(松前福山城址)
松前城址
幕末には全国どの藩でも大なり小なり勤王vs佐幕の争いが見られたが、松前藩もその例外でなかった。先代藩主の松前崇廣は、地方の外様にしては珍しく幕府老中に任じられるなど中央政界で活躍したが、勅許を得ず開港を決した責任を問われ、阿部正外とともに官位を奪われ、老中を解任された。慶応二年(1866)正月、失意のうちに藩領において謹慎することになり、同年四月、三十八歳で病没した。
崇廣の跡を継いだ徳廣(のりひろ)は多病で、藩主として執務するのができない状態だったという。そのため藩政は実質的に家老松前勘解由が握っていた。勘解由はペリーの箱館来航時に応接した老獪な政治家であったが、本質的には佐幕派であった。これに不満を抱いた藩の若手は正義隊を結成し、クーデターを起こして勘解由一派を謹慎蟄居処分とした。さらに正義派は、勘解由ら藩の重臣四名の屋敷を急襲した。このとき勘解由は自刃。ほかの重臣も暗殺されるか、自刃、逃亡したため、松前藩は新政府軍に加担することになった。
松前藩が藩内抗争に明け暮れている頃、榎本武揚らは箱館五稜郭を占拠し、そこにいた松前藩士を拘束した。土方歳三は彼らを説得して、松前藩との和平交渉の使者として送りだした。ところが松前藩では、彼らを裏切り者として惨殺してしまう。これを知った榎本武揚は、松前攻撃軍の派遣を決した。
松前城は別名福島城とも呼ばれ、嘉永二年(1849)に幕府に築城を命じられて、安政元年(1854)に完成した「最後の城」である。

松前城御三階櫓(右)
本丸御門
御三階櫓の南側の石垣には、箱館戦争当時の砲撃による弾痕が残る。本丸御門は、唯一戦火を逃れ、築城当時の姿をとどめている。
松前藩では高崎藩の軍学者市川一学を招いて城の設計を依頼した。市川一学は、海岸に近い立地に難色を示したが、利便性を重視する松前藩幹部の意向は固く、立地はそのままとして、その代り海に向かって砲座を置くこととなった。
明治元年(1868)十一月一日、旧幕軍の蟠龍の砲弾は天守閣や本丸御門に命中した。松前藩でも城から反撃したが、旧式の大砲だったため砲弾は敵艦には届かなかった。
土方歳三率いる松前攻撃軍(彰義隊、額兵隊、陸軍隊)が城下に突入したのは、明治元年(1868)十一月五日であった。松前城は一日で落城し、城兵は城の内外に火を放って逃走した。この火事で城下の四分の三が焼失したという。
このとき城内にいた足軽銃士北島幸次郎の妻川内美岐はハサミで喉を突いて自殺した。神止山招魂場には、“烈女”として祀られている。
松前城の正面は堅固であったが、裏手の守備は脆弱であった。土方歳三は裏手(馬門か)から梯子で塀を乗り越えた。これを機に松前城守備兵は総崩れとなった。
松前の町は、翌年の四月、新政府軍の反攻によって再び戦火に見舞われた。新政府軍が松前総攻撃を実行したのは、四月十七日である。軍艦春日の艦砲射撃を合図に猛攻をしかけたが、旧幕軍も譲らず、戦闘は五時間にも及んだ。この日の戦闘における旧幕軍の戦死者六十。箱館戦争を通じて最も激しい戦闘の一つであった。
箱館戦争には上野戦争で敗れた彰義隊の生き残りも参加している。彼らは彰義隊から分裂した振武軍の渋沢成一郎(渋沢栄一の従兄。維新後、喜作と改名)を首領と仰いでいたが、松島城攻防戦のさなか、渋沢が金蔵にあった天保銭に目をつけ、荷車で運び出しているうちに、額兵隊との先陣争いに敗れてしまった。これに憤った連中は、渋沢の指揮下で働くことを潔しとせず、再び彰義隊は渋沢派と反渋沢派との二派に分裂した。
(松前神社)

松前神社

田崎東の碑
田崎東(あずま)は、松前藩正義派(勤王派)の藩士。矢不来の戦闘にて二十七歳で戦死した。この碑は遺族によって建立されたものである。
(松前町役場)

史蹟 松前奉行所趾
現在、松前町役場となっている場所に松前奉行所があった。建物は明治三年(1870)の火災で焼失したが、その後松前右京邸を移設して、開拓使分署、松前郡役所を経て、松前町役場として使用された。その建物も昭和二十四年(1949)の火災で失われた。
(折戸浜)
折戸浜古戦場跡
砲台跡
旧幕軍は、折戸浜と建石野に砲台を築いた。新政府軍は五隻の軍艦を松前に派遣し、建石野の砲台に砲弾を集中させた。戦闘は五時間以上に及んだというが、北側の山地に出現した新政府軍によって防御線が破られた。
折戸浜には、古戦場碑と砲台跡の標柱が立てられている。ただし、文字はほとんど読み取れない。
(法華寺)
法華寺の山門は、松前城の搦手門が移設されたものである。見てのとおり、屋根瓦の五分の一程度は崩落しており、ロープを張って近づけない状態になっている。貴重な史跡は大切に保存してもらいたいものである。
法華寺には、旧幕軍の戦死者がまとめて埋葬されている。埋葬場所が発見されたのは、昭和五十四年(1979)のことである。その場所には、「合葬塚」と記された札が立てられている。

法華寺 山門
旧幕府軍合葬塚
徳川陸軍隊士官隊の墓碑
側面から裏面に七名の戒名が刻まれているが、残念ながら俗名が書かれていないため、人物を特定できない。
官軍伊州藩の墓石
会津藩士墓
向かって左が会津藩士大庭久輔と水戸藩士関清輔の墓で、右の背の低い墓は会津藩士赤羽音吉の墓で、いずれも旧幕軍戦死者である。大庭久輔と関清輔は法華寺に逃げ込んで、ここで切腹して果てたと伝わる。
赤羽音吉の墓には、「義進院勇岳日英居士」という戒名が刻まれている。赤羽は大庭の義弟だそうで、大庭と関は赤羽の墓前で割腹したという。

法華寺境内から松前城を望む
法華寺から松前城までは、直線距離にして約三百メートル。旧幕軍は法華寺境内に大砲を据えて、松前城を攻撃したと伝えられる。
(龍雲院)
龍雲院は、松前の寺院の中でも最も古い本堂を持つ。山門、本堂とも箱館戦争の戦火を逃れた。
龍雲院 山門

本堂

松前城址
幕末には全国どの藩でも大なり小なり勤王vs佐幕の争いが見られたが、松前藩もその例外でなかった。先代藩主の松前崇廣は、地方の外様にしては珍しく幕府老中に任じられるなど中央政界で活躍したが、勅許を得ず開港を決した責任を問われ、阿部正外とともに官位を奪われ、老中を解任された。慶応二年(1866)正月、失意のうちに藩領において謹慎することになり、同年四月、三十八歳で病没した。
崇廣の跡を継いだ徳廣(のりひろ)は多病で、藩主として執務するのができない状態だったという。そのため藩政は実質的に家老松前勘解由が握っていた。勘解由はペリーの箱館来航時に応接した老獪な政治家であったが、本質的には佐幕派であった。これに不満を抱いた藩の若手は正義隊を結成し、クーデターを起こして勘解由一派を謹慎蟄居処分とした。さらに正義派は、勘解由ら藩の重臣四名の屋敷を急襲した。このとき勘解由は自刃。ほかの重臣も暗殺されるか、自刃、逃亡したため、松前藩は新政府軍に加担することになった。
松前藩が藩内抗争に明け暮れている頃、榎本武揚らは箱館五稜郭を占拠し、そこにいた松前藩士を拘束した。土方歳三は彼らを説得して、松前藩との和平交渉の使者として送りだした。ところが松前藩では、彼らを裏切り者として惨殺してしまう。これを知った榎本武揚は、松前攻撃軍の派遣を決した。
松前城は別名福島城とも呼ばれ、嘉永二年(1849)に幕府に築城を命じられて、安政元年(1854)に完成した「最後の城」である。

松前城御三階櫓(右)
本丸御門
御三階櫓の南側の石垣には、箱館戦争当時の砲撃による弾痕が残る。本丸御門は、唯一戦火を逃れ、築城当時の姿をとどめている。
松前藩では高崎藩の軍学者市川一学を招いて城の設計を依頼した。市川一学は、海岸に近い立地に難色を示したが、利便性を重視する松前藩幹部の意向は固く、立地はそのままとして、その代り海に向かって砲座を置くこととなった。
明治元年(1868)十一月一日、旧幕軍の蟠龍の砲弾は天守閣や本丸御門に命中した。松前藩でも城から反撃したが、旧式の大砲だったため砲弾は敵艦には届かなかった。
土方歳三率いる松前攻撃軍(彰義隊、額兵隊、陸軍隊)が城下に突入したのは、明治元年(1868)十一月五日であった。松前城は一日で落城し、城兵は城の内外に火を放って逃走した。この火事で城下の四分の三が焼失したという。
このとき城内にいた足軽銃士北島幸次郎の妻川内美岐はハサミで喉を突いて自殺した。神止山招魂場には、“烈女”として祀られている。
松前城の正面は堅固であったが、裏手の守備は脆弱であった。土方歳三は裏手(馬門か)から梯子で塀を乗り越えた。これを機に松前城守備兵は総崩れとなった。
松前の町は、翌年の四月、新政府軍の反攻によって再び戦火に見舞われた。新政府軍が松前総攻撃を実行したのは、四月十七日である。軍艦春日の艦砲射撃を合図に猛攻をしかけたが、旧幕軍も譲らず、戦闘は五時間にも及んだ。この日の戦闘における旧幕軍の戦死者六十。箱館戦争を通じて最も激しい戦闘の一つであった。
箱館戦争には上野戦争で敗れた彰義隊の生き残りも参加している。彼らは彰義隊から分裂した振武軍の渋沢成一郎(渋沢栄一の従兄。維新後、喜作と改名)を首領と仰いでいたが、松島城攻防戦のさなか、渋沢が金蔵にあった天保銭に目をつけ、荷車で運び出しているうちに、額兵隊との先陣争いに敗れてしまった。これに憤った連中は、渋沢の指揮下で働くことを潔しとせず、再び彰義隊は渋沢派と反渋沢派との二派に分裂した。
(松前神社)

松前神社

田崎東の碑
田崎東(あずま)は、松前藩正義派(勤王派)の藩士。矢不来の戦闘にて二十七歳で戦死した。この碑は遺族によって建立されたものである。
(松前町役場)

史蹟 松前奉行所趾
現在、松前町役場となっている場所に松前奉行所があった。建物は明治三年(1870)の火災で焼失したが、その後松前右京邸を移設して、開拓使分署、松前郡役所を経て、松前町役場として使用された。その建物も昭和二十四年(1949)の火災で失われた。
(折戸浜)

折戸浜古戦場跡

砲台跡
旧幕軍は、折戸浜と建石野に砲台を築いた。新政府軍は五隻の軍艦を松前に派遣し、建石野の砲台に砲弾を集中させた。戦闘は五時間以上に及んだというが、北側の山地に出現した新政府軍によって防御線が破られた。
折戸浜には、古戦場碑と砲台跡の標柱が立てられている。ただし、文字はほとんど読み取れない。
(法華寺)
法華寺の山門は、松前城の搦手門が移設されたものである。見てのとおり、屋根瓦の五分の一程度は崩落しており、ロープを張って近づけない状態になっている。貴重な史跡は大切に保存してもらいたいものである。
法華寺には、旧幕軍の戦死者がまとめて埋葬されている。埋葬場所が発見されたのは、昭和五十四年(1979)のことである。その場所には、「合葬塚」と記された札が立てられている。

法華寺 山門

旧幕府軍合葬塚

徳川陸軍隊士官隊の墓碑
側面から裏面に七名の戒名が刻まれているが、残念ながら俗名が書かれていないため、人物を特定できない。

官軍伊州藩の墓石

会津藩士墓
向かって左が会津藩士大庭久輔と水戸藩士関清輔の墓で、右の背の低い墓は会津藩士赤羽音吉の墓で、いずれも旧幕軍戦死者である。大庭久輔と関清輔は法華寺に逃げ込んで、ここで切腹して果てたと伝わる。
赤羽音吉の墓には、「義進院勇岳日英居士」という戒名が刻まれている。赤羽は大庭の義弟だそうで、大庭と関は赤羽の墓前で割腹したという。

法華寺境内から松前城を望む
法華寺から松前城までは、直線距離にして約三百メートル。旧幕軍は法華寺境内に大砲を据えて、松前城を攻撃したと伝えられる。
(龍雲院)
龍雲院は、松前の寺院の中でも最も古い本堂を持つ。山門、本堂とも箱館戦争の戦火を逃れた。

龍雲院 山門

本堂
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