フィクションのチカラ(中央大学教授・宇佐美毅のブログ)
テレビドラマ・映画・演劇など、フィクション世界への感想や、その他日々考えたことなどを掲載しています。
 



 昔若いときにこんな本を読んでいた……というのは一種の黒歴史という面があります。私の場合、高校生のときに加藤諦三や森村桂を読んでいたことをこのブログで暴露し、自ら恥ずかしい告白をしました。

 → 断捨離で表に出た黒歴史 (2023年5月28日)
 → 黒歴史はまだあった~森村桂の文庫本 (2023年9月3日)

 今日はその後日談のようなことを書きたいと思います。9月のブログにも書いたように、私が愛読していた1970年代の森村桂は、かなりの人気作家でした。小説家というよりは自分の体験を題材にしたエッセイストの面が強く、その書いた文章は森村桂という人そのもののイメージを形成していました。そのイメージとは、「型破りな行動力のあるお嬢さん、でも結婚に夢を持って憧れて、その結果自分の書いた本の読者と運命的な出会いをして、幸せな結婚をした女性」というものだったと思います。
 しかし、その後森村桂は、そのたくさんの著書のモデルとなった配偶者とは離婚し、別の男性と再婚し、軽井沢でケーキ店を開業し、やがて亡くなった……という経過をたどります。私の森村桂愛読は、私自身の高校生時代の2年間ほどで終わりましたので、実は元の「運命的な出会いをして、幸せな結婚をした女性」というイメージのまま、私の中ではあまりイメージの更新がされていなかったのです。
 ところが、近頃になって少し森村桂のことを調べてみたところ、彼女が再婚したのが1979年のようなので、私がもう少しだけ森村桂愛読を続けていたら、私の中での森村桂のイメージは大きく変わっていたかもしれません。そうしなかったのは、そして、同じイメージを持ち続けてきたことは、私にとっては幸せなことだった気もします。ただ、今年になって少しだけ森村桂のことを調べ、再婚後の森村桂の本『それでも朝はくる』や再婚相手三宅一郎の著書『桂よ、その愛と死』を読んでみて、私が高校生のときに持っていた森村桂のイメージが大きく変わりました。どう変わったのかを簡単に書き尽くすことはできませんが、森村桂の育った家庭、最初の結婚の背後にあった苦しみ、その後の作家としての葛藤、などが強く伝わってきました。
 『それでも朝はくる』や『桂よ、その愛と死』を読まない方がよかった、という気持ちも強く湧いてきました。『それでも朝はくる』では、森村桂の最初の結婚相手がかなり悪辣な人物として描き直されています。私の高校生のときに持った、森村桂の幸せな結婚生活のイメージが根底から崩されてしまいました。また、『桂よ、その愛と死』では、森村桂の再婚相手の立場から、森村桂自身やその母親、最初の結婚相手のいわば暗い側面が重点的に描かれています。
 おそらく、森村桂とその最初の結婚相手のどちらからその関係を見るかで、見方はまったく変わってくるのでしょう。また、森村桂の再婚相手の書いていることをそのまま全部信用していいのだろうか、という疑問も残りました。ただ、どの文章もみな一人の人間の「ある側面」でしかなかったので、それらを複数折り重ねていくことでしか、森村桂という人に近づいていくことはできないのだろうと思います。いずれにしても、私が高校生のときにもっていた森村桂という人のイメージは、50年近い年月を経て大きく変わることになりました。
 森村桂の死は2004年のことでした。「関係者によると自殺と見られる」という報道がありました。今さらですが、高校生の頃に愛読した作家の冥福を祈りたいと思います。

※このブログはできるだけ週1回(なるべく日曜)の更新を心がけています。





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