よく、「心ではちゃんと理解してるんだけど、この体が自分の気持ちとは裏腹に、勝手にそれとは別の方向に進んでしまうんだよね・・・」というような言い訳を聞く事がある。
例えば、ダイエットをしようと一大決心をした女性が、思わず甘いスイーツに手が伸びてしまうとか、煙草を止めると真剣にみんなの前で宣言までしたのに体が抗し切れずに自然と煙草を欲してしまうとか。
あるいは、最愛の人にフラれ、もう恋は絶対にしないと固い誓いを立てながら、また懲りずに新しい恋愛に走ってしまうとか・・・あっ、これはまたちょっと違うか。
人間が「思考」することと、実際の「心」の動きには違いがある。
仮に、「人生に対する一切の希望を捨てる。生きるとは虚無だ」と「思考」したとしても、実際の行動が伴う際の「心」の動きは、それと同一歩調を取るとは限らない。
心が悪さを仕出かすとか、心は気まぐれとか、心が暴走を始めるとか言われるけれど、幾重にも重なり合い、複雑に絡まった人の心の動きほど始末に終えないものはない。
人間は、一日に何と平均約50,000回もの考えを頭の中で浮かべるのだとか!
50,000回!
怒り、笑い、嘆き、落ち込み、嫉妬し、悩み、疑い、同情し、哀れみ、泣き、抗議し、否定し、肯定し、閃き、忘れ、思い出し、嘆き、楽しいと感じる!
それが何と50,000回!
そしてまた人間は、当然の如く、自ら思考したそのことを、実際の行動に起こそうと試みる。勿論、様々な外因が複雑に絡んでくるわけで、思考し行動に移そうとしたからといって、そのままの形で結果が生み出されるとは限らない。
限らないけれど、常日頃のその人の思考や心の動きが、当然にその人間の人生を作っている。
悲観的な思考を持ち、絶えず選択肢の中でマイナス局面を選択し続けている人間は、結果としてそういう人生を形成している場合が多いだろうし、反対に、楽観主義でいつも物事をいい方に考える人間は、そういう生き方が習慣付けられてゆくことで、それなりの人生が形作られてゆく。
何だかんだいいながら、結局、人は、自分の人生を、自分で作っているのである。だから、「俺の人生はこんなものなのか!」と絶望して嘆いても、それは意外と自分がそういうふうに舵取りした結果に過ぎない。
「一切唯心造(いっさいゆいしんぞう)」は、「華厳経」の中にある言葉である。
一切は、ただ、こころが造っている!
あるいは、「心こそ、心迷わす心なれ」、「心に心 心許すな」。
つまり、自分の心が結局、自分自身を迷わしている。自分の心を許してはならない。そう言っている書物もある。
もうこうなると、じゃあ、どないせい言うねん! と叫びたくなってくる。
自分の心でさえ、自分を惑わし、悪さをし続けるというのであれば、自らを決定する心とか思考とか考え方って一体何なわけ?
しかし、一切唯心造(いっさいゆいしんぞう)というように、世界は自分の心が決めている。心が黒い世界と決めれば、世界は暗黒で暗闇にある。また、心が世界は希望に満ち溢れ、美しい王国だと定めれば、そういう色彩で満たされることになる。
今、この今、自分自身が「幸せ」だと感じたら、その瞬間、一切の過去の苦悩や悲しさなどの負の感情はすべて色褪せてしまうはずだ。そして今の「幸福感」で塗り尽くされるだろう。
また、この今、生きているこの今を「不幸」だと感じたら、過去の美しい思い出や楽しかったことさえ、暗く濁り、すべての色彩は黒く塗りたくられるに違いない。
ああ。何と「心」の気まぐれでいい加減なことよ!
例えば、ダイエットをしようと一大決心をした女性が、思わず甘いスイーツに手が伸びてしまうとか、煙草を止めると真剣にみんなの前で宣言までしたのに体が抗し切れずに自然と煙草を欲してしまうとか。
あるいは、最愛の人にフラれ、もう恋は絶対にしないと固い誓いを立てながら、また懲りずに新しい恋愛に走ってしまうとか・・・あっ、これはまたちょっと違うか。
人間が「思考」することと、実際の「心」の動きには違いがある。
仮に、「人生に対する一切の希望を捨てる。生きるとは虚無だ」と「思考」したとしても、実際の行動が伴う際の「心」の動きは、それと同一歩調を取るとは限らない。
心が悪さを仕出かすとか、心は気まぐれとか、心が暴走を始めるとか言われるけれど、幾重にも重なり合い、複雑に絡まった人の心の動きほど始末に終えないものはない。
人間は、一日に何と平均約50,000回もの考えを頭の中で浮かべるのだとか!
50,000回!
怒り、笑い、嘆き、落ち込み、嫉妬し、悩み、疑い、同情し、哀れみ、泣き、抗議し、否定し、肯定し、閃き、忘れ、思い出し、嘆き、楽しいと感じる!
それが何と50,000回!
そしてまた人間は、当然の如く、自ら思考したそのことを、実際の行動に起こそうと試みる。勿論、様々な外因が複雑に絡んでくるわけで、思考し行動に移そうとしたからといって、そのままの形で結果が生み出されるとは限らない。
限らないけれど、常日頃のその人の思考や心の動きが、当然にその人間の人生を作っている。
悲観的な思考を持ち、絶えず選択肢の中でマイナス局面を選択し続けている人間は、結果としてそういう人生を形成している場合が多いだろうし、反対に、楽観主義でいつも物事をいい方に考える人間は、そういう生き方が習慣付けられてゆくことで、それなりの人生が形作られてゆく。
何だかんだいいながら、結局、人は、自分の人生を、自分で作っているのである。だから、「俺の人生はこんなものなのか!」と絶望して嘆いても、それは意外と自分がそういうふうに舵取りした結果に過ぎない。
「一切唯心造(いっさいゆいしんぞう)」は、「華厳経」の中にある言葉である。
一切は、ただ、こころが造っている!
あるいは、「心こそ、心迷わす心なれ」、「心に心 心許すな」。
つまり、自分の心が結局、自分自身を迷わしている。自分の心を許してはならない。そう言っている書物もある。
もうこうなると、じゃあ、どないせい言うねん! と叫びたくなってくる。
自分の心でさえ、自分を惑わし、悪さをし続けるというのであれば、自らを決定する心とか思考とか考え方って一体何なわけ?
しかし、一切唯心造(いっさいゆいしんぞう)というように、世界は自分の心が決めている。心が黒い世界と決めれば、世界は暗黒で暗闇にある。また、心が世界は希望に満ち溢れ、美しい王国だと定めれば、そういう色彩で満たされることになる。
今、この今、自分自身が「幸せ」だと感じたら、その瞬間、一切の過去の苦悩や悲しさなどの負の感情はすべて色褪せてしまうはずだ。そして今の「幸福感」で塗り尽くされるだろう。
また、この今、生きているこの今を「不幸」だと感じたら、過去の美しい思い出や楽しかったことさえ、暗く濁り、すべての色彩は黒く塗りたくられるに違いない。
ああ。何と「心」の気まぐれでいい加減なことよ!