淳一の「キース・リチャーズになりたいっ!!」

俺好き、映画好き、音楽好き、ゲーム好き。止まったら死ぬ回遊魚・淳一が、酸欠の日々を語りつくす。

「都市と自然と人びと」というテーマにひかれ「東京都美術館」の「大エルミタージュ美術展」を鑑賞する。

2006年12月28日 | Weblog
 フランス・パリの「ルーブル美術館」、 アメリカ・ニューヨークの「メトロポリタン美術館」、 ロシア・サンクトペテルブルクの「エルミタージュ美術館」、イギリス・ロンドンの「 大英博物館」。
 僕はそのいずれの美術館にも足を運んだことがない。
 だから、死ぬまで(まだまだたっぷり時間はありそうなので)に、一度はこれらの名だたる美術館を巡る旅に出てみたい。これが僕のささやかな夢である。

 そしてちょうど上京中、上野の「東京都美術館」において「大エルミタージュ美術展」が開催されていたので、最終日ということもあって急いで観に行った。

 約300万点もの所蔵品を誇るといわれている世界最大の美術館のひとつ、ロシア国立「エルミタージュ美術館」。
 今回、日本で開催された「大エルミタージュ美術館展」は、その膨大なコレクションの中から、「都市と自然と人びと」をテーマに、15世紀のヴェネツィア派から20世紀の近代絵画まで、400年にわたるヨーロッパ各国の75人の画家による油彩画80点を厳選して紹介しているということで興味がひく。

 「家庭の情景」、「人と自然の共生」、「都市の肖像」という3つの柱に沿うかたちで、ルネサンス以降のヨーロッパ絵画の歴史を再発見してゆくという仕立てになっていて、ちょうどいい数のコレクションが揃い、その迫力に圧倒される。

 何といっても、自然を描いた絵画に惹かれてしまう。
 僕が、すぐ目がいってしまうのは、やはりその背景に描かれている光と色彩である。
 ルネサンス以降の美の巨人たちの描く、晴れ渡った空や、夕暮れ近くの雲の流れや、太陽の光に揺れる木々の陰翳や、草花や水面の揺らぎ・・・。
 主体となる人物や対象物の奥に描写されているもの。何故かそれに惹かれてしまうのである。

 特に、夕暮れどきの風景。
 橙色や赤を基調としながらも、光の屈折や前方に位置している人物や建物らを溶け込ませ、そこに描かれた主題を際立たせるために、色彩を統制する方向へと導いてゆく仕立て・・・。
そこにこそ、ある種の美が醸し出されてゆくのではないか。

 だから、僕の美術の見方って少し偏向しているのかもしれない。
 何を見てもそこに「意味」を持たせてしまう。それは勿論、絵画とかアートにおいては当然のことで、「作品」のあらゆる部分に「意味」はある。また、なければならない。

 そういうことではなくて、例えば映画や文学において、語るべき「主体」や「核」から少しだけズレている部分。でも、それら周縁がきちんと描かなければ、「主体」や「核」が際立たない、とても重要な部分。
 そこにも、確かな「意味」がある。

 「アートは、今まさに飢えて死にそうな人間に対して有効なのか?」などというアホな問答がこの世界には存在する。
 有効なわけがないだろう。
 今まさに飢えて、このまま何も食しないと死にまで至る人間は、アートとか芸術とか、そんなものを投げ捨てて、今すぐに一切れのパンを食し、飢えを凌ぐべきに決まってる。
 当たり前だろう。

 しかし、「今まさに、心の飢えを感じ、生きてゆく希望も無くし、ビルの屋上から飛び降りようとしている人間に対して、一切れのパンは有効か?」
 有効なわけがないだろう。
 ビルから身を投げようとしている独りの人間にとって、今の空虚さや絶望を救い、明日へと生きる力、その一助となりうるもの・・・。
 それこそがアートであり、一枚の美しい絵画にこそ救済されることだってあるのではないか。

 あらゆるものは同列である。
 そこに上も下もあるわけがない。




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