淳一の「キース・リチャーズになりたいっ!!」

俺好き、映画好き、音楽好き、ゲーム好き。止まったら死ぬ回遊魚・淳一が、酸欠の日々を語りつくす。

「ドッグヴィル」の鬼才ラース・フォン・トリアー監督のアメリカ三部作・第二弾「マンダレイ」を観る。

2006年03月31日 | Weblog
 ラース・フォン・トリアーという映画作家の頭の中を一度でいいから覗いてみたい。
 この人の思考回路って、一体どうなっているんだろう? 凡人には及びも付かない。

 ビョークが主演した「ダンサー・イン・ザ・ダーク」もかなり衝撃的な映画だったけど、前作「ドッグヴィル」もまた凄かった。
 広いスタジオの床に、白線だけで「家」の境界とか「庭」とか「道」とかを仕切り、あとは簡易な家具だけを置き、まるで舞台劇のように映画自体が進んでゆく。しかも約3時間という上映時間。
 アメリカのドッグヴィルと呼ばれる片田舎に紛れ込んでしまった、主人公のグレースという女性。演じたのはニコール・キッドマン。
 そしてその村でグレースは奴隷のような扱いを受け、最後にギャングの父親によって村人たちは惨殺されてしまう・・・。

 映画「マンダレイ」は、その「ドッグビィル」に続く物語だ。
 つまり、ラース・フォン・トリアー監督による「アメリカ三部作」の第二作目にあたるのが「マンダレイ」である。

 いやはや。しかしこの「マンダレイ」も凄い。
 背景は前作と同じ。広いスタジオの床に、白線で「家」の境界とか「庭」とか「道」とかを仕切り、あとは簡易な家具だけを置き、舞台劇の如くドラマは進行する。
 ただ、主役はニコール・キッドマンから、新たにブライス・ダラス・ハワードに替わった。あのロン・ハワード監督の愛娘だ。

 ドッグヴィルの村人たちを殺したグレースと、ギャングの親玉の父親やその手下たちの一行は、深南部の村まで辿り着く。
 その村は、奴隷制度が既に廃止されたにもかかわらず、まだ白人たちによる黒人への差別が横行していて、村の黒人たちは単なる奴隷として抑圧された生活を強いられていた。
 それを目の当たりにしたグレースは、ギャングの父親の忠告を聞こうとせず、村の支配階級としての白人たちに対し、黒人奴隷の解放を叫び、聞き入れない村人たちには、手下のギャングたちに命じ、マシンガンなどの武器でもって威圧する。

 目には目を。歯には歯を。
 グレースは、「自由」を黒人に与えるために、あえて「暴力」という装置を使って「支配階級」を弾圧するのだ。
 それはまるで、現実社会におけるアメリカの対外外交政策に似ている。アメリカこそが真の「解放者」であり、唯一の「正義」であると。つまり、圧倒的な武力を行使して、「自由を脅かす勢力」を駆除し、抑圧されている人民を解放する「正義の味方」なのだと。

 映画は、アメリカをグレースに置き換える。
 開放された黒人たちは、いっときの「自由」が苦痛に変わり始め、またこれまでの「抑圧された居心地のよさ」を心から求めるようになるのだ。
 何というパラドックス。何というアイロニー。全てに開かれた自由の、圧倒的な不自由さ。人間は、何らかの「規制」や「制度」や「管理」の中でのみ、自由なのだろうか。

 ラース・フォン・トリアーは、生まれてこれまで一度もアメリカに行ったことがないという。しかし、彼はアメリカという国について考える。その「制度」について。その「風土」について。

 ラストのエンド・ロールに流れる曲は、デビッド・ホウイの「ヤング・アメリカン」。これには今回も苦笑いしてしまった。ここまでやるか?
 とにかく次の完結編が非常に楽しみだ。

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「ブルーにこんがらがってー」

2006年03月30日 | Weblog
 確か、ボブ・ディランのアルバム「血の轍」(じゃなかったっけ?)に「ブルーにこんがらがって」という曲があったけど、このところ、僕の周りの様々な状況も、ブルーというかグレーというか真っ黒というか、とにかく色んな側面で色んな事柄が複雑に絡まって、収拾が付かない状況が生まれている。

 「別に今に始まった事でもないでしょう、世の中なんてそんなもの。汚くて!非情で!冷酷で!」なんて言われたら、もうそれまでの事なんだけど、ずーっと前から社会の「状況」や「情勢」や「状態」って、さほど変わらずそうして推移してきただけなのか、それとも個人的に自分がそういう「歪み」や「不合理」や「不寛容」に対して、とても敏感になっているからなのか・・・。
 よく解らない。

 まあどちらかと言えば、そういう自分だって「乱世」的な状況を好む傾向があるし、これまでも、自分の周囲で起こった様々な「事件」(別にそんな大袈裟なものではないけれど)に対しては、それなりにその渦中に飛び込んで解決策を見出す努力をしてきたとは思っている。
 そう。誰にだって悩みはある。
 小さい事から、大きな事まで・・・。

 先日、某文学賞の最終選考があって、その応募した作品は見事玉砕してしまったんだけれど、選考委員の一人である某有名作家の、僕の小説に対するコメントを伝え聞いて、ちょっとショックだった。
 
 「筆が荒い。練りこんでいない。拙速に書き過ぎている」という趣旨らしい。勿論、直接聞いたわけじゃないけれど。
 見抜かれてる。完全に見抜かれている。さすがである。やはりプロはちゃんと見ていた。
 そりゃそうだ。一年間ただ遊び呆け、二、三週間で慌てて書き上げた半ナマな作品を、じっくり見直す事さえせずに、締切日当日急いで郵便ポストへと投降する。 これでは、いい作品など生まれるはずがないではないか。
 
 「今年こそは書くぞ!」、あるいは「今年は頭も丸めてちゃんと書く事だけに専念するぞ!」と固い決意を繰り返し、結局何もせずに一年の終わりのベルを聞く。いつも、その繰り返し。
 仕事の忙しさのせいにしたり。あれがあって出来なかっただの、これがあって出来なかっただのと、いつも言い訳に終始したり。
 結局これまで、大手出版社にたった一度応募しただけで、あとはそこいら辺をウロチョロしてるだけ。ウンザリだ。これじゃあ単なるアホでしかない。

 仕事や組織なんて知ったこっちゃないなんて、これまでずっと空威張りして醒めた視線を送ってきたけれど、本当は、立ち位置としての「組織」や「仕事」に、依存し、どっぷりと浸かってきたのは、自分自身だったのである。
 でも、もう止~めた。

 別に理由はないけれど、一年間、禁酒してみようと思ってる。一切飲まない。それから、定期購読は別にして、新刊も買わないし、CDもDVDも一切買わないことにする。
 ただそうしてみたい。ちょっとしたプチ苦行を課してみたい。

 あっ。それからもう一つ。出来るだけ、定時退庁に完全年休消化もね!

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近年稀にみる大反響を呼び起こしている、話題の映画「ホテル・ルワンダ」を観る。

2006年03月29日 | Weblog
 首都圏情報誌「ぴあ」における「読者満足度ランキング」では、断トツの映画満足度第1位。メディア各紙・誌の「映画評」、インターネット上での評価等も、その全てが大絶賛。そして、「ホテル・ルワンダの日本公開を応援する会」の努力もあってか、上映された映画館は観客で先日の超満員。
 などなど。とにかく話題性に事欠かくことがなかったのが、映画「ホテル・ルワンダ」である。

 映画は確かに衝撃的であり、世界の誰もが深く考えるべき内容を含んでいる。
1994年、ルワンダで起こった「フツ族」の「ツチ族」に対する大虐殺をテーマに描いている。100日間で100万人、つまり全国民の10%が亡くなるという悲劇を、真っ向から捉えた映画だ。

 監督は、テリー・ジョージ。「父の祈り」の脚本を書いた人だ。主演が、「クラッシュ」や「トラフィック」にも出ていた、ドン・チードル。
 その他、主役級の俳優陣がたくさんこの映画には出演している。ホアキン・フェニックス。ジャン・レノ。ニック・ノルティ。

 主人公は、ルワンダの超高級ホテルに勤務する「フツ族」の男性だ。一泊が125ドルもするベルギー系ホテルで、格式も高く、料金は現地の人間の平均年収の約半分にもなる。
 ルワンダの政治情勢は緊迫している。
国連の平和維持軍が駐留しているにもかかわらず、「フツ族」と「ツチ族」という、一見全く見分けが付かない二つの「種族」間において、長年に渡る抗争が続いていたのだ。
 そして、遂にその均衡が破られる。
 フツ族の大統領が何者かに暗殺され、フツ族の民兵組織が一斉にラジオで「ツチ族の粛清」を呼びかけたのだ。当然、街は無法地帯となり、国連も仲介には乗り出さないという方向性を示していたことから、見るも無残な大虐殺が繰り広げられることになってしまう。

 主人公のホテルマンは、軍隊の上層部に顔が利くということも手伝い、手練手管を施しながら、「ツチ族」の連れ合いと子どもたちを虐殺から匿うことに奔走する。
 その過程が、緊張感を持って丁寧に語られる。
 やがて、その「ミル・コリン・ホテル」には難民1268人が避難することとなり、何もしてくれない国連平和維持軍を尻目に、難民たちの命を守る壮絶な攻防が始まるのだ。

 平和維持軍とは名ばかりで、大国はただ自国の利益のみを追求するばかり。事実、フランスは、この1994年の大虐殺に至るまで、大量の軍事物資をルワンダに供給している。
 駐在する報道カメラマンが、何故この事実を全世界に報道しないのかと問われ、「世界の茶の間に報道したとしても、『怖いわねえ』のたった一言で終わってしまうだろう」と嘆き悲しむ場面がある。この映画が主張するメッセージの一つだろう。

 そして僕も、その衝撃を少し忘れつつある。
 映画が終わり、それをよかったかよくなかったかという、単なる馬鹿げた「映画的評価」を下し、また日常へと戻ってゆく。
 ルワンダに対する、怒りや、悲しみや、憤りは、勿論今でも忘れずにこの胸の中に刻み込んではいるけれど。

 事実、映画を観終え、渋谷の坂を下り、世界の非情な政治情勢に内心怒りまくりながらも、目の前に佇む年老いたホームレス一人さえ俺は救うことができない。
 第一俺は昨日、高級ワインと肉を喰らい、高いチーズを頬張りながら、ルワンダの悲劇の事などすっかり頭の中から取り除いていたのだから・・・。
 いい気なもんだ。

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村上春樹の新刊「これだけは村上さんに言っておこう」は、ネット読者との330項目によるキャッチボール

2006年03月28日 | Weblog
 もうこうなると、完全に村上春樹オタクなのかもしれない。

 新刊が発売されると、とにかく速攻で買い求めてしまう。でもそれだけならまだいい。再掲されている「村上春樹全集」も全て揃え、これまでに海外の作家を翻訳した作品を集めた中央公論社の「村上春樹翻訳ライブラリー」まで、改めて予約する始末である。
 スコット・フィッツジェラルド、レイモンド・カーヴァー、ジョン・アーヴィング、そしてトルーマン・カポーティ。

 小説にエッセイにノンフィクションに紀行文。対談集や絵本までもあったりするから、その冊数は物凄い数になってしまう。本棚に、村上春樹関連コーナーという張り紙を付けたいほどだ。何か、本を読むというよりも、コレクターの分野に組み込まれるのかも知れない。

 今回、朝日新聞社から刊行されたのが、「これだけは村上さんに言っておこう」というタイトルの、ネット上で繰り広げられた村上春樹本人と愛読者たちによる、メールでのやりとりを掲載した本だ。
 副題がまた長くて、「世間の人々が村上春樹にとりあえずぶっつける330の質問に果たして村上さんはちゃんと答えられるのか?」。

 内容は、深刻な問いというわけではない。
 「村上さんは何故マラソンを走るんですか?」とか「マックを愛用されているようですが?」とか「ウチの奥さんは凄く怒りっぽいのですが?」とか「小説を書くときは手書きですかパソコンですか?」とか「デビット・リンチの映画は好きですか?」とか、まあ、どうでもいいといえばどうでもいいような質問ばかりである。

 でもこれらの問いに対して、当の村上春樹は、真摯に、そして多少のユーモアを込めながら、全ての読者に対して答えを書き込むのである。
 これがまた読ませる。そして楽しい。
 勿論、ハルキ嫌いの人たちなら読む気は失せるだろう。と言うか、まず手に取る事もないだろうし、買う訳もないだろう。
 ただし僕なんかの生粋のファンには、ある意味、小説よりも面白く読めてしまう。

 村上春樹の最近の小説を、僕はそれほど評価していない。
 やはり初期から中期にかけての小説が今でも断然面白いと思っている。ところが、彼のエッセイはどれを読んでも飽きるという事がない。それはやはり、彼のストイックでシンプルなライフ・スタイルが、文章に見え隠れするからだと思う。

 きちんとしたくなるんだよね。綺麗に部屋を掃除して、熱いシャワーを浴びて、何もかもをすっきり仕立て直したくなるんだよね。
 それが何故なのか、今でもよく解らないのだけれど・・・。
 

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今年度アカデミー作品賞を受賞した映画、ポール・ハギス監督の「クラッシュ」は素晴らしい傑作

2006年03月27日 | Weblog
 素晴らしい映画である。

 全てが美しく、しかも切ないくらいに儚くて、重層的でありながら、贅肉というものが一切ない。
 幾つものエピソードが静かに重なり合いながら、溶け合い、うねるようにして流れてゆく。
 これが映画である。そして、これが映画芸術の、ひとつの豊潤なかたちである。

 監督は、ポール・ハギス。あのクリント・イーストウッド監督の傑作、「ミリオンダラー・ベイビー」の脚本を書いた人だ。
 だからという訳ではないけれど、この「クラッシュ」も脚本がとても素晴らしい。まるで、一冊の美しい中篇小説を読んでいるような気がしてくる。
 言葉が活き活きと動いている。それに伴うように画面も絶えず輝きを放っていて、それは途切れるということがない。

 アメリカのLAを舞台にしている。それも、たった2日間の物語だ。その中にあって、たくさんの人物が交互に描かれてゆく。
 やり手の黒人刑事とその恋人。政治家を目指す敏腕検事とその妻。幼い自分の子どもを深く愛している若い職人。人種差別者の警官と、その強引なやり方を快く思わない同僚。盗みと悪事を繰り返す黒人の若い2人組み。海外から一旗上げようとアメリカにやってきた頑固な老夫婦とその娘・・・。

 登場人物たちは、何かに憤り、怒り、不満を漏らし、憎しみに燃えている。そして、ひたすら喚き、苦しみ、感情を荒げることしか出来ずに惑う。
 それらの全く別々なエピソードが、互いに絡み合うことなく、それぞれが独立しながら展開してゆく。そして、その幾つもの展開は、終盤、小さなせせらぎが川下で一つの大きな河となって結実するかのように、大きく重なり合い、そして連結するのだ。

 ラスト、言葉ではいえない高揚感に包まれる。
 微かな希望のようなもの。何かしら、暖かくて、真冬の荒野で燃え滾る焚き火のようなもの。映像も、音楽も、科白も、構成も、その全てに隙がない。

 今年度の洋画ベストテン入り確実である。
 勿論、個人的にではあるけれど。
 いつまでも語り継がれるべき名作である。

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大興奮! ローリング・ストーンズ「A Bigger Bang Tour」東京ドーム公演は熱狂の嵐!

2006年03月26日 | Weblog
 遂に実現したローリング・ストーンズの日本公演。
 2006年3月24日金曜日、東京ドーム夜7時。
 巨大なドームは、人で溢れかえっている。当日券を求める人たちが、売り場に向かって大きな列を作っていた。

 アリーナに陣取って開演を待つ。
 何度もトイレに駆け込んだ。まるで小学校の運動会のリレー競技を待つ、遠い昔の頃のよう。
 観客の年齢は若干高めのようだ。かなり年配の人たちもチラホラと。
 みんなそれぞれ生ビールを買い求め、完全に臨戦状態だ。
 ああ。心臓の鼓動が速まってくる。

 7時から、約30分間程度、前座のバンド。
 それから、また若干の合間。何だよ。7時からじゃないのかよ。
 待つこと30分。
 8時少し過ぎ。突然、照明が消され、前方の巨大スクリーンに、隕石らしきものが大爆発する映像が映し出された。

 出たあ! ミ、ミ、ミ、ミック・ジャガー!
 あああ!! キ、キ、キ、キース・リチャーズっ!
 思わず飛び上がってしまった。
 全員が総立ち。ドームが揺れている。す、凄いっ。

 事前の情報では、一曲目が「ジャンピング・ジャック・フラッシュ」と聞いていたんだけど、「スタート・ミー・アップ」。まあ、解らないでもない。
 ストーンズは、1998年の「バビロン・ツアー」の時が、一曲目に「サティスファクション」を持ってきていた。
 往年の名曲を、前半と後半に振り分ける方法をよくやっているようだ。

 とにかく、キースはカッコいい。
 ギターの弾き方もそうだけど、ちょっとルーズな格好で俯き加減で演奏しているそのパフォーマンスは、ほかの誰にも真似など出来ないだろうな。
 「イッツ・オンリー・ロックンロール」に、「タンブリング・ダイス」に、「ギミー・シェルター」に。
 もう、何が何だか解りません。
 弾けている。ソウルフル。そしてブルースの匂いがプンプンと湧き上がっている。

 キース・リチャーズのソロを途中で二曲挟め、ステージは狂乱の後半戦へと突入する。
 前の女の子は、奇妙なフリで踊りまくっているし、もうドーム自体が踊りまくっているような感じ。
 「ミス・ユー」もやった。
 よく、この曲で踊ったもんだ。昔、六本木のディスコ「ビィブロス」で・・・。

 舞台の袖がアリーナ中央まで迫り出してきた。
 うおおおーーっ!
 「ラフ・ジャスティス」。カッコいいっ! 「ユー・ガット・ミー・ロッキン」。目茶目茶いい!
 とどめは、「ホンキートンク・ウイメン」に「ジャンピング・ジャック・フラッシュ」。
 そして最後は「サティスファクション」。大合唱! 
 もうドームがシェイクしてる。

 しっかし。ミック・ジャガーは、ステージの右左を縦横無尽に走り回るんだけど、本当に60歳を過ぎているんだろうか?
 普通なら定年である。地域デビューである。年金生活者である。
 このパワーは一体なんなんだ?!

 多分、これがローリング・ストーンズの見納めかも。
 まあ、そういいながら来日してるけど。
 でも、世界最強のロックン・ロールバンドであることは間違いない。

 力を貰った。勇気を貰った。
 なんとか、これからも生きていけそうな気がする。
 凄いっ!
 

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「東京へー②」

2006年03月25日 | Weblog
 余り眠れないまま目覚めた朝。
 春の陽光が、優しく街中を包んでいる。
 珈琲を飲み、またベッドに横たわって目を瞑るけれど、様々な事が次から次へと駆け巡る。仕事の事・・・コンサートの余韻・・・これから進むべき方向性・・・友人たち・・・色んな事・・・。

 ホテルをチェック・アウトして、電車を乗り継いで日比谷の映画街まで。
 胃が重い。お腹は空いているのに。
 今日は暖かい。革のジャケットを羽織るだけでも何とか凌げそうだ。土曜日の街。行き交う人々で賑わっている。

 映画「クラッシュ」。
 超満員。それを観終え、今度はすぐに次の映画のチケットを求めて観客の列に並んだ。
 2本目の映画は、ラース・フォン・トリアー監督の「マンダレイ」。
 「ドッグヴィル」に続くアメリカ三部作の第2作目。
 客はそれほどでもない。

 3本目の「ブロークバック・マウンテン」まで若干の時間がある。
 近くのハンバーガー・ショップに駆け込み、珈琲とハンバーガーを食べる。何か疲れてきた。
 銀座方面から人が流れ込んでくる。土曜日の賑やかな午後だ。
 疲れと胃痛で、映画を観たい気分が萎える。
 どうせ、来月には「シネマ・ディクト」で封切りだしなあ。で、結局パス。

 東京駅から最終便の新幹線に乗り込んだ。
 夜の街を車窓からぼんやりと眺める。沢山の本もバッグに詰めてきたのに、読む気が失せる。
 日暮里の淋しいプラット・ホーム。沿線のマンションの窓の灯り。テレビが点いている。一家団欒の優しそうな匂い。土曜日の夜の静かな街。

 こうして、また一つのイヴェントが終わった。
 また明日から、いつもの日常が繰り返されてゆく・・・。
 昨日、キース・リチャーズから貰ったパワーは一体何処に行っちゃったんだろう? 多分、この心のずっと奥底に息づいている筈だ。でなきゃあ、困る。でなきゃあ、余りにもやるせない。

 新幹線を八戸駅で乗り換え、青森駅行きの最終列車。
 同じ車両に、また偶然にも同じ組織の同じ課のEを発見。しばしの雑談。それから、携帯でのやりとり。
 高架線に入り、12時を過ぎた夜の街が浮かび上がってきた。
 帰って来たのだ。いつもの場所へと・・・。

 夜道を家まで。
 誰もいない淋しい国道。少し寒い。
 また色んな事をぼんやりと考える。
 方向を転換しよう。もう、自分の個人的な担い、目標だけをクローズ・アップさせていこう。

 凄く疲れている。

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「東京へー①」

2006年03月24日 | Weblog
 朝6時に起床。
 慌ててジーパンと革のジャケットを羽織り、青森駅までの道を走る。
 灰色の朝に小雪が舞っている。コートを羽織るべきなんだろうけど、東京の気温を考えると仕方が無い。
 列車に飛び乗り、朝日、読売、毎日、日経、東奥日報を次々と捲りながら缶コーヒーを啜った。
 野辺地駅を過ぎた辺りから、青空が広がる。八戸駅で新幹線に乗り換える頃には、晴れ渡った朝の清々しい風が頬を撫でていた。

 久しぶりの東京。
 ところが何と、新幹線に乗り込む寸前、見慣れた顔が。某国際芸術センターの学芸員K女史。奇遇だなあ。
 大宮付近から乗客が減ったので、しばしの雑談。
 と、今度は前の席にも見慣れた顔が。
 今度は何と、棟方志功館の学芸員であるY女史が。またまた暫しの雑談に花が咲く。しっかし奇遇。

 東京は曇っていた。少し風がある。思ったよりも寒い気がする。
 浅草橋での所用を済ませ、そのまま渋谷まで。
 今度は至るところで人身事故。電車が立ち往生。
 やっとの思いで渋谷に辿り着き、さくら通りにあるミニ・シアターまで。
 映画「ホテル・ルワンダ」。満員。
 朝から缶コーヒーだけしか入れてないから、お腹がグーグーと鳴っている。

 映画を観終え、今度は水道橋を目指して小走りに駅の階段を駆け上る。
 東京ドーム。「ザ・ローリング・ストーンズ」のコンサート!
 キース・リチャーズに会える! あとは何を望めって言うんだ? 何もないっ!
 ドーム前には、「コンサートのチケットを売ってください」と厚紙を掲げた女の子たちがいっぱい。
 胸の鼓動がドックン、ドックン。

 そこに、携帯電話で、所属する組織の人事異動の知らせが届く。
 ふーん・・・。ふむふむ。へーえ。

 どうでもいいや。ライク・ア・ローリング・ストーンだ。
 いいだろうなあ。キースのように生きられたら。俺にはあの頃、ロックしかなかったんだ。それさえあったら幸せだったんだ。
 いつの頃から、群れの中で安穏と暮らす、瑣末な出来事に一喜一憂する、そんな小市民になっちまったんだ?

 怒涛のコンサートが終了し、美味しいビールを流し込み、ベッドに潜り込んだ。
 眠れない。
 浅い眠りと緩い目覚めが、岸辺に寄せる波のように繰り返される。
 
 朝が来ちゃった・・・。

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やり切れない現実社会。そこから逃げ出すように、映画「サウンド・オブ・サンダー」を観に行く。

2006年03月23日 | Weblog
 人間の世界なんて、ほんとどうしようもない。
組織なんて単なる共同幻想でしかないのに、何で人間はそれを笠に着て権力を誇示したがるのだろう? 

 それに立ち向かう方法として、例えば外部から正攻法で攻め立てるのが最も有効的なのか、それとも内部から中枢に入り込み、元凶をきちんと摘出すべきなのか。
 いっそ、ダース・ベイダーになって、暗黒面に導かれるのが最良の方策なのかも。つまり、この世の中を完全に絶望し切る。あらゆるものを破壊し尽くし、愚かなものたちを真に目覚めさせる。
 これしかほかに選択肢なんてないのかも・・・。

 などと考えているうちに、また言いようのない黒い塊が、胸のほうから湧き上がってきたので、ひとまず映画の中に逃げ込むことにした。

 「サウンド・オブ・サンダー」。いかずちの音。それって、今の俺かい?
 監督は、贔屓(ひいき)のピーター・ハイアムズ。こういう監督って好きだ。アカデミー賞に絡んだり、高尚な映画には見向きもしないで、娯楽に徹した映画を職人のように作り続ける。
 これって簡単なようで凄く難しいことだと思う。批評は一切許されない世界とは異なる、全ての批判に曝される世界。解りやすく楽しめる映画って実は一番難しい。

 「カプリコン1」に「サドン・デス」などなど。これまでもピーター・ハイアムズは、楽しくて面白いアクション映画の類を撮り続けてきた。勿論、それなりに駄作もあったけれど。
 今回の、タイム・トラベルに関する近未来SF・パニック・アクション映画「サウンド・オブ・サンダー」は、制作プロダクションの倒産や資金難などの紆余曲折を経たのち、やっと完成をみた映画である。
 だから、チープな場面やB級臭さが滲み出ているのもまた否めない事実。致し方ない。

 でもそれを逆手に取るように、ピーター・ハイアムズはこなれた手法で、レイ・ブラッドベリの短編小説をそれなりに娯楽映画として仕上げている。
 困難な状況や限られた予算内で、知恵と工夫を駆使して作り上げられた映画。莫大なお金や宣伝費は投入されてはいないけれど、作り手の誠意が伝わってくるような映画。
 そういう映画がたくさんあっていい。

 まあ、「サウンド・オブ・サンダー」は、ちょっとばかりキツイけど・・・。

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「STARTING OVER」

2006年03月22日 | Weblog
 よく頭を丸坊主にした。
 それまで長かった髪の毛を、いきなりバッサリ切ってしまうのである。

 何かに煮詰まった時、何かに区切りをつけたい時、それから、何かを捨て去って心機一転を図りたい時・・・。
 そうやっていきなり丸坊主にしてみたり、本棚にある全ての本を古本屋に売り払ったり、家にあるCDを全部処分したりして、新しくやり直すキッカケを作ろうと悪戦苦闘してきたわけだ。
 つまり、一度錆び付いてしまったガラクタを含めて、何もかも捨て去ってしまいたいという欲求(そんな事、実際はありえないけど)である。

 それで何かが変わったか? 新しい自分に生まれ変わったか? 泥だけの体を熱いシャワーで綺麗に流すみたいに、爽やかに再生したか? 例えば、復活を果たしたロッキーみたいに。

 いや。そんな事はなかった。
 勿論、最初は違う。気合も入り、何事にも前向きに考えるように努力をし、表面的な事だけど、毎日のマラソンを課したり、規則正しい日常生活を組んだり、一年間のスケジュール表を作成したりして、自らのモチベーションを高める算段をしてみる。
 でも本当は、自分で解っているのである。そんな形だけの「捨て去り」や「新規まき直し」じゃあ、何も変わりはしないのだという事を。
 そんな行為は、所詮、付け焼刃でしかない。単なるマスターベーションだ。根本から自分自身を変えない限り、このまったりした平凡な日常から脱出出来るすべなど絶対ない。

 何をしても、何をやっても満足できない自分がいる。この現状に。この現実に。
 じゃあ、グダグダと御託を並べずに速攻で行動すればいいじゃんという意見もある。正解である。しかしそれが一番難しい。絶えず、もがき苦しみ、抗ってはいるけれど。

 先日、ある文化芸術的施設事務局に勤務する某女史から、「あなたの楽しそうにしている時のブログ日記って、あんまり面白くない。やっぱり、テンバっている時とか落ち込んで切なそうにしている時のあなたのブログが、一番面白い!」だと。

 そうかあ。もっともっと落ち込んで、もっともっと不幸になれば、もっともっといい文章が書けるのか! よし、不幸になろう!
 少し本気でそう思ってしまった。
 そういう自分が何だか怖い、そしてまた、何となく哀しい・・・。


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「夢見る頃を過ぎても・・・」

2006年03月21日 | Weblog
 オフィスから少しずつ人が消えてゆく。
 明日は休日だ。それぞれが楽しげに、夜の街に吸い込まれるように駆けてゆく。
 外は、まるで真冬が舞い戻ったような寒さだ。冷たい風が吹き荒れている。

 また、言いようの無い寂しさが襲って来た。
 道行く人たちが、みんな幸せそうに見えてくる。そして自分だけがぽつんと独り残されたような。真冬にぽっかりと浮かぶ満月みたいに。

 親しい人と待ち合わせ、一時間ほど話をする。
 取り留めの無い話だとか、ちょっとだけ深刻な話だとか。
 北の海が荒れている。漆黒の闇に白波が光る。海辺の夜景が悲しげに映る。
 家の近くで降ろしてもらい、また僕は踵を返した。別に何処に行こうというわけでもないんだけれど・・・。

 昔は、あんなに夢を語っていたのに。
 叶う事などないような、とても現実離れした夢だとか、それから少し頑張れば手に届きそうな夢だとか。
 いつからだろう。皮肉っぽく、斜め目線で物事を見定めるようになってしまったのは。めめしく、悲観的に、投げやりに、諦め顔で、先を見過ごすように。

 人気の無い道に冷たい風だけが舞っている。
 家々の優しそうな灯り。暖かく優しそうに灯っている。
 ああ。
 何もかもが中途半端だ。いつまでこうして彷徨っているのだろう。
 
 そしてもう、時計の針が火曜日を指している。窓硝子を風が叩く。ゴーッという音がした。それ以外は何も聞こえない。
 上昇したり、下降したり。快晴になったり、土砂降りになったり。
 心はまるでジェット・コースターのよう。絶えず、乱降下する。

 もうすぐ本格的な春が訪れ、それもやがて過ぎてゆくだろう。
 次には、暑い夏がやって来るけれど、その灼熱の季節さえも、あっという間にこの街を去ってゆく。
 日々は儚い。人の一生も泡のように消えてしまう。

 完璧な一日など何処にもない。
 時は、何も言わずに目の前を過ぎるだけだから・・・。

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「南極物語」VS「南極物語」

2006年03月20日 | Weblog
 「南極物語」は、1983年に公開された日本映画である。そして、その年の大ヒットとなった。
 主演は高倉健。それから故夏目雅子も出ていた。監督が、2002年惜しくも亡くなった蔵原惟繕。
 南極の昭和基地で15匹のカラフト犬が置き去りにされ、それを救う観測隊員の実話に基づいたドラマだったけれど、今度はディズニーがハリウッドでリメイクし、アメリカではボックス・オフィス初登場第1位を獲得してしまった。日本公開タイトルも、同じ「南極物語」。

 フジテレビも中々商売上手で、日本で映画が封切られた3月18日、夜9時から3時間枠で日本のオリジナル版を放映したのである。まあ、これもよくあるパターンですが。

 当然わたくしめは、その日のお昼にハリウッド版「南極物語」を映画館で観て、夜は日本オリジナル版「南極物語」を再見することになる。
 で、どちらの映画が面白かったか?

 日本版の「南極物語」のほうが断然面白かった。
 ハリウッド・バージョンは、日本版の美味しい淹れたて珈琲をお湯で数倍に薄めた感じ。っていうよりも、全然方向性が違ってる。
 昔観た「南極物語」の方はもう全然記憶になくて、初めて観る映画のような感覚だったのだが、それと同じ雰囲気をアメリカ版に求めると失望するかも。
 これは、全く別の映画だと割り切って観た方がいいかもしれない。

 ポール・ウォーカー主演の「南極物語」は、8匹のそり犬がアメリカの基地で鎖に繋がれたまま置き去りにされ、それをポール・ウォーカーがもう一度仲間たちと協力して救出に向かうという話に変えている。
 確かに、映像も数段綺麗になっているし、アクションも随所散りばめて飽きさせないような工夫はしているようにも思える。
 でも、表面をなぞるだけのような展開だし、犬たちの演技は素晴らしいけれど、そこから飛び出る何かがこの作品には足りない気がする。

 以外だったのは、オリジナル版には、南極という地の厳寒の荒々しさがよく出ていることと、犬と人間との関係性を単にウエットに捉えていないことで、逆な意味における「信頼関係」がきちんと浮き上がって見えることだ。
 もう少し軽い映画なのだとずっと思っていた。

 ディズニー映画の衰退が言われて久しい。
 アニメ部門も、CGではピクサーとの友好関係で何とかここまでやってきたようだけど、手書きアニメでは最近大きなヒットも生んでいない。
 別に、毒を盛り込めなどとは言わないけれど・・・。ちょっと薄味過ぎるなあ、近頃のディズニー子ども関連映画は。

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真冬に戻った日曜日。でも、レイ・パーカー・Jrを聴きながらスイート&ホット。

2006年03月19日 | Weblog
 昨日までの、あの春の陽気は何処に行っちゃったんだろう?
 朝から冷たい風が街を吹き抜ける。雪も降って来た。
 今日も朝から大いそがし。
 それに今日は、日本対韓国の野球準決勝。日本、もう後が無い。

 午後の1時から、市内中心部のホテルで開催される「世界文化遺産登録推進セミナー」へ、歩いてトコトコと。
 しっかし寒い。どんよりと曇った空から雪が舞い落ちる。
 別に、遺跡とか世界遺産とか別に興味があるわけじゃないんだけど、これも一宿一飯の義理というか何というか・・・。
 島根県の「石見銀山」が世界遺産登録に向けて市民運動を進めているらしく、そこの事務局長の講演。
 2時30分には終了。

 今度は家に戻って車を出して、郊外のスポーツ・アリーナまで「世界の蘭展」へ。
 これも別に蘭が好きだとか、花に興味があるとかじゃないんだけど。一宿一飯の義理というか何というか・・・。
 少し薄日が差し込む車内。フル・ボリュームで、レイ・パーカー・Jrを聴く。やっぱりこういう寒い日には、フィリーなソウルがいい。ビター&スイート。
 レイ・パーカー・Jrなんて実に久しぶりだ。
 もう一度、ちゃんと黒人音楽の歴史を辿ってみようかなあ。ホッとするね。

 「世界の蘭展」。
 大賞を受賞した作品をじっと眺める。うーん。いいなあ。気品がある。しかもシンプル。詳しい事はよく解らないけど。
 外に出たら、雪混じりの冷たい風が襲って来た。また真冬に逆戻りの日曜日。
 でも車の中は、甘く切ないソウル・ミュージックで充たされている。

 夜は、中原俊監督のカーリング映画「素敵な夜、ボクにください」の、青森ロケ終了に伴う打ち上げ式。
 「チーム青森」のトリノ・オリンピックの大活躍で、一躍有名になってしまったカーリング競技。
 ちょうどいいタイミングで映画も進んでいる。公開は来年の春だけど。

 何か、レイ・パーカー・Jrをきっかけに、ソウル・テイストな音が欲しくなった。「スタイル・カウンシル」の「カフェ・ヴリュ」に、「ホール&オーツ」をかける。ブルー・アイド・ソウルもいいなあ。

 音楽は人を救うことがある。
 これまでに何度救われたことか。
 などと、ボーっと考えていたら野球の結果が飛び込んで来た。そうだ。忘れてました。
 勝った! よし。いよいよ決勝戦。
 

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漫画「20世紀少年」と「バガボンド」、それから福士正一氏の舞踏「オドラデク弥生公演」のこと。

2006年03月18日 | Weblog
 朝起きて、珈琲とパンを食べ、急いで自転車に乗ってスポーツ・ジムまで。
 もうほとんど雪はない。でも裏通りに入ると、まだ溶けずに固まった雪がこびり付いている。
 天気がいい。

 「歩く脂肪燃焼」のエクササイズ。それから腹筋を100回。
 家に戻って、窓を開け、春の風を部屋いっぱいに入れながら部屋を片付ける。それが終わると、今度は急いでシネコンまで車を飛ばす。
 今日から封切りの「南極物語」。
 
 しっかし頭に来るのは、字幕スーパー版が上映されていないことである。ちょっと酷くないか? 
 確かに劇場側としては、子ども向けということで全部を吹き替え版にしたのだろうけど、オリジナルで観たい人だって沢山居るだろうに。
 せめて1回だけでも字幕スーパー版を上映すべきだと思う。

 映画を観終え、今度は夕食を早めに済ませ、今度は「オドラデク弥生公演」へ。
 でもまだ時間がある。
 井上雄彦の「バカボンド」22巻と、浦沢直樹「20世紀少年」21巻を読む。「20世紀少年」はもう佳境に突入。何か終わりが見えて来た。
 どちらの漫画も、日本漫画史に残るだろうなあ。

 車を飛ばして、郊外の小高い丘の上に建つ「生成空間オドラデク」まで。
 今日は、新人のデビュー公演も兼ねているらしい。
 舞台の向こうに、市内の夜景が浮かんでいる。とても綺麗だ。ライトアップされた舞台空間。6時半に始まった。

 通称「踊る団体職員②号」の舞踏が、まずは始まった。
 新聞紙を首と足に巻き付け、ゆっくりと舞台を回る。
 工藤岳洋さんという人の音楽が素晴らしい。ノイズ、自然の響き、それから日本のフォークっぽい楽曲。
 でも、正直に言うと、デビュー戦ということなので仕方ないのかもしれないけれど、やはり「踊る団体職員②号」氏、日常が表情に現れてしまう。
 空気を切り裂けない。壊せない。

 そして徐に福士正一氏の登場。
 やはり違う。さすがである。
 日常と呼べるようなゆるやかな流れが、突然遮断されるのだ。日本刀でスバッと切り裂くように。
 この動きは何なんだろう。予定調和を拒否している。しかもメランコリック。優雅でいて、斬新。
 背景の夜の街とも溶け合うようでいて、全く逆にも思えてくる。不思議な空間。

 福士正一氏には、演歌でもアバンギャルドな曲でもノイジーなりズムでも、とにかく何でもよく調和する。
 浮き上がってくる何か。それがいい。
 悲しそうで。切なそうで。儚そうで・・・。

 終了後の飲み会には、次の予定があって参加出来なかったのが残念。
 車を飛ばして夜の街を急ぐ。
 春である。

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遂に発売された、PS2「ファイナル・ファンタジーⅩⅡ」。さっそくゲーム中毒!

2006年03月17日 | Weblog
 飲み会があって、二次会にも誘われたけど、勿論パス。
 アマゾンで予約していたプレステ2の「ファイナル・ファンタジーⅩⅡ」が、今日届いているはずだ。
 もう、今日一日このことだけを考えてたもんね。速攻で、酔っ払っているにも係わらず自宅までの道を急ぐ。
 何か吐きそう。

 急いでプレステのスイッチを入れて、ゲーム開始!
 しっかし。最近、ほとんどゲームらしいゲームをしていない。「バイオハザード4」以来か。やりたいゲームは沢山あるんだけど、一度やりだすと止まらなくなるから怖い。

 僕は、「ドラゴン・クエスト」よりも「ファイナル・ファンタジー」派である。「Ⅰ」から「Ⅱ」、「Ⅲ」、「Ⅳ」、「Ⅴ」、「Ⅵ」と、任天堂のスーパー・ファミコンでのシリーズから、ソニー陣営のプレステ版「Ⅶ」からのシリーズも、当然全クリしている。
 どちらかと言うと、アクション・ゲームとかシューティング・ゲームは苦手で、そのほとんどがロール・プレイング・ゲーム、すなわちRPGである。

 その12作目。
 イヴァリースと呼ばれる世界の物語である。
 導入部のCGがメチャメチャ綺麗だ。もう完全に映画である。
 ただ、最近のFF(ファイナル・ファンタジーの略ね)は、余りにもストーリーやCGにばかり力を入れ、本来のゲーム自体の面白さがなくなってきたという批判がある。
 僕もその意見に賛成だ。
 最近のFF、というかRPGゲーム全般に言えることは、複雑になりすぎて取っ付き難いということ。だから、ゲーム離れも進んでいる。

 長い導入部が終わって、遂に本編。
 あの「Ⅳ」、「Ⅴ」、「Ⅵ」の時の、ワクワクするような高揚感、それからレベル上げする時の嬉しさやトキメキがあるんだろうか?
 今度は失望したくない。

 今回は、これまでと違って、フィールド上でそのまま敵とのバトルになる。そういう意味では、ストレス感がない。
 まだ序盤なので、召喚獣も出てこないし、魔法の威力も弱い。何といってもRPGの醍醐味は、味方のレベルアップと敵ボスとの遭遇。
 これである。

 それから新しいFFは、「ライセンス」と呼ばれる、キャラの資格や技術を習得するシステムや、作戦指示書ともいうべき「ガンビット」というものがある。
 多分、このゲーム、クリアまで100時間ぐらい掛かるのではないだろうか。物凄く奥が深そうである。

 また今日から徹夜の日々が始まる。
 ああ・・・。

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