淳一の「キース・リチャーズになりたいっ!!」

俺好き、映画好き、音楽好き、ゲーム好き。止まったら死ぬ回遊魚・淳一が、酸欠の日々を語りつくす。

映画「アナと雪の女王」は、これまで観たディズニーアニメの中でもベスト5に入るかも。

2014年03月31日 | Weblog
 観たかった。
 映画「アナと雪の女王」。

 ここ最近は、ディズニーアニメにそれほど食指が動かず、封切り時には結構観るのをパスしていて、あとでDVDとかWOWOWとかで観ることが多かった。
 数週間前にやっと観たのが、「メリダとおそろしの森」(ディズニー・ピクサー作品)ということからも分かる通り、映画館まで足を運んで観ることは特にしてこなかった。

 でもこの「アナと雪の女王」だけはどうしても劇場で観たくて、土曜日の夜、疲れた体に鞭打って郊外にあるシネコンまで足を運んだのである。

 ほぼ映画館は満員状態。
 子ども連れもそれなりにいたけれど、若いカップルが多かった。土曜の夜ということもあるのだろう。

 時間の関係上、字幕スーパー版じゃなくて日本語版を選んだのだけれど、そのことだけじゃなくて、今話題沸騰の、松たか子が歌う「Let It Go」をどうしても聴きたかったということもある。

 とにかく世界中で話題になっているらしい。松たか子ヴァージョンによる「Let It Go」。
 週刊誌によると、松たか子ってかなりのヘビー・スモーカーらしく、これまで煙草を止めるように周りから言われても吸い続けていたのを最近禁煙したということで、益々その美声に磨きがかかったのだとか。

 幕が上がって、まずは本篇の前に短編アニメ「ミッキーのミニー救出大作戦」が上映された。
 これは特に可もなし不可もなし。

 そして、いよいよ「アナと雪の女王」。
 原作というか、映画のヒントになったのは、アンデルセンの童話「雪の女王」。これをミュージカル風に新たに仕立て直したのである。
 「アナと雪の女王」の監督は、「サーフズ・アップ」のクリス・バックと「シュガー・ラッシュ」の脚本家ジェニファー・リーが当たっているのだが、「シュガー・ラッシュ」のほうはまだ残念ながら観ていない(今度、観ます)。

 ストーリーはこれまでと同様、大変シンプル、そして解り易い。
 まあこれが、ディズニーアニメの基本でしょう。誰にでも解って、誰にでも面白いという。

 手で触れた途端、周りのものもすべて一瞬のうちに凍らせてしまうという秘密の力を持つエルサは、王国の次期王位後継者でもあった。
 小さい頃はそれでもその秘密を楽しんでいて、大好きな妹のアナにせがまれると、魔法を駆使して二人、お城の中で氷を自由に作りながら遊びに興じていた。

 ところがある日、秘密の力を使ったことで愛しい妹のアナが怪我をしてしまい、激しい後悔の念に陥ったエルサは、魔法を封印してアナとも距離を置き、心を深く閉ざしてしまう。
 そしてその事が起因して、それまでの美しかった「真夏の王国」を、エルサが「冬の王国」へと変えてしまうことに。
 自分を呪って城を逃げ出した姉エルサと冬に閉ざされてしまった王国を救うべく、妹のアナは、雪山の奥深く単身乗り込むのだが・・・。

 まず、小さな姉妹から美しい姫たちへと変ってゆくその年月を、姉のエルサと妹アナとの関係をも含め、わずか冒頭の10数分できちんと描き切ってしまうところが素晴らしい。というか、驚嘆に値する出来映え。

 2人のキャラクターの描き方も実に見事である。
 登場する人物たちがみんなそれぞれ生き生きと輝いていて、スクリーンの中でピチピチと跳ねている。

 物語自体も申し分なく、映画の進行とともに明らかになるアナの恋の行方の描き方も上手い。
 全然飽きることなく、最後まで食い入るように観続けてしまった。
 何度か笑ったし、観ながら思わず微笑んでいる自分がいた。

 素晴らしい映画だと思う、「アナと雪の女王」。

 そして、この映画の圧巻は、なんといっても雪の女王エルサがひとり大雪原で歌い上げる「Let It Go」。
 予告編ではトニー賞を受賞した女優イディナ・メンゼルが歌った「Let It Go」を十分に堪能したけれど、今回は日本版で松たか子の素晴らしい歌声を聴いて、鳥肌が立ってしまった。

 この曲、やっぱり凄いっ!

 姉エルサの声優は松たか子だけれど、妹アナの声優を務めた神田沙也加もとても良かった。
 アカデミー賞の主題歌賞と長編アニメーション賞を獲ったことに対して、心底納得いたしました。

 映画「アナと雪の女王」、これまで観たディズニーアニメの中でもベスト5に入るかもしれない。観るべしっ!








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「曖昧で拡散し切った3月がもうすぐ終わり、次には済し崩しの4月がやって来る」

2014年03月30日 | Weblog
 それにしてもガッカリしたのが「みんなの党」の渡辺喜美代表である。
 「週刊新潮」のスクープ記事で発覚した、化粧品販売会社DHCの吉田嘉明会長から8億円を借り入れていた問題だ。

 解せないのが、個人的に借りたという8憶円という巨額の大金である。
 普通なら、貸してって言っても貸してくれないような大金だ。サラリーマンの生涯賃金をも軽く超えている。それを難なく振り込める世界というのも凄い。
 これまで、政治資金の透明化については「みんなの党」の渡辺代表が率先して国会等でも発言していたのに、いざ自分の問題になると渡辺喜美代表、歯切れが悪い。

 それと、貸した側とされるDHCの吉田嘉明会長。なんで今頃になって手記なんて書いて暴露したのだろうか。
 DHCというイメージだって、消費者にとってかなり悪くなっちゃうだろうに・・・。こちらも解せない。

 こうして3月もまた終わってゆく。曖昧模糊とした3月だった。
 いつもなら、それまで降っていた激しい雪が上旬辺りでぴたりと止んで、そこから久方ぶりに太陽が輝き出し、雪が融け始め、中旬から下旬には春が来たことを体いっぱい受け止める・・・そんな季節のはずなのに。

 今年ときたら、ダラダラ雪が降り続き、何度かの季節はずれの大雪にも見舞われ、パッとしない、ピリッとしない3月となってしまった。
 そしてそれが、済し崩しのままで4月へと繰り越そうとしている。

 青森市の積雪量は遂に0センチ。
 3月最後の日曜日は小雨模様の肌寒い天気。

 天候も相俟ってか、今日も気分はすぐれない。
 牛乳にフルーツグラノーラを掛けて食べる。それとバナナと苺にたっぷりヨーグルトを入れたフルーツも一緒に。
 あとは熱い珈琲。
 やっぱり珈琲を飲まないと一日は始まらない。

 4月1日から消費税が8%に上がるという事で、今日のうちに大量に日用品を買い求めておこうと郊外のショッピング・モールへと車を飛ばした。
 何処も彼処も大混雑。
 午前中に済まそうとドラッグ・ストアに行って日用品を沢山買い求めたのだけれど、レジに並ぶ人の数が半端じゃない。

 何が嫌いかと言って、行列に並ぶことが一番嫌いなのだ。
 苛々してきて、とにかく無理。
 もちろん程度問題で、並ばざるを得ない場合だって往々にしてあるけれど、基本的には絶対並ばない。
 もしも、美味しいラーメン店とごく普通のラーメン店が隣同士に並んでいて、美味しいラーメン店に客が行列を作っていたとしても、絶対今すぐ入れる普通のラーメン店に入る。

 それでもなんとか午前中で所用を済ませ、食事をしてから家へと戻る。

 ミヒャエル・ハネケ監督による2001年カンヌ国際映画祭で審査委員グランプリ、男優賞、女優賞を受賞した「ピアニスト」と、アラン・レネ監督、脚本がマルグリット・デュラスという超豪華コンビによる日仏合作映画、「二十四時間の情事」を続けて観る。

 被爆地広島を舞台にしたアラン・レネの「二十四時間の情事」は昔、北海道に行った際に札幌の映画館で既に観ていて、かなりの衝撃を受けた映画だったし、ミヒャエル・ハネケ監督も、この「ピアニスト」だけ何故か見逃していた。

 映画「ピアニスト」・・・凄いな。
 セックス描写が凄まじく、この独身中年女性の屈折した性衝動に暫し唖然とする。これは確かに過激な問題作だろう。
 心がひりひりする。

 午後3時と4時からの「ボディ・パンプ」と「ボディ・コンバット」、結局行くのを止めることにして、部屋に独り籠る。

 外は憂鬱な雨。
 心も晴れない。
 未来に対して何の希望も持てない。不安と焦燥だけが襲って来て何をしても心がそこにない。

 めんどくさっ。
 こういう人間って、ほんと、めんどくさっ。
 自分で自分自身がコントロール出来ない。からっきし、弱い。心の乱高下が激し過ぎっ。
 4月12日の文学賞の授賞式も出るの、やめようかな。

 ああ、どしたら元気になれんだろ・・・。
 





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「續・憂鬱なる党派」

2014年03月29日 | Weblog
 楽天が2連勝。
 塩見が631日ぶりの勝利を飾った。しかも新外人のユーキリスにも初ホームランが出たのだとか。
 マー君がいなくても何とかなるじゃん。
 日ハムだって、ダルビッシュが大リーグ入りして穴が空いた年に優勝したしね。

 なんてことで、今日は土曜日。

 ところが、楽天の開幕2連勝にも我が心は躍らない。
 完全に鬱モードに突入している。
 晴れていて、やっと春めいて穏やかな休日だというのに、心は全然晴れ渡らないのである。

 月曜日から金曜日まで毎日酒漬けだったこともあったのか、疲れもあって、朝もウダウダ蒲団に潜り、そこから出るのが億劫でたまらない。
 蒲団に入ったまま、全米ドラマの「ハッピータウン」と「ブラックリスト」を立て続けに観る。

 そのあとも、続けてビリー・ワイルダー監督による1957年の映画「翼よ!あれが巴里の灯だ」を観る。
 ジェームズ・スチュアートって、何となく木偶の坊っぽくてあんまり好きじゃないんだけど、リンドバーグによる世界最初の大西洋横断無着陸飛行を描いているこの映画、古いけれど中々面白かった。

 午後2時からは某会計事務所に行って、色々と今後のアドヴァイスを受ける。
 その後、車で本町にある「アップルパレス」のカフェでちょっとした打ち合わせ。

 なんて穏やかな午後なんだろ。
 市内の雪はもうほとんど融けてしまっていて、道路には砂埃が舞っている。でもまだ、空き地には黒っぽくて堅い雪の塊が残っていて、北国の冬の記憶を少しだけ留めている。

 3月末締め切りの某文学賞に応募する予定だった小説、結局投稿するのをやめることに決めた。
 やっぱりやめる。
 このまま出しても、自分自身に納得がいかなかったら意味がない。もう一度、書き直そう・・・。

 本町の「アップルパレス」を出て、今度は4時から組まれているスポーツジムの「ボディ・パンプ」のエクササイズへ。
 バーベルを駆使して体幹を鍛える45分間。
 少しずつコツが分かってきたら、汗もそれなりに出てきて、これまで使って来なかった筋肉が刺激され心地よい痛みが襲う。

 終わって外に出た。
 心地よい夕暮れの早春の風が火照った身体に吹いてくる。
 車のダッシュボードに置いておいた携帯を見ると、仕事関連の電話が幾つも入っている。

 大型駐車場に車を停め、貰った何人かにこちらから改めて電話をした。
 どれもこれもメゲるような暗い内容だったので、ますます心は落ち込んだ。

 それにしても、この憂鬱な気分はどうやったら吹き飛ばせるんだ?
 芥川龍之助は『漠然たる不安』があるといって自殺してしまったけれど、この幾重にも重なり合う得体の知れない不安や焦燥や空虚や憂鬱な気分は、一体どうしたら消し去ることが出来るんだ?

 まさしく気分なのである。気分としか言いようがない。
 苛々する。心が乱れる。自分で自分に腹が立ってくる。誰にもぶつけようのない、そんな黒くて重い塊・・・。

 俺って、満足するという感情とか幸せな気持ちに包まれるというような感情が最初から欠落したまま、この世に生まれてきたんだろうか?

 夜になる。
 オアシスのセカンド・アルバムを大音響でかけながら、パソコンに向かったけれど、気持ちは全然晴れない。

 しょせん、すべては小さなことと腹は括っていても、こういう負の力は必ずやってくる。
 どうせ、いつかは死ぬんだから、今この瞬間を精一杯生きてやると、そんなふうに心が決めても、ふとしたことで心は折れ、済し崩しに精神は病んでゆく・・・。

 この俺を形作っている憂鬱なるもの・・・それって一体なんなんだ?







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「TOKYO、はるっ。」

2014年03月28日 | Weblog
 桜の花が満開に咲いている。

 水道橋の駅を降りて高架線沿いに歩いていたら、その土手の片隅に鮮やかな薄桃色した桜の木が、今にも雨が降りそうな空模様を背景に、そこだけ美しい情景を魅せていた。

 3月26日と続く27日は一泊二日で東京出張。
 抜けるような青空と、春爛漫の風景を期待していたのだけれど、東京駅に着いた初日の水曜日は曇り空で、次の日の木曜日は朝から雨が降っていた。

 皮肉なもので、青森から盛岡、盛岡から仙台、そこから福島と、ずーっと青空が続いていたのに、埼玉辺りからくすんだ雲が覆って来て、南下するにつれ、いつもとは逆のパターンに見舞われた。

 水曜日は新宿西口にある定宿にチェックイン。
 月曜日、急な飲み会があって駆り出され、ビールにワインにウイスキーを立て続けに飲んでかなり酔っ払い、その翌日も連続して飲み会だったので、身体から酒が抜け切らず、その疲れからかダルさも手伝ってちょっと辛い。
 なので、仕事が終わって、夕方6時前にはホテルの中に閉じ籠り、食事を摂るために外へ出たくらいで、あとは部屋でじっとしていた。

 バスタブにお湯を溜め、薄手のカーテンを下げ、テレビを消し、ベッドに寝そべって、暫らくの間、天井をぼんやり見上げる。

 静かだ。
 この静寂な時間が癒される。
 何にもしたくない。何処にも外出する気が起こらない。本屋にも輸入盤CDショップにも飲み屋にも行こうとは思わない。

 ホテルの周辺が賑やかな歓楽街を作っているので、ホテルの防音壁を通して街かどの喧騒とざわめきが微かに聞こえて来る。

 気分が落ち込む。
 頭の中で、何度も何度も「嵐」の「ビタースイート」が鳴っている。
 ぶっちぎりだ、もうぐだぐた言う気も後ろを振り向き気もない、他人の行動なんてどうでもいい・・・そんな前向きな気持ちになったかと思えば、それとは真逆の、負のどうしようもない感情が自分を覆い尽くす。

 さっきまでの自信が、あっという間に崩壊して、未来になんの希望も見出せなくなって、やること為す事が全部馬鹿馬鹿しいことのように思え、気分は最悪になる。

 柴田元幸が翻訳した「アメリカン・マスターピース 古典編」の中の、短編、メルヴィルの「書写人パートルビー ウォール街の物語」をベッドに横になって読み、少し睡魔が襲って来ると本をお腹の上に置いてそのまま目を閉じてみる。

 眠れない。

 結局、「マツコ有吉の怒り新党」を観て、午前1時近くに電気を消したのだけれど、浅い眠りのまま、東京での朝を迎えた。

 ホテルの窓から外を見る。
 みんな傘を差して急ぎ足で歩いている。結構雨足が強そうだ。最近は上京するといつも天候がすぐれない。雨か、雪か、突風か・・・。

 ホテルの朝食をパスして、1階にあるマクドナルドで朝マック。
 近くのコンビニで買って来た「東京新聞」を読みながら珈琲を飲む。
 出勤前に朝食を摂ろうとするサラリーマンたちで、マックは凄く混んでいる。

 2日目の仕事を終え、夕方5時20分の新幹線に乗り込んだ。
 憂鬱な気分がますます高まってゆく。
 頭の中で鳴り続けている「嵐」の「ビタースイート」も止んではくれない。
 でもこの曲だけが、複雑に絡み合っている憂鬱な何かを、ちょっとだけ説き解してはくれるのだけれど・・・。

 夜8時過ぎに「新青森駅」に到着。
 そこから「青森駅」までの接続列車に乗り継ぐために、プラットホームへと出る。
 冷たい大気が暗闇から流れて来る。
 寂しい街だ。

 その日も中々眠れなかった。
 それにしても、なんなんだ? この言いようのない、虚しさ、この淋しさは。







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UKのニューカマー、テンプルズの「サン・ストラクチャーズ」を聴いてたら、気持ちがやんわりなってきた。

2014年03月27日 | Weblog
 最近、意識的にCDを買い集めている。

 というのは、あと一年ちょうどで、これまでの組織からこの身が解き放たれることになっちゃうので、次は、どうせやるなら音楽に絡むような仕事をやってみたいと思っているからだ。

 詳細はまだ言えないけれど、自分がこれまでストックしてきた音楽を媒介にした、ちょっとしたコミュニティの場を造れたらいいなあ、そんなことをずっと考えているのである。

 ただ、そうはいっても資金だってそれなりに必要だし、スキルもいるだろう。やるべきことは結構多い。
 それに、場所とか内容は絶対に妥協したくないし、妥協してやるくらいなら絶対にやらない。断念するつもりだ。
 なので、現時点で即決定とはまでは断言出来ないけれど、とりあえずはCDを集め、大きなジャンル別に再整理し、改めて系統立てて聴き直している。

 まあ、その件はそれとして、今、日本のロックシーンでも話題となっているイギリスのニューカマーがいる。
 「テンプルズ」である。

 最初聴いたのは、新宿「タワーレコード」の視聴コーナー。
 その時は、期待が大きかった分、ちょっと肩透かしを食った。
 もちろん、最後まで全曲を丁寧に聴いたわけじゃないので、いいとか悪いとかの判断は出来なかったけれど、その場で即購入するとまではいかなかった。

 今回、改めてこのUK発の4人組ロックバンド、テンプルズのデビューアルバムをじっくり聴いてまず思ったのは、巷で言われているほどサイケデリックを前面に出しているわけではないということだ。

 確かに60年代のサウンド・スケープで、懐かしさも感じられ、サイケな部分やフォーク・ロック的な展開、グラムとかソウルっぽい部分も垣間見られて、とても面白い音を紡ぎ出している。

 元オアシスのノエル・ギャラガーが大絶賛していて「宇宙的なスペース・ミュージックだ」とインタビューで述べているし、元「スミス」のジョニー・マーまでが、「シェルター・ソング」(アルバムの1曲目ね)に対して「今年聴いた最も良い曲のひとつだ」と、これもまた大絶賛している(ジョニー・マーっぽいギター・ワークもあったりするしね)。

 このアルバム「サン・ストラクチャーズ」はいいと思う。
 この先、このバンドはもっと大化けするかもしれない。

 「テンプルズ」の音楽に流れている、ちょっと緩い感じ、どちらかというと暖かな温もりを感じさせる音作り(「フォスター・ザ・ピープル」に似てなくもない)、ほんわかするような、まるで春を感じさせるサウンドの重ね方は癖になる。

 とても聴きやすい、すんなりと心の中に入って来る、ストレスの感じない、そんなロック・アルバムに仕上がっているのだ。

 という感じで、とにかく最近はもう一度原点に立ち返って(何の原点かよく分かりませんが)、これまで聴いてきた数多のアルバム、それから2,3回聴いただけでCD棚の奥に放っておいてほとんど聴いてこなかったアルバムを引っ張り出しては、きちんと改めて聴き直すという作業に取り組んでいる。

 それと並行して、音楽(ロックとか黒人音楽とかロック評論とかアーティストたちの自伝とか・・・)に関する本を集めては、丁寧に読み始めることもし始めている。

 それは音楽に限った事ではなくて、映画についてもおんなじようなものだ。
 どちらかというと、これまで「喰い散らかし」てきたのは音楽も映画もほとんど変わりなく、聴いて、ただそれだけ、観て、ただそれだけ、ということを繰り返して来たように思うからだ。

 やっぱり、聴いたら、そのあとのケアが大事だと思い直している。
映画もそうだ。観たら、ちゃんとその映画のバックボーンをきちんと押さえておく、それが絶対必要だ。

 なので、最近は映画についても色々と文献を集めては(監督に関する文献だったり、作品に関するものだったり、映画評論だったりと)読み焦っている。

 ちゃんと向き合わなきゃね。







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「まな、まな、マナー」

2014年03月26日 | Weblog
 最近、実際に起こった印象に残ったエピソードを幾つか・・・。

 まず、仙台駅の中にある某珈琲ショップでの出来事である。
 2月に仙台と東京に出張した際、仙台での要件を済ませ、東京行きの新幹線に乗り込むまで少し時間があったので、駅中の珈琲ショップで珈琲でも飲もうということになった。
 僕と同僚の2人である。

 僕は煙草を吸わないのだけれど、もう一人が煙草を吸う人間なので、仕方がないけど喫煙コーナーに陣取って相手はアイスコーヒー、僕はといえばフルーツ・ヨーグルトを頼んで、他愛の無い話で新幹線到着までの時間を潰していた。

 すると、隣の席に50代ぐらいの男女が向かい合って座った。
 男性は、極々普通の、何の特徴も無い―もし似顔絵を書いてみろと言われたら一番困ってしまうような、そういう男性である―、多少頭部が禿げかけていて、ノーネクにワイシャツ、地味なジャケットを羽織り、背丈も普通、中肉中背といういでたちだった。

 そして、その男性の向かい側に座ったのが、これも50代ぐらいの女性だろうか。
 この女性がとにかく凄かった。

 その極々普通の、まあどちらかというと冴えない(ごめんなさい)中年男性の顔に数センチぐらいまで近づき、もう満面の笑みを浮かべながら男性の薄い髪の毛を撫で、今にも丸ごと貴方を食べてしまいたいというような表情を向けている。

 まるで恋する女子高生だ。
 愛しくて、愛しくて仕方ないという感じなのである。
 こちら側まで、熱気というか、ラブラブ光線というか、「愛してるオーラ」が伝わって来る。

 こっちは眼のやり場に困ってしまい、何故か照れくさくなって身の置き所がない。
 二人―というよりもその50代らしい中年女性が一方的に男性に対して―周りをまったく気にすることなく、赤ちゃんを「よしよし」するみたいに、相手の中年男性の薄い頭を慈しんでいる。

 顔を見ると、中年にしては中々綺麗な女性ではある。
 恋をしている女性特有の、恋愛顔というか、乙女チックな表情を一切崩さず、その冴えない中年男性(すいません)を熱い眼差しで見つめている。
 愛が溢れていることが、ひしひしと感じられる。

 まるで、高校生の初々しいデートみたいだとも思った。周りを一切気にしていない。自分たちだけの世界に没入している
 今にもキスしそうな感じ・・・。

 なんなんだ? これは!

 同僚が、こっちに向かってコソコソと話し出す。「不倫ですね、絶対! 夫婦ならあんなねちっこい態度なんか絶対出来ない!」
 いやいや、分かんないよ。あるかもよ、ラブラブ夫婦。

 まあ、どうでもいいけどさ・・・。

 それからもう一つのエピソード。
 これはお風呂屋さんでの出来事である。

 時々、お風呂屋に行くことを楽しみにしている。
 お風呂って大好きなのだ。

 その銭湯の中にはジェット泡風呂があって、足を伸ばして寝ながら浸かる浅いタイルベッドのような恰好のものがある。
 その湯船の縁(へり)に座ることも出来るのだけれど、そういう人間は誰もいない。

 だって、その縁に休息がてらに座ってしまうと、ちょうど泡風呂に横になっている人の頭の部分とぴったり重なってしまい、縁に座った人のお尻が身体を伸ばして風呂に浸かっている人の目の前に来てしまうからだ。
 つまり、気持ち良く寝転がって湯船に浸かっている人が、縁に座った人のお尻に顔をギリギリ付けるということを意味している。

 まさか、そういう光景を目にするなんて思ってもみなかったのだけれど、ある日、別の湯船に浸かっていた時、目の前でそんな壮絶な場面を目撃してしまったのである。

 それにしても、お風呂の中で身体を伸ばして気持ちよく横たわっている人がそこにいるというのに、わざわざその人の頭の横にぴったりとお尻を向けて、目の前にしゃがんで寛いでいる人間がいるかぁ、ふつう?

 なんなんだ? これは・・・。

 そして2人、ずいぶん長い時間、じっとそのままの位置でぴたりとも動かなかったのである。
 これもまた凄い。

 風呂に浸かっている人は、意地だけでそうして他人のお尻を見ながらそこから離れずにいるのだろうか?
 風呂の縁に腰を下ろしている人は、その尻が、風呂に入っている人間の目の前にあることに何の罪悪感も抱かないのだろうか?

 わからん。

 世界は不可解だ、不可解過ぎる。








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映画「バックコーラスの歌姫たち」。このドキュメンタリーはいいと思う。音楽好きにはたまらない。

2014年03月25日 | Weblog
 映画「バックコーラスの歌姫たち」が、第86回アカデミー賞で長編ドキュメンタリー賞を受賞した。

 確かにこのドキュメンタリー映画、物凄いインパクトが感じられるとか、これまでにない視点からドキュメントしているとか、そういう映画ではないけれど、「バックコーラスの歌姫たち」、音楽好きの人にとってはたまらない映画ではある。

 冒頭から完全に惹き込まれてしまった。
 まず、いきなりルー・リードの「ワイルドサイドを歩け!」が流れる。

 これまで、永きに渡って様々なアーティストたちによって発表されてきた素晴らしい楽曲、それに素晴らしい彩りを与え続けている大きな要素の一つが、バックコーラスだろう。
 もちろん、歌のバックを支えているのはコーラスだけではない。
 ギターやドラムやピアノやホーン・セクションやミキサーなど、すべてが一体となってそれは成立する。

 このドキュメンタリー映画は、60年代からこれまでの音楽シーンの一端を紐解きながら、裏方としてミュージシャンを支えてきた何人かの女性たちにスポットライトを当ててゆく。

 1960年代、黒人女性ソウルグループ「ブロッサムズ」としてデビューし、あの「ウォール・オブ・サウンド」を生み出したフィル・スペクターが作った、数多の楽曲のバックコーラスを担当していたダーレン・ラヴを中心に映画は進む。

 彼女は、自分が主役であくまでバックコーラスは自分を下支えするだけの道具でしかないという、フィル・スペクターと反りが合わずに対立し、音楽界を去ってしまう。

 ダーレン・ラヴのほかに、メリー・クレイトン、クラウディア・リニアなど、ミュージシャンの単なるバックシンガーの一員というだけではなく、ある時代の音楽の表舞台にも顔を出した女性たちが何人も映画の中に登場し、インタビューに応じてゆく。

 実は、数ヶ月前に「アマゾン」でクラウディア・リニアのアルバムが再発されていたのを見つけ、買おうかどうか迷った末に結局買わなかったことがあって、この映画を観てから、すぐにまた「アマゾン」でクラウディア・リニアのソロ・アルバムを探してしまった。

 そしてこのドキュメンタリーには、多くの有名アーティストたちとそのライブが挟みこまれる。
 これがまた貴重なフィルムで、音楽好きにはたまらない。

 デビッド・バーン(トーキング・ヘッズのライブらしい)、デヴィッド・ボウイ(ヤング・アメリカンのスタジオ・ライブ)、スティング、ローリング・ストーンズ、スティーヴィー・ワンダー、ジョー・コッカー、それから「スイートホーム・アラヴァマ」を歌うレーナード・スキナードなどなど・・・。

 全部ほんの数分間だけのシーンなので、正直にいうと、インタビューはいいからそのままライブ演奏を長く流してよ!と何度か叫びたくなったけれど、それはまあ仕方がない。

 映画「バックコーラスの歌姫たち」の中で特に素晴らしかったのが、メリー・クレイトンがステージ上で熱唱するニール・ヤングの名曲「サザン・マン」と、ラストのエンド・ロールに流れるブルース・スプリングスティーンが登場するシーンである。

 鳥肌もんである。
 泣きはしなかったけれど、目頭がジーンと熱くなってしまった。
 これもちゃんと、最初から最後まで全部観たかった(聴きたかった)。

 それから、ストーンズの名曲「ギミーシェルター」。
 この曲ほど、女性バックコーラスなくしては語れない名曲はない。
 映画に登場するクラウディア・リニアからインスパイアされて、ミック・ジャガーはあの「ブラウン・シュガー」を世に送り出したのである。
 そういう意味でも、ミックの名プロデューサーぶりがこの映画によって改めて再確認された。

 映画の中でも語られることだけれど、最近の音楽シーンにおいては、バックコーラスという手法があまり採用されなくなってきた。
 しかし改めて考えると、素晴らしいバックコーラスを含んだ楽曲って、料理に例えると、秘伝の隠し味というか、旨味を上手に引き出す極上の調味料なのである。これがないと、料理自体物足りなくて、イマイチ食欲が湧かなくなる。

 映画を観たら、無性に60年代の女性黒人ヴォーカル・グループが聴きたくなって、CD棚から何枚か取り出して今聴いている。

 うーん。
 やっぱ、いいッスね。







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別冊レコード・コレクターズ「ザ・ローリング・ストーンズ ライナーノーツ」寺田正典著を読む。

2014年03月24日 | Weblog
 皮肉なものだ。
 あれだけ楽しみにしていたローリング・ストーンズ来日公演が仕事のために行けなくなったというのに、その一週間前、偶然にも東京2泊3日の出張となったのだ。

 都内での仕事をこなし、冷たい北風が吹き荒れる京王線「国領」駅に降り立ち、駅前の本屋さんに立ち寄って、ちょうど2冊あった別冊レコード・コレクターズ「ザ・ローリング・ストーンズ ライナーノーツ」(寺田正典著)の一冊を手に取り、ちょっと考えてから、結局レジで買い求めた。

 買おうか買うまいか一瞬迷ったのは、どうせストーンズ行けないんだし今更買ってもなあ・・・っていう感情が頭の片隅を過ったからだ。
 でも、哀しいサガである。買っちゃいました。

 早速、近くの「モスバーガー」に入って珈琲とハンバーガーを頬張りながら、ぺらぺら捲って読み始めた。
 こういう本を読むと、また無性にストーンズのアルバムを聴きたくなってしまう。

 この本が他のストーンズ関連本と違っている特徴的な点は、①1992年にソニーからリリースされた「ローリング・ストーンズ・レーベル」≪黒帯≫再発シリーズCDのライナーノーツを再掲しているということ②それぞれメンバーたちのソロ・アルバムと関連するアルバムを取り上げていること。
 この2点にある。

 そして「ザ・ローリング・ストーンズ ライナーノーツ」(寺田正典著)は、大きく3つのパーツに分かれている。
 1971年から1989年までのスタジオ・アルバム、それからライブとベスト・アルバム、そして最後がソロとその他の関連アルバム。

 僕が彼らのアルバムをリアルタイムで買い始めたのが、ちょうどここに掲載されているアルバムのリリース時期とほぼ同時期だったので、この本を読みながら当時の時代が懐かしく想い出された。

 ローリング・ストーンズのアルバムは、ダブっているベスト盤を除いて全部持っているけど、各ソロ・アルバムとなるとそこまで全部は揃えていないし、ブートレッグやベストも数えると、ストーンズに関しては膨大な枚数になってしまい、もうキリがない。

 そういう意味でいうと、今回この本を読んで改めて解ったこととか、初めて知ったことが結構多かった。

 僕はビル・ワイマンのソロも、チャーリー・ワッツのソロも、1枚も持ってない。それほど素晴らしいアルバムとは思えないし(色んな評判を聞いてみると)、買うとしたら、完全にコレクターとして買い求めるということになってしまうだろう。

 ただ、この本に載っている「ジャミング・ウィズ・エドワード」というアルバムだけは是非とも聴いてみたい。否、是非とも欲しい、そう思った。

 「ジャミング・ウィズ・エドワード」は、キース・リチャーズ抜きの幻のセッション・アルバムだ。
 つまり、キース抜きで行われたセッションを収録した貴重なレコードなのである。

 時期は、1969年リリースされた「レット・イット・ブリード」のレコーディングが進行していた頃とほぼ同時期で、ミック・ジャガー、チャーリー・ワッツ、ビル・ワイマンの3人のメンバーと、その他のレギュラー・ゲスト陣(ライ・クーダーも加わっていて、彼が素晴らしい演奏をしているのだとか)らが、「せーの!」で急遽演奏を始めたものを録音している。

 なぜ、キース・リチャーズだけがこの演奏に加わらなかったのか?
 話は至極単純で、たまたま家から電話が入って(妻のアニタ・バニンバーグである)「キース、早く家に帰って来て~♡」とせがまれ、セッションに参加しないで帰ってしまったというのが真相だ。

 このセッション後、ライ・クーダーが、「スタジオで自分が色々試したフレーズや楽曲をストーンズ側が全部パクった!」と訴えるというオチまでついているのだけれど、それはそれとして、結構イケてるセッションとなり、最終的にはこのアルバムのリリースをストーンズ・サイドも許可することとなった。

 まあこんな感じで、様々なトリビアや楽屋ネタを盛り込んだ寺田正典の「ザ・ローリング・ストーンズ ライナーノーツ」、サクサクと面白く読めるストーンズ本になっている。

 それにしても・・・ローリング・ストーンズ、もう二度と来ないでしょ、日本には・・・。
 ああ~っ。








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「横道世之介のこと、シャドウ・ストーカーのこと、ミック・ジャガーの恋人のこと、ボディパンプのこと」

2014年03月23日 | Weblog
 もう既に一年以上前に公開され、DVDもとっくに発売されているというのに、これまでずっと見逃していた映画「横道世之介」、この映画をWOWOWでやっと観ることが出来た。
 吉田修一の原作も、発売された当時から読もう読もうと思っていたのに、結局読まずにここまで来てしまっている。
 監督が沖田修一。横道世之介が高良健吾。そして、横道恋世之介の恋人で富豪令嬢の与謝野祥子に吉高由里子。
 この吉高由里子がとにかく素晴らしい。
 それと、劇作家で小説家の前田司郎が共同脚本を担当したことが、オフビートなのにしっかりした芯のある映画へと高めている。
 別に法政大学が舞台だからと依怙贔屓(えこひいき)しているわけじゃなくて―教室風景は懐かしかったけど―、80年代の東京と、それと呼応するかたちで綴られる16年後に生きる仲間たちの物語が、切ないけれど、あくまでも前向きに、優しく交錯する。
 特にラストが秀抜である。
 すべてのバラバラに撒かれたピースが、ここで大きく一つに重なり合うのだ。
 このあまりにも明る過ぎるオプティミスティックなラストが、より一層の哀しみを倍増させてゆく。
 映画「横道世之介」、至福の160分!


 やっと読み終えた。ジェフリー・ディーヴァーのミステリー小説「シャドウ・ストーカー」。
 ジェフリー・ディーヴァーのミステリーにハズレはない。
 これまで読んだ彼の小説は、どれも面白かった。
 とにかく、どんでん返しにつぐどんでん返しで、最後まで飽きさせないのだ。
 今回は、大人気「リンカーン・ライム」シリーズではなく、そこからのスピンオフ、人間嘘発見器・捜査官「キャサリン・ダンス」シリーズ第3弾である。
 ただし、ファンには嬉しい、リンカーン・ライムが「シャドウ・ストーカー」にカメオ出演(こういう言い方が正しいかどうかよく分かんないけど)している。
 大人気を誇る若きカントリー女性歌手に執拗に付き纏う異常なストーカー。そしてその周辺で起こる連続殺人事件。二つは繋がっているのか? 犯人は? そこに颯爽と登場するのが、我らがキャサリン・ダンス・・・。
 今作は、面白さの度合いで言ったら「中の下」だろうか。
 いつものあっと驚く大どんでん返しも、今回はその衝撃度が普通クラス。
 まあ、こういう時もあるでしょう、いくらジェフリー・ディーヴァーでも。


 日本公演が終わって(仕事で行けなかったけど・・・)、次のワールド・ツアー先、オセアニアでの公演が予定されていた「ローリング・ストーンズ」。
 ところがミック・ジャガーの恋人であるローレン・スコットの突然の自殺によって、その順延が決まったらしい。
 ミックは激しい動揺とショックで、かなり落ち込んでいるのだとか・・・。コンサートそのものが出来る状態ではないとマスコミも伝えている。
 ミックの私生活を赤裸々に綴った暴露本、「MICK: The Wild Life and Mad Genius of Jagger」では過去に関係を持った女性の数もちゃんとばらされているらしく、なんとその数4000人!
 アンジェリーナ・ジョリーにまでストーカーまがいの行為をしていたというミック。デビッド・ボウイとも関係があったっていうし・・・。っていうか、ボウイは男だし。
 そんな凄いカサノヴァでも、愛しい恋人の死にはやっぱり人並みに落ち込んじゃうんだなあ・・・。
 当たり前か。


 そんなこんなで3連休も今日で終わり。
 でも朝から仕事。
 電話があって、青森駅前の某施設の関係者との重い打ち合わせ。
 打ち合わせ中、窓硝子越しに外を眺める。太陽が出ていて、雪が猛烈な勢いで融け出している。
 いい天気だなあ・・・なんでこんなのどかな日曜日のお昼どき、額を突き合せながら深刻な話し合いしてんだろ、オレ。
 午後の数時間が空いたので、急いで車を出して「スポーツジム」へと向かうことにした。
 今日は、数年振りとなる「ボディパンプ」のエクササイズ。
 バーベルを持っての無酸素運動60分。これは辛かった。明日は絶対筋肉痛だろう。というか、バーベルの重さ加減がまったく分からず、結構戸惑ってしまった。次回からはちゃんと出来そう。
 本当は「ボディパンプ」のあとに組まれている「ボディ・コンバット」も続けてしたかったんだけど、これは諸事情でパス。次は2時間続けて絶対やろうっと。
 ただ、汗の搔き具合は圧倒的に「ボディ・コンバット」のほうが数段上。
 身体を動かして大量の汗を流す時の爽快感っていったらもう、これに勝るようなもん、ほかにはないでしょ。








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「春分だというのに凄い雪。そんなおかしな3月も、あと一週間あまりで終わってく」

2014年03月22日 | Weblog
 どうしちゃったんだろ、小保方晴子さん。
 次々と「STAP論文」に対する疑惑が持ち上がっている。

 でもその真実の追求はいいとして、今週号の「週刊文春」はちょっと酷過ぎないか。「小保方晴子さん乱倫な研究室」の記事だ。

 最近の「週刊文春」確かに絶好調で、佐村河内守のゴーストライター大スクープも一誌独走状態にある。
 でも今回の小保方問題に関する記事は憶測だけが突出していて、ちょっと首を傾げざるを得ない。

 小保方氏が、データ改ざんや不正を行った否かの検証記事だとそれなりに分かるけど、共同研究者に媚びを売っているだとか、「先生、お食事に行きましょ♡」だとか「研究室の上司に露骨にすり寄る」とかは、小保方バッシングとして少し恣意的過ぎないだろうか?

 割烹着を着て実験しているとか、ホテルの一室を借り切って通勤していたとか、そんなこと別にどうでもいいことなのに。
 週刊新潮もまたそういうノリで書かれていたっけ。

 こういう、ある意図に基づいて、あるいは明確な方向性先にありきで、誘導的とも取られない記事はかなり危険だと思う。
 そんなことを周りに言ったら、「それは小保方さんが可愛いリケジョだから、そういうふうにかばうんでしょう?」と非難されてしまった。

 あるかも・・・。

 それにしても、ここにきて凄い雪である。
 確かに湿気を含んだ重い雪だけど、ここまで降るか普通、もう春分なんですけど・・・。

 金曜日の春分の日は、びっくりするほどの大雪に見舞われた。
 朝起きて、外を見たら数十センチは積もっている。一面銀世界だ。
 真冬なら当然分かるけれど、もう3月の21日である。ちょっと信じられない。

 3連休初日の金曜日は、午後からスポーツジムへ。
 45分間の「ボディ・コンバット」で大量の汗を流す。
 やはりスポーツで汗を流した夜は、いつもよりぐっすり眠れるみたいだ。

 3月22日土曜日は、朝から曇り空。
 それでも雪は結構融けてきた。県南地方はまた、例年となる早春の大雪らしいけど。
 市内は朝の時点で約70センチの積雪量。
 その後、少し日差しが戻って、雪はかなり融け、気温も6度近くまで上がって50センチ台まで落ちた。

 仕事絡みの電話が2件入る。
 あとは、消費税が8%と増税になるというので、掛け込みで色々雑貨品を大量に買い込むために、一日中、市内中心部と郊外を行き来する。

 こういう事に時間が割かれるのが一番苛々する。
 まあ、仕方ないことなんだけど・・・。

 夕方、家に帰ってネットを見てたら、またまたキアヌ・リーブスが、独りぼっちでランチを摂ってる姿が隠し撮りされた写真がアップされていた。
 なんか、ロスでバイクを道端に停めて、ぺたんと地べたに座りこみ、ランチを独りぼっち食べている。

 以前にもこんなキアヌ・リーブスを隠し撮りした写真を雑誌でみた。
 道端に佇むホームレスらしい老人に、キアヌが横に座ってお酒を勧めている写真だった。

 この世界的な大スターは、よくたった独りぼっち、ぶらりと街の中を彷徨っているらしい。素敵な恋人とか友人に、いつも囲まれているというのにだ。
 マスコミは、これを「Sad Keanu」(哀しいキアヌ)と呼んでいるのだとか。

 いい。
 すんごくいいと思う。
 こういう男、好きです(別に変な意味じゃないのであしからず。そういう趣味はまったくないので)。

 以前、福山雅治が「CUT」かなんかのインタビューで、ふらっと独り、大好きな写真を撮りに旅に出て、自分なりの孤独を楽しんでいるというような趣旨のことを言っていて、これも「いいなあ・・・」なんて単純に憧れてしまった。

 だから福山雅治って、未だに花の独身を貫いているんだろうか?
 だよなあ、結婚してしまったら一人の女性に拘束され、束縛されてしまうんだもんね。
 いつまでも自由奔放でいたいんだろうなあ・・・。

 こういう、放浪癖(とまではいかないけど)のある男に憧れる。
 風来坊っていうのだろうか。
 異性は異性、恋愛は恋愛、喧騒や仲間たちとのコミュニケーションはコミュニケーション、それとはちゃんと線引きして、自分だけの殻の中に閉じこもる時は独りでちゃんと閉じこもる。

 これでしょ、やっぱ男は。

 
 






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角松敏生、約3年7ヶ月振りのオリジナル・アルバム「THE MOMENT」の核はプログレッシブ。

2014年03月21日 | Weblog
 角松敏生の音楽にもまた、自分の人生の中で大いなる影響を受け、その音楽からたくさんの元気と感動を貰い、何度も何度も何度も彼のアルバムで救われて来た。

 最初に角松敏生を聴いたのは、青森市役所の真向かいのビルの中にあったバーだった(こういう細かい音楽に関するエピソードだけは今でもしっかり覚えている。何故なんだろう? もっと大事なことが沢山あったはずなのに、そういうことはすぐ忘れてしまう・・・)。

 「WEEKEND FLY TO THE SUN」だ。
 店のマスターが、「このアルバムいいよ」といって薦めてくれたのである。
 山下達郎っぽいねという話で盛り上がった覚えがある。

 当時も、そして今も勿論そうだけど、「はっぴぃえんど」、「ティンパン・アレイ」系の音というか、都会的で乾いた音というか、ベースに黒人っぽさが漂っているような音には目がなくて、すぐに飛びついてしまう癖がある。
 でもその時は、改めて買い求めるまではいかなくて、そこからまたちょっとした空白期間が生じることになる。

 次に、角松敏生の音楽に触れたのは、これも当時よくお昼を食べに通っていた「お好み焼き屋」さんだった。
 その店を切り盛りしていた看板娘の女の子がいて、その子がいつもBGMで角松敏生を流していたのである。
 「AFTER 5 CLASH」だ。

 ここからだ、リリースされたアルバムを次々と買い求め、コンサートにも行き出したのは。
 青森市でも結構頻繁にコンサートを開いていて(かなりメジャーになって、全国ツアーを始めてからだったけど)、ツアーの発表があると必ずチケットを買って観に行った。
 因みに最近でも、外をランニングする際にウォークマンで一番聴くのは「REBIRTH 1~re-make best~」である。

 角松敏生は、前期と中期、それから一度リタイアすることを決めた「凍結」前後で、その音作りはかなり違っている。
 杏里とか他のアーティストたちのプロデュースをしたり、インストだけのアルバムを出したりと常に変化をし続けているので、アルバムごとにまったく異なる展開と色彩をみせる。

 個人的には―ほとんどの角松ファンがそうだと思うけれど―やはり初期から10枚目のオリジナル・アルバムとなる「あるがままに」までが、一番好きだ。
 いわゆる、プロデュース業に専念すると宣言した「凍結」前までに作られたアルバム群のことである。

 そして今回、角松敏生の約3年7ヶ月振りとなるオリジナル・アルバムが遂にリリースされた。
 「THE MOMENT」である。

 オリジナルとしては20枚目となるアルバムは、一言で言い切ると、プログレ!
 とにかく、色んなジャンルの音楽のチャンプルーなのである。
 ジャズっぽくてクロスオーバー・フュージョン的なサウンドもあるし、王道のポップス・ロック路線もちゃんとあるし、黒人音楽的なアプローチもみせる。

 昔、角松敏生が音楽雑誌のインタビューで「プログレのアルバムをいつか出してみたい」というような趣旨の発言をしたことを覚えていて、今作のコンセプトを聞いて、「ああ、こういうことだったのね」と妙に納得していた。

 ただ、最初聴いたときは、そのプログレッシブだという部分に少し戸惑いを覚えた。
 うーむ・・・ちょっとピンとこない。

 で、角松敏生自身が書いているセルフ・ライナーノーツを読んでみることに。
 すると、今度は聴いていてストーンと落ちてきた。
 そうか、そういうことね。

 ライナーノーツを読んで、1曲目の「OPENING ACT feat.SHIENA」はいいとして、 最初聴いて少し戸惑っていた、2曲目の20分間に及ぶ大作「The Moment of 4.6 Billion Years ~46億年の刹那~」の6つのカテゴリーで展開する楽曲のことが、よく理解出来てきたのである。

 そうかあ。角松敏生は「イエス」(イギリスのプログレ・ロックバンド)をやりたかったんだ。
 もちろん、あのポップになってしまった後期の「イエス」じゃなくて、初期の頃のドラマティックで前衛的な真の「イエス」を。

 3曲目の「Get Back to the Love」は、完全に日本語によるゴスペルである。この曲もまた、大きく5つのパートで構成されている。
 曲の中盤、従来の角松テイストがちらりと出るところが御愛嬌か。
 この曲も好きだ。

 そして続く4曲目の「THE LIFE ~いのち~」は、角松敏生が50歳にして初めて授かったという子どもに対するメッセージだろう。
 それから、アルバムのラストを飾る短い楽曲である「I SEE THE LIGHT ~輝く未来~」。
 これもまた、歌詞を読めば自分の子どもからインスパイアされた曲だと思う。

 というわけで、角松敏生、約3年7ヶ月振りのオリジナル・アルバム「THE MOMENT」、確かにこれまでの路線からまた大きく踏み出した新たな展開となっている。

 でもほんとは・・・「REBIRTH 2~re-make best~」も聴きたんだけどね・・・。







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「森は生きている」の醸し出す音楽は、懐かしさと新しさがとても上手くブレンドしていて気持ちがいい。

2014年03月20日 | Weblog
 春が来た。

 新しい季節がやって来た。
 冬の間、雪で乗れなかった自転車にも乗れるので、これからは頻繁に海まで行ける。それが嬉しい。

 僕はあと一年で今居るこの職場を辞そうと思っているので、これから過ごす一年間がとても貴重で、とても大切な時間となる。
 それまでにちゃんと片付けておくべきこと、整理しておくべきこと、終わらせておくべきことが結構沢山あって、一日、一日がとても貴重になってゆく。
 なので、今までにないような緊張感で向かって来る日々に臨んでいる(いや、ほんと。外面はそんなふうに見せないけれど・・・)。

 そういうことを考えると、この最後の一年間で、これまでやり残したことなんかも今のうちに済ませておきたい、なんてことも考えてしまう。

 まず、音楽に関する本を出したい。
 当然、自主出版ということになるんだろうけど。
 自分が生きてきたこれまでの年月とリンクするかたちで聴いてきた音楽をもう一度整理しながら、生きる上で強い影響を受けた音楽として一枚一枚俎上に載せ、それらとシンクロさせてみたい。
 まあ、要するに「音楽評論集」なんですけどね。 

 それから、1勝3敗となっている「100キロウルトラマラソン」をタイまで持ち込みたい。 つまり、今年中に2度のウルトラマラソンを何とか制覇したい。
 職場最後となる「駅伝」も、全区間を独りだけで最後まで走り抜きたいし・・・。

 と、色々個人的などうでもいい願望があるけれど、時間と仕事の関係があるので、そのすべてが叶うかどうかは分からない。
 それより、来るべき次なるステップに向けて、やらなきゃならないことが他にいっぱいあるわけで・・・。時間がどれだけあっても追いつかない。

 まあ、そんな、新しい季節がまたやってきたわけですが、当然、冬には冬に聴きたい音楽、春には春に聴きたい音楽、夏には夏に聴きたい音楽、そして秋には秋に聴きたい音楽が、必ず人にはある。

 今回取り上げる「森は生きている」という日本のグループが奏でる音がまた、清々しい春を感じさせ、とても素晴らしいサウンド・スケープを醸し出しているのだ。

 グループの平均年齢が20代前半というから凄い。
 凄いというのは、このデビュー・アルバム「森は生きている」(変わったグループ名ですが)を聴いていると、60年代の「はっぴいえんど」系の音を連想してしまい、枯れていて洗練された、とても大人びた音楽と重なるからだ。

 まず、このグループの音楽、ジャンル分けが難しい。
 ポップス? ロック? フォーク?
 知的な部分も見て取れるし、どことなく儚さとか達観している雰囲気もこのアルバムの中には漂っている。

 メンバー6人はそれぞれ音楽の嗜好が異なっているらしい。それが、こういう様々なジャンルの音楽が重層的に絡まっている要因だろう。
 チャンプルー・ミュージックというか、オルタナティブでダウナーな部分も少しあったりする。
 でも基本は、ひねくれているところがなくて、意外と真面目でストレートなアコースティック・サウンドだ。
 
 アルバムは全9曲。
 2曲目の「回想電車」、6曲目の「ロンド」、7曲目の「日傘の蔭」が特にいい。
 どことなく、切なさと陽だまりの心地よさとが同居している。
 いわゆる「悲しいほどお天気」理論(ユーミンの「悲しいほどお天気」を聴いて、勝手にそうつけたんですけどね)。
 明るい陽射しと青空の向こうにある、淋しさと哀しみとでもいったらいいだろうか。
 
 窓を思い切り開けて、春の日差しと爽やかな風を部屋の中にいっぱい入れ、「森は生きている」のアルバムをフル・ボリュームで流す。

 表面的にはとてもクリアで前向きな音である。
 爽やかなサウンドだと、誤解を恐れず言いきっていいかもしれない。
 ところがその後ろに隠れている、ちょっぴり切ないメランコリックな気分が、時々ちらっと露出する。

 そこが、この「森は生きている」の一番の魅力である。









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映画「LIFE!」。うーん、これは好き嫌いが大きく分かれるかも。個人的には嫌いじゃないけど・・・。

2014年03月19日 | Weblog
 「仮面社畜のススメ」という本があるらしい。

 僕はその本のことを、新聞の書評欄で知った。なので、本自体はまだ手に取って読んでいない。
 でも、その新聞書評に書かれていた言葉には惹きつけられた。というか、分かる分かると、思わず唸ってしまった。

 そこにはこんな事が書かれていた。一字一句が正確というわけではないけれど・・・。
 ①無能な上司の命令は、適当に聞いたふりしてスルーしろ。
 ②会社は徹底時に利用すればいい、その中で自分に都合よく「いいトコ取り」をしろ。
 ③仮面社畜として、会社では仮面をかぶって演技者に徹し、あとは全部アフターファイブを自らの時間に充てるようにしろ。etc・・・

 「仮面社畜のススメ」の本に関するネットの書き込みをみてみたら、「こういう本を読むこと時点で、既にもうアンタは社畜だろう!」というような、これはこれでまた至極真っ当で正しい論評もあったけど、前段の主張も大いに理解できる。

 会社や組織の中で働いていて、一番厄介なこととは何か?
 そう問われたら、もう、これはハッキリ一言で断言出来る。

 人間関係だ!
 これしかない。

 そりゃあ、仕事自体がきついとか猛烈に忙しいとか、そのほかにも色々とあるにはある。色々とあるにはあるけれど、職場の人間関係がギクシャクしていると、悲惨さの極致といっても過言ではない。
 人生観まで変わってしまう。

 中には、死んでしまいたいと思う人間だっているかもしれない。
 第一、職場の人間関係が最悪だと、出勤すること自体嫌になるし、それは確実に私生活まで影響する。
 それほど会社勤めとは、そして組織の中で生きてゆくということは、かくも大変で難しいものなのだ。

 それから、アホな上司や同僚が、問題やお荷物を全部下や上に丸投げし、体を張って部下や仲間を守らない人間が周りにいると、これもまた結構辛いものがある。

 そんな糞ったれな上司を持ってしまった人間が、今回の映画の主人公、ウォルター・ミティである。
 映画のタイトルは「LIFE!」。

 ジェームズ・サーバーの短編小説を、ノーマン・Z・マクロード監督、ダニー・ケイ主演で映画化した「虹を掴む男」、それを更にまた、今回ベン・スティラーが監督と主演を兼ねて新たに映画化した。

 とにかく「LIFE!」の予告編の出来があまりに素晴らしく、この映画は絶対観ようとずーっと思っていたのである。

 映画の舞台は、あの、世界で幅広く読まれたアメリカのグラフ雑誌「LIFE」(実際に2007年に休刊した)。
 映画の中にも、マリリン・モンロー、ジョン・レノン、ケネディなどの写真が出て来るけれど、実際、「フォト・エッセイ」と称する独自のコンセプトによって、雑誌は一世を風靡(ふうび)し、カメラマンもロバート・キャパや土門拳というような錚々(そうそう)たるメンバーたちが揃っていた。

 その雑誌「LIFE」の休刊が決まって、会社のリストラを命じられた意地悪で陰険な役員が送り込まれて来るところから映画は始まる。
 これがまた、最悪な上司なのだ。

 主人公のウォルター・ミティ(ベン・スティラー)は、写真の管理者として特段何の変哲のない退屈な日々を送っていたのだが(同じ職場の子持ちのバツイチ女性に片思いの恋しているけれど)、そんな彼の唯一の楽しみは、厳しい現実から逃避するための、密かな空想・妄想をすることだった。

 ここから先はネタバレになるので、まだ観ていない人は読まないほうがいいかもしれない。

 確かに、この荒唐無稽な、空想と妄想が織りなす現実離れしたシーンは秀抜だし、とても素晴らしい映像の連続である。
 中でも、LIFE誌の最終号の表紙を飾る大切な写真がないことに気付いたウォルター・ミティが、カメラマンを探すために出た旅先での空想・妄想シーンが抜群にいい。

 彼が想い続けている同僚のバツイチ女性が空想の中に現れ、デビッド・ボウイの名曲「スペース・オディティ」(トム少佐)を、ギターを抱えながら切なく歌うシーン。
 これがまた美しい(映画の中で使われている曲が、どれもこれもすべていいのだ)。

 ただ、あまりにも突出している空想シーンの素晴らしさと比較して、現実の場面が平坦過ぎて、その落差がちょっと激し過ぎる。
 ラスト近くのショーン・ペンとの再会シーンも、もう一工夫して欲しかった。

 淡々とした流れが映画の全編を貫いているので、その静かな肌触りも悪くはないのだけれど、空想シーンと現実シーンが上手に混ざり合っていたら、もっと面白い作品になったと思う。

 ちょっと予告編が良過ぎたかも・・・。











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レコード・コレクターズ増刊「日本ロック&ポップス・アルバム名盤 1979-1989」は貴重な文献だ。

2014年03月18日 | Weblog
 もっとちゃんと好きな音楽と向き合い、きちんとそのアルバムのバックボーンを調べ、もっともっと深く聴くことに意を用い、出来ればそれらの熱い思いを一冊の本に整理して、纏め上げることが出来たなら・・・最近、そういうことを真面目に考え始めてる。

 というか、そういうプロジェクトが深く静かに―まあ自分勝手にと言い直してもいいのだけれど―進行している。

 出来得るなら、自分史と、今住んでいるこの街と、嗜好する音楽、人生にとってなくてはならない音楽と、その流れと(60年代、70年代、80年代、90年代、00年代等々)が、上手くシンクロするような仕立てに出来たなら、本当に最高だと思う。

 地元のエディター(友人でもあるのだけれど)と綿密な打ち合わせを行い、今年中には何とか出版まで―自主出版というかたちになるのだろうが―持ち込みたい。

 で、その一助になりそうな本がまたまた出ました。
 レコード・コレクターズ増刊「日本ロック&ポップス・アルバム名盤 1979-1989」がそれだ。

 この本は、前作のレコード・コレクターズ増刊「日本ロック&ポップス・アルバム名盤 1966―1978」の続編ということになる。
 日本のロック、ポップスの名盤と呼ばれたアルバムの紹介だけではなく、インディーズだけれど時代を彩った貴重なアルバムや、当時日本の音楽界を席巻したニューミュージック、それから歌謡曲など、かなり広範囲に渡って取り込んでいる。

 今回の「1979-1989」は、YMOがブレイクした1979年から、バンド・ブーム、Wink、ユニコーン「服部」、森高千里などがヒットした1989年までの全1005枚をセレクトしていて、音楽評論家の湯浅学が監修している。

 あの頃は、ちょうど僕が東京からスタコラサッサと逃げ帰り、大きな挫折を繰り返してゆくなかでやっとこさ就職し、落ち着いて音楽に向かっていた時期でもあった。

 好きなアルバムをウォークマンに入れ―ウォークマンが最初に世に出たのがちょうど1979年だった―、当時家から5キロほど東部方面にあった勤務先まで自転車を漕ぎながら聴いていた。
 雨の日や雪の日はバスに乗りながら、晴れた日には自転車で約30分掛け、ウォークマンから流れる大好きな音楽を聴いて通勤した。

 その頃は土曜日が午前中仕事という勤務体系だったので、夏になると、勤務先裏の浜辺に停泊していた船舶の甲板に無断で上がり(ごめんなさいね)、そこにバスタオルを敷いて裸になり、持ってきたカセットデッキから音楽を流して真っ青な空を眺めて午後の時間を過ごした。

 そして春や秋には、通勤途中「合浦公園」の中を通り、そこから海沿いに出て、ゆっくりと海を眺めながら音楽を聴いて毎日帰った。

 今回の、レコード・コレクターズ増刊「日本ロック&ポップス・アルバム名盤 1979-1989」に出て来る沢山のアルバムの中にも、そんなふうにして聴き狂ったアルバムが数え切れないくらい入っている。

 柳ジョージ&レイニーウッド「YOKOHAMA」。サザンオールスターズ「10ナンバーズ・からっと」。萩原健一「エンジェルゲイト」。イエロー・マジック・オーケストラ「ソリット・ステイト・サヴァイヴァー」。シーナ&ロケット「真空パック」。高橋幸宏「薔薇色の明日」。RCサクセション「BLUE」。佐野元春・杉真理・大滝詠一「ナイアガラ・トライアングルVol.2」。竹内まりや「ヴァラエティ」。松任谷由実「DA・DI・DA」。安全地帯「Ⅳ」。浜田省吾「J・BOY」。米米クラブ「GO FUNK」。久保田利伸「GROOVIN」。山下達郎「FOR YOU」・・・などなど。

 ここには書き切れないほど、もっともっと沢山感銘を受けたアルバムはあるけれど、これらのアルバムから元気を貰い、慰められ、生きる希望と明日への糧を貰い、心から感動し、純粋に楽しんできたのである。
 本当に、本当に、本当に、音楽がなかったら、多分ここまで生きてはいなかっただろうと、心底思っている。

 今回の「日本ロック&ポップス・アルバム名盤 1979-1989」を読んで、すんごく嬉しかったのは、浜田省吾のアルバムが4枚もエントリーされていたことである。
 これは嬉しかった。

 浜田省吾が好きだと言うと、「ああ、『片思い』ね。ああ、『もうひとつの土曜日』ね」で簡単に済ませる人たちに、これまでいったい何度出逢って来たことか・・・。

 日本のロック・ポップスの歴史の中であまりにも浜田省吾は過小評価され過ぎてきたと思う。









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マシュー・マコノヒーが21キロ激痩せして挑んだ、映画「ダラス・バイヤーズクラブ」を観る。

2014年03月17日 | Weblog
 いつものことだけれど、日曜日の午後は心がざわつく。
 いわゆる「サザエさん症候群」というやつだ。月曜から始まる仕事のことを考えて憂鬱になるのである。

 昨日の日曜日もそうだった。
 朝から湿気を含んだ大粒の雪が降っていて、午後からは天気になった。
 どうも心が落ち着かず、無性にビールが飲みたくなって、近くのデパートの地下で缶ビールと酒のツマミを買って家まで戻った。

 まだ外は明るい。
 それでも、テーブルの上に買って来た酒の肴を並べて、冷やしておいた缶ビールを飲む。
 それほど酒自体強くなく、すぐに真っ赤になって眠くなってしまうので、缶ビール一缶でもう顔が真っ赤っか。

 でももうちょっと欲しくなり、冷蔵庫から赤ワインを取り出して、グラスで2杯程度飲んでしまった。

 テレビでは、東京ドームで行われた「ザ・タイガース」の復活コンサートがやっている。
 飲みながら、それを暫らくの間、じっと眺めていた。

 それにしてもジュリーの老け具合が半端じゃない。
 お腹がかなり出っ張っていて、ほかのメンバーたちも髪の毛は真っ白だった。ドラムのピーだけが、いい塩梅に歳を重ねているみたいで、彼だけがすんごくカッコ良かった。

 コンサート自体、別に悪くはなかったと思う。
 でも、メンバーたちのこの老け込んだ姿を見ていて、少しショックを受けてしまった。アルコールが入っていたことが、感情をより一層高めてしまったのかもしれないけど・・・。

 そうなのだ。
 これが現実なのだ。
 どんなに美少年でも、どんなに筋肉隆々のマッチョでも、いつか歳を取り、皺が増え、お腹が出っ張り、体力は落ち、やがて死んでゆく。

 もしも今、いきなり余命30日なんて医師から告げられでもしたら、どんな強靭な精神を持っている人間であっても、ショックで気が狂いそうになるだろう。

 映画「ダラス・バイヤーズクラブ」も、余命30日と宣告された一人の人間の物語である。
 この映画は実話だという。
 マシュー・マコノヒーがエイズ患者を演じるために、なんと21キロも減量して役作りに挑み、その凄まじい演技によって今回の第86回アカデミー賞で主演男優賞を受賞してしまった。

 電気工事技師でロデオのカウボーイでもあるウッドルーフ(マシュー・マコノヒー)が、ある日突然倒れてしまう。
 気がつくとそこは病院で、彼はいきなり医師からHIV陽性だと診断され、あと余命が30日しかないだろうと告げられるのである。

 ウッドルーフは激しく絶望する。

 彼はエイズ治療薬を色々と調べてゆくうち、アメリカ本土では許認可されている治療薬が少ないことがだんだん分かってくる。
 認可されていないエイズ薬を病院の人間から裏で調達して貰った際に、代替薬を扱っているというメキシコ在住の医師のことを知ったウッドルーフは、単身メキシコへと渡ることに。
 そしてそこで、アメリカ本土へのエイズ薬の密輸を思いつき、無認可の薬や病気に効果のあるサプリメントを売る、「ダラス・バイヤーズクラブ」を設立するのだが・・・。

 マシュー・マコノヒー演じるウッドルーフが、女にだらしなく、粗野で、凶暴で、いい加減な男として映画の中では描かれていて、結構鼻につく嫌な性格の男なので、最初上手く波に乗れなかった。

 ところが、エイズの特効薬を探すためにメキシコに渡るあたりから、映画は俄然面白くなる。
 当然にして、21キロも減量したマシュー・マコノヒーの演技は凄いし、彼の相棒となる末期のエイズ患者で同性愛者を演じた、ジャレッド・レトも素晴らしい演技をみせてくれる。
 ジャレッド・レトもまた、この「ダラス・バイヤーズクラブ」の演技によって、アカデミー助演男優賞を受賞した。

 悪戦苦闘し、アメリカ国内での無許可の薬に対する理解と方向性の転換に一役買った実在のウッドルーフは、余命30日という医師の宣告を覆し、その後何年間も生き続けたらしい。

 難病を克服して助かったとしたって、それでも人は、いつか必ず死んでしまうのだけれど・・・。









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