた南の島でその息子とそっくりな若者がサーフィンをしているという非現実的な噂が広まったり・・・。
 こうなるといつものハルキ・ワールドの始まりである。
 それも、静かに、ゆっくりと、そして喪失感や空虚感も一緒に連れ立って。
 
 ただ今回の連作集。
 作品そのものの出来と不出来の差が激しいようにも思われる。
 「偶然の旅人」や「日々移動する腎臓のかたちをした石」や「どこであれ そこがみつかりそうな場所で」は、これまでの世界観を踏襲していて、仄かな悲しみや言いようの無い切なさも醸し出している。それといつものような透明感。匂い。肌触り。

 ところが、「ハナレイ・ベイ」や「品川猿」には余り乗っていけなかった。
 「ハナレイ・ベイ」では、息子を亡くして悲しみに暮れる母親と、サーフィンにやって来た二人の若者との会話がわりと長く続けられる。しかし、この会話が果たしてこの物語にとってそんなに重要な部分なのだろうか。
 勿論、その小説にとって、短編であれ長編であれ不必要な部分など一切ないと言い切る事も可能だろう。また、そういう隠れた箇所を読み取ることこそ読者の努めと言われれば、返す言葉もない。
 「品川猿」にも同じことが言える。
 唐突に、その猿は読者に提示される。そのことは別にいい。そういう展開は過去のムラカミ作品にも頻繁にあったし、世界が一瞬で回転してしまうことは小説の真髄でもある。
 ところがこの短編、小説の醍醐味としての違和感とはまた別の意味での居心地の悪さが付き纏うのだ。
 それは、「羊男」など、これまでの作品に登場してきた、独特で、しかも異質なキャラクターとも若干違うものだ。
 その居心地の悪さが、この小説全体にも少なからず影響を与えているような気がしてならない。

 とは言うものの、僕はそれを否定的には捉えてなんかいない。当然だけど。
 熱狂的な読者ってそういうものだ。別に居直る訳じゃなくて。
 ビートルズだって、ローリング・ストーンズだって、うん?と首を傾げるような作品や曲だってたくさんあった。
 つまりそれらも含めて大好きなのだ。
 全ては、一連で流れている大きな大きな河のようなものだ。
 うん。いや、ほんと。
 
 

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