お国言葉について山頭火は嘆きます。この辺の言葉はアクセントが何だか妙で、解らないことが多く、言葉の解らない寂しさは旅人のやるせなさのひとつであると言います。そしていよいよ市街を後にして田圃に踏み入り、なんとなくほっとした気持ちになっていくのです。「…山や水が、そして友が私を慰めいたわり救い助けてくれる。」と感傷的にもなっています。角屋という宿屋に辿り着くまで四里の道を行乞して歩き、すっかり疲れ果てての心境でしょうか。それでも一室一灯を占有してのんびり読み書きできる安らぎを、何事にも代え難く宿賃の二十銭三十銭には代えられないと強きであります。そして付け加えます。「…此宿はかなり広い家だが、お客さんとしては私一人だ、主人公も家内も好人物なれど、不景気風に吹きまくられてゐるらしい。」と。<o:p></o:p>
途次青島をを見物し、境内の井戸水が忘れえぬものと感嘆し、久しぶりに押し寄せる海の白い波を見るのも悪くはないとしながらも、海の動揺より山の閑寂を愛すると付け加えています。そして旅について薀蓄を傾けるのです。「…草鞋がしつくりと足についた気分は、私のやうな旅人のみが知る嬉しさである、芭蕉は旅の願ひとしてよい宿とよい草鞋とをあげた、それは今も昔も変わらない、心も軽く身も軽く歩いて、こころおきのない、情のあたたかい宿におちついた旅人はほんとうに幸福である。」と。<o:p></o:p>
宿に国勢調査員が宿に来て色々訊ねられたと言い、先回はどこそこ次回は何処で受けるか、いや墓の下かとさり気なく話を逸らします。<o:p></o:p>
昭和の五年の時点で国勢調査が行われていたとは驚きでした。それも旅人にまで及んでいたとは恐れ入りました。<o:p></o:p>
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夕日まぶしい銅像を仰ぐ<o:p></o:p>
涸れはてて沼底の藻草となってしまって<o:p></o:p>
波の音たえずしてふる郷遠し<o:p></o:p>
波音遠くなり近くなり余命いくばくぞ<o:p></o:p>
お茶を下さる真黒な手<o:p></o:p>
白波おしよせてくる虫の声 <o:p></o:p>
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山頭火の俳号について<o:p></o:p>
「山頭火」とは納音の一つである。山頭火の生まれ年の納音は山頭火ではなく「楊柳木」である。「山頭火」は、30種類の納音の中で字面と意味が気に入った物を選んだだけであると『層雲』の中で山頭火自身が書いている。<o:p></o:p>
以前青森の居酒屋のカウンターで飲んでいた時のことです。東京から出張できているという二人が「おやじさんフランス語で話すのはやめてくれないか」と冷やかしていました。私たちの地区は、先祖が青森が多いですので、たいていのものは理解できます。今の子供たちはテレビのせいか、標準語を使います。
今日は。
よくテレビなので青森言葉を聞いてる分には愉快と思いますが、実際に用向きの話となったら面食らうでしょうね。
(下記アドレスからも辿れます)
http://pub.ne.jp/relaxia/?entry_id=1422851