淳一の「キース・リチャーズになりたいっ!!」

俺好き、映画好き、音楽好き、ゲーム好き。止まったら死ぬ回遊魚・淳一が、酸欠の日々を語りつくす。

勢古浩爾の「結論で読む人生論~トルストイから江原啓之まで」。この本、マジで面白い!

2006年12月18日 | Weblog
 いやあ。この本は面白かった。

 いわゆる、古今東西の哲学や人生論に関する名著を紐解きながら、筆者なりの人生論を語ってゆくという方法は、これまでにもよくあったパターンで別に新味はない。
 ただ、この「結論で読む人生論」が並みの人生論を超えているのは、勢古浩爾が自らの言葉で自分自身を曝け出しているからにほかならない。
 それも、真摯に。

 勢古浩爾は、1947年、大分県生まれ。明治大学大学院を卒業してから、現在は洋書輸入会社に勤務しているらしい。
 つまり普通のサラリーマンである。その「ふつうの人」としてを立ち位置に据え、独自の批評活動を展開していて、「思想なんかいらない生活」(ちくま新書)と「まれに見るバカ」(洋泉社文庫)と「生きていくのに大切な言葉 吉本隆明74語」(二見書房)の三冊を僕はこれまで読んできた。

 今回の「結論で読む人生論」。
 本の帯を読んだだけで、もう惹かれてしまった。
 いわく「結局、何かいいたいのか? 紀元前から現代までのあらゆる『賢者たち』が考えた、約50通りの『何のために生きるのか?』」。
 この文章を読むだけでそそられた。

 しっかし、勢古浩爾。よくまあ、これだけの文献を読破したものだ。感服する。
トルストイ、アラン、セネカ、老子、ショーペンハウエル、鴨長明、などなど。有名な哲学者だけに止まらず、ホリエモンの「稼ぐが勝ち」まで俎上に乗せる。

 でも、例えばトルストイの「人生論」。
 「人はだれでも自分の幸福のために生きている。一人ひとりの人間にとって生きるということは、幸福を望み・・・」まあ、ここまではいい。
 ただ、このあと、人は「人間の幸福」を追求してゆくだの、「人類の進歩」を希求することこそが人間として生きる価値などと言われると、急に萎えてくる(勢古浩爾も同じような意見だけれど)。
 理論としては解るし、最終的にはそこに到達すべきなのだろう。でも、やっぱり頭でっかちの感は否めない。理想論過ぎないか。

 逆に、ちゃんとその著書を真面目に読んでみたいと思ったのは、「森の生活」を書いたソローである。
 僕は、ソローが28歳でこの「森の生活」を書いたということをまったく知らなかった。確かに名著ということで、様々な本などによく登場するけれど、豊かな自然の中で暮らしている老人による貴重な体験記のたぐいなんだろうぐらいのイメージしかなかったのである。本当にごめんなさい。

 ところがである。触りを読んで驚愕した。
「わたしが森へ行ったのは、思慮深く生き、人生の本質的な事実のみに直面し、人生が教えてくれるものを自分が学びとれるか確かめてみたかったからである」などと語るのである。
 うーん。これは凄い。真剣である。
 よし。ソローの「森の生活」。読むぞっ!

 この本には、その他たくさんの「人生論」が出て来る。
 素晴らしい言葉もあれば、表層的な上っ面だけの言葉もある。しかしながら、そのどれもが結局、人生そのものを語ってはいる。そういうしかない。だって、普遍的な、誰にでも通用する「人生論」など有り得ないからだ。

 すべては、自分自身が自分なりに咀嚼して、それを自ら身に付けてゆくしか道はないのである。
 つまり。その「武装」された言葉を、自分だけの身の丈に合うように羽織りながら・・・。




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「暗い日曜日」

2006年12月17日 | Weblog
 街を重い雲が覆っている。
 冷たい雨が降っていると思ったら、いつの間にか霙(みぞれ)に変わった。
 多分これから雪になるんだろうか。

 朝、所用があって郊外まで車を飛ばした。
 FMからは、クリスマス・ソングのオンパレード。
 ポール・マッカートニー、佐野元春、リップ・スライム、アンディ・ウイリアムス、竹内まりあ、マライア・キャリー、山下達郎・・・。
 心が萎えているから、こういう曲を今聴くのがとても辛い。

 ―自分の周りを取り囲んでいる状況や環境を変えてしまおう。自分の思い通りにしよう。自分の考えの通りに周囲の世界を作り変えてしまおうー
 そんなことは出来るはずがない。絶対無理だ。解っているのだ。
 人生は思うようにコントロールなど出来ない。他人を自分の思うままに操ることなど不可能だ。
 それも十分解っている。頭では・・・。

 「思い通りにしたいという」その「思い」を止めること。
 そのためには「自分自身」を変えなければならない。ところがそれが一番難しい。だって、長年培われた「思考」の回路はそんな急には変われない。
 僕はもう完全に、「考える」→「マイナス思考」→「それに則った行動」というパターン化してしまっているから、どうしようもない。

 所用を済ませ、家に戻って少し遅めの朝食を採った。
 窓の外は粉雪が舞っている。暗い空だ。気が滅入る。
 天気がよくても悪くても、そんなことに関係なく晴れ晴れとした気分に終始することもある。そういう意味でも、世界は自分の心が反映されているのである。

 時計を見たらまだ朝の10時30分。
 WOWOWからは「CSI」が流れている。
 何もない。何もない日曜日。まったく何もない。
 俺はいったいどうなっちまったんだろう? 何かを変えないと、このままじゃ壊れてしまう。

 布団に潜って、また本のページを捲る。
 とにかく、次から次へと「仏教」や「人生論」や「心理学」関係の本を読み漁っている。すると、読んだあとはとても静かで落ち着いた気持ちになるんだけど、また普段の生活に戻ってゆくと、その確固たる意思も拡散し、やがて何処かに消えてしまうのだ。

 本に集中出来ずに、また外に飛び出した。
 霙(みぞれ)混じりの雪。フードを被り、当てもなく中心市街地までの道を歩く。
 何処かで昼食を採ろうと考えたけれど、食欲が湧かない。
 ショルダー・バッグにいつも入れているスポーツ・ジム用の着替えの事をふと思い出し、そのまま駅前のジムに直行。

 2時からの「ZENヨガ」のエクササイズを受けようと準備したけど、やる気が起こらない。ダラダラとランニング・マシンで走り込み、腹筋を行うけど力がまったく入らず、そのまま止めてしまった。こんなこと、今までなかったのに・・・。
 

 途中で止めてサウナに入り、シャワーを浴びてまた街に出た。
 相変わらずの空模様。もうすぐ日が暮れる。一日は早い。

 禅を試みても、何かを忘れようと抗っても、その先に晴れ渡った青空が見えてこないのだ。
 雑念を振り払おうと努めれば努めるほど、その雑念は逆に大きくなってこちらの方に襲い掛かる。
 あるがままに。為すがままに・・・。
 解ってるって! そんなこと。




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1976年に制作された映画「犬神家の一族」のリメイクは、91歳になる市川崑監督がまたまたメガホン!

2006年12月16日 | Weblog
 岩井俊二がドキュメンタリー映画「市川崑物語」を完成させ、現在、首都圏で上映されているけれど、市川崑、何と91歳になるらしい。
 その市川崑が、自ら監督を引き受けて撮った映画「犬神家の一族」を観た。

 僕が最初の「犬神家の一族」を観たのは、日比谷の映画館だった。
 現在「シャンテ・シネ」がある、その斜め向かい側にあった映画館で、今はもうない。
 確か上映初日で、連日、角川書店がマス・メディアを使った大規模な宣伝を行い、いわゆる映画と書籍とのコラボレーションが上手く繰り広げられていたように思う。

 とにかく物凄い混雑だったことを覚えている。
 確か僕は二階席で、それも立ったまま観た記憶がある。それほど映画は混んでいた。
 市川崑監督の「犬神家の一族」は、その年の邦画ベストテンにも選ばれ、映画自体の評価もすこぶる高かったのである。

 そして、今日、12月16日から全国一斉に封切られたリメイク版「犬神家の一族」。
 主演の金田一耕助には前作に引き続いて石坂浩二。等々力警部も前作と同じく加藤武と、懐かしさが込み上げる。
 あとは、松嶋菜々子に、富司純子に松坂慶子。それから、中村敦夫に仲代達矢と、大御所たちがずらりと顔を並べている。

 しかし。
 映画館は寂しい入りだった。
 僕のほかに十数人。初日にしてはちょっとキツイかもしれない。
 角川映画の第1回作品として76年に製作され大ヒットした横溝正史原作ミステリーである「犬神家の一族」としてのブランド力を考えると、やっぱり何とも言えない悲しさが募る。

 ストーリーは、まったくオリジナル版と同じ。
 犬神家の一族に遺された巨額の財産を巡って殺人事件が発生し、その解決に乗り出した名探偵金田一耕助が、事件の真相を明らかにしていくという内容になっている。

 信州の犬神財閥の創始者である犬神佐兵衛が永眠する。
 佐兵衛には腹違いの3人の娘、松子、竹子、梅子がいて、それぞれに佐清、佐武、佐智という息子がいる。さらに、犬神家の屋敷には佐兵衛の恩人の孫娘である野々宮珠世という美しい女性も住んでいた。全員が固唾をのんで見守るなか公開された遺言状には、「佐清、佐武、佐智のいずれかとの結婚を条件に、犬神家の全財産を珠世に譲渡する」と記されていた。

 この事態に、一族の間で血で血を洗う惨劇が繰り広げられてゆくことになる。そして、事件の調査を開始した名探偵の金田一耕助は、次第に犬神家の血の系譜の裏に隠された、ある大きな謎を解き明かしていくことになるのだが・・・。

 やっぱり、この映画が生み出した最大のキャラは、佐清(スケキヨ)だろう。このおぞましい仮面のキャラクターなくして「犬神家の一族」は存在しない。

 ただ、映画自体はオリジナル版を超えたものにはなっていない。
 何故、この時代にあえて「犬神家の一族」を作らなければならなかったのか、よく理解出来ないのである。単にリメイクして、再ヒットを狙っただけというのも、当然アリだけど・・・。

 でもなあ。この程度の出来栄えだと、あえて再映画化する意味なんてないんじゃない?
 悪いけど。




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「TO BE PUZZLED!」

2006年12月15日 | Weblog
 今日は12月15日の金曜日。
 僕の組織のほぼ大半のセクションが今夜忘年会を組んでいる。もう今年も残り少ないということを改めて実感する。
 僕のセクションは、6時半から市内某所の飲み屋さんで忘年会。まだ、若干時間があるので、急いで駅前の図書館まで予約していた本を取りに向かう。

 暖かい。
 雪もない。雨さえ落ちて来る。マジで12月?
 官庁街を通ると、オフィスから次々と人が出て来て、みんなそれぞれの方向に散らばってゆく。多分、みんな今日が忘年会なのだろう。今夜は、何処も彼処も満員状態に違いない。

 図書館で本を借り、駅前からタクシーを捕まえて会場までの道を急ぐ。
 運転手さんが、「今日は人が出てますねえ。稼ぎ時ですよ」と微笑みながら話し掛ける。繁華街を歩く人たちも、心なしか昂揚しているように見える。

 一次会。二次会。三次会。
 途中で、某アートセンターのトップの方から携帯に電話が入り、一旦一人で会場を抜け出し、タクシーを飛ばして某所で落ち合い、珈琲を啜りながらしばしの雑談。
 その場所からまた戻って、またみんなと鍋を突付き、酒を飲み、別の課のメンバーたちと合流し、様々語り続ける。
 一昨日も2時過ぎまで飲んでいたので、欠伸がひっきりになしに出るけれど、1時過ぎには流れ解散。
 
 タクシーに独り乗り込み、自宅の住所を告げて目を瞑った。
 何故、酔えないんだろう。
 醒めている。別に酒が強いわけじゃないんだけれど・・・。
 千鳥足で家路を急ぐ中年男性。大人数でワイワイ喋り合う若い女性たちの軍団。手を繋いで寄り添いながら歩く二人連れ。
 車窓から、それらをぼんやりと眺め、そしてまた目を瞑る。

 感情が、高まったり、それから突然沈んだり。
 負けるもんかと居直ったり、もう駄目かもと、心が沈んだり。こっちへ行ったり、あっちへ行ったり、落ち着くことがない。乱気流。
 だから疲れる。

 目覚めに熱いシャワーを浴び、心と体がゆっくりと蘇ってゆくような感覚・・・。
 そんな確かな感覚が欲しい。何もかもをリセットして、改めて次なる一歩を踏み込む感じ。心の奥底に眠っている闘志とか強い意志とか前向きな力とかが、目覚めてゆくような、そんな感じが。

 きちんとした生活を送り、前向きに物事を考えたい。何かもう、悲観的な思考回路をし続ける自分に心底疲れ果てる。限界かも。
 こんなことで、これからの人生乗り切れるはずがないもんな。

 全部、自分自身の心が決めるのだ。
 自分が変わらなければ、この世界は絶対に変わらない。というか、自分が見ている世界だけが、今生きている世界のすべてなのだから。

 一瞬で人間は変わり得るのだという。
 本当だろうか?




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「GOOD-BYE」

2006年12月14日 | Weblog
 12月の積雪としては、結局、20数年振りの大雪となったのに、今はもうほとんど溶けてしまった。
 いきなり50センチもの雪が積もってびっくりしたけれど、その後、少しずつ天気は持ち直し、雪そのものも現在は小康状態が続いている。
 本格的な冬将軍はこれからだ。
 僕たちは、あと3ヶ月間もこの寒さを伴った、閉ざされた世界の中で耐えなければならない。

 街は、もうすっかりクリスマスのイルミネーション一色に染まっていて、聳え立つ三角形の県観光物産館「アスパム」の壁面をも、美しいツタのように包んでいる。

 僕は、仕事を終え、夜の雪道を歩く。
 オフィスを出て、広い国道を横切り、官庁街の公園の中を抜ける。冷たいけれど、どこか心地よい北風が頬を打つ。コートに手首を突っ込み、肩を窄め、獣道のような狭い雪道を出ると、国の出先機関や関係団体が入居しているビルの煌々とした明かりが目の前に飛び込んでくる。オフィスの群れは、まだ何処も彼処も活き活きと輝いていて、真っ暗な闇を照らしている。

 中心市街地は、駅までの道を急ぐ人、手を繋いで街中をぶらつく若いカップル、デパートでの買い物を終えた主婦たち、飲み会へと向かうサラリーマンたちの群れ、そんな人々で賑わっている。
 珈琲ショップで熱いコーヒーでも飲んでのんびり寛ごうか、それとも本屋に飛び込み本でもピックアップしてみようか。独り、飲み屋に入って美味しいお酒を飲むには、まだちょっと早過ぎる。

 こうして一日は過ぎてゆく。
 こうして人生は進んでゆく。
 可もなく、不可もなく。

 答えなど見つからないし、悟れるわけもない。
 ただ、何かが、静かに、そしてゆっくりと湧き上がってくるような兆しはある。
 ほんの少し、心の筋肉が強くなった気がする。それを言葉で表すことは不可能だ。
 でもすぐにまた、その力はどこか遠くに消えてしまうけれど・・・。

 心は揺れている。一瞬、突風が吹く事もある。晴れ晴れとした爽快な気分はない。大きな穴がぽっかりと開いたまま、それは塞がる事がない。

 これからも、その襞(ひだ)のようなもの、その不確かなもの、その暗く疼いているもの、そういうものを自分の心の中に飼いながら生きてゆくのだろう。たぶん、これからも・・・。

 本屋で本を買い、美味しい珈琲を飲み、店を出る。
 激しい北風が街中を抜ける。雨が暗闇に落ち始めた。街に極彩色の光が輝いている。

 さあ。独りで近くの飲み屋にでも行こうかな。お腹も減ってきたことだし。
 髭を生やした昔からの友達が経営している店で、冷えた生ビールを飲み、エリック・クラプトンでも聴きながら美味しいツマミを頬張ろうか。それとも、これも古くからの友人が経営している行きつけのBARで、マイルス・デイビィスを聴きながら、独りでゆっくり飲もうか・・・。

 ・・・なんて考えながら、人気の途絶えた商店街を独り寒さに震えながら歩いてゆく。
 そうかあ。こうやって俺、生きてくんだ。重い荷物を背負ったまま。
 今日も明日も、そして明後日も。ずっと。

 でも俺は、絶対、絶対、復活してやる。
 俺はこんなじゃなかったはずだ。
 俺は、必ず元気になる。


 それまで、ちょっとさよならだ。








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「December, the end of the year」

2006年12月13日 | Weblog
 年の瀬である。

 みんな、街を忙しそうに駆け回っている。
 日中、仕事で外に出たら、灰色の雲の隙間から青い空が覗いていた。

 来週は、クリスマス・イヴ。
 そして次の週は、年の瀬、大晦日が控えている。タクシーのラジオで、若い女性のアナウンサーが「イヴの夜は、やっぱり彼と過ごしたいですよねえ~」と、甘い声でウットリと囁き、曲がワムの「ラスト・クリスマス」に変わった。
 街は雪がすっかり溶け、小雨がぱらつき、車のウインドウを濡らしている。やっぱり今冬は暖冬なのだろうか。温度も8度まで上がっていた。

 今年のクリスマス・イヴは、東京だ。
 21日から東京に入り、仕事をこなし、23日と24日の土日は、都内に篭(こ)もる。だから、クリスマス・イヴの夜は、帰りの新幹線の中ということになる。

 車内で缶ビールでも飲みながら、独り暮れゆく街を眺めていよう。イヴの夜なんて、みんな家族で楽しい団欒を迎えるわけで。新幹線もガラガラだろうなあ。日曜日だし・・・。
 車窓から見える家々の灯かり・・・。楽しそうなイヴの夜・・・。
 あ~あ。厭だなあ。

 ニュースを見てビックリ。
 何と、「ドラゴンクエスト」シリーズの最新作が、任天堂のゲーム機DSで発売するのだとか。うーん。まあ、日頃からハードはその時に一番売れているゲーム機で発売するって言っていたからなあ。でもDSじゃ、興味が失せる。

 スクウェア・エニックスが発表したところによると、シリーズ4000万本以上を出荷した「ドラゴンクエスト」シリーズの最新作のタイトルは「ドラゴンクエスト9 星空の守り人」だとか。2007年発売予定で、価格は未定。
 確かに、「ファイナル・ファンタジー」の最新作は「プレイ・ステーション3」だけど。
 つまり、ゲーム機の独り勝ちの時代が遂に終焉したってことなんだろうけどね。

 しかし、それにしても「ノロウィルス」が猛威をふるっている。
 感染性胃腸炎の症状が見られ、「冬の食中毒」、「おなかの風邪」と例えられるように、激しい下痢や嘔吐、それから、腹痛や吐き気が伴い、38度以下の発熱などに悩まされるのだとか。通常は2、3日で治るらしいけれど。
 そして、治療方法がないということなので、怖さも倍増する。
 何かそういえば、熱っぽいな・・・。

 夜の帳が降りる時間が早くなった。
 この街は、4時を過ぎるともうすっかり夜の装いをみせる。
 街のネオンだけは暗闇に負けまいと、必死で光を街中に放っている。幾らなんでも、もうそろそろ大雪が降ってもおかしくない頃だ。

 今年もまた、かたちに出来たものが何もなかった。
 新年に密かに立てた「自分への約束」も、ことごとく破ってしまったし・・・。
 来年こそはと、心を新たに踏ん張るんだけれど、どういうわけか力が出ない。

 明日も晴れるとか。
 それはそれでいいんだけれど、反動が怖いよね。反動が。
 雪は侮れません。




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漫画「20世紀少年」、「NANA」、「のだめカンタービレ」、「ホムンクルズ」の新刊を一気に読む。

2006年12月12日 | Weblog
 昔は、「少年ジャンプ」に「少年マガジン」に「少年サンデー」に「少年チャンピオン」を毎週必ず買って読み、そのほかにも「モーニング」とか「ヤング・ジャンプ」とか「ビッグ・コミック」とか様々な青年誌も読み漁るという離れ業を駆使していたけれど、これにはさすがに疲れ果て、今ではそういうアホなことはしなくなった。

 大体において潔癖症的傾向があるからなのか、漫画雑誌は、その号の最初の掲載漫画から順番に最後まで必ず読んで行くという変な癖があって、喫茶店や食堂に置いてある漫画を読むのってどこか落ち着かない。
 なので、読みたい漫画家が掲載している漫画誌は全て買ってゆくという暴挙を繰り返してきた。
 こうなるともう、漫画を読むこと自体が完全に義務化してしまい、読んでも読んでも次から次へと最新号が発売され続けるから、最後にはへとへとになってしまう。だから、今ではコミックで発売されたものだけを読むことへと方向転換したのである。
 
 「20世紀少年」、「NANA」、「のだめカンタービレ」、「ホムンクルズ」の新刊が、最近相次いで発売された(買ってから読むまでちょっと時間が掛かったので、出来立てホヤホヤというわけじゃないけれど)。
 今、そのどれもが様々な媒体で話題に上がっている漫画たちである。

 まずは「20世紀少年」。
 何と、映画化が決定した。それも実写だという。
 この漫画は、「昭和」という時代の、それも大阪万国博覧会当時の匂いを嗅いだことがある世代にとっては感涙ものだろうと思う。
 そのころ、原っぱを駆け抜け、秘密基地を作って友達と遊んだ覚えがある男性なら、すぐに感情移入するはずだ。ただ、最近ちょっとダレ気味の感も免れないが。
 最後を引っ張り過ぎたきらいがあるのだ。ただ、やっと最終章に突入したので、最後どう決着をつけてくれるのか、確かに興味が沸く。
 勿論、漫画史に残る名作であることに変わりはない。
 
 「NANA」も「のだめカンタービレ」も、今が最も旬な時期かもしれない。
 「NANA」は映画に主題歌にと引き続いてブレイクしているし、「のだめカンタービレ」も、フジの月9で高視聴率をマークし、クラシックの楽曲を集めたアルバムも売れ続けている。
 そしてテレビドラマ化に続いて、今度は「のだめカンタービレ」、テレビアニメ化が決定したらしい。オンエアされる局は少ないらしいけれど、「NANA」のテレビアニメ化に続く快挙。
 ほんと、恐るべしは少女漫画!

 その点、ちょっと地味なのが「ホムンクルズ」だろう。
 ただし、漫画の内容は衝撃的だ。
 頭蓋骨に穴を開ければ第六感が芽生えると、謎の医大生に「トレパネーション」という手術を施された、ホームレスの主人公が経験する凄まじい世界が描かれる。謎の主人公の過去も漫画の中で少しずつ明らかにされてゆくのだけれど、その「トレパネーション」によって見える「人間」の姿が、おぞましいというか摩訶不思議というか・・・。凄い。

 漫画を読む快感というものがある。
 そして、これまで様々なジャンルの漫画を読んできて、深い感銘を受けた作品も数限りなく存在する。

 漫画は侮れないのだ。




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矢沢あいの人気コミックの映画化、第二弾「NANA2」。この映画、一作目よりは面白いかも。

2006年12月11日 | Weblog
 矢沢あいの漫画「NANA」は、コミックで全部読んでいるけれど、この漫画、読めば読むほど奥が深い。
 女性漫画は、本当に侮れない。
 傑作がごろごろと転がっている。勿論、その全てを読んだわけじゃないけれど、まだまだ未読の素晴らしい宝物がたくさん眠っているんだろうなあ。
 恐ろしい・・・。

 漫画「NANA」は、ナナをボーカルに据えたロック・バンドのサクセス・ストーリーという主軸を掲げながら、同じ名前の奈々(ハチというあだ名で漫画自体は進むんだけどね)との偶然の出会いを経ての同居生活と、様々な恋愛模様が描かれている。
 
 この漫画の凄いところは、その恋愛の駆け引きや行為を読み進んでいる瞬間に、深遠で透徹な作者の目が、背後からひんやりと感じられることだろう。
 残酷さと言ってもいい。あるいは、儚さとも。
 本当は「愛」など信じてないのかもしれない。矢沢あいって。

 当然、少女漫画の形態を取る以上、表面的には、笑いをまぶしながらナナとハチ(もう一人の奈々)との女同士の友情や、周囲の仲間たちの恋愛と葛藤が綴られてゆくわけだけれが、そんな単純な図式でこの物語は進むわけがない。
 そこが、この漫画の人気の所以だろう。

 主人公のナナは、幼い頃の複雑な家庭環境にトラウマを抱えたままだし、ハチは、好きになると周囲の状況など省みず、すぐに体を許してしまうし、バンドのそれぞれのメンバーも、そのほとんどが屈折した恋愛感情を抱いているし・・・。
 漫画という形式が物語を救っているようなもので、一枚捲ると、「NANA」には暗くて冷たい河が流れている。

 そして今回、映画「NANA2」が公開された。
 つまり、中島美嘉、宮崎あおい主演で映画化し大ヒットした青春ドラマの続編である。
 今回、ハチ役は宮崎あおいから市川由衣にバトンタッチした。まったく対照的な性格のナナとハチが、それぞれ葛藤や困難を乗り越え成長していく姿をドラマチックに綴ってゆくことに変わりはない。
 監督は前作に引き続き大谷健太郎。この監督は好きな監督の一人である。

 東京で共同生活を送るナナとハチ。彼氏にフラれたハチを励まそうと、ナナはハチの憧れのバンド「TRAPNEST」のタクミを紹介する。一方、ナナのバンドのメンバーの一人、「BLACK STONES」のノブも、自らのハチへの気持ちに気づき始めていた。
 そんなある日のこと、バイトをクビになって落ち込むハチは、偶然街でタクミと再会し、二人はそのまま一夜をともにしてしまう。
 そして、順調にメジャーデビューの道を歩んでいた「BLACK STONES」にも、思わぬ障害が持ち上がる・・・。

 ナナの中島美嘉、ハチの市川由衣、それから、「TRAPNEST」と「BLACK STONES」のメンバーとなる姜暢雄、玉山鉄二、伊藤由奈、成宮寛貴、それぞれ、原作のイメージを損なわない演技に徹しているのはさすがである。

 漫画に流れる、何処か冷たい恋愛感のようなものはないけれど、それなりに最後まで飽きさせずに見せてくれるのは、監督、大谷健太郎の力量かも。

 前作よりは面白かった。
 でも、原作である漫画は超えちゃいないけどね。




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金城武主演、ピーター・チャン監督の映画「ウィンター・ソング」は、少し変わったラヴ・ストーリー。

2006年12月10日 | Weblog
 若い男と女が、激しい恋に落ちる。
 ふとしたことで出会った二人は、貧しいながらも満ち足りた生活を送る。そこには、不安の欠片すら見当たらない。何故なら、二人には若さが溢れているから。それから、ずっと続くはずの未来が開けているからにほかならない。

 男は、映画監督を目指して、ここ北京の町に降り立った。
 そして、女は貧困の中に生きながら、華やかな女優になることを夢見ている。
 そんな二人は、北京の寒い冬を、愛だけを共有しながら寄り添って生きてゆく。

 幸せな二人にも、やがて別れが訪れる。
 女は、女優になる夢を捨て去ることが出来ない。男は、愛のために映画監督になる夢を諦め、彼女との愛だけに生きようと決心した、その矢先のことだった。
 外は雪が降っている。
 男は女に、「ここで二人幸せに暮らそう」と叫ぶ。女はそれでもこの町を出て、華やかな女優の世界に飛び込んでゆくことに執着する。彼女は、愛する男より、未来の夢を選んだ。「誰でも、自分が一番可愛いの」と、最愛の人を振り切って。

 それから10年の歳月が流れるー。

 女は、夢が叶い、有名な女優として華やかな世界に君臨している。彼女には、愛する男性がいた。映画監督である。今回の新しいプロジェクトは、膨大な予算が投入されるミュージカル映画。その主演が彼女であり、恋人が演出をすることになったのだ。
 そして相手役に抜擢されたのは、現在、香港で活躍している有名男優、つまり、10年前に別れたその貧しい男性だったのである。

 報道関係者でごった返す記者会見場。
 華やかなスポットライトの中、3人のそれぞれの思惑が交差する。

 映画は、サーカスを舞台にした、記憶を無くした美しい女と、彼女の記憶を失う前の恋人だった若い旅人と、そしてサーカスの団長で彼女を深く愛する中年男性との、3人の愛憎劇として語られてゆく。
 それもすべて、ミュージカル仕立てで!

 香港で、今や押しも押されぬ有名男優になった男。彼は、いまだ10年前の彼女を忘れる事が出来ずにいる。彼は、一日たりとも彼女のことを忘れたことはない。ある意味、彼女との再会だけを夢見て生きてきたのだった。
 一方、彼女は、彼を冷たく突き放す。彼女にとって、今の愛がすべてなのだ。監督である彼との愛が・・・。
 そして、ミュージカルに挑む映画監督。彼は、薄々感じていた。彼女が自分の前から去ってゆくのではないかと。その感情が彼の心を掻き毟る。

 やがて、映画の撮影が始まってゆく。
 果たして、この愛はどのような結末を迎えるのか? ハッピー・エンド? はたまた悲劇?
 それは観てのお楽しみ。
 
 この映画は、「ラヴソング」「君さえいれば/金枝玉葉」のピーター・チャン監督が、「LOVERS」の金城武と「小さな中国のお針子」のジョウ・シュンを主演に迎えて贈る異色のミュージカル・ラブ・ストーリーである。
 
 現在と過去をバラバラに壊し、そこに劇中劇としてのミュージカルが挿入される。賛否両論があるだろうけれど、僕はこういう手法の映画は嫌いじゃない。

 でも、女はわからん。ますますわからん。





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「GETTING TO THE MOMENT!」

2006年12月10日 | Weblog
過ぎ去れるを追うことなかれ
いまだ来たらざるを念うことなかれ
過去、そはすでに捨てられたり
未来、そはいまだ到らざるなり
されば、ただ現在するところのものを
そのところにおいてよく観察すべし
揺ぐことなく、動ずることなく
そを見きわめ、そを実践すべし

ただ今日まさに作すべきことを熱心になせ
たれか明日死のあることを知らんや
まことに、かの死の大軍と
逢わずいうは、あることなし

よくかくのごとく見きわめたるものは
心をこめ、昼夜おこたることなく実践せん
かくのごときを、一夜賢者といい
また、心しずまれる者とはいうなり
              
『阿含経典 第五巻』



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「時を聴く」

2006年12月09日 | Weblog
 大きな仕事が取り合えず片付き、まずはホッと一息。
 長い長い時間だった。
 特にスタッフは、残業に次ぐ残業で本当に大変だったと思う。徹夜も続いたし。
 なので、金曜日は、全員とても明るい顔を浮かべながら、それぞれ夜の街に繰り出して行った。

 僕も、とても晴れやかな気分でオフィスを出た。
 夜風が肌を刺すのに、何故か気持ちがいい。
 美味しいビールが飲みたくなって、独りで近くの「焼肉屋」を覗く。ところが、店内は満員。そうかあ。花の金曜日だもんなあ。何処も混んでるだろうなあ。

 仕方がない。
 いつも通っている、JAZZ「BAR」へと足を向ける。ここなら混むことはない。独り、ゆっくりと酒が飲める。
 同級生だった店のマスターと話し込みながら、ソーダで割ったサザン・コンフォートをちびちびと。
 うーん。至福の時間。

 そして週末の土曜日。
 久しぶりにゆっくり起床。外は穏やかな天気。
 
 郊外にある総合病院まで、インフルエンザの注射を打ちに。
 待っている間、本を一冊読み終える。
 今日は、スポーツは出来ませんという先生の指示なので、スポーツ・ジムはパス。
 中心市街地の一角にある、これも友人が仕切る「てんぷら屋」さんで美味いランチ。そのあと所用で「空間実験室」。
 
 夕暮れの街を歩きながら、本屋に立ち寄り、新刊を5冊ほど買い求め、その足で駅前の図書館まで。
 どうしても読みたい本があって、予約をする。

 映画館で映画を一本観ようと思ったけれど、結局パス。
 急がない。急がない。
 もう、時間に追われる生活とはサヨナラだ。ゆっくりと。そして焦らずに。ただ、この今を生きる。

 ドストエフスキーの「カラマーゾフの兄弟」に手を付ける前に、庄野潤三の「プールサイド小景・静物」を読む。ずっと前に読んだ小説だけれど、何となく、また読みたくなったのである。
 芥川賞を受賞した「プールサイド小景」は、やはり中々いい。
 静かに、そしてゆったりとした流れの中で、日常の生活と、その脆(もろ)さを描き切る。
 ただ、この文体が今の時代にフィットしているかと問われれば、返す言葉は見当たらないけれど・・・。

 夕食を済ませ、テレビも付けずにゆったりとこの身をベッドに沈め、静かに目を瞑る。
 しーんとしている。
 遠くから、列車が高架線を渡る音が聞こえてくる。八戸行きの特急列車だろう。そこから、東京行きの新幹線と接続される。

 時を追わない。時に追われない。
 時を聴く。
 ただ、静かに、今を流れる時の音を聴き続ける・・・。




 
 
 

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「12月8日、独りジョン・レノンを想うー」

2006年12月08日 | Weblog
 寒い一日になった。
 どんよりと曇った空から、雪がぱらぱらと落ちている。
 今日は金曜日。街を歩く人たちの足取りも、いつもより軽く感じられる。忘年会や飲み会に向かう人の群れも心なしか普段より多い。

 組織における、来年度の方向性を決めるべく進めていた種々の仕事が、今日で一段落して(勿論、これからも続くんだけど)、少しだけど爽やかな気分。それに、明日から2連休だしね。
 
 今日は、ビートルズのジョン・レノンが亡くなった日だ。
 ビートルズは、もう既にジョン・レノンとジョージ・ハリソンの二人が亡くなっていて、その二人はいずれも僕のご贔屓のアーティストなので、もう彼らの新しい曲が聴けなくなったことが、ことのほか寂しい。

 ジョン・レノンは、1980年12月8日、5年間の活動休止後のニューアルバム「Starting Over」を発売直後、熱狂的なファン、マーク・チャップマンによって、ニューヨークの自宅マンション前で射殺された。
 ジョン・レノンが狙撃された時間、現場の裏の通りに、偶然キース・リチャーズがいたという噂もある。彼は拳銃のリボルバーをしっかりと握り締め、狙撃犯を仕留めようとしたが、周りの人間に止められたという。

 それから、ジョン・レノンが病院に運ばれ、まもなく失血性ショックで死亡することになるわけだけれど、その死亡時、病院のスピーカーから流れていた曲は、ビートルズの「オール・マイ・ラヴィング」だったという話も聞いたことがある。
 なんと。「オール・マイ・ラヴィング」!

 事件後、マーク・チャップマンは、現場から逃亡せず、警官が到着するまでの間、サリンジャーの小説、「ライ麦畑でつかまえて」を読んでいた。
 彼は、レノンの熱狂的なファンだったという事だが、殺人犯であることに変わりはない。

 僕は、以前にも新聞のコラムに書いたことがあるけれど、ジョン・レノン=愛と平和の人という図式にはイマイチ納得できない。
 というか、そういう安易な論調を展開する人に対して、表層的な部分でしかジョン・レノンを捉えていないのではないかとさえ思っている。

 確かに、ジョン・レノンが1971年に発表した「イマジン」は、愛と平和について謳った名曲ではある。よく、悲惨な戦争を語ったり世界で起こっている凄惨な内戦などの画像が流される際、この「イマジン」はBGMで流される。

 でも、ジョン・レノンは、そんな悟り切った「天上の人」でも、「愛と平和の人」でも、「伝道師」でもない。
 彼は、一時期、オノ・ヨーコと別れたとき、酒に溺れ、他の女性と浮世を流し、荒れた生活を送っていたし、絶えず、世界を憂い、主夫をこなし、ロック・ミュージックから逃れ、苛立っていた。

 つまり、彼は生身の人間として、悩み、笑い、惑い、躓き、泣き、嘆き、そして苦しんでいたのである。だから僕は、穏やかな笑顔で世界の平和を説くジョン・レノンよりも、オノ・ヨーコとの一時的な別離に悩み苦しみ、その未練から、酒びたりの荒んだ頃のジョン・レノンに何故か親しみを感じたりするのである。

 ジョン・レノンは、イマジン」だけの人ではない。
 「トゥー・ヴァージンズ」や「サムタイム・イン・ニューヨーク」や「ロックン・ロール」のジョン・レノンでもあるのだ。
 だって、彼をパンクの元祖という人だっているくらいだから。過激で、パワフルで、熱くて、飛んでる、ロックン・ローラーとしてのジョン・レノン!

 彼が生きてたら、今頃どうしていたんだろう。
 案外、若手のロック・バンドとセッションしたりして、老いた身に鞭打って、激しくステージ中を駆け回っていたのかもしれない。

 時は流れる。




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筒井康隆原作の映画「時をかける少女」。話題になっただけはある。このアニメ凄くいいぞ!

2006年12月07日 | Weblog
 久しぶりに早めの帰宅。

 食事を済ませ、部屋に戻って床の上に大の字に寝転がったら、体がまるで鉛を抱いたように重くて、疲れが溢れ出る。
 ああ。このままゆっくりとお風呂にでも浸かって、冷たい缶ビールでも飲んで早めに寝ようかなあ。でもなあ。シネマ・ディクトでは、マスコミ等でかなり話題となったアニメ映画「時をかける少女」が一週間限定で上映されているし・・・。
 今夜8時からの上映を見逃したら、もう観ることが出来ない。明日と明後日は夜遅くまで会議が入っているから絶対無理だしなあ。
 で、疲労困憊の体に鞭打って、ジーパンに着替え、ゲチャゲチャになった雪道を映画館まで急ぐ。

 映画館は若者たちで満員状態。
 やっぱりこういうアニメって、オタクが多いんだよねえ。って、俺も一緒になって観てるんだけどさ。

 「時をかける少女」は、これまで何度も映像化されてきた筒井康隆の名作ジュブナイル小説(つまり、少年・少女ものっていう意味ね)を、初めてアニメ映画化したものである。
 認識が甘かったというか何というか、最初この「時をかける少女」がアニメ化されて全国上映されると聞いたとき、絶対にコケると、ヒットなんか絶対無理と断言していたものだ。
 だって、この小説はもう飽きるほど様々な媒体で展開されてきたわけだし、何で今更「時をかける少女」なわけ? そう思っていたのである。
 
 映画は、あるきっかけで、過去に遡ってやり直せる“タイムリープ”という能力を身につけたヒロインの淡い恋の行方と心の成長を綴ってゆく。
 監督が、「ONE PIECE ワンピース THE MOVIE オマツリ男爵と秘密の島」の細田守。
 そしてこの細田守監督。大化けした! 凄い監督だ。

 高校2年生の紺野真琴は、優等生の功介とちょっと不良な千昭と3人でいつもつるみ、仲良く野球ばかりしている女の子。
 ある日、理科準備室で、突然現れた人影に驚いて転倒する。その後まもなく、修復士をしている叔母のもとへ自転車で向かった真琴は、ブレーキの故障で踏切事故に遭ってしまうが、死んだと思った瞬間、何故か、その数秒手前で意識を取り戻してしまうのだ。その話を叔母にすると、それは「タイムリープ」といって年頃の女の子にはよくあることだと、冗談とも本気ともつかないような説明をされる。
 そしてそれから数日後、真琴は千昭から突然、愛の告白を受ける。3人の友だち関係がいつまでも続くと思い込んでいた彼女は、動揺のあまり、タイムリープをして告白そのものをなかったことにしてしまう。
 ところが・・・。

 確かに、映画の前半は、真琴とその周辺の生活を淡々と描いてゆく。
 初夏の太陽。真っ白な入道雲。美しい夕焼け時の帰り道。自転車の二人乗りにそよぐ風。グランドでの他愛無い会話。夏休み前の騒がしい学園生活。友達との友情。朝の光に輝く街。抜けるような青い空・・・。
 これらの描写が、美しく描かれる。

 そところが映画は、後半、思わぬ急展開を迎えることとなる。
 ネタバレになるので、もうこれ以上は書けないけれど、ファンタジーの要素を加えながらも、本質は「愛」、それも10代の青くて純粋な「愛」についての物語が、丁寧に語られてゆくのである。
 そして、中々見応えがある。一気にみせる。ストレートに。そして実直に。

 これじゃあ、評判になるはずだ。
 ジブリの作った「ゲド戦記」とほぼ同時期に首都圏公開されたらしいけれど(青森では今ですが)、評価自体は「時をかける少女」のほうがダントツに上だった。

 もしかして、これからずっと「語り継がれるアニメ」の一本として、僕たちの記憶の中に刻まれるかもしれないな。きっと。




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「一切唯心造(いっさいゆいしんぞう)」

2006年12月06日 | Weblog
 よく、「心ではちゃんと理解してるんだけど、この体が自分の気持ちとは裏腹に、勝手にそれとは別の方向に進んでしまうんだよね・・・」というような言い訳を聞く事がある。
 例えば、ダイエットをしようと一大決心をした女性が、思わず甘いスイーツに手が伸びてしまうとか、煙草を止めると真剣にみんなの前で宣言までしたのに体が抗し切れずに自然と煙草を欲してしまうとか。
 あるいは、最愛の人にフラれ、もう恋は絶対にしないと固い誓いを立てながら、また懲りずに新しい恋愛に走ってしまうとか・・・あっ、これはまたちょっと違うか。

 人間が「思考」することと、実際の「心」の動きには違いがある。
 仮に、「人生に対する一切の希望を捨てる。生きるとは虚無だ」と「思考」したとしても、実際の行動が伴う際の「心」の動きは、それと同一歩調を取るとは限らない。
 心が悪さを仕出かすとか、心は気まぐれとか、心が暴走を始めるとか言われるけれど、幾重にも重なり合い、複雑に絡まった人の心の動きほど始末に終えないものはない。
 
 人間は、一日に何と平均約50,000回もの考えを頭の中で浮かべるのだとか!
 50,000回!
 怒り、笑い、嘆き、落ち込み、嫉妬し、悩み、疑い、同情し、哀れみ、泣き、抗議し、否定し、肯定し、閃き、忘れ、思い出し、嘆き、楽しいと感じる!
 それが何と50,000回!

 そしてまた人間は、当然の如く、自ら思考したそのことを、実際の行動に起こそうと試みる。勿論、様々な外因が複雑に絡んでくるわけで、思考し行動に移そうとしたからといって、そのままの形で結果が生み出されるとは限らない。
 限らないけれど、常日頃のその人の思考や心の動きが、当然にその人間の人生を作っている。

 悲観的な思考を持ち、絶えず選択肢の中でマイナス局面を選択し続けている人間は、結果としてそういう人生を形成している場合が多いだろうし、反対に、楽観主義でいつも物事をいい方に考える人間は、そういう生き方が習慣付けられてゆくことで、それなりの人生が形作られてゆく。

 何だかんだいいながら、結局、人は、自分の人生を、自分で作っているのである。だから、「俺の人生はこんなものなのか!」と絶望して嘆いても、それは意外と自分がそういうふうに舵取りした結果に過ぎない。

 「一切唯心造(いっさいゆいしんぞう)」は、「華厳経」の中にある言葉である。
 一切は、ただ、こころが造っている!
 あるいは、「心こそ、心迷わす心なれ」、「心に心 心許すな」。
 つまり、自分の心が結局、自分自身を迷わしている。自分の心を許してはならない。そう言っている書物もある。

 もうこうなると、じゃあ、どないせい言うねん! と叫びたくなってくる。
 自分の心でさえ、自分を惑わし、悪さをし続けるというのであれば、自らを決定する心とか思考とか考え方って一体何なわけ?

 しかし、一切唯心造(いっさいゆいしんぞう)というように、世界は自分の心が決めている。心が黒い世界と決めれば、世界は暗黒で暗闇にある。また、心が世界は希望に満ち溢れ、美しい王国だと定めれば、そういう色彩で満たされることになる。

 今、この今、自分自身が「幸せ」だと感じたら、その瞬間、一切の過去の苦悩や悲しさなどの負の感情はすべて色褪せてしまうはずだ。そして今の「幸福感」で塗り尽くされるだろう。
 また、この今、生きているこの今を「不幸」だと感じたら、過去の美しい思い出や楽しかったことさえ、暗く濁り、すべての色彩は黒く塗りたくられるに違いない。

 ああ。何と「心」の気まぐれでいい加減なことよ!



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マスコミ等で話題騒然の過激な映画「ハード・キャンディ」。うーん。女の子って怖い!

2006年12月05日 | Weblog
 首都圏で映画が公開されたのが8月。
 各誌のマスコミ映画評でもセンセーショナルを巻き起こしていた。
 僕はなるべく、実際の映画を観るまでは予備知識を得ないようにしているので、映画評も斜め読みして全体像は追わないことにしているけれど、それでもこの映画の話題は入って来る。だから、市内での上映をとても楽しみにしていた。

 で、早速「シネマ・ディクト」。
 何か最近、谷田館主と会わないなあ。あの人の笑い声を聞かないと、イマイチ気合が入らないんだけどね。しかたがないので、缶珈琲を買って、シートにゆったりと身を沈め、静かに目を瞑る。この時間がいいんだなあ。

 インターネットの出会い系サイトで知り合った、ヘイリーという14才の女の子と、32才の売れっ子カメラマンのジェフという男。
 3週間の間、二人は互いのことをチャットし合って打ち解けあい、会う約束をする。実際に会って、ジェフは、14才という年齢の割には大人びて見えるヘイリーに一目で惹かれてしまう。
 ヘイリーは、父親が医学博士で、自分も大学院の授業を受けているといい、分厚い医学書をバックからちらっと見せたりする。二人は打ち解けあい、ジェフはヘイリーを、郊外にあるスタジオ付きの自宅へ無防備にも招き入れる。
 しかしそれは、ある目的のために仕組まれた、巧妙で残酷な罠だった・・・。

 登場人物は、ほとんど二人だけ。
 場所も、ヘイリーの自宅とその付近がほとんどを占める。舞台劇としても十分成立するだろう。かなりの低予算で作られたのではないか。
 ところが、そんなチープ感はまったく感じない。スピーディな会話と、展開の目まぐるしさで、観る者を最後まで飽きさせない。脚本と演出の巧さが、この映画を最後まで引っ張っているのだろう。

 本当は、もう少しラブ・ストーリー的な要素が加わるのかとも思っていたのだけれど、もうそんなレベルは超えていて、映画はストレートな直球勝負に終始する。
 1時間43分の映画だけど、途中ダレるという部分がなく、一気にラストまで流れ込むのはさすがである。
 監督のデヴィッド・スレイドは、これが長編映画一作目ということらしいが、今後も期待できる新人監督の一人かもしれない。これまでも、音楽ビデオを数多く手がけてきたらしいが、もう完全に職人の域に到達している。

 それから特筆すべきは、何と言っても主役の女の子、エレン・ペイジだろう。この子の演技、凄い。14歳という設定だけれど、実際はもっと上らしい。でもこの女優、はっきりいって巧すぎる。
 その意味からして、この「ハード・キャンディ」、彼女の素晴らしさが映画そのものを面白くしているといって過言ではない。

 ただ一点、仮にこの映画の好き嫌いが分かれるとしたら、たぶんそのテーマと復讐手法だろうと思われる。観る側に、ある種の嫌悪を感じさせる部分がないわけではない。これ以上書くと、ネタバレになる可能性があるのでこの程度にしておくけれど。

 しかしなあ。
 近頃の女の子って凄いね。
 まあ、映画は、現代のひとつの象徴としてセンセーショナルに描いているだけかもしれないけれど、10代の女性が内に秘めているパッションや怒りやフラストレーションの発露として、あるいはその対極に、か弱い中年の「おじさま」たちが位置しているともいえる。

 女の子、それも特にロリコン趣味のおじさんたち。必見かもよ。
 俺は、別にロリコンじゃないからいいけどさ。




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