淳一の「キース・リチャーズになりたいっ!!」

俺好き、映画好き、音楽好き、ゲーム好き。止まったら死ぬ回遊魚・淳一が、酸欠の日々を語りつくす。

映画「100歳の少年と12通の手紙」。いやあ、もう泣けて泣けて。この映画いいと思う。

2010年11月30日 | Weblog
 少し前、東京でちょっとした行き違いから、突然、2、3時間の空き時間が生まれ、それじゃあ映画でも観ようかということになり、有楽町の駅を降りて、ひたすら映画館を駆け巡った。

 でも、そういう時に限って中々いい時間帯がないのである。
 汗を掻きながら、まだ観ていない映画を探し、やっと日比谷の「TOHOシネマズシャンテ」で上映している「100歳の少年と12通の手紙」を見つけた。

 上映開始までまだ20分ぐらいあったので、有楽町のガード下にある少し高めのハンバーガー屋さんに掛け込み、大きなハンバーガーに被り付き、珈琲を飲んで、急いで映画館へと走った。

 何と、「100歳の少年と12通の手紙」、超満員。
 やっと後ろ側の席に腰掛け、汗を噴く。
 でも、こういうラッキーな時間を授かったことに感謝。少し儲けた感じがして幸せな気分。

 映画「100歳の少年と12通の手紙」、評論家筋からも評価が高い。
 原作は、本国フランスで160週に渡って売上上位にランクされた名作らしい。
 「イブラヒムおじさんとコーランの花たち」(原作と脚本)、それから「地上5センチの恋心」(これも監督と脚本)で知られる、監督のエリック=エマニュエル・シュミットが、これまでと同じく自分自身で映像化した作品だ。
 それに音楽が、「シェルブールの雨傘」、「ロシュフォールの恋人たち」(懐かしいなあ。俺この2本、何処で観たんだっけ・・・)のミシェル・ルグランときている。
 正直に言うと、本編を観て初めてミシェル・ルグランが音楽監督だと解ったんだけど。

 10歳になるオスカーという少年。
 彼は、悪戯好きでユーモアも解する素直な少年だが、白血病を患い、ある施設の小児病棟に入院している。
 両親は、病気の真実から避けるように彼から距離を置き、オスカーはそのことで深く傷付きながら、両親とだけは決して打ち解けることがない。

 ところがある日、院内で偶然出会った口の悪い宅配ピザの女主人ローズが、飾ることなくオスカーに接したことから、少年は彼女との再会を主治医である老院長に嘆願する。
 そんなある日、オスカーは自分の命がもう残り少ないことを偶然知ってしまう。
 腫れものに触るような両親に絶望したオスカーは、誰とも口をきかないようになってしまい、それを見た老病院長は、オスカーが大好きだと言っていたピザ屋の女主人ローズを捜し出し、彼女に助けを求めるのだが・・・。

 とにかく、オスカー役を演じているアミールという少年が素晴らしい。
 それと、ピザ屋の女主人ローズを演じたミシェル・ラロックも凄い演技をするし、主治医の老院長マックス・フォン・シドー(この役者が出ると、どうしてこうも映画が締まるんだろう!)も素晴らしい。

 恩着せがましく泣きを強調しないところが、この映画の評価を上げている。
 出来るだけ、淡々と、そして丁寧に、オスカーと彼を取り巻く人物を描いてゆく。それだからこそ、心からの感情移入が可能となる。

 オスカーは、老院長とローズが交わした施設訪問の約束がたった12日間であることを知り、自分の余命が短いことなのだと悟ってしまう。
 それを知ったローズは、オスカーに対して、諭すようにこんなことを提案する。
 「1日を10年間と考えて、与えられた日々を一生懸命に生きてみたらどう? それから、毎日神様に向かって自分自身の事を正直に書いて手紙を出すのよ」と。

 周りの観客の啜り泣く声が、館内中に響き渡る。
 それほど、周りのみんな泣いている。
 泣かせよう、泣かせようと、無理強いする映画は心底腹が立つけれど、この「100歳の少年と12通の手紙」に、そういう浅はかな意図は見当たらない。

 だからこそ逆に、何気ない科白や仕草、それから施設を取り巻く人間たちの中に素直に入る事が出来、真摯に感動するのだろう。
 もちろん、泣けたからそれが即いい映画だなんて、そんな短絡的な事いいませんが・・・。





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「来生たかお」のエッセンシャルベスト・アルバム、これ凄く癒されるんだよねえ。

2010年11月29日 | Weblog
 来生たかおにハマっている。

 最近また、夜のドライブに繰り出す事が多くなってきた。
 独りで車を飛ばしていると、どうしても夜の雰囲気に相応しい音楽が欲しくなって来る。
 そんな時、最近は躊躇うことなく、来生たかおのCDを差し込む。
 来生たかお「エッセンシャルベスト」。
 
 近頃は、仕事がとても忙しく、その割にモチベーションがイマイチ上がらない。結局ヤル気がないのである。
 辞めたい、辞めたい、そればかりを考えている。相変わらず。

 それに、今日(11月29日)の天候みたいに、曇天の空から雪が舞い降り、地面を真っ白に染める時期になると、暗くて萎える音の類はちょっと敬遠してしまう。
 かと言って、どこまでも肯定的で、突き抜ける青空のように爽やかなサウンドも余り欲しとは思わない。

 ちょっと静かめで、メロディ・ラインが美しく、心が休まり、穏やかになり、それでいて前向きになれるような音、そんな優しい音楽が愛しくてたまらなくなる。
 心が病んでいるんだろう、たぶん。
 ・・・いつものことだけどね。

 独り、誰も通らない郊外部の車道脇に車を停め、フロントガラスの向こう側に広がる、夜の闇と輝くネオンサインを眺めながら、ぼんやり来生たかおの世界に浸かってゆく・・・。
 とても心地よい。
 心がゆっくりと洗われてゆく。
 やっぱり、それって病んでるのかなあ?

 実は10月に、友人と十和田方面をその友人の車でドライブした際、その友人が何気なく掛けたCDが中森明菜のライブアルバムだった。
 懐かしいその中の「スローモーション」を聴いて、突然、来生たかおを聴きたくなってしまったのである。
 勿論、「スローモーション」自体、彼の作曲だったことが起因しているわけだが。

 改めて、というか久しぶりに来生たかおの音楽に触れて再確認したのは、「スローモーション」と「夢より遠くへ」は、日本歌謡曲史上に燦然と輝く名曲だということだろう。
 素晴らしい。実に素晴らしい楽曲である。

 特に「スローモーション」。中森明菜の歌うヴァージョンよりも、断然、来生たかおのほうがいい。
 美しさ、やるせなさ、健気さと言ったらもう・・・。
 メロディも、歌詞も、編曲も、申し分のない完璧さ!

 出だしの『砂の上 刻むステップ ほんのひとり遊び』、ここからにして凄い。浜辺の情景が、このフレーズだけで鮮やかに目の前にあぶり出される。
 女の子は、夏の浜辺でひとり波打ち際、戯れている。
 そこに、遠くからひとりの青年が走って来る、『ストライド 長い足先 ゆっくりよぎってく』のだ。

 そしてその素敵な青年に纏わりつくようにして、『そのあとを 駆けるシェパード 口笛吹くあなた』と続いてゆく。
 上手いっ!
 ここからメロディは、大きなうねりとなって聴く者を圧倒する。素晴らしい。
 つまり、『出会いは スローモーション 心だけが先走りね』と、サビに向かって高まるのだ!
 名曲である。完璧な音の作りである。傑作である。

 このほかにも、このアルバムには、「夢の途中」、「Goodbye Day」、「セカンド・ラブ」、[マイ・ラグジュアリー・ナイト」などの優れた名曲も数多く入っている。

 雪のしんしんと降る夜に静かに聴く、来生たかお。
 切ないなあ。でもいいよなあ・・・。




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土曜日の陽光、全米ドラマCSI:トリロジー、龍馬伝は最終回、そして吹雪の日曜の夜

2010年11月28日 | Weblog
 土曜日は午後から快晴となった。
 天気予報のアナウンスによると、これが当分見納めとなる青空らしい。

 とても気分がいい。
 こんな長閑(のどか)な土曜日の午後は、独り、陽射しの降り注ぐ部屋の中で静かに音楽を聴いたり、溜まった本を読んだり、熱い珈琲を飲んだり、スポーツジムにでも行って汗を流し、その帰りは同じショッピング・モールにある珈琲ショップに立ち寄って、ゆっくり新聞でも読んでいたい・・・。

 ところが今日は仕事で出勤ときている。
 明るい初冬の太陽の光や、朽ち掛けた落ち葉を微かに揺らす微風や、透明な空が、何となく恨めしい。

 仕事を終えて、外に出たら、とても美しい夕暮れ。
 透き通った空気に包まれ、このままぶらりと海まで歩きたくなってくる。

 家に帰って夕食を摂り、今夜のお目当ての、WOWOWで夜10時から始まる「CSI:トリロジー」150分スペシャル!
 「CSI」シリーズは、アメリカで高視聴率を稼いでいる捜査ドラマで、まあ日本で言ったら「太陽にほえろ!」シリーズを想像してもらったら解りやすいかもしれない。

 この「CSI」シリーズは、様々に枝分かれしてスピンオフ作品が生まれ、現時点で、「CSIマイアミ」、それから「CSIニューヨーク」、そして本家本元の「CSI科学捜査班」がオンエアされている。
 こうなると、もう完全に国民ドラマという感じがしないでもない。

 今回は、その3シリーズがクロスオーバーするという仕立てになっていて、ある少女バラバラ殺人を切っ掛けに、マイアミ、ラスベガス、ニューヨークそれぞれのチームが合同で犯人確保に立ち向かうというもの。

 観終わったのが、12時半。
 明日の日曜日も早いんだよねえ・・・。

 そして日曜日。
 朝起きて、窓を開けたら憂鬱な空が広がっている。
 冷たい雨も心細そうに落ちて来る。

 今日は遠出。
 車の中は自分だけの城だから、目的地に着くまでの間ぐらいは自由に好きな音楽を流していたい。
 持ち込んだアルバムは、井上陽水のニューアルバム「魔力」、リンキンパークのニューアルバム、アル・クーパーの「ブラックコーヒー」、それからローリング・ストーンズの「レット・イット・ブリード」。

 雑誌「ローリング・ストーン」の最新号を眺めていたら、来年の初めに、なんとキース・リチャーズ自伝「LIFE」の日本語訳が出版されるらしい。これは楽しみだ。
 ちょっと余談でしたが・・・。

 目的地を出たのが夕方の4時ちょうど。
 日曜日の夕暮れ時は、買い物を終えた家族連れの車で何処も彼処も混み合っている。
 青森市内に入る頃には、完全に夜の闇が辺りを包み込み、激しい雪が降って来た。

 今年も、この街にはもう初雪が降ったけれど、今日のような吹雪模様は今冬初お目見えだろう。
 浅虫海岸を望むバイパスに出ると、凄まじいまでの横殴りの雨雪が襲って来た。

 何もかもが、暗く倦んでいるように見える。

 家に帰って、疲れた身体をほぐしながら夕食を摂り、今夜最後となるNHK大河ドラマ「龍馬伝」。
 普段より時間も延長して、龍馬暗殺までを描いてゆく。

 でも、ちょっと最終回は期待外れ。
 余りにも、演出、酔ってないか?
 それが観ている側にも悪い意味で伝播してくるんだよね。

 ただし、今回の大河ドラマ、1年を通して観て、これまでの大河ドラマ史上最高傑作である事に変わりはない。
 「龍馬伝」素晴らしい!
 





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映画「ドアーズ/まぼろしの世界」を新宿武蔵野館で観る。観終わって即CD購入しちゃった。

2010年11月27日 | Weblog
 11月の初め、新宿で映画を観た。
 監督がトム・ディチロ、それからナレーションがジョニー・ディップ。ドキュメンタリー映画である。
 映画のタイトルは、「ドアーズ/まぼろしの世界」。

 僕が初めてドアーズを聴いたのは、学生の頃住んでいた板橋区大山のアパートだった。
 僕は前にも言った事があったけど、こういう、音楽を媒介にした過去の記憶だけは何故か今でも鮮明に覚えてる。
 とにかく、はっきり目に焼き付いている遠い昔の若かりし頃の記憶は、音楽と一緒になった場合だけ、いつも心の引き出しの中に綺麗に整理整頓されているのである。
 不思議だ。

 NHKのFMで、「ドアーズ」のファースト・アルバムを全曲流していた。
 朝の11時(確か)、僕は朝昼逆転した生活の中、ベッドに潜って、ラジオから流れるジム・モリソンの声をただひたすら聴いていた・・・。
 暗くてとても寒い冬の日だったと思う。

 ジム・モリソンの歌声は、深い井戸から聴こえて来る気がして気が滅入った。爆発しそうなエネルギーを秘めながら、何かに悶え苦しんでいる様を歌に託しているようにも感じられた。
 でも、あの頃の僕にとっては、心から求めている音楽ではなかった。
 だから、僕はその後ほとんどドアーズには目を向けてこなかった。

 もう、あれから何年の月日が流れたことだろう・・・。
 あの頃の夢や理想はとっくに潰(つい)え、こうして僕は毎日、ネクタイを締め、背広に着替え、冬の寒い朝、身体を縮めて仕事場へと向かっている。
 暗鬱な顔で、気だるそうに・・・。

 至極当たり前の結果だけれど、結局僕はこうして、今でもこの街で燻(くすぶ)り続け、何も産み出すこともなく、ぐだぐだとした日常を過ごしている。

 ドアーズは、1967年に登場した。
 アメリカロサンゼルス出身のこの四人組ロックバンドは、常に観客を挑発することで、そのパフォーマンスは一部のマスコミや大人たちから徹底的に排斥され、非難を浴び続けてきた。

 そのバンドの中心にドカンと居座り、常に異彩を放ち続けていたのが、ボーカルのジム・モリソンだ。
 UCLAの映画学科で顔見知りだったモリソンとマンザレク、それから「サイケデリック・レンジャーズ」というバンドで活動していた、クリーガーとデンズモアが加わり、「ドアーズ」は世に出る。

 デビューアルバムは「ドアーズ」。邦題は「ハートに火をつけて」。
 「ブレーク・オン・スルー」、「ハートに火をつけて」、「ジ・エンド」もこのアルバムには収められ、当時一大センセーショナルを巻き起こした。

 映画「ドアーズ/まぼろしの世界」は、全て当時のフィルムだけを使い、「ドアーズ」の凄まじいステージの模様や生の日常生活を追ってゆく。
 麻薬とアルコール漬けになり、ぼろぼろの肉体を世の中にかざしながら、ジム・モリソンはステージの上でのた打ち回り、絶叫し、観客を扇動し、自らの局部を曝け出した。
 当然、彼は公然わいせつ罪(アメリカでの罪状名は知らないけれど)で逮捕され、裁判となる。

 ジム・モリソンは、様々な外圧から心身ともに疲れ切り、ヘロインが原因で(あくまでも有力な死因説)パリの街で亡くなってしまう。

 絶頂期から数十年経った今でも、「ドアーズ」の評価は高まったままだ。
 今でも、「地獄の黙示録」を含め、映画など様々な媒体で彼らの楽曲は使われている。
 そしてその音楽は、まったく古さを感じさせない。

 ジム・モリソンも、ジミ・ヘンも、ジャニス・ジョプリンも、60年代を疾走したロック・アーティストたちの一部は、既に亡くなってもうこの世界にはいない・・・。

 死んだ彼らはみんな、伝説となった・・・。






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「11月も終わろうとしている金曜日の朝の、子猫みたいに優しい海風」

2010年11月26日 | Weblog
 11月26日、金曜日。

 朝起きて、NHK朝のテレビ小説「てっぱん」を観ながらこんがり焼いた食パン一切れにバターをたっぷり塗って、その上にピーナッツ・バターを重ね、それを食べながら熱い紅茶を飲んで外に出た。

 冷たい風が吹いている。
 真夜中過ぎに降った雨はもうすっかり止んでいて、朝の中途半端な太陽の光に舗道がきらきら美しく輝き、寒いけれど、透き通った空気と冷たい北風が、寝ぼけた体にちょうど良い目覚まし代わりになってくれる。

 鮮やかな黄色の落ち葉が街中の彼方此方に落ちていて、この街の美しい晩秋をより一層際立たせる。

 僕は自転車を漕ぐ。
 吐き出す白い息が朝の澄み切った大気の中に溶けていった。
 朝のラッシュに沸く国道を渡り、そこから中心市街地へと向かい、大きな△の形をした青森県観光物産館の脇から海辺へと出る。

 陸奥湾を含めた、北へと伸びる緩やかな稜線と海が、目の前に飛び込んできた。
 群青色した北の雄大な海が広がっている。
 11月も終わろうとしている金曜日の朝の、子猫みたいに優しい海風・・・。

 薄茶色した木製デッキを通って、青森駅方面へと走る。
 JR東日本が東北新幹線新青森駅開業日に合わせてオープンする、林檎シードル工房と物産品を扱う「Aファクトリー」、そしてその前方に、来年1月5日にオープンする「ねぶたの家 ワ・ラッセ」の斬新な躯体が迫る。

 携帯電話が鳴り、10分ほど朝の挨拶がてらの会話を進めながら青森駅のプラットホームを跨ぐ東西通路を登り、そこから今度は青森駅西口のヨットハーバーの前へと降りた。

 ただっ広い駅西口公園を通って停泊している何艘かの船を横目で追い、巨大な団地群を突きぬけ、執務室があるビルへと辿り着いた。
 ちょうど8時20分。
 玄関前に設置された「東北新幹線新青森駅開業カウントダウン・ボード」の真っ赤なデジタル表示が、開業まであと「8」の文字を浮き上がらせている。

 11月26日付けの「読売新聞」を眺める。
 一面に「裁判員 少年に死刑判決」。それから「北朝鮮爆撃」。仙石長官「問責」可決の見出しが躍っている。

 日本が失速している。
 もがき苦しみ、喘いでいるみたいに見える。
 この言いようのない閉塞感、圧迫感、遣り切れなさを、僕たちはどうしたら振り切ることができるのだろうか?

 びっくりしたのが、二面下から三面下四面下、それに続く五面全部を使った、井上雄彦の漫画「リアル」の斬新な新聞広告。
 これには驚いた。そう来たか!

 そして今日も朝から大忙し。
 すべての仕事の要務を終え、疲れた体を引き摺って、また自分のオフィスへと帰還した。
 こうして一日は一瞬で過ぎてゆく。鉄腕アトムよりも、宇宙戦艦ヤマトよりも速く、猛烈な勢いで時間だけが過ぎてゆく・・・。

 オフィスの壁時計が午後5時を示した。
 すっかり夜の帳が降り切って、暗闇がこの街を覆い尽くす。ゆっくりと。摺り足で。

 一週間の短期予報を見てみたら、来週の月曜日からずーっと雪マークが続いている。
 冬が来たのだ。僕の大嫌いな厳しい冬が。

 明日の土曜日も仕事。明後日の日曜日も仕事が続く・・・。
 新幹線新青森駅開業まで、残り8日。

 終わったらゆっくりしたい・・・。
 思いっ切り休んでやるっ!





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柴崎友香の長編小説「寝ても覚めても」を読んだ。でも、ちょっと違和感あるんだよなあ。

2010年11月25日 | Weblog
 極上の恋愛小説が読みたくなる時がある。
 甘くても、切なくても、苦しさに塗れていてもいい。
 そんな素敵な恋愛小説が読みたい。
 無性に読みたい。そんな時がある。

 ・・・なんてこと考えてたら、最近巷の書評で絶賛されていたのが、柴崎友香の長編小説「寝ても覚めても」だった。
 10年間、好きなひとを想い続けた女の子の話だそうな。

 僕は彼女のデビュー小説「きょうのできごと」を行定勲監督で映画化された同名作を映画館で観ている。
 映画「きょうのできごと」は中々いい作品だったように思う。
 結局原作は読まなかったけれど、その柴崎友香による初の長編小説「寝ても覚めても」。評判も高いので、早速読んでみることにした。

 彼女は、保坂和志から高い評価を受けているらしい。
 確かに、読み始めると文体が似てなくもない。それと、全体に醸し出される小説全体を流れる雰囲気も2人は少し似ている気がする。

 僕も保坂和志の小説は嫌いじゃない。
 淡々と続く日常を丁寧に描きながら、(表面的には決して現れないけれど)その後ろ側に潜んでいる喪失感や空虚感のようなものが彼の小説の中に垣間見ることが出来るからだ。

 保坂和志は、そこがいい。
 どこか危うさのようなものが潜んでいるのだ。ほとんど事件らしい事件は起きず、ひたすら日常の細部を語っているのに、全然飽きがこない。

 不思議な作家である、保坂和志。
 ただし、読み手の評価は分かれるだろう。全然受け付けないという人も多いかもしれない。

 「寝ても覚めても」にも、波乱万丈の恋愛物語があるわけじゃない。
 ふと知り合った「麦(ばく)」という男の子を好きになった、泉谷朝子という女性の10年間を淡々と描いている。

 「麦」は主人公である朝子の目の前から突然姿を消し、彼女は彼を忘れられないまま、「麦」にそっくりな亮平という男性を好きになる。
 ところが、今度は人気俳優となった「麦」がメディアの前に登場し、朝子の心は少しずつ乱れてゆく・・・。

 大阪と東京を舞台にして物語は進む。
 女友達との関西弁での何気ない会話、四季の何気ない風景や移ろい、そんな平凡な日常を淡々と描きながら、そこに「麦」や「亮平」との恋愛模様が絡むのである。

 でも、最後まで柴崎友香の文体に乗れなかった。
 別に、ドラマがあろうとなかろうと、そんな事はどうでもいいのだけれど、僕が期待していた(というか想像していた)物語とは幾分違っていた。

 ラストの幕引きも感情移入出来なかった。
 ところどころ、凄く光る言葉があったりして、なんだかんだ言っても最後まで読んじゃうんだけど、どうも彼女の描く世界に没頭できないのだ。

 わからん。
 まあ、合わないんだろうな。相性が悪いのかも。

 でも。
 寝ても覚めても、ひとりの人をずーっと想い続けるなんてイカしてる。
 恋愛は、そうでなくちゃね。
 




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「2000 Light Years From Home」

2010年11月24日 | Weblog
 夜がゆっくり明けてゆく・・・。

 渋谷駅前のスクランブル交差点が、山手線の車窓からほんの一瞬見えた。
 明け方の街なのに、何人かの若者たちが青信号の歩道を駆け足で走り去った。ペーブメントが、真夜中の雨のせいなのか、少しだけ濡れている。

 品川から京急線に乗り換えた。
 電車の中は意外と混んでいる。
 くたびれたネクタイとスーツ姿のサラリーマンたちが、ほとんどみんな目を閉じて憂鬱そうに顔を顰(しか)めている。
 休日明けの11月24日水曜日、夜明けの羽田空港行き快速電車・・・。
 みんな、これから仕事が始まるんだ。苦しくて切ない仕事が待っている。

 起きたのが午前4時。
 昨日も有楽町「東京国際フォーラム」で、某経済懇談会での新幹線・経済関係のアナウンスと、それに続くパーティがあって、終了したのは午後9時。
 そのあと電車を乗り継いでその日の塒(ねぐら)に辿り着いたのが夜の11時近くだった。
 なので、ほとんど寝ていない。

 羽田空港発「青森便」は定刻通り、朝の7時20分、滑走路を舐めるように上昇した。
 朝の東京の街並みを窓際の席からほんやりと眺める。
 お台場、東京湾、新宿副都心。
 すべてが朝の光に輝いている。

 ヘッドホンからは、ジャミロクワイの「White Knuckle Ride」が流れている。
 敷き詰められた新雪のような真っ白な雲を眼下に見下ろしながら、美しい朝日に映える鳥海山にも目が奪われる。

 1時間ほどで青森市の上空に。
 東京都とはうって変わって、どんより暗鬱な風景が広がってる。
 飛行機から降りて、外に出ると凍えるような寒さに包まれた。寒い。
 微かな冬の匂い。

 ワイシャツを取り換え、そのままオフィスへと向かう。
 11時から記者会見があるのだ。
 会見でいきなり質問が飛んで来て、慌てて答えた。間一髪だった。少し空いた時間に資料に目を通しておいたのがよかった。人生、一寸先は闇である。

 午後は執務室に籠って、溜まった書類を整理し、幾つかの電話に応答し、何人かが持ち込んだ案件を処理する。
 時々、猛烈な睡魔と疲労が襲って来た。

 それにしても、先月から今月に掛けて、一体何度、新幹線に乗り込んだことだろう。
 土日もほとんど休んでいない。
 東京、仙台、石巻、それから新幹線開業に関する様々なイベントが連続的に続いてゆく。スタッフたちはもっと休んでいないだろう。

 毎週、東京に行っている気がする。
 20日月曜日も都内を周る新幹線キャラバンで一日飛び回った。大宮駅、上野駅、それから東京駅周辺でも観光パンフレットを配った。

 12月発売される、雑誌「津軽学」の原稿、待っても今月末までが限界だからね!
 先日、そうキッパリ某出版のS女史に言われてしまった。
 残った睡眠時間を使えってことなのね。まだ一行も書いてないんだけど・・・。
 持つんだろうか、俺のからだ。

 くたびれた躯体を引き摺って、真っ暗な夜道を家へと急いだ。
 街は完璧に冬支度。吐く息が白い。手袋をしないと手が寒さで痛くなる。

 今夜だけは、早めに眠ろう。熱いお風呂に入って、ゆっくり休もう。今夜だけは。
 何も考えず、何も想わずに。

 あと、東北新幹線新青森駅開業まで10日!

 でもまだそれは、遥か2000光年の彼方に光っているみたいだ・・・。





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ゆきのまち映画館の黄昏 43

2010年11月23日 | Weblog
 今日の素晴らしい出来事さえ、この人はただの夢だったと思うだろう。そして、わたしたちが死んだことを深く悲しみ、また現実の世界へと戻ってゆく。雪のまち映画館での2日間は、ただの儚い夢でしかなかったのだと、深く項垂れながら・・・。
 わたしは、透き通った温かいスープを啜ってみる。あの人は子羊の肉を頬張っている。そしてわたしの愛しい息子は、あの人に笑い掛けながらパンをその小さな口に入れている。
 火を放たれ、焼け爛れたこの映画館も、またあの蒸気機関車と同じように、強くて激しい意思を持っている。
 あの人は明日、目を覚してまず何を思うだろう? すべての村人たちが死に絶え、廃墟となったこの冬の村を、たった独りさ迷い歩くだろうか? 「北」と「南」の両軍も、略奪と死闘の果てにこの地を既に去ってしまったに違いない。明日から、あの人はたった独りで生きてゆくのだ。
 風邪など引かないように。それから、寒さに凍えることのないように。わたしたちはいつも、あなたを遠くで見守っているから。
 大きな硝子越しに海が見えた。白い化粧を施した映画館も、空も、森も、道路も、砂浜も、それから凍った海も、そのすべてが黄昏に染まっている。
 
 あの人だけが、ありったけの笑みを湛え、わたしたちのことを見つめている。
 まるで、儚いまぼろしのようだ・・・。



                    -完-










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ゆきのまち映画館の黄昏 42

2010年11月22日 | Weblog
                   Ⅳ

 思わず涙が零れ落ちた。
 でも、それをあの人に悟られるわけにはいかない。
 わたしたちは、いつもこうして三人だけの夕食を採ったものだ。勿論こんな豪華な食事ではなかったけれど、それでもわたしはとても幸せだった。
 わたしとこの子は、明日、彼方の地に旅立って行く。もう、あの人に会うことはない。わたしたちは、明日からまったく別々の世界で生きてゆくのだ。
 だから、わたしは今夜、心を込めた手料理を、あの人のためだけに作る。
 柔らかくて美味しい子羊の肉を、小麦粉と卵とパン粉につけてバターで丹念に焼き、そこに薬味を乗せる。それから、アンチョビとレモンとオリーブも。そして、こんがりと焼いたパン。デザートは、ミルクと卵をたくさん入れたプディングにした。最後には、あなたがとても好きだった、熱い挽き立ての珈琲を添えて。
 わたしたちは最後の晩餐を終え、そのあとであの人が深い眠りについたなら、夜が開け切らないうちにこの映画館を出て行くつもりだ。それは、この世に存在しない亡霊の、避けることの出来ない宿命だから。
 もう、映画館を黄昏が支配している。





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ゆきのまち映画館の黄昏 41

2010年11月21日 | Weblog
 テーブルは隣のレストランから二人で運んだものに違いない。映画館の、広くて豪華なフロアなのに、まるで貸切のパーティ会場みたいに見える。
 真冬では珍しい、とても鮮やかな柿色をした夕焼けが、海の彼方を染めている。テーブルに蝋燭が灯された。僕の隣に男の子が座る。三人だけのささやかな晩餐。夕暮れが迫っている。
 蝋燭の炎の光に揺れる彼女が、まるで泣いているように見える。








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ゆきのまち映画館の黄昏 40

2010年11月20日 | Weblog
                    Ⅲ

 僕が二人を見つけたときには、もうすっかり夜は明け切っていた。男の子はいつまで経っても泣き止まず、僕を掴んで放さない。
 「でも本当によかった・・・」
 僕の吐く息が、朝日の中にゆっくりと吸い込まれてゆく。
 「ごめんなさい。ちょっと二人して、夜明け前の散歩に出掛けていただけなんです。本当にごめんなさい・・・」
 「いいんですよ、そんなに気にしなくても。僕一人が勝手に慌てただけだから」
 男の子に抱きつかれたときの感覚が、まだ僕の体に残っている。とても懐かしい匂い。そして皮膚の柔らかさ。それらが僕の無くした記憶をまた刺激する。
 映画館まで戻ると、僕はまた一眠りをした。真冬の朝日が硝子窓に射し込んでくる。男の子が館内を駆け回る足音が、心地よい眠りを誘った。もしも目覚め、また二人がこの映画館からいなくなったらと、不安が過ぎった。
 でもそれは、結局馬鹿げた杞憂だった。
 目を覚ますと、外には雪が降った跡がある。随分長い時間眠り続けていたに違いない。
 僕は素早く着替えると、二階の寝室を出て、巨大なフィルム倉庫の前を通り、階段をゆっくりと降りた。映画館の正面を覆う壁のような全面硝子が、薄藍色の空を映している。もう、そんな時間になったのだ。
 「あら。起きたんですね」
 彼女が男の子の真後ろに立ち、肩に両手を掛けながら僕に微笑み掛ける。出会ってから、ちょうど三度目の微笑みだ。
 広いロビーフロアの真ん中に、たったひとつだけ円卓が置かれている。真っ白なテーブルクロスと花瓶に一輪の花が添えられていた。
「ちょっと待ってくださいね。もうすぐ料理が出来ますから。厨房にあった素材で作ったので、あまり満足していただけないかもしれないけど・・・でも一生懸命、心を込めて作ったんですよ」






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ゆきのまち映画館の黄昏 39

2010年11月19日 | Weblog
 
 わたしは目を静かに開けてみる。
 隣に居るはずのあの子がいない! 
 わたしは慌てて周囲に目を凝らした。あの子がプラットホームを駆け出して、待合室へと一目散に駆けている。わたしはすぐにその後を追った。
 待合室の中にあの人がいた。わたしの愛しい坊やと、しっかりと抱き合っている!






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ゆきのまち映画館の黄昏 38

2010年11月18日 | Weblog
 ―別の新しい世界に旅立つ前に、あなた方はもう一度だけ前世に戻り、一番愛しかった人間に逢うことが出来ますー
 その声は何処からともなく聞こえて来た。そしてその声の主は、優しくこうも囁いた。
 ―でもそれはたった二晩だけの夢。もしもそれ以上、その世界で生き続ける人を混乱させると、世界の仕組みが壊れてしまいますー
 あの人は夢の中を漂うように、あらゆる記憶を二晩だけ消され、この街の姿を借りた幻想の世界で、わたしたちとの最後の別れをする。だからこそわたしたちは、今こうしてここに戻って来た。実体を無くしたままで。
 でも一晩過ごしただけで、わたしの胸はもう張り裂けてしまいそうだ。それに、よく現実を掴めないあの子も、父親の姿を見るだけで泣き叫ぶ。わたしには、あと一晩、あの人と向き合って過ごすなど到底耐えられない。
 別れがもっと辛くなる。





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ゆきのまち映画館の黄昏 37

2010年11月17日 | Weblog

 わたしとわたしの子どもを含め、村人すべてがその映画館で死んだ。別な言い方をすれば、この愚かな世界から消えてしまった。
 駅の待合室の天井に描かれた、大勢の人間たちが美しい羽を伸ばして空高く舞い上がり、一斉に天国の門を目指して行くみたいに。
 わたしは、絵に描かれている真の意味を、燃え盛る炎と重たい壁に挟まれながら、意識が遠のくその最中に初めて理解した。
 わたしたちは死んだのだ。そう。あの人だけを独りこの世界に残して。
 そのことをきちんと覚ったのは、わたしたちが新しい世界へと旅立つために、あの意思を持った蒸気機関車に乗り込んだときだ。
 村の長を含めた全ての人たちが乗った蒸気機関車の客席に、あの人だけがいなかった。わたしはそれを深く悲しんだけれど、また別な見方をすれば、あの世界でまだ生を授かっているということを意味する。それはそれで、喜ぶべきことなのかもしれないと。




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ゆきのまち映画館の黄昏 36

2010年11月16日 | Weblog
 全員が狂ったように逃げ惑い、わたしたちは互いの名前を呼び合った。
 まるで地獄だった。
 天井から豪華なシャンデリアや厚くて硬い壁が次々と落ち、何人もがその下敷きとなって死んでいった。わたしは子どもの手をしっかりと握ったまま、あの人を探して思い切り大きな声を張り上げた。どすんと鈍い音がした瞬間、壁が目の前に押し寄せ、わたしと子どもはその下敷きになってしまった。一瞬、目の前が暗闇に包まれ、気がつくと、わたしの愛する息子の首から喉にかけて、溶けたアイスクリームのようにどろんとした血が流れていた。わたしは子どもを助けようと一所懸命もがいたけれど、その分厚い壁はわたしたちを逆に圧迫してくる。鈍い痛みと猛烈な熱さが全身を覆った。こどもは声にならない声を喘ぎながら、必死の形相でわたしに助けを求めてくる。可哀想に。喉元に、重い壁が被さっている。
 早く! 早くあの子を助けなければ!
 そのときだった。
 あの人が必死で、大人の何人分もある重い壁を退けようと、物凄い形相で駆け寄ってきた。わたしたちの名前を必死で呼びながら。
 その直後だった。赤く燃え上がったシャンデリアの一部が、壁を持ち上げようとしているあの人の左手首を直撃したのは! 
 あの人はもんどりうって倒れ、激痛に慄(おのの)いている。
 そして、わたしも意識を失った。





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