うたのすけの日常

日々の単なる日記等

その日その日で気儘に

2018-05-30 08:28:52 | 思い出

 思い出といっても暮らし育った住居に関して綴ってみました

 というのも今朝の朝刊の、家庭欄とでもいうのか、そこに都会から田舎生活に移住した人達の成功談や失敗談。そして地元の人の反論やアドバイス等が掲載され、なかなか面白い読み物になっていました。わたしもどっちかと言えば田舎生活にあこがれがあり、未だにそんな誘惑に駆られることがあります。しかしこの齢では受け入れる自治体の方で迷惑であろう。そんなことは当たり前で、過疎地帯では若い人たちを歓迎しているわけで、わたしとしても田舎生活に対応する術に十分欠けていることは承知しているわけであります。それに現在の住所は、水戸市と頭にあるものの、駅に出るには、一時間にやっと一本のバスを利用、休日ともなれば本数はさらに減るといった、田舎と大差ありません。
 まあ愚痴はそれぐらいにとどめて本題に移ります。わたしの住所遍歴とでもいいますか。
 先ずは生まれは東京は荒川区日暮里七丁目で家業は食堂です。そこが線路際にあったため、今度の大戦で強制疎開で取り壊され、通称山上と呼ばれた日暮里三丁目に移転営業再開。空襲が激化する恐れからあたしは福島に学童疎開。姉と妹たち三人は縁故疎開で茨城県へ。東京には両親と勤労動員されていた兄ともう一人の姉が残りました。やがてそ営業再開しましたが敗戦間際に焼け出され、親たち四人は日暮里四丁目の長屋の二階六畳間に間借り生活をはじめました。
 そして戦争が終わりました。縁故疎開組が、あたしが福島から六畳間に合流し、総勢、両親に兄、姉二人、妹三人の八人の大家族が寝起きしていました。一番下の妹はまだよちよち歩きの、戦時中に夫婦して亡くなった一番上の姉の子です。やがて下の大家にも家族が疎開先から帰り、当然ながら立ち退きを迫られ、常磐線の三河島にほど近い一戸建ての二階八畳間に引っ越ししました。尤もその前後には上の姉は住み込みで職を得、兄は家に滅多寄りつかぬ生活を送っていました。
 そしていよいよわが家族の復興でした。あたしは既に中学生、敗戦直後の東京は盛り場を彷徨したり、図書館で読書に耽り、映画に通うといった、学業そっちのけの日々でした。
 やがて親たちは姉も含めて建築資金に奔走し、日暮里駅近くに、十二坪のバラックを建て、営業再開に満を持したのです。