この映画はどうしても観たかった。
ところが、忙しさが続き、やっと今夜時間が取れ、即、「シネマ・ディクト」に直行。すると、あらあら、谷田さんご本人がモギリで立っているではないか。久しぶり。
平日の夜の回なのに、意外とお客さんも多い。やはり、映画「太陽」、関心が高い。
ロシアを代表する映像作家アレクサンドル・ソクーロフ監督が、歴史上の人物を描く全4部作のうち、ヒトラーの「モレク神」、レーニンの「Telets」に続く第3作目にあたる映画が、「太陽」である。
昭和天皇ヒロヒトに焦点を当てる。
敗戦直前から、アメリカ軍のマッカーサー元帥との会見を経て、人間宣言を決断するまでを描いていて、想像力を駆使しながら、ひとりの人間としての孤独と苦悩を描いている。
主演はイッセー尾形で、皇后役が桃井かおりだ。
イッセー尾形は力演している。かなり研究したのではないか。細部に至る動作まで緻密に計算尽くしているのがよく解る。
ただし、皇后役の桃井かおりはミス・キャストだろう。ちょっと強すぎる。
彼女は、ラスト近くに登場するのだが、ずっと違和感が付き纏った。
神と崇められ、戦争に翻ろうされた天皇が、終戦から一転して「人間宣言」へ至るまでの経過を、凝縮された時間の流れの中で語ってゆくのだが、アレクサンドル・ソクーロフ監督が凄いのは、閉鎖的な空間で展開される「現人神」の「物語」を、開かれた世界にまで解放してゆくその手腕に尽きる。
とにかく、イッセー尾形が吐き出すその台詞だけで、昭和天皇ヒロヒトの、歴史の大転換による「神」から「人間」へとその立場を変えざるを得ないことへの戸惑いと苦しみを、観ている者へと伝えるのである。
本作は第55回ベルリン国際映画祭など世界各地で絶賛されたらしいが、その評価もよく分る。僕はまだ未見だけれど、これで俄然、4部作のうちの、ヒトラーの「モレク神」と、レーニンを扱った「Telets」が観てみたくなる。
1945年8月。疎開した皇后や皇太子らとも離れ、地下の待避壕か唯一残った研究所で孤独な生活を送る天皇。
敗戦が決定的となり、御前会議では陸軍大臣が本土決戦の用意があると涙ながらに語るのだが、天皇は降伏を示唆するのである。
この辺りを、アレクサンドル・ソクーロフはじっくりと描いてゆく。外圧と自分の主張をどのようにして折り合わせるのか? 戦争を長引かせたことで優柔不断と取るのか、それとも戦争を終結させた英断と取るのか?
空襲の悪夢にうなされ、皇后と皇太子の写真を見つめる天皇。空襲シーンは、幻想的で、しかも冷徹ささえ漂ってくる。
そして、やがて、連合国占領軍総司令官ダグラス・マッカーサーとの会見の日がやってくる。
ただ、異質というか、興ざめする箇所もなくはない。
アレクサンドル・ソクーロフが、ブレヒトの「異化」を意識したのかどうかはよく解らないけれど、ブレヒトが舞台で多用したという「作品転換の際に使った突然の無意味な挿入」。これが突然、この映画においても挿入されるのである。
つまり、いきなり「笑い」の部分を挿入したり、イッセー尾形が素になったり。
「異化」は、ヘーゲルの「精神現象学」を基底としている。
その意味では、ソクーロフ。案外、侮れない?
ところが、忙しさが続き、やっと今夜時間が取れ、即、「シネマ・ディクト」に直行。すると、あらあら、谷田さんご本人がモギリで立っているではないか。久しぶり。
平日の夜の回なのに、意外とお客さんも多い。やはり、映画「太陽」、関心が高い。
ロシアを代表する映像作家アレクサンドル・ソクーロフ監督が、歴史上の人物を描く全4部作のうち、ヒトラーの「モレク神」、レーニンの「Telets」に続く第3作目にあたる映画が、「太陽」である。
昭和天皇ヒロヒトに焦点を当てる。
敗戦直前から、アメリカ軍のマッカーサー元帥との会見を経て、人間宣言を決断するまでを描いていて、想像力を駆使しながら、ひとりの人間としての孤独と苦悩を描いている。
主演はイッセー尾形で、皇后役が桃井かおりだ。
イッセー尾形は力演している。かなり研究したのではないか。細部に至る動作まで緻密に計算尽くしているのがよく解る。
ただし、皇后役の桃井かおりはミス・キャストだろう。ちょっと強すぎる。
彼女は、ラスト近くに登場するのだが、ずっと違和感が付き纏った。
神と崇められ、戦争に翻ろうされた天皇が、終戦から一転して「人間宣言」へ至るまでの経過を、凝縮された時間の流れの中で語ってゆくのだが、アレクサンドル・ソクーロフ監督が凄いのは、閉鎖的な空間で展開される「現人神」の「物語」を、開かれた世界にまで解放してゆくその手腕に尽きる。
とにかく、イッセー尾形が吐き出すその台詞だけで、昭和天皇ヒロヒトの、歴史の大転換による「神」から「人間」へとその立場を変えざるを得ないことへの戸惑いと苦しみを、観ている者へと伝えるのである。
本作は第55回ベルリン国際映画祭など世界各地で絶賛されたらしいが、その評価もよく分る。僕はまだ未見だけれど、これで俄然、4部作のうちの、ヒトラーの「モレク神」と、レーニンを扱った「Telets」が観てみたくなる。
1945年8月。疎開した皇后や皇太子らとも離れ、地下の待避壕か唯一残った研究所で孤独な生活を送る天皇。
敗戦が決定的となり、御前会議では陸軍大臣が本土決戦の用意があると涙ながらに語るのだが、天皇は降伏を示唆するのである。
この辺りを、アレクサンドル・ソクーロフはじっくりと描いてゆく。外圧と自分の主張をどのようにして折り合わせるのか? 戦争を長引かせたことで優柔不断と取るのか、それとも戦争を終結させた英断と取るのか?
空襲の悪夢にうなされ、皇后と皇太子の写真を見つめる天皇。空襲シーンは、幻想的で、しかも冷徹ささえ漂ってくる。
そして、やがて、連合国占領軍総司令官ダグラス・マッカーサーとの会見の日がやってくる。
ただ、異質というか、興ざめする箇所もなくはない。
アレクサンドル・ソクーロフが、ブレヒトの「異化」を意識したのかどうかはよく解らないけれど、ブレヒトが舞台で多用したという「作品転換の際に使った突然の無意味な挿入」。これが突然、この映画においても挿入されるのである。
つまり、いきなり「笑い」の部分を挿入したり、イッセー尾形が素になったり。
「異化」は、ヘーゲルの「精神現象学」を基底としている。
その意味では、ソクーロフ。案外、侮れない?