史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

大仙 協和

2012年05月20日 | 秋田県
(小種戊辰公園)
秋田県内の史跡を回ってみて実感したのだが、秋田県の市は一つ一つが妙に広い。まるで御釈迦様の手のひらのようである。大仙市などその最たるもので、行けども行けども市域が広がっている。これは平成の市町村合併の結果である。大仙市は、平成十七年(2005)に七町村が合併して誕生したものである。
振り返れば「この道はさっきも走ったような」という場面が何回もあった。事前に史跡探訪のコースや順番をよく考えておけば、もう少し効率的に短時間で回ることができたのではないかという悔いも残る。大仙市のようなだだっ広い市は、いくつかのブロックに分けて回るのが賢明であろう。

車窓から見える風景もだいたい同じようなものである。遠くに山があり、周囲には広大な田畑が延々と続く。居眠り運転したくなるような風景の連続であるが、それに彩を添えているのが桜や水仙である。ちょうどゴールデン・ウィークは、花の盛りであった。行く先で「さくら祭り」が開かれており、思わぬ混雑に遭遇するのは辟易したが、車窓の花々を十分堪能した。
桜はどこも同じかもしれないが、北国の桜の方が、待ちわびた春を謳歌しているように見えるのは気のせいだろうか。


戊辰役戦没者慰霊碑

大仙市の最初の訪問地は、小種戊辰公園である。慶應四年(1868)九月八日、この付近で激しい戦闘が展開された。
庄内藩四百は、朝霧の立ち込める中、秋田藩の後背を衝くため渡河作戦を敢行した。秋田藩も防戦に努めたが、装備に勝る庄内藩に押され遂には敗走した。中でも福部羅に布陣していた梅津千代吉隊は決死の槍隊を結成して敵中を突破し、四十七名(更に数日後には戦傷のために数名が秋田で死亡)という甚大な被害をこうむった。彼らが埋葬された場所を、地元の老人会が戊辰公園と命名して整備したのである。慰霊碑の裏側には、付近で戦死した秋田藩軍五十八名の名前が刻まれている。

(萬松寺)


萬松寺

萬松寺本堂前に見事なしだれ桜がある。伝承によれば、戊辰戦争で境内のしだれ桜も焼失したが、その後株あとから三本の萌木があり、それを生育させたのが現在のしだれ桜という。つまりこの桜は樹齢百四十年ということである。

同盟軍の進攻を防ぐため、新政府軍は秋田城下から南方三十㎞の境村に境、上淀川戦線を構築した。境村には秋田藩のほか、薩摩、佐土原、島原、小倉、筑前、長州、因幡、新庄の各藩兵が集結した。慶応四年(1868)九月十五日午前、新政府軍を攻略した。大混乱の末、境村は昼過ぎまでに焼け野原と化した。同日午後には新政府軍の援軍が到着し、これにより同盟軍は上淀川村まで後退し、ここで小康状態となった。しかし、その日の夜になって庄内軍は夜を徹して撤退。翌十六日には新政府軍による掃討戦が行われた。これが秋田における最後の戦闘となった。
この戦闘で両軍は百十一名もの戦死者を出した。内訳は以下のとおりである。

秋田藩 二十二名
薩摩藩   二名
佐土原藩   八名
福岡藩   四名
長州藩   九名
鳥取藩   六名
新庄藩   四名
庄内藩 五十六名

萬松寺は死体仮安置所となり、のちに秋田市内全良寺の官修墓地に改葬された。庄内藩の戦死者の遺体はどうなったか、今となっては不明である。


戊辰戦役無縁慰霊碑
(完全にピンボケです)


佐土原藩士慰霊碑

平成四年(1992)宮崎県佐土原町から墓参団が来町し、萬松寺で合同慰霊祭が営まれた。

(徳昌寺)


徳昌寺


官軍 鳥取藩 杉本文右衛門之墓

鳥取藩の杉本文右衛門の墓である。杉本は、九月十五日の境村における戦死者の一人である。

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 秋田 雄和 | トップ | 大仙 大曲 »

コメントを投稿

秋田県」カテゴリの最新記事