このところ断捨離をしていることは、このブログに何度も書きました。「まだ断捨離やっているのか」「まだ終わっていないのか」と思われるかもしれませんが、「あきらめのわるい男」の私としては、1年くらい時間をかけて、かたづけをしていく覚悟でいます。
さて、断捨離で昔読んでいた加藤諦三の本が出てきた話を以前に書きましたが(⇒「断捨離で表に出た黒歴史」)、まだまだ出てきました。しかも冊数がすごい。高校時代に読んでいた森村桂の文庫本がこんなに出てきました。しかも、森村桂の本だけは他の本と区別して、特別にてんとう虫イラストのカバーをかけていたのでした。高校生の私、可愛すぎだろ!
今は文学研究者となった私ですが、本のほとんどない家庭に育ち、子どもの頃はシャーロック・ホームズくらいしか読んだことのない子どもでした。その私が高校生(仙台第一高校生)の頃に学校の近くにあった県立図書館(宮城県立図書館。当時は榴ヶ岡駅近接の榴ヶ岡公園内にありましたが、今は移転しています。)でたまたま読んだ森村桂に「ドはまり」してしまい、発売されている文庫本を全部買って読むほどになりました。
当時(私が高校生だった1970年代半ば)、森村桂は人気作家でした。「自分の作品コーナーがあるのは川端康成氏と森村桂さんぐらいであるそうだ」と書かれた解説文もありました。とはいうものの、森村桂といえば、若い女性の夢みたいな憧れと体験談を描いた『天国に一番近い島』か、結婚をめぐるエッセイ本というイメージの作家でした。男子高校生が「森村桂を愛読しています」なんて堂々と言えるような作家ではありませんでした。ドストエフスキーとは言わないまでも、せめて庄司薫くらいなら名前を挙げてもよかったかもしれませんが、森村桂好きとは当時でも言いにくいところがありました。
ある日、部活(当時私は陸上部でした。優勝はできませんでしたが、県大会で上位入賞できるくらいの選手でした。)の後に部室でうっかり森村桂の文庫本を他の部員に見られてしまったところ、一人の先輩から「うわ、いやだ、うさみ~。森村桂なんて読んでるんだ?恥ずかしい~。読み終わったら貸して!」と言われたことがありました。
当時としてもそんなにかっこいい好みではありませんでしたが、今思い出すとなおさら恥ずかしいです。ただ、今少しだけ読み直してみると、加藤諦三よりはいいかな、と思いました。エッセイ本としては、なかなか楽しく読ませるように出来ています。言い訳するつもりはありませんが、高校生の私がはまったのも、そんなに悪い趣味でもなかったような気がしました。
ただし、今読み直すと時代の変化は強く感じます。こちらの方は研究者としての着眼にもなってしまいますが、当時「元気でけなげな女性」「可愛い奥さん」というイメージで書かれていた(語られていた)女性像が、今読み直すとかなり古い時代の女性として見えてきます。古い男女観に忍従している女性とでも言いましょうか。もちろん、それを喜んで読んでいた私も、そういう旧来の男女観を受け入れていた人間だったということになります。
そんなこんなの思いもありますが、この森村桂本の束は捨てる気にはなれませんでした。加藤諦三の方は写真を撮って処分しましたが、森村桂の方はもう少しとっておこうと思います。そんなことだから断捨離が進まないのですが、それでも、余裕ができたらまた森村桂の文庫本を読み直してみようか、そんな気になりました。
※このブログはできるだけ週1回(なるべく日曜)の更新を心がけています。