夢発電所

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昭和35年ごろの暮らし その1 転校

2012-04-29 09:47:22 | 創作(etude)
 昭和35年といえば、私は小学3年生。それまでの父の実家の農家で祖父母に預けられていた生活から、町場の小学校に転校させられていた時期である。それは小学校二年生までの自分が学校にほとんど行かず、山や川で遊びまくっていたことも一つの原因だった。猟師を生業とする農家が一軒村の入口にあって、私はその家が学校よりも身近な場所となっていた。何しろ自分の兄弟のような子供たちが6人ほどいて、私も家族同然に扱ってもらえたことがそういう気分をさらに後押しをしていた。
 私の両親は小学校の教員で、兄と妹を伴って町場の学校に通っていた。私はみんなと週末にしか会うことはなかった。そんな自分ではあったがちっとも寂しさなど感じるどころか、遊び場の拡張工事で山の雑木をのこぎりで切り倒しては、村人から悪童として苦情が出始めていた。それを心配した両親が、町場の学校に転校させて教育しなおそうということだったように思う。
 転校した小学校は体育館が二つもあるマンモス校で、団塊の世代の最後のほうだった。この体育館には、いつも子供たちで溢れかえっていた時代である。
 転校後の住まいは、学校から歩いて30分はかかる山手の市営住宅である。ここは元の結核患者を隔離していたという「避病院」の後を再利用した住宅なのであった。住宅を隔てた谷あいの反対側の山には、レンガ造りの火葬場もあったので子供たちの肝試しの場所となっていた。
 当時の地方公務員は給料は安くて、こういう住宅でもなければとても暮らしていけなかったのだろう。
 ともかくこの市営住宅には、学校の先生やその家族、あるいは保健所の職員、電電公社職員などがほとんどだった。高台に建てられたこの住宅群は、県道から坂道を巻くように登って行かねばならなかった。ほとんどが4軒ほどがひとつの長屋風にできていて、10棟ほどの集落であった。
 住宅に暮らす人達は、長屋同然の建物だからお互いの暮らしがより身近に感じられた。聞きたくない夫婦喧嘩や、生活の音が耳をふさいでも入ってきたのである。子供たちも自然と似通った年代のものが多くて、兄弟はたいてい3人ずつで学年構成も似通っていた。
 私はそういう中にあって村の小学校と町場の小学校での、いわゆるカルチュアショックを受けることになった。