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淳一の「キース・リチャーズになりたいっ!!」

俺好き、映画好き、音楽好き、ゲーム好き。止まったら死ぬ回遊魚・淳一が、酸欠の日々を語りつくす。

約10年。今日で3577日、3739回目の書き込みでした。それも今日で終わります。さようなら。

2014年08月26日 | Weblog
 来春、音楽評論集を出版する予定です。
 本のタイトルは「(仮称)キース・リチャーズになりたいっ!」で考えています。

 ただ、現時点でまだ全く手を付けておりません。この「ブログ」が今日で終了しますので、これから急いで取り掛かります。
 もし完成したら、その時は読んでみてください。

 そしてこれからは小説の執筆にのみ専念します。って、10年間、おんなじことを言ってきましたけど・・・。
 完成したら、これもまた読んでみてください。

 それと今冬には拙作「津軽にかたむいてー」が載った「ゆきのまち幻想文学賞小品集」が出版されますので、それもまた書店で手にとってみてください。

 それではすんごく淋しいけれど、みなさん、これで本当にさよならです。

 10年間、ありがとうございました。

 










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「嵐」松潤と上野樹里の映画「陽だまりの彼女」、「新日本」G1CLIMAX、CKB「フリーソウル」

2014年08月26日 | Weblog
 ずっと観たいと思いながら、映画館のスケジュールが合わずに結局見逃してしまった、「嵐」の松本潤と上野樹里が共演した映画「陽だまりの彼女」を、今になってやっと観ることが出来た。

 映画自体はそれほどでもなかった。
 退屈と言ったら、かなり退屈かもしれない。でもラストは、ちょっぴり胸がきゅんとしたけれど・・・。
 そういえば、東京在住の「嵐」命、松潤命の某キャリア・ウーマンが、飲み会の席で「面白くなかったです」と悲しそうに話していたっけ。今思い出しました。
 これが「女子が男子に読んでほしい恋愛小説No.1」だとは、悪いけど到底思えないんですけど。

 しかし何といってもこの映画のキモは、挿入歌である「ビーチ・ボーイズ」の「素敵じゃないか」と、山下達郎の「光と君へのレクイエム」だろう。
 特にタツローの「光と君へのレクイエム」は素晴らしく、「ユーチューブ」の画像で何度も観ていて、映画のエンドロールで流れた際も、何度も巻き戻してはその何の変哲もないエンドロールを繰り返して見てました。いや、聴いてましたか。

 そんなふうにちょっとがっがりした映画があった一方、「新日本プロレス」GIクライマックス2014は中々面白かった。
 僕は本当は全日ファンなんだけど、最近はかなりの体たらくなので、目は当然の如く絶好調の「新日本プロレス」へと注がれる。

 「新日本プロレス」G1CLIMAX24の優勝決定戦は、中邑真輔vsオカダ・カズチカ。
 レイン・メーカー、オカダ・カズチカは、26歳という若さもそうだけど、やはり絵になるというかカッコいい。プロレスラーとしての華がある。これは天性のものだろう。

 オカダ・カズチカは強気の言動でも知られている。鼻っ柱が強い。
 全然いいと思う。言いたいことを言い続けたらいいと思う。勝てば官軍、負ければ賊軍。実力が伴わずに発した言葉なんて誰も支持なんてしない。

 ヘミングウェイはその著書「ヘミングウェイ短編集」の中で「勝者には何もやるな」と言っていたけれど、いやいや違うでしょ、「敗者になんて何もやるな。勝ったものだけが正しい」でしょ。誤解を恐れずに言い切れば、だけどね。

 もちろん、勝つっていうのは他者のジャッジによってのみ判断されるものじゃない。勝つっていうのは、もっと深遠で、もっと複雑で、それは自分自身、清濁呑み込んだその上で正直に判断するものだ。

 負けても勝たなきゃ。
 そしてこの言葉には、とても深い意味が隠されている。
 それは、酸いも甘いも嗅ぎ分けた、糞ったれなどうしようもない人間だけが知っている、矜持と諦観を体現したものだけが言える、そういう言葉なのである。
 
 「新日本プロレス」G1CLIMAX24の優勝決定戦、中邑真輔vsオカダ・カズチカ戦を観終え(試合はオカダ・カズチカの逆転フォール勝ち)、部屋の窓を全開に開け、晩夏の風を思いっ切り部屋の中へと取り入れる。

 「クレイジー・ケン・バンド」の2枚組ベスト・アルバム「フリーソウル」の、「アーヴァン・メロー」サイド(もう一枚のディスクが「アーヴァン・グルーヴ」サイド)をターン・テーブルに乗せる。

 何度も同じことを書いてしまうけれど、やはり夏の終わりには「ソフト&メロウ」な曲ってよく似合う。
 胸が締め付けられる。
 悲しいほどお天気、そんな感じだろうか。メロウな流れが切なさを増してゆくのだ。

 クレイジー・ケン・バンドの歌う「タオル」が流れ、「ハマ風」と「あぶく」が流れる。
 窓の外は夏の終わりがけの横浜埠頭。窓の外は海風が吹き荒れる湘南海岸。
海風が優しい。波の音が甘い。
 横山剣のソウルフルなヴォイスが、8月終わりの熱が籠った午後の空にゆっくりとけてゆく・・・。

 曲が「ガール・フレンド」へと変わる。
 とろけるような、甘くて切ないミディアム・スロー・バラードの名曲である。
 横山剣が何度も何度もおんなじフレーズを繰り返してゆく。

 懲りないぜ まだな。
 懲りないぜ まだな。
 懲りないぜ まだな。

 街に夕闇が迫って来た。
 夏が終わる。

 2014年の夏が終わる。











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DREAMS COME TRUEのニューアルバム「ATTACK25(初回限定盤)」を聴く。変わってないね。

2014年08月25日 | Weblog
 ドリカム、DREAMS COME TRUEを初めて聴いたのは、1989年だった。
 シングル「うれしはずかし朝帰り」を聴いて、ぶっ飛んだ。
 すぐにアルバムを買った。「LOVE GOES ON…」である。

 このアルバムも、聴いてぶっ飛んだ。
 こういうリズムやメロディを刻む日本人ユニットってあるんだぁ、そう思った。
 いっぺんで好きになった。

 「LOVE GOES ON…」はいいアルバムだった。
 1曲目が「うれしい!たのしい!大好き!」で、2曲目が「うれしはずかし朝帰り」である。 そして5曲目には「LAT.43°N〜forty-three degrees north latitude〜」が入っていて、最後に「未来予想図II」で締めくくるという、今でもコンサートで演奏される名曲がたくさん詰まっている。

 これらの曲は、すべて吉田美和の作詞・作曲なのだ。
 この女性もまた、天才と呼ぶに相応しい。
 吉田美和の頭の中はいったいどうなっているんだろう? 一度覗いてみたいものだ。覗いたって何にも分かんないだろうけど・・・。

 なので、ドリカムのファースト・アルバムを買ったのはその後ということになる。
 それからは、ユーミンと同じように、すべて発売日に予約して買って聴いてきた。
 コンサートにも出来る限り出掛けて行った。

 「横浜アリーナ」でも観たし、「埼玉アリーナ」でも観た。
 最近では、埼玉アリーナで観た「裏ドリワンダーランド」だろうか。でも、これはちょっと辛かった。
 「裏ドリ」というその名のタイトルどおり、往年のヒット曲をすべて封印して、ドリカムの渋い曲や隠れた名曲だけで構成された一風変わったコンサートだったからだ。
 やっぱり、ドリカムは怒濤のヒット曲だけで埋めてほしいと思う。

 でも行った中で一番良かったのは、なんといっても2007年に青森で行われたコンサートだ。

 「つがる地球村 野外円形劇場」で開催された、「史上最強の移動遊園地 DREAMS COME TRUE WONDERLAND 2007 〜ドリカムの夕べ〜」である。
 8月25日のコンサートで、約4時間弱の素晴らしい内容だった。

 心底感激した。
 その模様はこのブログでも書いたし、当時の「朝日新聞」青森版「ゆきのまち考現学」でも書いた。

 そんな、大好きなDREAMS COME TRUE。
 なんと、3年9ヶ月ぶりとなる17枚目のオリジナルアルバム「ATTACK25」がこの度リリースされた。
 早速、聴いてみた。
 全16曲である(初回限定盤のみ2曲のボーナス・トラック)。

 1曲目の「THE CHANCE TO ATTACK WITH MUSIC」は幕開けとなる2分足らずの曲で、そこから繋がる2曲目の「ONE LAST DANCE,STILL IN A TRANCE」がまずいい。
 シングル・カットされても申し分ない出来映えかも。

 3曲目の「あなたにサラダ以外も」は、必ずドリカムのアルバムに1曲入っている、ちょっとコミカルな曲。
 久しぶりの2人の休みに、彼のために作る料理の数々を面白おかしく歌にしている。まあ、お愛嬌か。

 5曲目の「MONKEY GIRL -懺鉄拳-(懺鉄拳の懺は懺悔の懺)」は恒例のモンキーガール・シリーズ最新作。
 ただ、はっきりいってアルバム前半戦は、2曲目の「ONE LAST DANCE,STILL IN A TRANCE」以外の曲はちょっと辛い。

 しかし、さすがドリカム。
 アルバム後半は凄い。ドリカムの面目躍如だろう。
 9曲目でシングルになった「さぁ鐘を鳴らせ」から、10曲目「愛して笑ってうれしくて涙して」、続く11曲目「想像を超える明日へ」、12曲目「「MADE OF GOLD -featuring DABADA-」、13曲目「この街で」、14曲目「MY TIME TO SHINE」、15曲目「愛がたどりつく場所」、16曲目の「NEWS ZERO」テーマソング「AGAIN」といった、タイアップ曲や耳慣れた曲が連続して続いてゆく。

 圧巻である。

 アルバム本体も豪華盤。
 CGが一つの大きな映画のようなストーリーになっているようだ。

 ドリカム、やっぱり変わっていないね。


 ということで、このブログ、明日で終了です。
 さよならです。








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「いつか誰もが還ってゆく遥かなる約束の地に眠っている、その不確かで美しい記憶の欠片たち」

2014年08月24日 | Weblog
 自堕落で、どうしようもない生活を送っていた20代学生の頃、生活費が完全に底を尽き、水道橋駅前にあった「学生ローン」でお金を7万円借りたまでは良かったのだけれど、質屋に出していた炬燵(こたつ)とテレビをその借りた金で引きだし、あとの残った金を友人と数日で使ってしまい、仕方がないので上野駅から当時出ていた夜11時過ぎ最終夜行列車に乗って、12時間掛けて青森まで帰った事がある。

 実家に帰って、たらふく飯を喰らい、金を無心して地元の仲間たちと遊び呆け、適当に飽きが来たらその時はまた東京に帰ればいい、そんなふうに思っていた。
 学校にはまったく行ってなかったので、単位なんて全然取れず、ひたすらアルバイトで生活費を稼ぎ、稼いだ金はただ無計画に使っていたのである。

 金があると仲間とつるんで六本木や新宿のディスコを梯子し、女の子たちに声を掛け、朝までフロアで踊り狂った。
 あるいは友人宅で酒を飲み、最終電車に乗り遅れてそのまま泊り続けたり、誰とも会わずに当時住んでいた東上線「大山」のアパートに何日間も籠り、朝と夜がまったく逆の孤独な生活を送ったりしていた。

 そして東京での生活に行き詰り、金が底をついてにっちもさっちも身動き取れなくなると、逃げるように、上野発の夜行列車の自由席に乗って青森へと帰ったものだった。

 いつも帰る列車は、青森行き最終急行「十和田3号」と決まっていた。
 23時21分上野発、翌日の午前11時40分青森駅着となる、急行列車である。
 東京から12時間も掛けて青森へと帰っていたのだ、あの頃は。成田からニューヨークまで行くのと同じぐらいの時間だ。

 その急行列車はいつもガラガラに空いていた。
 向き合って2人ずつ座る、4人掛けで一つの括りとなっているその椅子が結構堅くて、とても辛かったけれど、一つの車両に乗っている乗客など高が知れていて、背が184センチあるのでいつも4人掛けを全部使って大きく足を伸ばし、そこでごろ寝して列車での朝を迎える。

 今でも記憶の片隅に鮮明に残っているのは、目覚まし時計代わりの、車窓に入って来るその朝の太陽の眩しい光である。眠気まなこで車窓から見る、その美しい早朝の風景である。
 何もかもが目覚め出し、あらゆる生きとし生けるものすべてが、生きることに貪欲であることを告げている、そんな素晴らしい朝の風景である。

 盛岡駅辺りで目覚め、やがて青森県内へ列車は入り、太平洋沿岸を抜けて青森市内へと向かって走る。
 野辺地駅を過ぎて浅虫温泉駅が見えて来ると、「ああ、また俺はこの街へと戻って来たんだ」ということを実感する。

 あんなに大嫌いだった街。
 高校を出たら一刻も早くこんな街を出て、東京で俺は生きていくんだ。ずっとそう思っていた。
 憂鬱な空が絶えず街を覆っていて、1年間の半分近くを冷たい雪で閉ざされる。寒くて、荒れていて、凍てつく寒さのほかには何もない。

 僕の中にあったのは街への嫌悪感、ただそれだけだった。
 ここから脱出したい。それだけを考えていた18年間だった。
 それなのに、今俺は上野から独り夜行列車に乗り込み、こうして車窓から浅虫温泉を眺め、そこから微かに見えている青森市内の薄ぼんやりとした街の風景を眺めている・・・。

 列車が青森市内へと滑り込む。
 高架橋を登り切ったところから市内を望む。
 間延びした街だ。何もかもがゆったりとしている。
 車窓から、帰るべき家の一角が見える。帰るべき家。逃げ帰るべき場所。避難するべき駆け込み寺。

 僕はずっと祖母に育てられてきた。
 祖母こそが僕の母親だった。拠り所だった。帰るべきひとだった。依存していた。深く、深く、僕は愛すべき祖母に依存し切っていた。

 いつも、何の前触れもなく突然帰った。
 何の連絡もしない。
 一年のうち、5、6回は青森の街へと逃げ帰っていただろうか。

 平日の人通りの少ない青森駅へと降り立つ。
 12時間の長旅も全然疲れは感じなかった。若かったのだろう。
 家は駅から歩いて10数分の場所にあり、荷物も持って帰った事などない。
 まるで隣の駅から降り立ったみたいに、ちょっと近くの本屋に行ってくるからと手ぶらで出掛けて帰るみたいに、「ただいま」とぼそりと言って家の中へと入る。
 すると祖母はいつも満面の笑みを浮かべ、「おおっ、帰ったか」と嬉しがり、あとは何も言わずに黙々とご馳走を作ってくれた。

 その日もまた、僕はいつもと同じように「ただいま」と大声で叫びながら家の中へと入っていった。
 でもそこに祖母はいなかった。

 こっちも別に気にせず、そのまま友達の家へと直行し、夕方近くになってぶらぶら近所を散歩しながら家までの道を歩いた。
 夏に成り掛けの、とても綺麗な夕暮れ時だ。

 家の近くの豆腐屋の前を通ると、ちょうどそこに道路脇で大きな重い桶を担いでいる女性がいたので、避けようと身をかわしながら、何気なくその女性をちらりと見た。
 祖母だった。
 祖母が腰を屈めながら、大人の男性でも重く感じられそうな桶を担いで、道路に中の水を投げていた。
 息を切らし、額に汗さえ滲んでいる。

 祖母はいつものように満面の笑みを浮かべると、嬉しそうに「帰ってきたのか」と言ってくれた。
 僕は「うん」とだけしか言えなかった。「先に行ってるから」としか言えなかった。
 何故だろう。その場所にいるのがとても恥ずかしく、都合が悪くて足早に離れるしかすべはなかったのである。

 祖母は老体に鞭打って、僕のために豆腐屋で働いていたのだ。
 少しでもお金を僕に残そうと、一生懸命そういう場所で辛い仕事を続けていたのだった。

 それでも僕はその時、少しの懺悔と後悔はあったものの、いつものように街に出て地元の友達と遊び呆け、金を使い、悪いとは思いながら毎日美味しい食事を作ってもらい、祖母が仕事に出る間も夜更かしをして昼ごろまで寝て過ごし、青森の時間に飽きるとまたぶらりと東京行きの夜行列車に乗って帰って行った。
 そういう、とんでもない糞野郎だったのである。

 その時の、東京に帰る際の夜の風景もまた、今でもしっかりと記憶の中に留まっていて、それは絶対に忘れることはない。
 他人からみたら、それはどうということのない、単なる平凡な風景の断片に過ぎないかもしれないけれど・・・。

 祖母は、豆腐屋での仕事(季節的な短期アルバイトらしかったけれど)のほかに、近所の小さい女の子の世話も任されていた。
 たぶん今考えると、その子のお母さんが夜の仕事をしていて、その間、祖母が育児を頼まれていたのだと思う。

 僕はいつもと同じように「そろそろ東京に帰るわ」と突然告げ、その帰る夜、一緒に夕食を摂ってからおもむろに家を出た。
 その夜、街には霧が出ていた。
 夏が街に訪れるその少し前の、とても穏やかな優しい夜だった。だからこそ、ちょっと淋しさが漂うような、そんな霧の夜だった。

 僕がいつものように何も荷物を持たず手ぶらで出ると、祖母が「わたしたち(預かっている女の子と2人)も、近くの銭湯に行くから一緒に出よう」と言い出して僕のあとをゆっくりとついてきた。

 霧の中を3人黙ったまま歩いた。
 俺はこの先、どうなるんだろう、そんなことを考えた。未来が不安だった。東京での生活に疲れていた。
 映画監督になりたいと思っていた。脚本でもいい。小説でもいい。とにかく一刻も早く世に出たい。有名になりたい。祖母を幸せにしたい。色んなものを見返してやりたい。そんなことを考えていた。

 それでも、考えることと実際の行動は限りなく乖離している。
 そうありたいと願うのなら、それ相当の覚悟とやり遂げるべきことを即座にやらなければならないはずだ。
 でも僕は口先だけだった。大学だってこのままでいけば、いずれ留年を宣告されるのは明らかだ。そんなことは家族に言えない。ましてや大好きな祖母になんて言えるはずもない。
 祖母は僕のために、辛い仕事をし、夜は夜で近所の女の子を世話することで僅かな生業まで得ているのである。

 銭湯の前まで来た。
 祖母はその無口でシャイな女の子の手を繋いだまま、僕のほうを見て一言、「頑張れよ」とだけ言った。

 月も出ていない、霧だけが街を流れる、そんな夜だった。
 僕は「ああ・・・」とだけ、ぼそりとぶっきら棒に答えただけで、振り返ることもなく、そのまま暗い夜道を駅まで歩いた。
 ごめんなんて、そんな言葉、とても言えなかった。

 銭湯の方角から、つんと鼻をつくようなお湯の匂いが流れて来る。
 祖母が僕の後ろ姿をずっと見送っているような気がした。
 でも僕は一切うしろを振り返らなかった。

 ただそれだけの話である。
 別に劇的な別れでも、示唆に富むような高尚なエピソードでもなんでもない。
 でも、その一連の追憶は今でも忘れない。

 激しくいい加減で、他人を傷つけ、放蕩三昧に生きて来たものだと思う。
 糞ったれな、その場限りの食い散らかし男の成れの果てが今だと思う。
 後悔と、無念と、心残りだけで生きてきた。
 でも残りの人生くらいは、卑下せず、後ろを振り返らず、一気呵成に駆け抜けたいと思う。出来るかどうかなんて分からない。
 それに、残されている時間も僅かしかない。

 どうせ人生、単なる馬鹿騒ぎである。
 どうせ人生、いつかは終わる。
 どうせ人生、苦難と後悔だけで出来ている。

 それにいつか、いつかきっと、僕はあの日の霧に包まれた優しい夜の闇に還ってゆくのだから。
 それにいつか、いつかきっと、僕はあの頃の僕へと還って、大好きな祖母と2人、そこからまた生きてゆくのだから。

 必ず、必ず、還ってゆくのだから・・・。

 









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「In the Lonely Hour」

2014年08月23日 | Weblog
 2014年8月23日。
 ブログ開設から数えて3573日目となる、今日は土曜日。

 朝から暑い。気温は30度を超えそうだ。
 今夏最後の真夏日だろうか。
 空も久しぶりに晴れ渡っている。

 心機一転、頭を丸めようかとここ数日間ずーっと迷っていたけれど、やっぱりこのまま切らずに伸ばす事に決めた。

 丸坊主にしたからといって、ただそれだけで心の持ち様まで変わるわけじゃない。スタイルから入ったとしても、それは単なる見た目だけの覚悟に過ぎない。
 これまで何度も頭を丸坊主にしてきたことがあったけど、今回はあえてそういうことはしないと決めた。

 もう、上辺のカッコつけはこれを期に一切止めにしようと思う。
 そして、これまでの自堕落な生活様式も一新する。
 本気で変えないと、いつまでたっても同じ状況が続くだけだ。

 もう一度、基本に立ち返るんだ。
 ランニングをだらだら散漫に続けるだけじゃなく、ちゃんと身体全体を鍛え上げ、死んでもお腹が出る体型だけは止めよう。
 暴飲暴食を控え、お酒を飲むのを慎み、夜の不必要な会合や宴会に出席するのは極力避け、時間を有効に使い切り、徹底的に本を読み、知識を取得し続ける努力をしていこう。

 他人を恨むのも、もうやめよう。
 怒りや嫉妬は己を疲弊させ、心を掻き乱し、そこから生まれるものなど何もない。
 他人の芝生がよく見えるのは仕方のないことだ。それよりは自分自身を律し、嫌な人間や蹴落とそうと画策する人間、人の心の中に土足で入って来るような輩とは、これからなるべく関わらないようにしたい。

 もう、自分がやりたいこと、自分がしたいこと、今しておかなければ後で絶対後悔することだけに、全力を傾けよう。
 残りの人生は限られている。
 時間がないんだ。人生は短いんだ。

 くだらない人間に関わっている暇なんてない。
 噂話と他人の批判だけで今日を生き延びている人間に追従していたら、自分までおかしくなる。
 正しく生きたいなんて思わないけど、自分に正直に生きてゆくべきだ。死ぬ瞬間、後悔で胸を掻き毟られることだけはしたくない。

 そんな密かな決心をした土曜日、「日本経済新聞」を読んでいたら、電子書籍の国内市場拡大が背景となって、これまで電子出版に対して懐疑的または様子見をしていた作家たちが、次々とそれを自らの戦略として捉え直し、電子書籍出版に参画しているという記事が文化欄に載っていた。

 ただ、まだ紙媒体の出版物に対して電子書籍出版は1割程度のシェアしかないとは思うけれど、やり方次第では、フィールドが限りなく広いこの新しい媒体を、一つのツールとして巧く活用すれば、これまであまり陽の目を見て来なかったマイナーな作家たちにとっても作品を発表する機会が増える可能性もあり得るだろう。

 ・・・っていうか、それよりもまず、その勝負すべき作品自体がなければどうしようもないですけどね。バッターボックスに立ってもいないのに、ホームランなんて打てないわけでして・・・。
 まずは、その勝負すべき作品なるものをちゃんと書かなきゃね。
 はい。

 作家ついでに言えば、女性パンクロッカーの草分け的存在であるパティ・スミスが、英訳された村上春樹の「色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年」に対する書評をニューヨーク・タイムス紙に寄稿している。
 「ロッキング・オン」の音楽情報サイト「RO69」に転載されていた。

 パティ・スミスもまた、この新作を評価しながらも戸惑っている様子が窺えて面白い。
 度しがたいほどにつかみどころがなく、曖昧で、しかし、果敢に成熟の新たな段階へともがき進んでいる作品だと述べていて、村上春樹にとって一つの脱皮であり、これはディランの「ブロンド・オン・ブロンド」ではなく「血の轍」なのだとも言っている。
 ふーん。「血の轍」ねぇ。

 ディランが出たので音楽シーンへと目を移すと、最近とにかくイギリスの音楽シーンがすこぶる面白い。
 というか、UK勢の素晴らしいアルバムがやたらと目につく。傑作たる作品が目白押しなのである。

 今聴いているのが、これも話題沸騰の「サム・スミス」。
 彼のファースト・アルバム「In the Lonely Hour」も最高にクール。素晴らしいアルバムだ。
 特に「Restart」は傑作。マスターピースたる一曲である。

 いやあ、それにしても次々とすんごいアルバムがリリースされる。
 一瞬たりとも見逃せません。

 よしっ。
 あと3日ね、ブログ終わりの日まで。









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右手に音楽、左手には書物、そして心にロックを。どうせ、さよならだけが人生だ。

2014年08月22日 | Weblog
 クレイジーケンバンドの新作「Spark Plag」のメロウネスな音を想像しながら、去りゆく夏を想う・・・。

 発売されたばかりの音楽雑誌「ミュージックマガジン」をぺらぺら捲っていたら、「クレイジーケンバンド」新作アルバムに関する記事が横山剣のインタビューと一緒に載っていたので、夢中で読んでしまった。
 アルバム発売日が9月3日ということを知り、早速「アマゾン」で予約する。
 
 横山剣って大好きだ。
 こんなふうに、好きなことを好きなだけ、それも悔いなく生きていけたら、人生最高に楽しいだろうと思う。
 もちろん本人は、他人が憧れるほど己の人生を満喫してはいないかもしれないし、人には言えない苦労や辛さだってたくさんあるだろう。

 まだアルバム「Spark Plag」自体が発表されていないので、どんな曲が入っているのか現時点では全然分からないけど、そのインタビュー記事を読んで勝手に想像すると、新作「Spark Plag」、とてもメロウネスで、夏の終わりに相応しいアルバムに仕上がっているらしい。

 晩夏には、ソフト&メロウがよく似合う。
 横山剣もインタビューで言っているように、明るい歌なのにメロディがすごく哀しく響いてくる、そんな感覚だ。
 カーペンターズとかオリビア・ニュートン・ジョンの「そよ風の誘惑」、それから山下達朗の「ダウンタウン」を横山剣は挙げていた。

 個人的には、キャロル(矢沢永吉)の「夏の終わり」とかユーミンの「サンドキャッスル」、桑田佳祐の「デジャ・ヴ」や「JAYWALK」の「何も言えなくて・・・夏」、またはクレイジーケンバンドの「トゥルーカラーズ」、加山雄三の「恋は赤いバラ」なんかが、そういう類いの音楽ということになるのだろうか。

 明るい色調のアッパーなサウンドなのに、どこか儚げで、哀しくて、ちょっぴり切なく、ビターな中にも甘さがある。
 胸がきゅーんと締め付けられ、昔の思い出が音楽と一緒になってゆっくりと蘇る、そんな曲である。
 あっ、「ワム」の「ラスト・クリスマス」なんかもそうかもしれない。ソフトでメロウでアーヴァンで、ソフィスティケートされている楽曲である。

 最近は、真夏のぎらぎら輝く季節より、晩夏から秋、秋から初冬にかけての、静かに暮れゆく落ち着いた季節のほうが、より好きになった。好きというより、そういう季節の中に静かに隠れていたいと思う、そんな自分がいたりする。

 今日の金曜日もあさから愚図ついた天気。
 お昼、いつものソウルメイト4人でランチを摂る。

 来春には何とか自主出版させたいと思っている「音楽評論的自伝風エッセイ?」(予定よりだいぶ遅れてしまったけれど)について相談したり、来年4月以降、今の仕事を辞めたあとの身の振り方を打ち明けたりしながら、次の予定があったので一人だけ早めに席を立つ。
 今冬には拙作「津軽にかたむいてー」が掲載された、「ゆきのまち幻想文学賞」小品集も出版されるし。

 外に出たら、激しい雨が降っている。
 濡れながら小走りにオフィスへと向かう。

 今日で3733回目となるブログもまた、あと5回で終わる。
 約10年間にわたった、取り留めのない日々の生活のスケッチが終了のホイッスルとともに閉じられる。

 こうしてまた、色んなものを閉じてゆく。
 そしてまた、そこから新しい何かが始まってゆく。

 午後になって、甲子園球場で行われていた高校野球準々決勝のニュースが飛び込んで来る。
 青森県代表「八学光星」は、「敦賀気比」(福井)に2-7で敗れたらしい。
 準優勝した2012年以来となる2年ぶりの準決勝進出は、これで実らなかった。

 こうしてまた、色んなものが足早に閉じられてゆく。
 そしてまたそこから新しい何かが始動し、これまでとは違う何かが始まってゆく。

 津軽地方の週間天気予報を見てみたら、明日が30度まで上がる真夏日だけれど、来週からは雨模様の天気となり、気温も20度前半まで下がってしまうようだ。
 秋がもうすぐそこまで来て、顔を覗かせている。

 あと俺は何年生きられるのだろう。
 あと何年今の健康な身体を維持出来、縦横無尽に動き回って行けるのだろう。
 死ぬなら死ぬで全然構わないけれど、読みたい本や聴きたい音楽や観たい映画や訪ねたい場所は、まだまだたくさん残っている。

 でも、それを全部叶えたいなんて、あまりにも虫の良すぎる戯言だろう。
 人生そんなに甘くはない。いたるところに落とし穴は控えている。一度落ちたら這い上がれない。

            勧君金屈巵
            満酌不須辞
            花発多風雨
            人生足別離

 唐の詩人である干武陵が作った五言絶句「歓酒」だ。
 井伏鱒二による日本語訳では、それがこのように変わる。

 この杯を受けてくれ。
 どうぞなみなみ注がしてくれ。
 花に嵐のたとえもあるさ。
 さよならだけが人生だ。

 ならば。自分流に拡大解釈して・・・。

 右手に音楽、左手には書物、そして、心にロックを。
 どうせ、さよならだけが人生だ。











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「Childhood」のファーストアルバム「LACUNA」。今年上半期新人UKバンドの中で一番好きっ!

2014年08月21日 | Weblog
 水曜日は八戸へ行く。

 「みちのく有料道路」を通って、新しく出来た「第二みちのく」に入ったら約1時間30分で八戸市内に着いた。
 車の中で本当に久しぶりに「浜田省吾」の3枚組ライブを大音響で聴きながら、あまり車の往来のない空いた有料道路を飛ばした。

 八戸市内、30度はゆうに超えていた。
 暑い。
 でも車の中はクーラーを全開にして、ヴォリュームもまたマックス。

 第96回全国高校野球選手権、青森県代表「八学光星」が強豪「星稜」(石川県)をなんと延長10回、5-1で破って準々決勝進出。
 「星稜」は大逆転でここまで勝ち上がって来た強豪だけに、「今日は残念だけど負けだな」なんて思っていたけど、逆転で勝利を収めてしまった。

 帰りも「第二みちのく」を通って、また「浜田省吾」の3枚組ライブを耳をつんざくような大音響で流しながら(一緒に歌いながら)、青森市内に着いたのは夕方4時近く。
 
 家に帰って、そこから自転車を出して、中心市街地のN書店に行って本を何点か物色。
 「日本経済新聞」と「東奥日報」と買った本を持って、向かいの「ドトール」珈琲の2階のいつもの指定席(端っこの席)に座り、珈琲を啜りながら本を読み、それからおもむろに帰宅する。

 夕食を摂って、まだ未聴のアルバムを次々とターン・テーブルに乗せていった。
 当然、期待通りのアルバムがあって期待外れのアルバムがある。
 そういうもんだ。でもそこから耳を肥やし、音楽を聴き分ける力が養われてゆく。

 手に取ったアルバムは「チャイルドフッド」という新人バンド。
 な~んか、ジャケットがイマイチだなあ。いいのかなあ。どうなんだろ。後回しにして別のアルバム聴いてみようかなあ・・・などと思案しながら、結局、「Childhood」のファーストアルバム、タイトル「LACUNA」をターン・テーブルに乗せ、ちょっとヴォリュームの音量を上げて耳を澄ます。

 この瞬間がたまらない。
 音楽好きなら誰でもそうだと思うけれど、大いなる期待と、それと同じくらいの不安を抱きながら、初めて聴く音に耳と心をときめかせる。
 ほんと、この鳴り出す前の一瞬の沈黙がたまらなくいい。

 1曲目が「Blue Velvet」という曲。
 おっ? なかなかいいじゃん。
 意外とポップだね、UKっぽい音だし。

 でも、2曲目はどうかな?
 おおーーっ! いいね、いいね、
 「You Could Be Different」という曲か。す、すんごくいい!

 全曲一気に聴いてみる。
 シューゲイザーというか、サイケデリックというか、ポップというか、フックのある曲がてんこ盛りではないか!

 凄いよ、この浮遊感。
 全部の曲がキャッチーで、ギター・ポップっぽいカッコいいフレーズが随所にたたみ込まれている。
 霞みのようなディストーションをかけたギターサウンドが、美しい。
 
 あまりにも素晴らしいアルバムなので、「ロッキング・オン」をバックナンバー順に開いて、「Childhood」という新人UKバンドの記事を探してみることに。
 なんじゃ! 最新号にちゃんと載ってるじゃん。何、見落としてんのよ!

 イギリスの音楽雑誌「NME」が選ぶ新人バンドの50曲の中の第3位にアルバム8曲目の「Solmn Skies」が選ばれていて、「ここ1年でデビューしたブリティッシュ・ロックバンドの中で、「Childhood」のようにインパクトのあるコーラスを書けるバンドは他にいない」と大絶賛を浴びていたことも「アマゾン」のデータを読んで初めて知った(それから、ロッキング・オンで、絶対聴くべきUK新世代22選に選ばれていたことも初めて知りました。オレ、どこ読んでたんだろ・・・)。

 いやあ。
 まだまだいるんですねー。こういう凄い新人ロック・バンドって。

 現時点で、この「Childhood」のファーストアルバム「LACUNA」、今年の上半期UKバンドの出したアルバムの中で一番好きっ!
 というか、個人的に、今年の全ロック・アルバム「ベスト10」に確実に入りますね。

 このままいったら、末恐ろしいバンドになりますな、「Childhood」(チャイルドフッド)は。
 見逃さなくて、よかった~。
 








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漫画版「野武士のグルメ」。久住昌之×谷口ジローの「孤独のグルメ」には及ばないけれど・・・。

2014年08月20日 | Weblog
 男は、会社を定年したばかりで毎日暇を持て余している。
 今日もひとり、いつもなら出勤途中に慌てて通っていた公園を、ゆっくりと散歩がてら歩き、夏の蝉の声を聴きながら池の水面に揺れる太陽の光をただぼんやりと眺めている。

 男は想う。
 激務からやっと脱出することが出来たと。
 還暦を迎えて初めて知った自由を、今はとにかく十分に満喫してやろうと。

 男の名前は香住武という。
 公園をひとり散歩して路地に抜けると、何やら香ばしいソースの匂いが風に乗って流れて来た。
 それは、焼きそばの匂いだった。

 小腹が空いてきた男は匂いが漂っている店の前へと辿り着き、ふらり中に入って、美味しそうなその焼そばを注文してみる。
 お世辞にも綺麗とは言えない店構えだ。
 扇風機が回り、店の玄関は通りに向かって開けっ放しになっている。

 焼そばを注文して店の中を眺めると、「ビール冷えてます」と張り紙がしてある。
 男はついでにビールも頼み、一人手酌でコップに注ぎ、美味しそうにそれを飲み干した。
 美味い。

 そしてやがて運ばれて来た焼そばを食べる。
 何処にでもある、何の変哲もない焼そばである。小さな豚肉とキャベツだけが乗っかっている。
 でも、男は想う。
 心から味わってみる。美味しい。

 漫画版「野武士のグルメ」は、そういうふうに、何処に行ってもある、いつでも食べられる、焼そばとかタンメンとかアジとかトロロ飯とかスキ焼とかを扱っている。
 そこに、豪華で貴重な食べ物はひとつもない。
 よくあるグルメ漫画特有の、料理に対するうんちくだとか、高価な食材を扱うことでの上目目線だとか、権威っぽい視点は、まったく皆無である。

 前段で述べた焼そばのエピソードは、漫画版「野武士のグルメ」の第1話「九月の焼きそビール」の短い抜粋だ(焼そば+ビールで焼きそ。ミスで「焼きそ」って書いたわけじゃありませんから、あしからず)。
 60歳の還暦を迎えた漫画の主人公、香住武は、ここから街をひとり徘徊して歩く、いわゆる「ひとり飯」「ひとり酒」を始めてゆく。

 彼はこう考える。
 定年後のサラリーマンは、「野武士」のように食事と対峙するべきだと。
 リタイアした勤め人は、いわば侍でいえば浪人だと。自由な野武士だと。
 何ものにも束縛されず、勝手気儘に、それでも己をひたすら信じて凛(りん)として生きてゆくべきだと。

 千葉の碁の仲間の家にお邪魔したついでに海の見える民宿にぶらりと泊って、翌朝そこの朝食で出されたアジを食しながら昔の思い出に耽ったり、麦とろ飯屋に入ってどんぶりを喰らいながら、遥か江戸時代の殿様気分に浸ってみたり・・・。

 ただ、そういうエピソードだけが延々と語られてゆく。
 人目を気にせず、豪華なグルメを嗜好するわけでもなく食べたいものを食べに、場末の名も知らぬ食堂の暖簾を潜ってゆく・・・。

 原作が久住昌之。漫画が土山しげる。
 久住昌之といったら、やはり久住昌之×谷口ジローの黄金タッグによる漫画「孤独のグルメ」だろう。
 この漫画は面白かった。名作だと思う。

 それと比べると、漫画版「野武士のグルメ」全9話は、ちょっと単調で淡泊なところがある。
 一本調子過ぎるのである。
 確かに、この枯れたムードは癖になるし、悪くはない漫画だとは思うけれど。もう少し主人公の周辺を描いたらもっと漫画に深みが出たのではないか。

 実をいうと、「ひとり酒」とか「ひとり飯」というのが、どうも苦手なほうで(もちろん、そういうこともしてきたけれど)、そういう行為に対して単純に憧れてしまう自分がいる。
 特に「ひとり酒」している男性をみると、心からカッコいいと思ってしまう。

 よしっ。
 ちょっとやってみようかな。独りで飲み屋に入って寡黙に飲んでみようかな。

 出来るかな・・・。









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凄い新人アーティストが現れた! 「FKAツイッグス」の描くサウンド・スケープは限りなく静謐だ。

2014年08月19日 | Weblog
 火曜日。
 今日は午前中から会議が組まれ、やっと空いたお昼休み、オフィス近くのテイクアウト洋食屋さんで「焼きそば」と「串カツ」を買って、執務室でひとり食する。
 食べ終えて、午後もまた会議は続く。
 それが終わって、また幾つかの打ち合わせ。
 夕方の5時になって、某国会議員に対して説明する案件が発生したので、外出してその説明へと向かった。

 すべての仕事が終わり、自転車を漕いで、久しぶりに青森港「新中央埠頭」まで行ってみることに。
 急に、夏の終わり掛けの海が見たくなった。

 どんよりとした曇り空が一面に広がっている。
 それにしても蒸し暑い。
 少しペダルを漕ぐだけで汗が噴き出てくる。

 今日は高層ビル並みに聳(そび)える豪華客船も停泊していないから、それでなくてもただっ広い新中央埠頭が、ますます広く感じられる。
 穏やかな海だ。
 海に向かって、左手には「青森県観光物産館アスパム」、「青函連絡船 八甲田丸」。そして右手には遠く津軽半島が見える。

 港まつりもねぶた祭りもお盆も終わってしまった夕暮れ時のウォーター・フロント沿いは、人影も疎らで、犬を連れて散歩している女性がひとりと、小高い丘の上にぽつんと佇む東屋の椅子に腰掛けている中年男性がひとり。それだけだ。
 あとは誰もいない。

 海風に、ひとり吹かれていたら、突然雨が降り出して来た。
 濡れてもいいやなんて思っていたのだけれど、それなりに雨足が強くなってきたので、慌てて雨をしのぐ場所を探して自転車を漕いだ。

 抜け殻の「ねぶた団地」があった。
 既にねぶた本体は消えていて、大型ねぶたを収納する空っぽの巨大テントだけが、淋しげに何列も並んでいる。
 同じかたちをした無機質な空き倉庫が何十台も大きな口を開けていて、その中には誰もいない。
 そこに入って、ひとりぽつんと雨宿り・・・。

 この殺伐としてひっそりした、まるで時間が全部止まってしーんと静まりかえったような不可思議な感覚・・・そうだ、「FKAツイッグス」の描くサウンド・スケープにとても似ている。

 FKAツイッグスは、本名をタリア・バーネットといい、ジャマイカとスペインの血を引く女性シンガーソングライターで、イギリス・ロンドンを拠点に活動している。
 R&Bデュオ、「インク」(この人たちのアルバムも中々よかった)とのコラボシングルでも話題を集め、ファッション界でもその特異なファッション性によって大きな注目を集めている。

 そのFKAツイッグスのデビュー・アルバム「LP1」もまた、基底に流れているのはR&Bではあるものの、「ドレイク」や「ザ・ウイーケンド」、「フランク・オーシャン」、あるいは「ジェイムス・ブレイク」に通じる、静謐で美しいサウンド・スケープを放っている。

 FKAツイッグスが歌うその詞も、自虐的というか内省的というか、愛をモチーフにしながら、そこに人間の根源的な孤独や疎外感をストレートに表現しているようだ。
 「何年も続いた孤独」と嘆き、「私がいなくなればいいと思っていること、わかってるわ」と自分自身を自虐的に吐露し、「いつもあなたを想っている」と懇願し続ける。

 FKAツイッグスの「LP1」を聴いていると、目の前に現れて来るのは、誰もいないひっそりと静まり返った街の風景であり、都会の雑踏の中の孤独であり、海の奥深く沈んではまた浮かびあがってゆく、その繰り返しのような浮遊感だ。

 ウェットで霞に包まれているような声質、それが、哀しさを増すようなシンセに静かで無機質なビートとゆったり絡んでゆく。

 ・・・やがて雨が上がる。
 もうすぐ夜の帳が下りて来る。

 空っぽの大きな「ねぶた小屋」を出て、暮れかかった海辺をひとりあとにする。
 あんなに人で溢れ返った「ねぶた団地」の熱気はもう何処にもなく、雨上がりのコンクリートだけがまだ悲しそうに濡れている。

 FKAツイッグスの「LP1」と、今この夏の終わりの夕暮れ時の静まり返った風景は、確かにぴったりと一致する。

 静かである。
 限りなく、静かである。

 FKAツイッグスのデビュー・アルバム「LP1」はひたすら静かである。










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「やっぱり8月26日をもってこのブログ、その幕を閉じさせて頂きます。10年間ありがとう。さようなら」

2014年08月18日 | Weblog
 土曜日は墓参りに行った。
 曇り空で気温も思ったほど高くない。
 青森市の西部地区にある「三内霊園」という場所まで出向き、親戚縁者の墓を次々にお参りし、それから無縁仏を拝んで帰った。

 今日こそは外を思いっ切り走ろうと決めていたのに、なんやかんやと屁理屈を自分の心に問い掛けて、結局走らずに夜を迎える。
 ほんと、いい加減な人間だ。

 日曜日は早朝、映画館で映画を観た。
 仕事がある日は、7時40分頃にやっと起きてすぐさま朝食を摂り、不機嫌づらで仕事場に向かうのに、休みの日となると早起きも全然苦にならない。
 ほんと、いい加減な人間だ。

 でも、日曜日は午後からちゃんと「スポーツジム」へ。
 久しぶりに「ボディパンプ」のエクササイズを行う。
 バーベルを持ち上げて体幹や腕や足腰を鍛える60分だ。

 最後はバーべルが持ち上がらず、腕がぷるぷる震えてほとんど力が入らない。
 これってかなりの屈辱感である。
 走るだけじゃ、やっぱり駄目なのだ。体幹をちゃんと鍛えないと。腕に筋肉ちゃんとつけないと。
 終わっても腕の筋肉が震え、汗の量は少ないのだけれど、かなりの運動量だということがよく分かる。

 家に帰って早目の夕食を摂り、夕方6時から始まるNHK大河ドラマ「軍師官兵衛」を観た。
 少しずつ暗くなる時間が早くなってきたようだ。
 テレビの先に窓があって、そこに映る夕日がとても綺麗で見惚れてしまった。

 そう、もうすぐ夏が終わるのだ。
 そして、もうすぐ誕生日がやって来て、一つ歳を取ることになる。

 10年前、とても辛くて、生きていることが厭になったことがあった。とことん厭になったことがあった。

 その時、何人かの友人に酔っ払ってこう言ったことがある。
 「10年後、そん時までオレ多分、生きていないと思う・・・」

 しかし、よくもまあ、いけしゃあしゃあとそんなことが軽々しく言えたもんだ。今ではそう思う。
 必死で今を生き抜いている人たちに対して失礼だろうとも思う。
 自己顕示欲のかたまりで、プライドだけは高く、その割には薄っぺらで中身が無い。そういう、いい加減な人間だからこそ、無責任に他人に対してそんな戯言が言えたのだろう。

 でも誤解を恐れずに言い切れば、心から真摯に言い切ってしまえば、そういう気持ちを抱いていたのもまた本当だった。
 もう何もかもに嫌気が差し、周りの人間たちがみんな幸せそうで、自分だけがちっぽけでつまらない人間に思え、圧倒的な空虚感と厭世的な気分が絶えず襲っていた。
 楽になりたい。どこか遠くに消え去りたい。何もかも止めちゃいたい。そう考えた。
 それもまた紛れのない事実だった。

 そこからである。
 「ブログ」を書き始め、自分の気持ちを吐き出すことで少し救われたのは。
 毎日、原稿用紙約5枚分ここに書き殴ることで(最初の頃はもっと短かったけど)、さっぱりした気分になった。

 ただ、正直に告白しちゃうと、この「ブログ」だって、自分の中の100分の1も真実を書いてはいない。書けないこと、書かれないことのほうが、書いたことより何100倍も多くある。

 もちろん嘘だけは書いていないけど、オブラートに包んだような曖昧な表現をしてみたり、絶対書けないプライヴェートな事件については当然書かなかったし(当たり前か)、それなりの迂回をしてきたこともまた事実である。

 それにしても、よくまあ10年間にわたってこの「ブログ」、書き続けて来たものだと我ながら思う(実際は今年の11月9日でちょうど10年に到達するので、2カ月半ぐらい足りないのだけれど)。

 それもほぼ毎日書いてきたわけで―1カ月近く休むことがこれまで何度もあったけれど、実際はアップしていない時期もほとんど毎日書いてはいた。ブログを休んだ理由は至極簡単で、毎日書き続けなければならないという「強迫観念」から少しの期間、逃げたい、それだけの理由だった―自分でもよくネタが続いたもんだと感心してしまう(最近は完全にマンネリ気味だと自分でもちゃんと自覚しておりますが)。

 もうこれくらいで、いいんじゃないだろうか。
 10年間は長かった。
 この辺でブログ自体、打ち止めにしたいと思う。

 実はこの「ブログ」、書き手側の一方通行で双方向のコミュニティが不存在なのだけれど、これまで、何度もまったく知らない人からいきなり「読んでます。あなたのブログでロックを知りました」と声を掛けられたり(なんで自分と分かったのか未だによく解らないのだけど)、何人もの人間を介してだろう、知り合いからの携帯を借りて、その電話口で「読んでます。感激です」と言われたこともあった。

 それから、これは前にもこのブログで書いたことなんだけれど、いつものように休日海辺を走っていたら、伴走するように車が追いかけて来て、「お前、キースか? キースだろ!」と聞かれたこともあった。
 何故か、思わず「違います!」と言っちゃったけど(ごめんなさい)。だって、本名キースじゃないしさ・・・。

 まあ、思い返すと、ブログ「キース・リチャーズになりたいっ!!」にはたくさんの思い出が詰まっている。
 かなりの人がアクセスしてくれたし、ブログ上位ランクにも入れてもらえた。本当にありがとうございました。

 ということで、このブログ「淳一のキース・リチャーズになりたいっ!!」、2014年8月26日火曜日をもって、一旦終了させて頂きます。

 ちょっと淋しいですけど・・・。
 そして、あとは孤独に、残りの人生を静かに生きていきます・・・なんてね。
 あと残り8日間、なんとか乗り切ります。

 さよならだね。
 元気でね。








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映画「トランスフォーマー ロストエイジ」を観る。いつものジェットコースター感覚は相変わらずだ。

2014年08月17日 | Weblog
 全米ボックスオフィス、2014年のサマーシーズンもかなり熱いようだ。

 まずは先週末の全米ボックスオフィス。
 「トランスフォーマー」シリーズのマイケル・ベイ製作によるアクション・アドベンチャー大作「ミュータント・タートルズ」が、8月公開映画で歴代なんと4位となるオープニング興収で第1位を獲得した。

 今週末は、シルベスター・スタローン、アーノルド・シュワルツェネッガー、ジェイソン・ステイサム、ハリソン・フォード、メル・ギブソンら、ちょっと賞味期限切れ、いわゆるエクスペンダブルズたちが出演するオールスター映画、「エクスペンダブルズ3 ワールドミッション」が公開されるので、さてその順位はどうなるのか。

 それから「猿の惑星 創世記(ジェネシス)」の続編映画、「猿の惑星 新世紀(ライジング)」も凄まじいヒットを飛ばしているし、サマーシーズン終盤の8月上旬は、マーベルのSFアドベンチャー映画「ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー」がアメリカ8月公開映画では新記録となる、オープニング興収約9400万ドルという驚異的な数字を打ち立てて首位デビューを飾った。

 そんな中で、この夏一番の話題作といえば、やっぱりこの映画しかないだろう。
 「トランスフォーマー ロストエイジ」だ。

 全米で6月に公開された「トランスフォーマー ロストエイジ」も、当然ながら、今年最高となる約1億ドルのオープニング興収で首位デビューを果たした。
 そして満を持しての日本公開だったのだが、意外や意外、初登場第3位というビックリするデビューとなってしまった。

 「スタンドバイミー ドラえもん」と「るろうに剣心 京都大火編」に阻まれて苦しい幕開けとなってしまったのである。
 まあ、これは日本独特の現象かもしれない。
いくら「トランスフォーマー」といえど、日本全国民のアイドル「ドラえもん」には勝てないでしょう、それは。

 ということで、観て来ましたよ、映画「トランスフォーマー ロストエイジ」。
 それも、朝8時からの回。
 連日、色々と所用があって忙しかったので、日曜日の朝ぐらいはゆっくり寝ていようと思っていたのに、7時に起きて眠い目を擦りながら郊外にあるシネコンへと車を走らせた。

 入りは50%弱という感じだろうか。
 映画館にしてみたらもう少しお客さんで埋まって欲しかったろうけど、観る側に言わせてもらえば、とにかく近くに誰もいてほしくない。ただそれだけです。

 映画「トランスフォーマー ロストエイジ」は、マイケル・ベイ監督によるシリーズ第4弾である。
 前作まで主演を務めてきたシャイア・ラブーフは今回出演はなしで、新たにマーク・ウォールバーグが務めることに。

 物語は、オートボット=「人類の味方」対デセプティコン=「侵略者」という図式で凄まじいバトルが繰り広げられた前作から4年後が舞台である。
 貧乏暮らしの発明家(マーク・ウォールバーグ)は、ある日、街の朽ち果てた映画館の中で古びたトラックを手に入れる。

 しかし、その正体はオプティマス・プライムだった。
 トランスフォーマーの存在自体に危機感を覚えた一部CIA幹部と新しい人造トランスフォーマーの開発を目論む大企業のトップが、「オートボット狩り」を密かに進めていて、オプティマス・プライムは潜伏を余儀なくされていたのである。
 そしてそこから、発明家の家族たちもまた、宇宙規模の壮絶な戦いへと巻きこまれてゆくことになる・・・。

 とにかく飽きさせない。
 2時間以上の大作なのだが、計算し尽くしたアクション・シーンの連続、幾つもの山場を造り出すから、最後の最後まで一気にみせる。

 派手なカーチェイスはあるし、敵味方による肉弾戦はあるし、もちろんトランスフォーマー同士の手に汗握る長丁場のバトルもある。
 まるで豪華な幕の内弁当状態だ。
 何から何まで、てんこ盛りなのだ。

 目玉は、ラスト中国香港での壮絶な大バトルシーンだろう。
 ビルから車から、すべてをぶち壊す。このカタルシスたるや半端じゃない。
 圧巻である。
 入場料の分はしっかり元が取れる。セコいようですが、それ以上です。

 ただし、前作を超えたかと言われると、「うーん」と唸るしかないですけど・・・。

 それと、マイケル・ベイ監督、続く2016年公開予定の「トランスフォーマー5(仮題)」のメガホンはとらないらしい。
 じゃあ、誰が監督やるんだろ?









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「夢は牛のお医者さん」。ある少女を26年間追い続けた、とても貴重なドキュメンタリー映画。

2014年08月16日 | Weblog
 久しぶりに「シネマ・ディクト」で映画を観る。
 「夢は牛のお医者さん」というドキュメンタリー映画だ。

 エレベーターに乗って3階のボタンを押し、ドアが開いてすぐの場所にある受付のところに行ったら、久しぶりにシネマ・ディクト館主のT氏がいた。
 相変わらず満面の笑みで迎えてくれる。
 それにしても、本当に前向きで朗らかで屈託がない人だ。

 僕はこの人の紹介で「朝日新聞」地方版の映画評コラムを書かせて貰った。すごく恩義がある。とてもいい人だ。

 映画「夢は牛のお医者さん」。
 ドキュメンタリーである。それも26年間に及んだ密着取材。大変根気のいる仕事だっただろう。

 1987年からこの映画は始まる。
 新潟県松代町(現在の十日町市である)にある、男女合わせて生徒数9人だけの小学校。
 生徒たちの人数が少なく、その年は卒業生が一人も出なかった。
 心配した学校側が、3頭の子牛を学校で飼うことを生徒たちに提案する。
 期限を付けて飼育をし、成長を見届けたらみんなで牛たちの卒業式をしてあげよう。そうすることで動物たちの仲間も増えるし、教育の一環にもなるだろう。先生はそう考える。

 そして、村の分校に3頭の子牛がやって来た。
 みんな、朝から一生懸命頑張って小牛たちの世話をする。
 それぞれ名前を付けた牛たちに、餌をやり、村の人たちと一緒に運動会を開催する。そうしてゆくうちに9人の子どもたちには同族意識が芽生え始め、まるで人間の友達のような接し方をするようになる。
 しかし、やがて子牛たちは成長し、セリに掛けられ、食用として売られてゆくことが決まる・・・。

 ここまでが映画「夢は牛のお医者さん」の前半だ。
 ここから、子牛たちと生徒たちとの涙の卒業式の模様が映され、そして9人の子どもたちの中の一人の女の子にのみ、その焦点は注がれる。

 女の子は、大きくなったら絶対に獣医さんになると固い誓いを立てる。
 やがて県内有数の進学校に合格した少女は、両親と妹たちを残して過疎の村を出ると、4畳半の狭い下宿でテレビを3年間見ないという誓いをたて、国立大学獣医学部を目指すべく、ひたすら一心不乱に勉強する。

 ナレーションは「AKB48」の横山由依。
 このナレーションがまた中々上手い。

 ついに少女は現役で岩手大学獣医学部へ合格し、そこから6年間獣医の勉強に専念する。
 そこから念願の国家試験に受かると、また故郷の新潟県へと戻り、地域農家のために獣医としての道を歩んでゆく・・・。

 とにかく26年間にわたる膨大な記録フィルムが凄い。
 映画自体は1時間30分弱なので、かなり編集には手間取っただろう。そういう意味でも労作といえる。

 映画を観てゆくうち、不覚にも2度泣いてしまった。
 少女が大学合格の知らせを受けたシーンと、獣医試験に合格したときのシーンである。
 ひたむきな純粋さが胸を打つ。

 それにしても、人間という生き物は残酷だ。
 わたしたちが食事で何度も食べる牛肉や豚肉は、いつも綺麗に調理され、そのナマの姿なんてまったく想像すら出来ないかたちで、目の前へと運ばれて来る。

 霜降り肉を見て、「わあ、美味しそう! なんて綺麗な色なんでしょう!」などと言いながら、ナイフを持ち、あるいは箸を使ってその綺麗にスライスされた肉を頬張り、舌鼓をうつ。
 柔らかいお肉だとか、噛み具合が堪らないだとか、お腹がいっぱいで大満足しただとか・・・。

 ならば、牛としてのそのままの姿、可愛い子ブタとしてのいたいけな姿、そこからは食用としての「肉」は浮かばずに、ただの生き物としての牛や豚として接し、動物たちに対して優しい感情すら抱くのだ。

 そしてその生き物としての姿から口に運ぶ寸前までの行程は、何故か綺麗にショートカットされてしまう。
 (とさつ)の現場を含め、牛や豚が悲鳴を上げ、切り刻まれ、人間が食する部分だけを拾い上げてその他は廃棄される場面などは、誰も見ないし、誰も考えない。

 人間は原罪を負っている。
 完全な菜食主義者以外の人間は、そういう残酷な過程の中で「食べ物」を分け与えられる。
 つまり、そこから生かされているということを自覚しなければならない。徹底的に自覚して生きなけれならない。

 まあ、そこまでこの映画「夢は牛のお医者さん」を、深読みして観ることも本当はないのでしょうけど・・・。








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「God Put A Smile Upon Your Face」

2014年08月15日 | Weblog
 夏休みを取る。
 4日間ある夏期休暇の、その初めての休みということになる。

 ところが、朝から結構激しい雨が降っている。
 気温も22~23度辺りだろうか。肌寒いくらいだ。
 雨だとお墓参りにも行けず、去りゆく夏を惜しむように今日はゆっくり長い距離を走ろうと思っていた計画も頓挫した。
 かといって、スポーツジムは今週の土曜日まで夏休みで閉館しているという。

 午前中は家でゴロゴロして過ごす。
 「産経新聞」を読んで、珈琲を飲み、「MTV」を流し、WOWOWで「洋楽主義」の「ピクシーズ」特集を観る。

 雨はお昼を過ぎても止む気配がない。
 ほんと、俺は雨男だ。
 部屋の窓硝子を雨粒が這い、空は限りなく灰色に淀んでいる。

 気分も晴れない。
 時間をちゃんと有効に使えないと、苛々だけが募るのだ。
 でも、そうしているのは、でも、そういうふうに時間を上手く使い切っていないのは、単に自分自身が悪いだけで、誰の責任でもないはずなのに・・・。

 雨が引っ切り無しに降る中、外に出る。
 半袖だと少し寒い。
 時間はもう午後2時を回っている。晴れていたら、思い切り外を走れたのに・・・なんで休みの日に限って雨が降るんだろ。

 金曜日の午後の雨降る街は、それでも帰省客で溢れ返っていた。
 N書店で暫しの間、立ち読み。
 「アサヒ芸能」の表紙を見てビックリ。
 村上春樹の大麻疑惑の記事が載っていた。なんじゃ、こりゃ。

 折角の夏休みだというのに、時間だけが無為に過ぎてゆく。
 それにしても、この言いようのない虚しさはなんなんだろう?
 また、あの圧倒的な空虚感が襲って来たんだろうか? それだけは勘弁してほしい。

 心がささくれるときには、深沢七郎の「人間滅亡的人生案内」を読んで、気持ちを落ち着けることにしている。
 もういったい何度読んだだろう。
 「楢山節考」を書いた作家の深沢七郎が読者の悩みに答えるという内容の本で、これがまたかなり凄いというか、繰り返し読んでも新鮮で、本当に心が落ち着く。
 名著である。
 もうとっくに絶版しているはずなので、神田の古本屋なんかで探して、見つけて読むしかない

 深沢七郎の「人間滅亡的人生案内」には、例えばこんな質問が載っている。
 「生きることは楽しむことでしょうか? 努力することでしょうか?」

 これに対して、深沢七郎はこう答える。
 「生きることは楽しむことか、努力することかなどと、考える必要はありません。なんのために生まれて来たのか誰も知らないのです。それは知らなくてもいいことだと、お釈迦様は考えついたのです」
 「お釈迦様は3千年前菩提樹の下で悟りを開いたと言いますが、その悟りとはそのようなことだと思います。」
 「この世は動いているものなのだ―日や月が動いているのだから人間の生も死も人の心の移り変わりも動いているものなのだ、そうして、人間も芋虫もその動きの中に生まれて来て、死んでゆく、そのあいだに生きている―うごいている、誕生も死も生活も無の動きだという解決なのです」
 「だから、幸福だとか、退屈だとか、そんなことは考えなくてもいいことなのです。いや、考えなくてもいいのです。どちらも無という意味のない動きなのだから」

 深沢七郎はいう。
 色即是空も空即是色も同じなのだと。
 この世のすべてのもの、行動、縁、かたち、幸福、不幸、生死は全然ないもので、もしそこに形とか姿があっても、それはないものだという意味なのだと。

 深沢七郎は、小説「楢山節考」が大絶賛を浴びて一躍時の人となった。
 ところが、1960年末に発表した「風流夢譚」が皇室侮辱と受け取られ、出版社社長宅が襲撃されるという事件まで起こってしまった。

 その事件が切っ掛けとなり、深沢七郎はその後、何年間にも及ぶ孤独な放浪の旅へと出る。
 そしてその長い旅から戻ると、最後には、彼の終の棲家となる「ラブミー農場」を立ち上げて自給自足の生活を始め、厭世的な隠居生活をひっそり送り、1987年、ついにこの世を旅立っていった。

 すべては終わる。
 かたちあるものは、いずれ必ずなくなり、永遠に存在し続けるものなど一切ない。

 色即是空。
 一切は無である。











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「コールドプレイ」のアルバムを全部聴き直しておもう。このバンドは美しい。そしてひたすら切ない。

2014年08月14日 | Weblog
 辛いことがある。たくさんある。
 死んでしまいたいと思うことがある。このまま静かに眠ったように死ねるんだったら、それはそれでいいんじゃないかと思うことがある。

 吐き気がするような嫌悪感を抱くことも、怒りに震えることも、嫉妬や憎悪を抱くことだってある。いろんなことが嫌になり、ここから全速力で逃げたしたいと思うことだって、何度もある。

 その半面、楽しいことだって勿論ある。
 胸が震え、涙を流し、心からの感動を覚える何かに出逢うことがあるし、美味しいものを食べ、誰かを愛し、誰かを慕い、純粋に思い、このひとのためだったら出来うる限りのことをしたいと心底思うことだってあったりする。

 そういうふうにして、誰もが心の乱高下を繰り返し、ある時はめげて奈落の底まで徹底的に落ち込み、またある時はそこから這い出し、居直りながら無理やり笑い、時間とともに少しずつ癒され、新しい舞台へと登ってゆく。

 そして、誰にも支えがある。
 支えは誰にも必要だ。
 苦しいとき、哀しいとき、もう駄目かもしれないと嘆くとき、でもそこに救いは必ずある。支えてくれる何かがある。誰にでもある。

 俺にとっての救い、それは音楽にほかならない。

 昨日、疲れた躯体を引き摺って家に帰り、冷蔵庫から冷えた缶ビールを取り出して一気に飲み干した。
 夕暮れがとても綺麗だった。夏の終わりを告げるような、そんな淡い橙色と儚げな薄青色した空が本当に綺麗だった。

 日中、31度まで上がったその暑さの余韻はまだそこら中にこびり付いていている。
 それでも夕暮れの風は微かで心地よく、大気を含めた何もかもが全部美しく輝いていた。

 缶ビールを2缶一気に空けた。
 お酒には滅法弱いので、直ぐに赤くなって酔っ払ってしまう。
 
 部屋に入って、夕暮れの空を見ようと北と東の窓を全開にし、CD棚からすべての「コールドプレイ」のアルバムを引っ張り出して、ファースト・アルバムから次々と聴いてゆく。

 1枚目の「パラシューツ」。2枚目の「静寂の世界」。3枚目の「X&Y」。4枚目の「美しき生命」。5枚目の「マイロ・ザイロト」。そして6枚目の最新アルバムとなる「ゴースト・ストーリーズ」。

 全部いい。
 何もかもが美しい衣を纏っている。
 この美しさと対峙出来ない人は不幸だとまで言い切りたい。

 純白の雪が降りしきる大草原の中に独りぽつんと立っているよう・・・。
 枯葉舞う誰もいない公園のベンチに座って、憂鬱な雲が静かに流れてゆく光景をただぼんやりと眺めているよう・・・。
 白い息を吐きながら北の荒ぶる海辺に佇み、吹き荒れる風に身を縮めて海鳴りを独りぼっちで聴いているよう・・・。

 繊細で、華麗で、雄大で、ドラマティックな音楽だ。
 そしてそこは、早春であり、暮春であり、孟夏であり、真夏であり、秋である。
 晩秋であり、孟冬であり、寒空であり、陽春である。

 「コールドプレイ」の紡ぎ出す音は、季節の狭間でいつも揺れている。だから「コールドプレイ」のサウンド・スケープは楚々としていて、しかも切なくて、あでやかささえ感じられる。

 勿論、彼らのサウンドはアルバムごとに微妙に変化している。
 また、1枚目「パラシューツ」、2枚目「静寂の世界」、3枚目「X&Y」、6枚目「ゴースト・ストーリーズ」と、4枚目「美しき生命」と5枚目の「マイロ・ザイロト」とは、ある意味で「陰」と「陽」の関係性にある。

 すべてを過剰に!
 人生の風味を味わうには大きく齧(かじ)らなければだめだ。
 節度など、坊主のものだ!
                           ロバート・ハインライン

 そうだ。
 すべてを過剰に!
 ガブリと人生って奴を齧ったら、一息いれて「コールドプレイ」を聴いたらいい。

 節度なんてクソ喰らえ!








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「ピンクフロイド~深遠なる迷宮への誘い」、「進撃の巨人」14巻、Rチャンドラー「ロング・グッドバイ」

2014年08月13日 | Weblog
 今日は8月13日、お盆の入り。

 でも今日も仕事で定時にいつもどおりの出勤をする。
 途中、大混雑している国道沿いも出勤に向かう車の数が今朝だけは激減していて、他県ナンバーの車がやたらと目立つ。

 オフィスについてパソコンのスイッチを入れ、出勤簿に判子を押し、昨日洗うのを忘れてそのまま机の上に置きっ放しにしておいた珈琲カップを洗って、椅子に腰を下ろした。

 天気がいい。
 青い空に真っ白な雲が流れてゆく。
 今日の最高気温は31度らしい。

 オフィスにはまったく冷房がないのでいつもは窓を開けているのだけれど、今日はかなり風が強く、開け過ぎると風で書類が飛び、だからといって窓を閉め切ると、まるでサウナ並みの室内温度になってしまうから、数センチの開放だけでなんとか我慢する。
 暑い・・・。

 昨日の夜も、結局走らなかった。ジムにもいかなかった。
 今月に入って、月300キロを走るという目標を立てたのに、いまだ累計では10キロ。たった10キロ!
 
 昨日携帯に電話があって、某団体からの講演依頼。
 約45分間の講演ということなので、夜、「ピンクフロイド」の「アニマルズ」をBGMで流しながら、目を瞑って、ほんの暫し組み立てを考える。
 でも、家に帰ったら仕事に関することは一切考えないぞと思い直し(それでもばんばん電話は鳴りますが)、溜まった本を読むことにした。

 広めの机の上に積み重なっている未読の本だけでも、文庫や新書を入れると100冊以上ある。
 つまり、それだけ本を読んでいないということだ。
 とにかく最近はほんと読まなくなってしまった。ただ買って積んどくだけなのだ。
どうしよう・・・。

 こんな体たらくだから、周りのみんなに遅れをとってしまうのだ。
 今までストックしている分だけで、この乱世を乗り切れるわけがない。このままだと張りぼての虎である。薄っぺらな知性で泳いでいる薄っぺらな人間に過ぎない。

 で、まずはムック本「文藝別冊ピンクフロイド~深遠なる迷宮への誘い」から。
 これもまた、だいぶ前に買っていたのに全然手を付けていない本だ。いわゆる「ピンクフロイド」全オリジナル・アルバム16枚(作品としては14枚)のリマスタリング「ボックス」リリースと、初来日40周年を記念して出版されたときの本である。

 オリジナル・アルバム全14作品の徹底分析対談が、音楽資料としても使えてすんごくいい。
 それにしても、さすがプロの音楽評論家は違う。
 音楽自体に対する姿勢や向かい方が全然違うし、その音楽の博識には舌をまく。よく聴き込んでます。凄いです。

 特に、「伊藤政則×立川直樹 巨大なサーカスの再来を待ち望むために」が良かった。
 この対談を読んでいたら、「箱根アフロディーテ」におけるピンクフロイドのコンサートの模様が詳しく語られていて、それもまたとても興味深かった。

 ロック評論家の伊藤政則がその中で、「当時、新幹線とかなかったから、岩手から箱根まで行くのがとても大変だった」と話していた。
 そうかあ、伊藤政則は学生だった頃、岩手からはるばる列車を乗り継ぎながら箱根までピンクフロイドを観に行ったのかぁ・・・。

 俺もそうだった。
 たった一人、青森から列車を乗り継いで、遠く箱根の山までピンクフロイドを観に行ったのだ。懐かしいなあ・・・。よく行ったもんだ。

 続いて新刊「進撃の巨人」第14巻へ。
 2015年夏には実写映画が二部作として公開される予定の、漫画「進撃の巨人」。
 一時はちょっとマンネリしてきて、このまま続けたらちょっと辛いかもと思っていたのだけれど、ここに来て息を吹き返した。

 14巻、巨人との壮絶なバトルは皆無なものの、スピーディな物語展開で一気に読ませる。
 壁内における組織内部抗争化にスポットライトが当たって、物語ががらりと動き始めてきた。次が早く読みたい漫画のひとつである。

 そして小説へと移る。
 現在、何冊かの小説を全部途中半端で食い散らかしていて、それも中々最後まで辿り着かないという体たらく。
 とにかく読むのが遅い。遅過ぎる。

 なので、レイモンド・チャンドラーからもう一度改めて読み返すことに決めた。
 もう何度もこれまで読んできた「長いお別れ」、いわゆる「ロング・グッドバイ」を、また最初から丁寧に読み直す。

 やっぱりチャンドラーは凄い。
 いつか彼の分厚い自伝書も読んでみたいとは思っているのだけれど、こう遅読だといつになるやら皆目検討がつかない。

 それと、村上春樹の訳も中々いい。
 文章が全部きちんと立っている。ディテールにまで言葉そのものの本質が宿っているよう。素晴らしいと思う。

 これをキックオフにして、次々と読破してゆかなければ。
 こういう素晴らしい小説を改めて読み直すと、無性に自分でも小説が書きたくなってくるのである。疼くのだ。
 ちゃんともう一度、坂口安吾や太宰治や芥川や漱石やドストエフスキーやシェイクスピアなんか読み直してみる時期に来ているのかもしれない。
 遅いけど。

 だよなあ・・・やっぱり今度の誕生日を節目に、このブログをきちんと封印して、本格的に書くことへのみ、専念すべきかもしれないな。

 うーん。
 迷う。








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