フィクションのチカラ(中央大学教授・宇佐美毅のブログ)
テレビドラマ・映画・演劇など、フィクション世界への感想や、その他日々考えたことなどを掲載しています。
 



 『不適切にもほどがある!』があちらこちらで話題になっています。今回はそのうちの一つに関連して書きたいと思います。
 そのうちの一つとは『朝日新聞』(2024年2月28日朝刊)掲載の神里達博(千葉大学教授)の記事です。そこでは『不適切にもほどがある!』に言及し、「かなり多くの視聴者が、このドラマの『PC批判』的な方向性に共感している」と分析し、「そもそも令和の日本社会が、『正しさの行き過ぎ』を娯楽として消費できるほどに、差別や人権について十全な対応ができているのだろうか」と疑問を投げかけました(注記。「PC」は「ポリティカル・コレクトネス」のことです)。その考え自体はまっとうなものだと思います。ただし、テレビドラマ研究とは土俵が違っているな、と思いました。それはこういうことです。
 社会にとってあるテレビドラマ作品がどのように作用しているかという観点、もっといえば、社会をより良くしているのかどうかという観点からすれば、上記の意見はその通りだろうと思います。しかしながら、テレビドラマ作品は社会をより良くするために存在するわけではありません。むしろ、社会の問題を浮き彫りにしたり、そこに生きる人びとの心の中にある毒を表面化させたりする作用も持っています。だとすれば、私は『朝日新聞』掲載の意見に逆に問いたいと思います。「社会が十全に対応できるまで、『正しさの行き過ぎ』を娯楽にしてはいけないのでしょうか」と。(神里教授はけっして「いけない」と言っているわけではないと思うのですが、論じる土俵が違うということをここでは言いたいという趣旨です。)
 朝日新聞掲載の意見はまっとうではあるものの、テレビドラマの本質には沿っていないと私は感じます。また、テレビドラマ制作者にもそれ相当の覚悟があるはずです。『不適切にもほどがある!』の脚本家・宮藤官九郎は、さまざまな人間の姿を、笑いを通じて描き出してきました。そのことは、『学びの扉をひらく』(中央大学出版部)に収録された私の文章でも書いたことがあります。人の死(『木更津キャッツアイ』)も東日本大震災(『あまちゃん』)も、深刻になりすぎず、究極的には笑いの要素を捨てずに描き出してきました。今回もそうです。この作品が社会をより良くすることにはつながっていないのかもしれませんが、それでもそれを笑いにして、人びとの気持ちを浮き彫りにしてしまうところにこそ、脚本家としての宮藤の覚悟があると私は考えます。
 「娯楽」には「娯楽」の覚悟がある。「娯楽」に人生や命をかけている制作者たちがいる。私はそう考えてテレビドラマ研究をしています。

※このブログはできるだけ週1回(なるべく日曜)の更新を心がけています。ただし、今回は珍しく土曜の更新でした。




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